(遅報)歴史まとめ

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1: 名無しさん@涙目です。2018/02/09(金) 13:17:58.54 ID:pS2WNqTB0 BE:851238497-2BP(4000)
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20世紀屈指の無差別猟奇殺人犯、切り裂きジャック。

間違いなく、世界で最も有名な殺人犯の一人だが、
彼がロンドンに出現し消えてから120年も経った今でも、正体が誰だったのか決定的な答えは出てきていない。

ジャックはその凄惨な犯行に加え、
自身の犯行に関する手紙を書いて送りつけたことでも知られている。
この手紙の内容を分析すれば謎が解明出来るのではないかと、当時から多くの人々が手紙の分析を行ってきた。

ちなみにこの手紙はロンドンのセントラル・ニュース・エージェンシーにて公開され、当時から話題になっていたが、
事件を面白がった人によって作られたいたずらに過ぎないものであるという説もあった。




この度、切り裂きジャックが出したとされる2通の手紙を
マンチェスター大学のAndrea Nini博士が現代の法医学的技術をもって文体の分析を行った。

彼は手紙の中に独特の単語が共通して用いられていることを発見。
例えば「元に戻す」という句動詞や、「killer」という単語から別のセンテンスへのつなげ方に独特の癖が確認できるという。

「私は言語分析により、この2つの手紙の文が同じ人物によって書かれたという確信に近い考えを持っている」と彼は述べる。

「これまでの分析では、手紙が手書きであったこともあり筆跡の癖や類似性に基づいて同一人物の手によるものと考えられてきたが、
単語や構文から解る癖もその仮説を裏付けるものとなっている」

(加藤史規 山口敏太郎事務所 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

http://mnsatlas.com/?p=31645
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1518149878/続きを読む

1: みつを ★ 2018/02/09(金) 16:45:26.33 ID:CAP_USER9
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-42984569

ポール・リンコン、BBCニュースサイト科学編集長
2018/02/08

最先端の科学分析によって、1万年前の英国人が褐色の肌と青い瞳の持ち主だったことが明らかになった。現代欧州人の10人に1人が、この時期の狩猟民とDNA的につながると言われている。

ロンドンの自然史博物館とユニバーシティー・コレッジ・ロンドン(UCL)の共同研究チームが7日、再現した頭部を発表した。

自然史博物館の研究チームが、1903年に英南西部チェダーで発見された英国最古の完全な形の人骨からDNAを抽出した。
「チェダー男」と呼ばれるこの人骨について、続いてUCLの研究チームがゲノム解析をもとに顔を再現した。
その結果、現在の欧州人の薄い肌の色は、比較的最近の特徴だと改めて示された。

有史以前のこの時代の英国人について、ゲノム解析が実施されるのは初めて。
その結果、前回の氷河期後に英国に再定住した最初の人々に関して、貴重な見解が新たに得られた。

ゲノムとは人間の「設計図」で、人間の細胞核に含まれている。「チェダー男」のゲノム解析結果は学術誌に掲載されるほか、英チャンネル4が近く放送するドキュメンタリー「最初の英国人 1万年前の男性の秘密」でも紹介される。
チェダー男の骨は115年前、英南西部サマーセット州チェダー渓谷にあるゴフ洞窟で発見された。その後の調査で、身長は約165センチと現代英国人にしては低く、おそらく20代で死亡したと分かった。

同博物館で人間の起源を調べている研究主任、クリス・ストリンガー教授は、「私は約40年もチェダー男の骨を調べてきた」と話す。

「だから、この人と対面するなど、数年前には考えらなかった。こういう外見だったかもしれないという顔と。こういう髪で、顔で、あの瞳の色と浅黒い肌の色のハッとするような組み合わせで。科学データからは、この人がこういう外見だったということになる」

頭蓋骨の表面に入ったひびから、チェダー男は暴力的な形で死亡したかもしれないと伺える。どのようにして洞窟に横たわることになったのかは分かっていないが、同じ部族の仲間がそこに置いた可能性もある。
自然史博物館の研究チームは、耳の近くの錐体(すいたい)と呼ばれる頭蓋骨の一部からDNAを採取した。担当したイアン・バーンズ教授とセリーナ・ブレイス博士は当初、骨からDNAを採取できるかは分からなかったという。

しかし、チームは運がよかった。DNAが残っていただけでなく、欧州の中石器時代のゲノムとして、最高水準のカバー率(配列の正確さの尺度)が達成できた。
自然史博物館の研究チームはUCLと協力し、髪の毛や、目や皮膚の色に関連する遺伝的変異等の結果を分析した。

超熟成チェダー

研究チームは、石器時代に生きたこの英国人は、黒っぽい色の毛の持ち主だったと解明した。平均よりも巻き毛だった可能性もわずかにある。瞳は青く、肌はおそらく褐色から黒に近い色だったと判明した。
この組み合わせは現在の私たちには意外かもしれないが、当時の西欧ではよくある外見だった。
チャンネル4番組のディレクター、スティーブン・クラーク氏は、「みんな承知の通り私たちは、肌の色を異常に気にする時代に生きている」と話した。

UCLの遺伝学者マーク・トマス教授は、「このことが私たちの認識の一部になれば、それはずっといいことだと思う。みんなが頭の片隅にとどめるようになれば、大勢の知識の一部になる」と話した。
チェダー男はゲノム解析によって、スペインやルクセンブルグ、ハンガリーで発見された、いわゆる西部狩猟採集民など中石器時代の他の人類と近縁関係にあったことが分かった。
古生物の模型製作を専門とするオランダのアーティスト、アルフォンス・ケニス氏とアードリー・ケニス氏が、遺伝子の解析結果に、頭蓋骨のスキャンで測った寸法を組み合わせた。その結果、はるか昔の人類の顔がまるで生きているかのように復元された。
(リンク先に続きあり)

(英語記事 Cheddar Man: DNA shows early Briton had dark skin)

チェダー男を40年間研究してきたクリス・ストリンガー教授は、ケニス兄弟による復元に衝撃を受けた
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チェダー男の骨のレプリカが現在、発見された洞窟に展示されている
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1518162326/続きを読む

1: 泥ン ★ 2018/01/13(土) 23:52:48.50 ID:CAP_USER9
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
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 本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。

 「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。

 井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。

 経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。

 それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。

 さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。

 アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。

 これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。

 田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。

 近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。

続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515855168/続きを読む

tennou_nishikino_mihata

1: しじみ ★ 2018/02/07(水) 04:48:44.22 ID:CAP_USER9
今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。
東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。
特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。

 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。
「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。
自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。
ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。

 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。
会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。

 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

 遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。
「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。
宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。
「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。

 それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。
実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。

 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。

 「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。
150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。

続きはソースで

NIKKEI STYLE
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO26315670Q8A130C1EAC000
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1517946524/続きを読む

640px-Japanese_destroyer_Isokaze_II

1: ひろし ★ 2018/02/07(水) 23:58:05.87 ID:CAP_USER9
2月7日 23時38分

太平洋戦争末期、戦艦「大和」とともに沖縄に向かいアメリカ軍の攻撃によって沈んだ旧日本海軍の駆逐艦「磯風」と見られる艦船が鹿児島県沖の海底で見つかっていたことがわかりました。専門家は、大和以外の艦船の調査は行われておらず、貴重な発見だと評価しています。

駆逐艦「磯風」は昭和15年に就役して真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などに参加しましたが、戦艦大和とともに特攻作戦で沖縄に向かっていた昭和20年4月7日、鹿児島県の枕崎沖でアメリカ軍の攻撃によって沈みました。

大和について広島県呉市とともに潜水調査を行った大阪市の海洋調査会社によりますと、おととし5月の調査の中で、大和が沈んだ場所から北東に9.5キロ、深さおよそ450メートルの海底で、艦船1隻が沈んでいるのが見つかったということです。
これについて専門家は、撮影された映像や戦闘の記録などから「磯風」の可能性が高いとしています。

映像には4つの砲身をもつ魚雷発射管のほか、爆発でめくれ上がった艦尾や横倒しになった主砲も映し出されていて、当時の戦闘の激しさがうかがえます。

旧日本海軍の歴史に詳しい広島県呉市の大和ミュージアムの戸高一成館長は、「記録に残る被害状況や沈没場所をつきあわせると磯風でほぼ間違いない。大和以外の艦船の調査は行われておらず貴重な発見だ」と話しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180207/k10011319951000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1518015485/続きを読む

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