(遅報)歴史まとめ

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1: 樽悶 ★ 2018/11/05(月) 17:33:00.44 ID:CAP_USER9
明智光秀の出生地とされる県内5つの地点
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恵那市内にある「明智光秀産湯の井戸」=2018年10月17日午後4時59分、岐阜県恵那市明智町、室田賢撮影
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山県市内にある明智光秀の「うぶ湯の井」=2018年10月18日午後1時34分、岐阜県山県市中洞、室田賢撮影
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明智光秀が生まれたとされる明智城の跡を示す石碑=2018年10月17日午後3時45分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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明智光秀が生まれ育ったとされる明智城の跡地=2018年10月17日午後3時44分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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 2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

 「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

 「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。

 出生地に名乗りを上げているのは両市だけではない。山県市中洞の白山神社には光秀の「うぶ湯の井」がある。地元の豪族の娘から生まれ、のちに明知城主・明智光綱の養子になったのが光秀との言い伝えがある。瑞浪市土岐町一日市場にある八幡神社には、かつて美濃源氏の土岐氏の居館があり、ここにも産湯の井戸があったと伝わる。このほか大垣市上石津町多良にあった「多羅城」で生まれたとする文書もある。

 これほどまで「出生地」が点在…

(残り:735文字/全文:1393文字)

朝日新聞デジタル 2018年11月5日08時53分
https://www.asahi.com/articles/ASLBL420JLBLOHGB00L.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541406780/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/11/05(月) 15:14:03.55 ID:CAP_USER9
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 生誕200年を今年迎えたドイツの思想家カール・マルクス。その「資本論」の自筆サイン入り初版本が日本に少なくとも4冊あることが研究者の調査でわかった。

 サイン入り初版本は東北大、法政大、関西大、小樽商科大が所蔵していた。いずれも扉ページ横などに、友人や研究者の名前と謝辞、マルクスの自筆サインが書かれている。国際マルクス・エンゲルス財団(オランダ)で全集の編集委員を務める大村泉・東北大名誉教授(マルクス経済学原論)の調査でわかった。

 大村名誉教授によると、資本論は1867年、第1巻のドイツ語初版本が1千冊発行された。このうちサイン入りは世界で15冊確認されているという。

11/5(月) 14:42
朝日新聞デジタル
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181105-00000027-asahi-soci
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541398443/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/11/02(金) 01:18:04.54 ID:CAP_USER9
野村照一さん(右下の写真)の手記を手にする長女の中山征子さん(右)と夫の裕さん=京都府長岡京市で、国本ようこ撮影
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■兵士の苦難、草原一面に馬の死骸…

 第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】

 「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。

 野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。

 37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。

 手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。

 野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。

 また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。

 その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。

■「父と再会した気持ち」

 野村照一さんの手記を見つけた長女の中山征子さんは、1944年9月に旧満州(現中国東北部)の東安省で生まれた。母ハナエさん(97)によると、戦地の野村さんから「しばらく戻れない。先に日本に帰っておくように」と連絡があったため同年12月に帰国。征子さんは「後の情勢を考えると、私も母も(中国残留孤児を描いた小説)『大地の子』になるところだった」と振り返る。

 もっとも、旧満州では戦況などの情報を得られる旧陸軍の将校や官僚、家族らは民間人を置き去りにして真っ先に逃げたとされる。ハナエさんが同じ旧陸軍の官舎に住んでいた家族たちに後に再会した際に聞いたところ、早期の引き揚げを促す具体的な情報はなかったが、「支給される物資が滞ったり、官舎にいた兵隊さんがいなくなったりと不穏な空気を感じたので帰ってきた」と言われたという。

 野村さんは46年6月に上海から帰国した後、府警に定年まで勤めた。遺品は手記の他、軍に届けた婚姻願や戦時中の国債など、たくさんの書類がきちょうめんに保存されていた。夫の裕さん(79)と共に整理した征子さんは「亡くなった後にまた父の軌跡がわかる手記が見つかりうれしい。改めて父と再会した気持ちです」と話した。【国本ようこ】

■ノモンハン事件

 1939年5~9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。

毎日新聞 2018年10月31日
https://mainichi.jp/articles/20181031/ddl/k26/040/391000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541089084/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 18:49:05.87 ID:CAP_USER9
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 飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪府大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、その大きさや形容から古墳時代の大王クラスを葬った石棺とみられている。府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員が、巨石の特徴をもとに、さらに製作時期を絞り込み、被葬者に迫る説を打ち出した。仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子の弟の来目(くめ)皇子らが候補という。狭山池の巨石は、古墳から運び出した石棺を水路に転用したと考えられているが、古墳を特定する研究はほとんどないという。同館の特別展「王者のひつぎ」(11月25日まで)で紹介されている。(小畑三秋)

■改修工事で思わぬ発見

 狭山池は周囲約3・4キロで、川をせき止めたダム形式のため池としては国内最古。奈良時代の僧・行基(ぎょうき)や、東大寺再興で知られる鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん)らが大規模に改修した。

 巨石は、大正時代末~昭和初めと、昭和末~平成初めに行われた堤防の改修工事で計20点以上見つかった。多くが長方形で、最大のものは長さ2・6メートル、幅1・3メートル、高さ約1メートル。内部がくり抜かれ、遺体を納める石棺の本体とみられる。水路にするため、石棺の前と後ろの壁面を削り取って「U字溝」の形にして利用。家の屋根の形をした石材もあり、5~6世紀の古墳にみられる「家形石棺」とされている。

 重源の功績を記した鎌倉時代の文献には、「狭山池に石の樋を築いた」と記載。出土した巨石は、重源の時代に複数の古墳から掘り出されて水路に転用したとみられ、「狭山池石棺群」と呼ばれる。

 家形石棺は近畿の巨大古墳に多く「王者のひつぎ」と呼ばれる。西川さんは、狭山池では長さ2メートル以上の大型のものが半数以上あることに着目し、「大王クラスの古墳から掘り出された可能性が高い」と推測した。

 2メートル以上の家形石棺は、欽明天皇の墓ともいわれる巨大前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市、全長318メートル)、金銅製の冠など豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、直径50メートル)など天皇や皇子クラスの墓に多い。

■候補に聖徳太子の弟

 「博物館の見学者から、狭山池の石棺はどの古墳から運ばれてきたのか質問されることがあるが、研究がほとんどなく回答に困った」と西川さん。巨石は重さ1トン以上あり、遠方から運ぶのは困難とみて大王クラスの古墳が集中する百舌鳥(もず)・古市古墳群から候補を探した。

 石棺は、蓋石の形状から築造時期がある程度分かる。古いものは屋根上部の平坦面の幅が狭く、新しくなるにつれて広くなる傾向がある。

 大正~昭和初めに見つかった石棺の蓋石(長さ2・2メートル、幅1・4メートル)は、屋根の平坦面が広いことから6世紀末~7世紀初めと推定。狭山池から約5キロ北東にある陵墓の来目皇子墓(大阪府羽曳野市、一辺50メートル)は、市教委の調査で7世紀初めの築造とされ、603年に死去した来目皇子の墓の可能性が高く、狭山池出土の石棺と時期も合致するという。

 同古墳について江戸時代の文献では「石室はあるが石棺はない」と記され、西川さんは「狭山池近辺で7世紀初めの皇族クラスの古墳は来目皇子墓以外になく、ここから運び出されたのではないか」とする。

■国内最大級の石棺

 一方、昭和末~平成初めに発掘され、狭山池石棺群で最も大きい2つの石材についても詳細に検討。いずれも長さ2・4~2・6メートル、幅約1・3メートルで石棺本体部分とみられ、国内の石棺でも最大クラスになる。石の細かい材質や底部の加工した跡が共通しているとし、同じ古墳から運び出されたと判断した。

 そのうえで「巨大な石棺を2つも納めるには、相当大きな石室が必要」とし、約8キロ北にあり国内5番目の墳丘規模を誇る前方後円墳、河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市、335メートル)を候補に挙げる。

 この2つの石棺とほぼ同規模の石棺2つが実際の石室に置かれているのが、欽明天皇の墓ともいわれる奈良の丸山古墳だ。墳丘は河内大塚山古墳に次ぐ全国6番目の規模で、築造時期もほぼ同じ6世紀後半とされ、「狭山池の巨大な石棺を納めることができるのは、丸山古墳に匹敵する古墳。河内大塚山古墳以外に見当たらない」という。

 さらに、両古墳は密接な関係があったと指摘。日本書紀では、欽明天皇は死後、「古市」で葬送儀礼の一つ「もがり」が行われ、その後に飛鳥に葬られたと記述。「いったん河内大塚山古墳に埋葬されたが、丸山古墳に改葬されたのでは」と推測する。

(続きはソース)

産経新聞 2018.10.30 10:00
http://www.sankei.com/west/news/181030/wst1810300003-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540892945/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 22:06:52.39 ID:CAP_USER9
戦争時の将校らへの忍術指導について解説する山本さん(ハイトピア伊賀で)
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 三重大の忍者・忍術学講座が27日、三重県伊賀市のハイトピア伊賀で開かれ、NPO法人インテリジェンス研究所(東京)の理事長を務める早稲田大名誉教授(情報史)の山本武利さん(78)が、「陸軍中野学校のカリキュラムの中での『忍術』講義」と題して講演。「旧日本軍の戦局悪化で敵を効率よく倒す方法が求められ、防衛のための忍術は廃れた」などと解説した。

 山本さんは秘密組織だった諜報(ちょうほう)要員養成のための陸軍中野学校(東京)の授業内容の変遷と、教官を務めた甲賀流忍術の武術家・藤田西湖(1899~1966年)のかかわりについて紹介した。

 中野学校では、1938年(昭和13年)7月からの1期生18人を含め、45年(昭和20年)に廃止されるまで約2300人が学んだとされる。藤田は満州(現中国東北部)で将校に暗号解読など諜報技術を指導。中野学校では初期に、全国から集められた優秀な将校らに対し、学科や術科の正課ではなく、“特別授業”として忍術を教えた。

 山本さんは様々な史料を引用して実態を説明。藤田は「忍術の『忍』は、忍耐の『忍』だ」として、本来幼少時から長年の訓練を必要とする忍術の精神的、肉体的な技を、6か月で厳しく鍛えた――などと述べた。

 さらに、「スパイの第一歩は真実による偽装。運転手、電気技術、僧侶など、完全になりきれる職業を二つ以上持つように――」と指導した藤田の言葉を伝えた。

 山本さんは「忍術は国内の諜報活動には有効だが、戦況が厳しくなると講義から忍びの体術がなくなり、科学技術が増え、『忍術』とは呼べなくなった」と指摘。42年(昭和17年)にはもう「忍術」の講義はなく、結局、藤田が中野学校で教えたのは初期だけで、2年間で100人足らずだったという。

 講演後、山本さんは「忍術はソフトな諜報活動で、戦地からより激しい破壊・殺傷方法を求められ、応えられなくなった。しかし現代では、忍術の少なくとも精神的な教えは再評価されていいのでは」と語った。(吉田誠一)

読売新聞 2018年10月29日 08時18分
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181027-OYT1T50139.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540904812/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/29(月) 22:54:12.90 ID:CAP_USER9
歴史ブームの流れ
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 過去の出来事を調べて考察する学問である歴史学や考古学。近年、それが一般の人たちの間に広がりをみせています。歴史好きの女性を意味する「歴女」や、土偶好きの「土偶女子」、古墳好きの「コフニスト」。でも、専門の研究が進むにつれて、今までの歴史像も大きく変わり始めていて――。受け止めかねる人も出てきているようです。

■ゲームと連動する人気

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■塾・美術館… 好き高じて設立

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■広がるイメージ 学説と別

 ただ、このように歴史を純粋に「楽しむ」傾向が強まっていることに関しては、苦言を呈する専門家もいます。「歴史小説や大河ドラマなどで描かれた、根拠がはっきりしない『通説』がまかり通り、イメージだけで歴史が語られるケースが多すぎる」とある研究者。

 維新史が専門の青山忠正・佛教大教授は「例えば幕末の志士・坂本龍馬は、一次史料からは『薩長同盟の仲介者』というより、『薩摩藩の利害を代弁するエージェント』で、薩長同盟も倒幕軍事同盟とまでは言えないのに、歴史ファンという人たちの中には、かたくなに信じようとしない人もいる」と指摘します。

 実際、近年の歴史研究の進展はめざましく、かつて歴史小説や教科書などで示された多くの出来事や歴史上の人物に、従来の通説とは違った新たな光があてられています。

 例えば、織田信長は全国統一は目指さず、畿内の静謐(せいひつ)を願っていたとする東京大史料編纂(へんさん)所の金子拓(ひらく)准教授の説や、豊臣秀吉の朝鮮出兵は領土拡大が主目的ではなく、アジアに進出してきたスペイン・ポルトガル勢力を追い払うためだったとする平川新(あらた)・宮城学院女子大学長の説、美少年のイメージが強い江戸時代の一揆指導者・天草四郎は架空の存在だったという吉村豊雄・熊本大名誉教授の説などが代表的なものです。

 青山教授は「歴史ファンにとって歴史とは小説などで形づくられた、型どおりのお話をなぞるものであり、真実を知るものではないのでしょう。歴史好きのいう『歴史』と歴史学とは別物、ということなのかもしれません」と語ります。

■新説や異説 受け入れ難い?

 同じようなことは考古学でも起きています。今年は「縄文ブーム」と言われていますが、ネット上などで語られることが多い「自然と共生するエコロジカルな縄文人」というイメージについて、縄文時代が専門の国立歴史民俗博物館の山田康弘教授は「大きな誤解がある」と指摘します。

 「縄文人は樹木の伐採などでかなりの自然破壊をしていました。それがひどくならなかったのは単に人口が少なかったから。エコロジカルを目指していたわけではないんです」

 こうした新説や解釈に対しては、時として思わぬ反応も起きます。朝日新聞が昨年9月、幕末に活躍した長州(現在の山口県)の志士・吉田松陰について、「本質は教育者というより革命家ではないか」という説を紹介したところ、地元の萩市議会である市議から萩市長に対し、「松陰先生のイメージにデメリットを与えた、朝日新聞に抗議をしないのか」との質問が出され、市長は「松陰が過激な革命家であったという評価、異説の存在を紹介したもの。一つの視点として尊重するべきだ」と答えました。この出来事は、研究者による学説であっても、地元にとって重要な人物に関わる場合、受け入れ難い面もあることを示しています。

 他方、近年様々な新説が提示され、評価も変化している坂本龍馬の生誕地・高知市にある市立龍馬の生まれたまち記念館の森本琢磨学芸員は「龍馬は高知にとって大切な人物」としながらも、「観光とのからみを大事にしつつ、できる限り新説も紹介したい」と話してくれました。

 NHKの大河ドラマ「平清盛」の歴史考証にも携わった東京大史料編纂所の本郷和人教授は、中世の町や人物などを描いて、「画面が汚い」と兵庫県知事から批判された経験があります。「でも、実際に中世の町は糞尿(ふんにょう)まみれだったのだから仕方ない」と本郷さん。「専門性のある新しい学説を受け入れるには、論文や専門書を読むなどの勉強が必要。従来のイメージに固執するのではなく、新しい歴史像を学ぶ楽しさも知ってほしいと思うのですが」

(続きはソース)

朝日新聞デジタル 2018年10月29日09時30分
https://www.asahi.com/articles/ASLBR51RCLBRULZU00D.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540821252/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/31(水) 19:18:49.59 ID:CAP_USER9
小栗上野介忠順
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妻道子の実家、林田藩ゆかりの三木家住宅(奥)を見学する顕彰会理事の村上泰賢・東善寺住職(右から2人目)ら=10月上旬、姫路市林田町中構
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小栗上野介の顕彰慰霊碑=群馬県高崎市倉渕町(東善寺提供)
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 日本で初めて蒸気機関動力の「横須賀製鉄所」(後の横須賀造船所)建設を進め、近代化に注力した幕末の勘定奉行で、作家の司馬遼太郎が「明治の父」と称した小栗(おぐり)上野介忠順(こうずけのすけただまさ)(1827~68年)が、いま再評価されている。江戸城の無血開城に反対し、後に斬首された悲運もあって歴史ファンが注目。「明治150年」の今年、菩提寺・東善寺がある群馬県高崎市の住民ら300人で構成する顕彰会が、小栗の妻・道子の実家があった兵庫県姫路市を訪れるなど交流を始めた。(井上太郎)

■姫路に妻の実家、群馬から顕彰会訪問

 「罪なくして此所(ここ)に斬らる」。高崎市倉渕町の田園地帯にそびえる石碑に、取り調べもなく殺されたと伝わる小栗の悲運がにじむ。

 小栗は旗本を継ぎ、34歳で遣米使節として渡米。ワシントン海軍造船所の技術力に刺激を受け、帰国後、横須賀製鉄所の建造を主導した。新政府軍が迫る江戸城で開かれた評定では、大鳥圭介=兵庫県上郡町出身=らと抗戦を主張。職を解かれ、領地の権田村(現高崎市倉渕町)に移り住んだ。

 小栗は新政府軍に追われ斬首。現在の姫路市林田町に陣屋を構えた林田藩藩主建部政醇(まさあつ)の娘だった道子は、会津まで逃げる道中、権田の村人たちに護衛されたといい、顕彰会の起源だと伝わる。

 近年、薩長中心の歴史評価から離れ、近代化に貢献した人物を公平に評価する流れの中で、小栗の功績に注目が集まる。横須賀市では小栗にまつわるパネルや遺品の展示が初めて開かれた。その生涯を紹介するテレビ番組も放送され、小栗を尊敬する歴史タレント「小栗さくら」も登場。顕彰会理事で東善寺の村上泰賢(たいけん)住職(77)は「節目で関心は高まっている」とする。

 国内外でゆかりの地を巡る顕彰会は10月上旬、姫路市の林田藩の藩校跡や陣屋跡地などを訪ねた。参加した豊原稔さん(63)は「小栗が追われ、建部家出身の家臣も命を落とした。いろんな側面から歴史を見つめ、発信したい」という。

 案内した姫路市はやしだ交流センター「ゆたりん」の三木清一理事長(75)は「小栗を介して地域がつながれることは貴重」と話した。

■神戸開港で日本初の株式会社

 小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)と兵庫のゆかりは深く、150年前の神戸港開港で、日本で初めての株式会社を大阪に設立した。

 当時、外国人が商社組合で大資本を操る一方、日本人は個人が小資本で貿易。日本人同士が安売り競争に陥り、外国商社に利益を搾取され続けた。

 小栗は「日本の国益を損なう」として、大阪商人の出資を募り「兵庫商社」を設立。利益をガス灯、郵便、電話といったインフラ整備に還元しようと考えた。同社は短命に終わったが、株式会社の手法で日本初の本格的ホテル「築地ホテル館」が建設されるなど、近代化に弾みをつけた。

 生野銀山(朝来市)の再建にも貢献した。明治政府に雇われたフランス人鉱山技師ジャン・フランソワ・コワニェは、小栗が建造した横須賀造船所から蒸気機関の設備を大量購入し、機械化に成功。江戸中期以降落ち込んでいた生産量はV字回復した。

神戸新聞NEXT 2018/10/31 15:00
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201810/0011778486.shtml
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540981129/続きを読む

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