(遅報)歴史まとめ

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1: 樽悶 ★ 2018/10/31(水) 23:28:07.29 ID:CAP_USER9
21歳の二等兵時代の田中角栄
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前から4列目、右から6番目が田中角栄
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 新潟の貧農から総理大臣へと成り上がった田中角栄は、やがてロッキード事件などのスキャンダルに塗れ波瀾万丈の人生を終えた(1993年没、75歳)。その生涯は近年の“再評価ブーム”の中で様々な視点から伝えられてきたが、誰もが知るその歴史に「空白の2年間」がある。徴兵で満州に動員されていた時期について、角栄は生前ほとんど語らなかったという。当時の秘話が、ある写真とともに明らかになる。

◆「満州の写真を持っている」

※省略

◆アンパンを盗みに来た

 惠美子さんに話を聞いた。

「1か月ほど前に、新聞を読んでいたら、『戦場の田中角栄』の広告が出ていたんです。そこに『ノモンハン戦』の文字があったので、すぐに娘に書店に買いに行かせて、一晩で一気に読み切りました。父は生前、酔うたびに、満州にいた頃の田中角栄さんの話をしていましたが、本当だったんだなと思いました」

 そして1枚の写真を取りだした。およそ100人くらいの日本兵が写ったセピア色の集合写真。そのなかの一人に小さな丸印がついている。

「この人が角栄さんです。父が写真に書き込んでしまったんです(笑い)」(前出・惠美子さん)

 この写真は、ノモンハン事件(*)停戦後の昭和14年10月25日に、日本軍の前線基地・ハイラル(現・中国内モンゴル自治区)で撮影されたものだという。この時、角栄は21歳だった。

【*1939年5~9月にかけて、満蒙国境で起きた日ソの軍事衝突。日本軍は壊滅的な被害を受け停戦に至った】

「父は終戦1年後に帰国しましたが、引き揚げる間もこの写真を肌身離さず隠し持ち、戦後も押し入れに大切にしまい、家族以外には見せようとしませんでした。一緒に写っている多くの戦友が戦地で亡くなられたからだったのでしょう」(前出・惠美子さん)

 生きて終戦を迎えた戦友も、すでに80年近く経っているので、今や存命者は少ない。惠美子さんは、むしろ供養になると思い、公開を決意したという。

 小野澤冨士氏は大正7年、群馬県に生まれた。幼い頃から馬に乗り慣れていたので、昭和14年1月に徴兵されたときに宇都宮騎兵第18連隊に配属された。その後、満州国富錦にあった陸軍第3旅団騎兵第23連隊に転属している。

 一方の角栄も同じ大正7年生まれ。父親が競馬馬の育成に入れ込んでいたためやはり乗馬が得意で、徴兵により、昭和14年4月に満州国富錦の騎兵第24連隊に入隊した。

 小野澤氏があとから同じ内務班に配属されて合流する形になったが、すでに実戦経験のあった小野澤氏は伍長、角栄は二等兵という立場だった。

『戦場の田中角栄』には、満州での角栄は決して模範兵ではなく、こっそり夜中に仲間と酒盛りをしたり、立哨をサボったりで、曹長や伍長ら上官からしょっちゅう殴られていたと書かれている。

「父の話では、要領がよくて、憎めない人だったそうです。調子がいいんだけど、まっすぐな青年だったと。『夜中にアンパンを盗みに来てみつかったときも、オレがかばってやった』『オレは田中を一度もぶったことがねえ』というのが、酔ったときの父の口癖でしたね」(惠美子さん)

 角栄はいつも鼻歌を歌い、人を笑わせる話をして、隊では人気者だったという。

 当時はノモンハン事件の激戦のさなかで、部隊では古兵から順に前線に送られていた。日本軍は、航空戦では優位に立っていたが、地上戦ではソ連軍に大きな劣勢を強いられていた。そんななかでも飄々としている角栄を上官らが苦々しく思ったのは容易に想像がつくが、なぜか小野澤氏は角栄をいたく気に入ったようなのだ。

 角栄は調子がいいだけの男ではなかった。

 部隊の教育計画書が連隊本部から突き返され、2日で修正と清書をしなければならなくなったときに、切羽詰まった中隊長は、建築家の角栄に頼み込んだ。角栄は上官らをアゴで使いながら1日で仕上げ、窮地を救ったというエピソードが『戦場の田中角栄』に紹介されている。この一件で、上官らの角栄に対する態度が一変したという。

 角栄は結局、ノモンハン戦線に送られることなく、昭和14年9月16日、ソ連軍との停戦が成立。命拾いしたが、その後15年11月、角栄は営庭で突然倒れた。クルップ性肺炎と診断され、内地に送還。戦病兵として除隊となった。

(続きはソース)

2018.10.31 07:00
https://www.news-postseven.com/archives/20181031_790999.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540996087/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/11/02(金) 23:42:29.63 ID:CAP_USER
■25万年前の子育てから厳しい冬の過ごし方まで、歯の分析で

 ターニャ・スミス氏は、まるで本を読むように歯を読む。

 歯を構成する各層には、食べものから病気まで、さまざまな情報が刻まれている。オーストラリア、グリフィス大学の自然人類学者であるスミス氏は、15年以上をかけて歯の化学的性質と物理的構造を調べてきた。しかし、環境が変化したときに、それらがどうなるのかについては、長いこと取り組んでこなかった。

「人類の起源を研究している人々は、かなり前から、気候変動や気象が不安定になった期間が人類の進化に重要な役割を果たしていると考えています」とスミス氏は言う。しかし、氷床コアや花粉の記録など、当時の気候を知る手立てからは、個体にどんな影響があったかを検討するほど短期間の変動はわからない。

 今、その状況が変わりつつある。10月31日付けの科学誌「Science Advances」に発表された研究によって、約25万年前に現在のフランス南部にあたる場所で暮らしていたネアンデルタール人の幼年期の様子が、かつてないほど詳しく描きだされた。歯の化学的性質を分析することで、彼らが環境に対処するために、多くの難題に直面していたことが明らかになった。ネアンデルタール人たちは、厳しい冬や鉛汚染を経験し、季節によって変化する資源に依存した生活を送っていたようだ。

 さらに、酸素同位体の分析から、そのうち1人が春に生まれていたことも明らかになった。その後、2年半にわたって母親の乳で育ち、秋に乳離れしていた。(参考記事:「人肉はカロリー低め、旧人類はなぜ食べた?」)

「今回の論文は、今まで読んできたものの中でも、特に興味深いものでした。率直に言って、驚きのあまり何度も呆然としてしまいました」と、米ロヨラ大学の古人類学者で、古代の歯に詳しいクリスティン・クルーガー氏は電子メールで述べた。

■まるで日記
 歯は一定のパターンに従って成長するため、ある意味、木の年輪のようだ。スミス氏は、「この層は、単純に1つずつ積み重なってゆきます」と説明する。同氏は今回の論文の筆頭著者で、最近『The Tales Teeth Tell(歯が話す話)』という本も出版した。だが、1年ごとにできる木の年輪と違って、歯の層は1日ごとにも形成される。幼い子どものころに、日々どのように歯が成長したのかまで調べられるのだ。

 今回の研究で、スミス氏らの研究チームは、異なるネアンデルタール人の子どもの歯を2本調査した。さらに、ネアンデルタール人の時代より何万年も後である、約5000年前に同じ場所で生活していた現生人類の歯も調べ、比較した。

 歯をレーザーで薄く切りとりながら、研究チームは高性能の分析装置を使い、それぞれの層における子どもの年齢を厳密に特定した。分析対象となった2つの臼歯は、成長しきるまで3年ほどかかっていた。スミス氏によれば、そのうちの1つは、生まれる直前に形成され始め、3歳を迎えるころに完成したという。しかし、この臼歯はほとんどすり減っていなかったことから、歯の持ち主は大人にはなれなかったものと考えられる。

 もう1本の歯は、もう少しあとになってから成長を始める第二臼歯だった。こちらは3歳を迎えたころに形成され始め、6歳ごろまで成長し続けたようだ。それ以降は、新しい層が追加されないものの、すり減ったり傷ついたりはするので、そこからも多くの情報を得ることができる。

続きはソースで

ph_thumb (7)

ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/110200476/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1541169749/続きを読む

1: ガーディス ★ 2018/10/25(木) 11:04:50.19 ID:CAP_USER9
2018 10/25 10:00
黒装束を着て屋敷に忍び込み、手裏剣を放ってドロンと退散-。江戸時代に幕府や大名の下で諜報活動を担った伊賀・甲賀の忍者が元になったイメージだが、「彼らは忍者の歴史の不本意な最終形態」とする論文が、国際忍者学会の会誌「忍者研究」創刊号に掲載された。著者は戦国時代の歴史研究で知られる三重大学の藤田達生教授。忍者の実像を、かたくなに地域の自治を守った中世の足軽隊に見いだす。

 ■「悪党」の流れ

 国際忍者学会は、これまで学術研究の対象にされてこなかった「忍者」の実態解明を目的に、三重大国際忍者研究センター(伊賀市)などが今年2月に設立。「忍者研究」創刊号は9月に第2回総会が佐賀県で開催されたのに合わせて刊行された。

忍者とは何者か。諸説あるが、一般的に、南北朝から室町時代に活躍した「悪党」の流れが色濃いとされる。悪党とは荘園領主などの禁圧の対象となった、権威や秩序にとらわれない武装集団。こうした「悪党」の流れに、戦国大名を支えた最下層の兵士「足軽」もいるとされる。

 ■「伊賀の城取」

 論文では、永禄12(1569)年の「伊賀惣国一揆掟書(いがそうこくいっきおきてがき)」を取り上げ、この「足軽」に注目した。入洛を果たし、天下統一に突き進む織田信長が、伊賀に接する伊勢国を平定し、緊張が一気に高まった直後に制定された掟書だ。

 「惣国一揆」とは代官や守護などの圧政に抵抗する百姓一揆ではなく、土豪や地侍による一国規模の統治共同体のこと。掟書には主に攻められた際の行動規範が11条あるが、藤田教授が注目するのは次の条文だ。

 〈国境に他国の勢力が陣城を築城した場合、足軽として城を取るという忠節を尽くした百姓がいたならば、惣国一揆から多くの褒美をつかわし、本人は侍に取り立てられるだろう〉

 「郷土防衛のため、惣国一揆が足軽衆を徴発する体制が成立している。足軽衆は独自に強力な軍事力を発揮し、他国にまで出陣して攻城戦をおこない、地域を制圧することさえあった」と藤田教授。こうした兵農未分離の足軽隊に、他国で戦働きをすることを得意とする「忍者」が存在したという。

 「城を取る」とあるのは、「伊賀の城取」を指す。畿内一円に大勢力を築いた三好氏の家臣、内藤宗勝が、永禄4(1561)年に発した指令にもこう登場する。〈伊賀の城取の者どもが、摂津国、丹波国、播磨国にやってくるので油断するな…〉

 藤田氏は「攻城戦における彼らの働きはとりわけ目覚ましく、大名や天下人にも恐れられる存在だった」と話す。

 ■高度な自治能力

 「自治」を守る存在だったか否か-。中世の「本来的な忍者」と江戸時代の忍者の決定的な違いはそこにあるという。

 藤田氏が注目するもう一つの中世文書が、天正元(1573)年の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」。平成28年12月、郷土資料収集家でもある岡本栄・伊賀市長が京都の古書店から送られてきた目録から発見。市費で購入し、今年3月に市文化財に指定された。伊賀衆と甲賀衆の自治組織である「伊賀惣国一揆」と「甲賀郡中惣(こうがぐんちゅうそう)」の代表者が各10人集まり、入会地(いりあいち)の利用権を共同裁定した際の誓約書だ。

 「中世の伊賀や甲賀は、一揆による自治がうまく機能した国内の代表事例ですが、起請文はその証左となる誇るべき史料。高い自治能力が、忍者が他国で働くことを可能とし、その働きは集団安全保障の役割を果たしたと考えられる。地域自治と忍者は実は深い関係にあったのです」

 ■“衆”から“者”へ

 起請文が書かれた翌年の天正2(1574)年、近江国で最後の反信長勢力となった甲賀衆が信長に臣従する。伊賀衆も同9年の天正伊賀の乱で信長に制圧された。同10年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されるが、その後天下人となる豊臣秀吉は同13年を画期として兵農分離政策を断行する。

 「伊賀衆・甲賀衆は、兵として他国で仕官するか、農として在国するかの選択を強く迫られ、『~衆』と呼ばれる兵農未分離の戦闘集団が解体された」

 こうして他国で仕官した伊賀者・甲賀者には、幕府に諜報能力を評価されて重用された服部半蔵正成のような人物もでてくるが、自分たちの手で自治を守る本来の忍者ではなくなった、というわけだ。藤田教授は、「忍者はキワモノ扱いされがちだが、住民自治の歴史を考える時、重要な存在として位置づけねばならない」と話している。

https://www.sankei.com/smp/premium/news/181025/prm1810250009-s1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540433090/続きを読む

130301 歴史的な国別GDPシェアの推移

1: 風吹けば名無し 2018/10/10(水) 06:47:35.97 ID:nxDvHszEa
中国とかずっと東アジアでイキってただけやん
何度も内乱して新しい王朝作っては同じこと繰り返して反乱おき崩壊しの繰り返しやん
その間にヨーロッパはルネサンス→大航海時代→宗教戦争による国民国家意識の形成→市民階級台頭→市民革命
→産業革命と進化してってるんだが?
中国が最強とか古代だけだろ
バカは死ねよ
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1539121655/

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