375px-上杉鷹山
1: 日本@名無史さん 2011/04/05(火) 19:54:50.34 .net
関西人の俺は、教科書でも習わへんかった。
関西では緒方洪庵先生の方がもっと尊敬されとるで!

主に関東人から尊敬を集めとる人物やな。
関東人は儒学系の渋沢栄一も好きやしな。
上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。

10: 日本@名無史さん 2011/04/07(木) 11:00:56.17 .net
鷹山って財政家としてどんなことをやったの?

15: 日本@名無史さん 2011/04/08(金) 02:07:49.11 .net
>>10
とりあえず、先代があまりの財政の悪さに藩丸ごと幕府に返上しようとしてた程だったのを、
幕末まで延命させたのは鷹山の功績。
実際に改革を担ったのは竹俣当綱と莅戸善政ら財政に詳しい藩士たち。鷹山自身も
率先して倹約につとめるなどしているけど、一番偉かったのは抵抗勢力の家老らに屈する
ことなく改革を続けさせたこと。

24: 日本@名無史さん 2011/04/19(火) 20:51:40.98 .net
 関ヶ原で西軍に付いたために、減封や転封された大名ってみんな財政難
に陥っているよね。その財政難の米沢藩を再建したその行動力・人望・忍耐
強さは現代にも通じる。

25: 日本@名無史さん 2011/04/19(火) 23:18:26.51 .net
>幕末まで延命させたのは鷹山の功績。

延命ではなく、藩の借金を完全に返済した再建のようです。

31: 日本@名無史さん 2011/04/21(木) 14:57:17.90 .net
伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。
一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、”君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

38: 日本@名無史さん 2011/04/23(土) 16:05:18.66 .net
本当は支藩の新田家の次男を養子に迎えるはずだったのだけど、この次男が賢い子で、新田藩の世継ぎにしようと考えていたのを知った上杉家に、鷹山の祖母が「家の孫に賢い子がいます。外曽孫だし検討してみて下され」と声を掛けて来たのが発端。

46: 日本@名無史さん 2011/04/27(水) 11:22:11.29 .net
「上杉家御年譜」によると、豊姫が重定に、直松(鷹山)の聡明さと優れた資質を賞して幸姫(重定の次女)と取り合わせて世子とするようにすすめた事を述べている、
という論文を読みました。

@ソースです。

75: 日本@名無史さん 2011/04/30(土) 12:44:39.08 .net
聡明ってのはあくまで豊姫の私観
合議中に一族の人間からの薦めがあってそれがたまたま採用されただけなんじゃないか
一族の話なら偏愛だったとしても無視しづらいだろうし
適当に血縁だけで選んだ結果、綱憲のようなバカ殿だったらシャレにならない

77: 日本@名無史さん 2011/04/30(土) 20:01:34.62 .net
同時代の松平定信は鷹山のことを三百諸侯随一の名君と呼んでる。
豊姫の私観は間違ってなかったことになるな。

90: 日本@名無史さん 2011/05/04(水) 23:03:33.75 .net
ひどいところへ養子に行ったもんだ。
秋月藩の部屋住みの方が楽だろう。

92: 日本@名無史さん 2011/05/05(木) 20:09:34.40 .net
>>90
前藩主重定が財政難のあまり藩返上までしようとしてた状態だったからな。
そこまで追い詰められてたくせに、鷹山が必死で倹約してる中で
隠居してからも贅沢を続けるとか重定はどういう神経してるんだか。

101: 日本@名無史さん 2011/05/08(日) 22:09:06.21 .net
国政レベルでやったらとんでもないデフレになりそうだけど・・・

103: 日本@名無史さん 2011/05/09(月) 02:28:27.69 .net
>>101
逸話からすると儒教的名君みたいだが
実際は新田の開発、殖産工業の振興など時代に合った経済政策を推進してる
だいたい民生に対する心構えは立派

105: 日本@名無史さん 2011/05/09(月) 05:59:58.36 .net
<日本3大名君>

 水戸光國
 上杉鷹山
 保科正之

 みんな 儒教的徳治政治をした人だね。

123: 日本@名無史さん 2011/05/23(月) 02:16:00.33 .net
この時代とすれば鷹山は名君だろ
まず放漫財政にメスを入れる(貧窮した藩はどこでもしてるが)
次ぎにそれだけでは貧すれば鈍するから(デフレ)乏しい財政から再生産のための新田の開発、商品作物の奨励、殖産工業のために投資をしてる
(農民だけじゃ無く藩士にも、人材もそれに応じて登用)
儒教的側面ばかりの人では無い

178: 日本@名無史さん 2012/07/23(月) 02:53:51.19 .net
重鎮の家臣竹俣当綱の祖先(謙信と血の繋がりあり)の子女が将棋の女流棋士になったそうだ
13才の竹俣紅ちゃん
no title

182: 日本@名無史さん 2012/07/23(月) 15:00:24.14 .net
>>178
その女の子
小学生の時から美少女で有名だよ
ネプリーグによく出ていた

185: 日本@名無史さん 2012/10/12(金) 13:34:49.74 .net
Yozan Uesugi すごい。
確か、言ってたのJ.F.ケネディだったよね。

187: 日本@名無史さん 2012/10/18(木) 23:43:24.84 .net
>>185
それは一種の都市伝説
米沢の研究家が否定している

219: 日本@名無史さん 2014/05/23(金) 13:37:30.74 .net
もう少しで岡崎の水野藩みたいに押しこめられかねなかったけどな

225: 日本@名無史さん 2014/09/11(木) 12:00:30.92 .net
>>219
大殿の上杉重定が偉かった。

221: 日本@名無史さん 2014/05/23(金) 18:51:43.98 .net
真の意味で凄いのは押し込めスルーしたことだよね。今で言うリーダーシップとか
統制力とかはあったのかな、と思う。
安永2年6月27日1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

222: 日本@名無史さん 2014/05/23(金) 20:25:01.32 .net
芋川が治憲の裾に掴み掛かったときに、次の間から小姓の佐藤文四郎がすっ飛んできて芋川の腕を殴り、
七重臣が怯んだ隙に治憲は二の丸に逃れ、大殿重定が助けに入ったので助かった模様
文四郎と重定がいなかったらどうなっていたやら

223: 日本@名無史さん 2014/07/08(火) 17:21:02.43 .net
結局は若くして藩主の座をしりぞいてる
鷹山が藩主時代に行った改革は結局失敗して、実は借金を増やしただけだったことはあまり知られてない
斉定時代の改革が成功して名声が高まったが、もしそのままならどうなってたか
名君斉定は名君鷹山の影に隠れがちだけどね
当時のある旅行記読んだことあるけど
斉定の棺が米澤に帰ってきた時の米澤の町民たちの迎え方は、夜だったこともあってか、まるで神を迎えるごときだったとか

224: 日本@名無史さん 2014/07/24(木) 07:37:41.11 .net
隠居後も実権は持ってたでしょ
 http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1302000890/