1: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 07:44:13.44 .net
どうなってたかな?
足利 尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。
1333年後醍醐天皇が挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への叛乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされた。
後醍醐の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていく中、鎌倉方の残党が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。
新田 義貞は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人武将

足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。


96: 日本@名無史さん 2012/04/22(日) 22:14:18.23 .net
>>1
たぶん、喧嘩するだろう

166: 日本@名無史さん 2013/10/17(木) 11:37:35.75 .net
>>1
今頃群馬が首都になってただろうなあ

3: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 09:35:13.33 .net
足利尊氏が将軍で新田義貞が管領とか?
もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。

4: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 10:38:45.40 .net
だから組んだらどうだったかの話なんだが。
そもそも有り得ないとか寒い。

5: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 11:14:34.14 .net
>>4
組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして
ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、
やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる

12: 日本@名無史さん 2011/12/22(木) 13:27:07.02 .net
北陸一の守護大名になってた。

13: 日本@名無史さん 2011/12/22(木) 18:32:16.92 .net
それはないな、義貞が北陸に落ちていったのは尊氏との抗争の末だから。

16: 日本@名無史さん 2011/12/23(金) 05:13:53.44 .net
尊氏にとっては新田は外様になるの?それとも一門になるのかな?一応系譜じゃあ同族なんだけど、どういうことになんの?新田が心底足利と連携しますとなると、織田と徳川みたいな関係かな?それとも朝倉浅井?

21: 日本@名無史さん 2011/12/23(金) 11:24:13.41 .net
>>16
佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係

23: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 09:47:31.83 .net
内乱起こした糞政権
足利幕府

105: 名無しさん@恐縮です 2012/09/04(火) 06:50:33.19 .net
>>23
キチガイがおるw
内乱くらいどの政権でも起こるわw

24: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 10:08:06.84 .net
建武の新政に首を捻った足利と新田の両者は、鎌倉で起きた北条時行の乱鎮圧の口実で鎌倉に向かった。
北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?
護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)1308年 - 1335年8月12日は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇皇子北畠親房の娘。
後醍醐天皇の画策で、2度にわたり天台座主となる。『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例が無い座主であったという。

1331年、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。

以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐村上義光らとともに十津川吉野高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、六波羅探題を滅ぼした。

しかし、足利尊氏とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山を拠点に尊氏を牽制する。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、東北地方支配を目的に、北畠顕家陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、1334年冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けて捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、尊氏の弟足利直義の監視下に置かれた。

後醍醐天皇との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。

翌年、中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、幽閉されていた護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した直義の命を受け殺害された。


25: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 10:38:25.47 .net
>>24
都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。

28: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 18:08:07.30 .net
よっぽどのバカじゃない限り、足利と新田がベッタリだったら護良をずっと近くに置いておいたでしょ。
てか足利と新田って元々仲悪いの?

30: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 09:12:20.15 .net
>>28
よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・

32: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 11:34:51.32 .net
尊氏と義貞自体最初はふぅんって程度の認識なんじゃね?
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?

33: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 12:12:54.86 .net
>>32
義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。

34: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 13:36:08.74 .net
隠遁癖のある尊氏と優柔不断の義貞が手を組めば……
現実主義の義直と積極決断の脇坂の二人で新政権樹立か反乱軍組織して兄に謀叛ちゃうか?

35: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 13:54:21.10 .net
>>34一色義直と脇坂安治ですか?

38: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 17:24:43.18 .net
早めに尊氏に屈服してれば
関東管領くらいにはなれたかな?

39: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 19:53:04.51 .net
北条時代は心の中で二人とも
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?

40: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 20:06:10.33 .net
無論、新田足利間でそれなりの連携はあったし事前準備もあったんじゃないかな。
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。

43: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 23:56:42.62 .net
何だかんだで足利と新田は談合があったって見解でいいって事かな?
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…

44: 日本@名無史さん 2011/12/26(月) 10:32:13.76 .net
>>43
足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が
鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、
鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとして
ボイコットにあった気がする。

49: 日本@名無史さん 2011/12/28(水) 20:56:59.86 .net
実際のところ、源氏の我等が平氏の北条を討つという感覚が、当時の足利新田にどれだけあったかね。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。

治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。

50: 日本@名無史さん 2011/12/29(木) 06:52:16.87 .net
もうこのころになれば源氏も平氏も関係ないんじゃないのかな?ただ北条の執権政治を転覆させたいだけでしょう。実際尊氏も六波羅倒した後シラネだったんでしょ?同族の新田に根回しして鎌倉攻めてよって言ったかもしれん。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。

51: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 01:07:31.25 .net
むしろ、南北朝時代になってからのほうが、やたらと何々の嫡流というのが幅をきかせる時代になったんじゃないかな。

新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、
弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。

52: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 01:14:57.66 .net
(続き)
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで
南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。

54: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 17:01:26.72 .net
「新田から義貞という傑物が出てきた一方で」

え?

55: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 18:38:04.94 .net
あれだけ出来れば十分傑物。
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。

57: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 23:13:50.82 .net
北畠はなんで義貞嫌いなの?
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は鎌倉時代後期から南北朝時代公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。

38歳の若さで出家し、政界を引退した。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。

鎌倉幕府が倒れ建武の新政が開始されると、政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、陸奥国へ赴く。1335年北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で開いた南朝に従い、北朝に対抗する。

関東地方に南朝勢力を拡大するために、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊三重県)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。小田治久を頼り、攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城つくば)へと移る。関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけた。

この時期に『神皇正統記 』・『職源鈔』を執筆したとされている。

1340年、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、1343年に城が陥落すると吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。主に摂関や天皇の外戚・生母などに与えられる准三宮の待遇が、一介の「大納言入道」に過ぎない親房に与えられたことは、南朝におけるその権勢を物語る。

1348年四條畷の戦い楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。観応の擾乱に際して、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪回にも成功した。1354年4月に死去(享年62)。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。


58: 日本@名無史さん 2011/12/31(土) 00:42:39.66 .net
北畠親房は、一般には貴族意識で武家全般を低く見ていたといわれているが、
義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。

それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さ
ゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、
あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだ
という解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、
お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。

66: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 22:24:43.75 .net
新田が屈伏して山名のように従えば
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ

68: 日本@名無史さん 2012/01/04(水) 19:31:02.29 .net
問題はどこで屈服するかって話であって。

82: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 10:39:43.52 .net
新田義貞って本当に尊氏のライバルの地位にいたのかね
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし

84: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 15:36:02.83 .net
ライバルにさせられた

101: 日本@名無史さん 2012/08/15(水) 22:52:26.33 .net
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。

歴史の皮肉だ。


102: 忍法帖【Lv=2,xxxP】 2012/08/16(木) 12:29:08.62 .net
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのか
とは思う

103: 日本@名無史さん 2012/08/17(金) 14:06:41.56 .net
婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)

109: 日本@名無史さん 2012/09/26(水) 04:49:08.67 .net
新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな?

110: 日本@名無史さん 2012/10/02(火) 16:24:46.83 .net
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。

しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。

112: 日本@名無史さん 2012/10/18(木) 18:31:54.74 .net
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?

それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。

115: 日本@名無史さん 2012/10/19(金) 11:53:18.08 .net
>>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。

叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。

116: 日本@名無史さん 2012/10/20(土) 12:58:26.42 .net
>>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。

千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。

113: 日本@名無史さん 2012/10/18(木) 22:07:29.95 .net
所説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う

117: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 04:29:15.41 .net
よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。

118: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 14:08:27.45 .net
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。

それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。

119: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 15:33:31.28 .net
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。

指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。

120: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 15:49:31.34 .net
だな。

121: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 16:15:57.99 .net
で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。

124: 日本@名無史さん 2012/11/02(金) 23:48:59.96 .net
大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。

127: 日本@名無史さん 2012/11/16(金) 02:12:41.73 .net
義貞が尊氏に鎌倉攻めの恩賞を頼めば良かったのか

128: 日本@名無史さん 2012/11/16(金) 09:21:43.84 .net
>>127
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ

131: 日本@名無史さん 2012/11/28(水) 08:09:14.57 .net
新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…

132: 日本@名無史さん 2012/12/20(木) 01:24:29.90 .net
そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)

北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?

144: 日本@名無史さん 2013/03/16(土) 20:19:52.31 .net
>>143
代々従五位だ

133: 日本@名無史さん 2012/12/20(木) 10:50:08.77 .net
足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。

134: 日本@名無史さん 2012/12/23(日) 17:58:56.37 .net
手を組むと言っても勢力のでかさを考えたら新田が足利の傘下に入るようなものになっちまう。

139: 日本@名無史さん 2013/02/03(日) 14:22:44.48 .net
義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった


151: 日本@名無史さん 2013/09/06(金) 16:24:47.99 .net
規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう

152: 日本@名無史さん 2013/09/06(金) 16:42:29.49 .net
>>151
それはそれで良かったかもよ

なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある

153: 日本@名無史さん 2013/10/02(水) 19:06:30.57 .net
後醍醐のもとに集まったのは一発逆転を狙う連中だらけだけどね

154: 日本@名無史さん 2013/10/03(木) 00:11:09.86 .net
組んで天下穫っても共存共栄はないだろ。必ずお互い争う

155: 日本@名無史さん 2013/10/04(金) 18:57:42.36 .net
建武の新政って民主党政権みたいだな
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり

156: 日本@名無史さん 2013/10/04(金) 22:52:12.40 .net
>>155
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。

157: 日本@名無史さん 2013/10/05(土) 00:26:54.86 .net
時流を読み違えたんだよ

159: 日本@名無史さん 2013/10/06(日) 05:50:27.15 .net
新田さんが夢見ちゃったと言うけど、鎌倉攻めの勲功第一等の人が武者所長官を拝辞できないでしょ
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ

164: 日本@名無史さん 2013/10/16(水) 23:24:48.13 .net
新田が足利の下で満足していれば丸く収まった気が
政氏以来そうだったんだからさ

167: 日本@名無史さん 2013/10/17(木) 12:28:49.97 .net
もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。

武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。

168: 日本@名無史さん 2013/10/17(木) 14:53:27.71 .net
南北朝直後の尊氏も御輿に担がれてる感が否めないな。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立

173: 日本@名無史さん 2013/10/22(火) 00:17:12.06 .net
義貞が政治力ないってことだけど、戦事についてはそれなりの大将としての器はあったんでしょ?じゃなかったら北陸落ちまでに暗殺されてると思うんだが。