(遅報)歴史まとめ

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1: あられお菓子 ★ 2018/05/20(日) 17:25:05.69 ID:CAP_USER9
CNN.co.jp 2018.05.20 Sun posted at 17:08 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35119444.html
イタリア・ポンペイで馬の化石が発見された
pompeii-horse-discovery

(CNN) 世界遺産に登録されているイタリアの古代都市ポンペイの遺跡でこのほど古代の馬の遺骸が見付かったとポンペイ考古学公園が発表した。

同公園の責任者によると、遺跡で考古学者が特別な石膏(せっこう)固定技術を使って馬の遺骸の再現に成功したのは初めて。馬の種類についてはサラブレッドの可能性が大きいとした。

イタリア南部ナポリ近郊にあるポンペイは西暦79年、ベスビオ火山の大噴火で火山灰などの中に埋もれたとされる。

馬の遺骸が見付かったのは、農場として使われていた、ポンペイ北部の広大な壁に囲まれた土地に建っていた別邸の場所だった。別邸の保存状態は特に良好だったため馬の骨格の大部分が残る結果になったとしている。

同じ場所からはベッドやベッドカバーに使っていた布地の残りも見付かった。布地の分析から別邸の一部に奴隷が住んでいた可能性もあるという。

ポンペイ遺跡では長年、洪水の被害、過剰な観光行政や保存対策の不備の影響で遺物などの劣化が目立っていた。
遺跡の腐朽や崩壊、観光客の訪問を阻止する労働争議の発生などは国際的なニュースにもなっていた。
構造物の崩落は貧弱な保存対策が原因ともされている。
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1: ニライカナイφ ★ 2018/05/18(金) 16:44:05.40 ID:CAP_USER9
◆【萌える日本史講座】古代の「聖帝」裏付け? 仁徳天皇陵は500メートル以上の超巨大古墳だった

国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、全長486メートル、5世紀前半)が、築造当初は現在より約40メートル長い525メートル以上あったことが宮内庁の調査で明らかになった。
現在は水で覆われている周濠(しゅうごう)内の地形を測量して判明した。

エジプトにあるクフ王のピラミッド、中国・秦始皇帝陵(しんのしこうていりょう)と並ぶ世界三大墳墓とされる同古墳。
500メートルの大台を超える規模は、「仁に篤(あつ)く徳が高い」という名の聖帝にふさわしい威容を示したともいえる。
被葬者の謎にどこまで迫ることができたのか。

■周濠の底を測ってみたら…

現在の全長は大正時代の測量に基づいて算定されたが、研究者の間では、水がたまっている周濠まで墳丘が続いていると考えられ、今回の調査はこうした推測が裏付けられた。
宮内庁の調査は平成28年に実施。測量機器をボートに載せて音波やレーザーを周濠の底に当てる方法で水面下の地形を調べた結果、周濠まで墳丘が広がっていることが分かったという。

従来、同古墳の総面積は48万平方メートルで、甲子園球場12個分に相当すると推定されてきた。30年ほど前には大手建設会社が築造コストを試算。
1日最大2千人が働いたと仮定して完成までに15年8カ月、総事業費は800億円とはじき出した。
今回の調査で墳丘が一回り大きくなることで、さらに大規模な国家プロジェクトだったことが浮かび上がった。

■被葬者に近づいた?

「宮殿から国を眺めると、人家から炊煙(すいえん)が上がっていない。
人民が貧しく飯を炊くこともできないのだ。苦しみをやわらげるため3年間課税を免除した」

古事記や日本書紀は、仁徳天皇が人々の生活を何より大切にしたことを記す。
「仁徳」という名の通り、歴代天皇の中でもとりわけ聖帝であることが強調されている。

さらに、日本書紀には仁徳天皇陵の場所について、百舌鳥(もず)に葬られたと記す。
今回調査された仁徳天皇陵古墳は、百舌鳥と呼ばれる地域にあたる。

500メートルを超える巨大古墳の被葬者は、聖帝である仁徳天皇こそふさわしい-。
宮内庁による調査結果は、日本書紀の記述や伝承を裏付けるようなインパクトを与えた。

ただし、そう簡単に結論づけられないのが歴史の奥深さでもある。
今から40~50年ほど前まで、研究者の間では「あれだけ巨大な古墳の被葬者は、聖帝である仁徳天皇以外にあり得ない」との見方が一般的だったが、今では「可能性は五分五分」という。

同古墳から見つかった埴輪(はにわ)などから、築造時期が「5世紀前半~中頃」と考えられるようになったからだ。
仁徳天皇が亡くなったのは399年とされ、古墳の築造時期と最大で半世紀ほどずれる。

ただし、仁徳天皇は中国の歴史書に記された倭の五王「讃(さん)」ともいわれ、讃は438年までに死去したことから、こちらの説をとると仁徳天皇陵として矛盾はない。
今回の調査では、築造時期特定につながるような発掘調査は行われておらず、被葬者論争の決着にはまだまだ時間がかかりそうだ。

■豊臣秀吉も花見に興じた仁徳陵

今では周囲を柵で囲まれ、厳重に立ち入りが規制されているが、江戸時代までは出入りが可能だった。
墳丘を覆う雑木は地元の人たちが薪(まき)として利用し、タケノコやマツタケを収穫。
水をたたえた周濠ではフナやコイ、エビなども捕ったという。

江戸時代の絵図を見ると、被葬者を納めた石室があるとされる墳丘の後円部に仁徳天皇をまつる御廟所(ごびょうしょ)があり、見事な枝ぶりの桜もあったという。
江戸時代以前には、豊臣秀吉が花見に訪れたというエピソードも残る。

現在のように立ち入りが禁じられたのは明治以降。
天皇中心の国づくりを急いだ維新政府が、天皇陵を神聖化するため管理を強化し、墳丘全体に松や杉など19万本を植えて現在の姿になった。

同古墳を含む百舌鳥・古市(ふるいち)古墳群の世界文化遺産登録の可否は、来年夏に決まる。
今も地元では「仁徳さん」「ご陵さん」と呼ばれる仁徳天皇陵。秀吉が愛し、時代を超えて人々に親しまれ続ける。

画像:wst1805180005-p1

産経WEST 2018.5.18 06:00
http://www.sankei.com/west/news/180518/wst1805180005-n1.html
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1: 風吹けば名無し 2018/05/13(日) 11:08:18.02 ID:jAjZt97+0
ベストアンサーに選ばれた回答
ste********さん
チェーンメールは
錆がつかないように毎日着て戦う。オリーブオイルを散布し風通しのよいところに保管する。
リネンなど自然素材の布に入れた場合、時折オイルと自然発火し火事の原因となるので注意。
もし、錆が出たら砂を入れたたらいに放り込んで棒でかき混ぜるが大変な重労働になる。鎖は穴を見つけたら補修すること。
リベットで鎖の端をかしめる作業に手を剥いてはならない。なぜなら、端の口の開いた鎖は他の鎖に引っかかり、腕が動かなくなることがある。
戦闘中にそのような状態となった者を過去に3回見ている。

コートオブプレートは
破れた革を張替える。革だけなら合成ゴム系接着剤で十分。リベットを打ち直すときは革のワッシャーをかませれば、丈夫になる。

プレートアーマーは
ゆがみが大きくなればリベットをすべてはずし、パーツ一つ一つをハンマーで叩きなおしゆがみを戻す。
へこんだところは内側から叩くことになるが、大変難しい。肘や膝など重なりがあるところは、曲げるとぱっくりとワニの口状態になって重ねが口をあけることがある。この修正はほとんど無理。
錆はサンドペーパーで落とし磨き上げる。最終的には自動車用ワックスでみがく。
通常は汗をふき取りオリーブオイルを薄く塗布しておく。

すべてにわたってベルトはもっとも破損する。また、革が伸びるので穴を開けなおす必要がある。
ベルトが切れたら一度留めているリベットごとグラインダーで削り落とし、新ためてベルトをつけるが、手を抜きたいなら、切れた分をそのままにしておき、新しく切れた分の長さのベルトを切ってリベットではなく、革用糸でベルトを縫い合わせる。十分強度がある。
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1526177298/続きを読む

1: ガーディス ★ 2018/05/15(火) 06:51:07.26 ID:CAP_USER9
 仙台藩祖・伊達政宗をたたえる歌だったのに、「不敬」だとして禁じられた歌がある。政宗公没後300年にあたる1935(昭和10)年につくられた「御藩祖(ごはんそ)をどり」だ。歴史に埋もれていたこの歌が、83年ぶりに復活する。19日の仙台青葉まつりが、晴れ舞台になる。

 その年、仙台では政宗公三百年祭の記念事業がいくつも計画された。一つが仙台城跡の騎馬像建立、もう一つの目玉が歌の制作だった。西条八十が詞、中山晋平が曲を担当、「三百年 光いやます御藩祖さまよ」で始まる歌ができた。

 お披露目は、同年5月12日にあった仙台産業観光博覧会の開会式。ところが翌日、宮城県警が仙台市商工課長を呼び、治安警察法違反を理由に歌詞の普及禁止を命じた。歌詞の一節「祀(まつ)る玉座の十四代」の中の、「玉座」の2文字が問題とされたのだ。

 作詞者の西条によれば、政宗が仙台城内に天皇用の玉座を設け、日夜礼拝していたとの史実を基にしたという。特高警察はそれを、「玉座」は天皇陛下にのみ使う言葉だ、けしからんと目をつけた。

 西条は「特高に盾突くつもりはない」と、問題の一節を「残る誉の遥拝(ようはい)所」と修正。だが、再び歌われることはなかった。

 治安警察法や治安維持法が、人々の自由な表現や思想を縛った時代だった。三百年祭の名誉総裁だった斎藤実と顧問の高橋是清は、翌年の二・二六事件で暗殺。日本は軍国主義への道を転がり落ちてゆく。

 封印された「御藩祖をどり」復活に奔走したのは、元仙台市職員で「地元学応援団」を自認する佐々木伸さん(63)。1935年の三百年祭について調べる中で、幻の政宗公賛歌のことを知ったという。

 歌詞は西条八十全集の中にあった。では、どんな旋律だったのか? 佐々木さんは昨年夏、長野県中野市にある中山晋平記念館にメールで質問。なんと、中山直筆の楽譜が残っていることがわかった。訪ねて確かめると、明るく軽快な踊り歌。「ソウトモソウトモ……」と、はやしことばも書き込まれている。

 「騎馬像と並んで、城下町仙台…

残り:300文字/全文:1149文字
AS20180513001184_comm
http://www.asahi.com/sp/articles/ASL4P3PTPL4PUNHB001.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1526334667/続きを読む

1: あられお菓子 ★ 2018/05/14(月) 17:13:01.78 ID:CAP_USER9
朝日新聞デジタル 2018年5月14日14時49分
(記事元でご登録の方は続きが読めます)

https://www.asahi.com/articles/ASL5B22KKL5BPTFC001.html
纒向遺跡で大量に見つかった桃の種=奈良県桜井市
(記事元に他関連写真全5枚あり)

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180514000803.html

 女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかった。市纒向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。

 センターによれば、桃の種は2010年に大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の南約5メートルにある穴から約2800個みつかった。祭祀(さいし)で使われた後に捨てられた可能性などが指摘されている。

 中村俊夫・名古屋大学名誉教授と、近藤玲(りょう)・徳島県教育委員会社会教育主事が、それぞれ加速器質量分析(AMS)による放射性炭素年代測定を実施し、測定結果を、18年の纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第6号」で発表した。中村さんは15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、135~230年と分析。近藤さんも桃の種2個で同様の結果が出たほか、土器に付着した炭化物やウリの種も分析し、100~250年の範囲に収まる可能性が高いとした。

 邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。

 邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。

 市纒向学研究センターの寺沢薫…

残り:465文字/全文:1258文字
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1526285581/続きを読む

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