(遅報)歴史まとめ

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1: しじみ ★ 2018/11/17(土) 10:42:50.12 ID:CAP_USER
米ハーバード大の考古学者らと中世史学者らが、人類史上最悪の年は紀元後536年だと決定した。全地球上で超大型火山が噴火したことが理由だ。人類がこの影響から完全に脱却するには100年を要した。科学ニュースサイト「ScienceAlert」が報じた。

「ScienceAlert」によると、考古学者で中世史学者のマイケル・マコーミック氏によると、536年は黒死病で欧州の人口3分の1が死んだ1347年や、大飢饉が起きた1918年、そして1945年よりひどい。536年には大規模な戦争はなく、

536年、イタリアと南極大陸、グリーンランドで大規模な火山の噴火が起きた。研究者らは、現在のイタリアとスイスの国境沿いにあるニフェッティ峰(Colle Gnifetti)の氷河を分析し、こうした結論に至った。噴火の影響で続く約100年間、大気中に大量の噴出物が漂った。気温を下げ、干ばつと不作、大飢饉を引き起こしただけでなく、中国で夏に雪が降った。

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https://sptnkne.ws/kaSx
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1542418970/続きを読む

1: みつを ★ 2018/11/14(水) 23:30:37.55 ID:CAP_USER9
https://www.bbc.com/japanese/46204022

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に
2018/11/14 6時間前

にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。

写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。

ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。

2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。
「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。
競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。
それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。
「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。
ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935~1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。
(リンク先に続きあり)

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542205837/続きを読む

1: みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018年11月16日 12時24分
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
K10011712961_1811161218_1811161224_01_02
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542339867/続きを読む

shibata

1: 風吹けば名無し 2018/11/02(金) 11:36:40.05 ID:JQ7yNf2T0
どうすれば秀吉に勝てたの?一番信頼してた前田利家が裏切っちゃ勝てなくない?
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1541126200/

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1: みつを ★ 2018/11/11(日) 08:07:44.88 ID:CAP_USER9
酒スレ
2018/11/11

1918年11月11日、第一次世界大戦が終了しました。今年は第一次世界大戦終了から100年の記念の年ということで、欧州などで大規模な記念式典などが予定されています。

我々日本人にはあまり馴染みのない第一次世界大戦について、この機会に想いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
さまざまなご意見をお待ちしています!
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541891264/続きを読む

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