足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。
鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。
たぶん、喧嘩するだろう
今頃群馬が首都になってただろうなあ
もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。
そもそも有り得ないとか寒い。
組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして
ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、
やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる
佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係
足利幕府
キチガイがおるw
内乱くらいどの政権でも起こるわw
北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?
1331年、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。
以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、六波羅探題を滅ぼした。
しかし、足利尊氏とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山を拠点に尊氏を牽制する。
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、東北地方支配を目的に、北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。
しかし、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、1334年冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けて捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、尊氏の弟足利直義の監視下に置かれた。
後醍醐天皇との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。
翌年、中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、幽閉されていた護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した直義の命を受け殺害された。
都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。
てか足利と新田って元々仲悪いの?
よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?
義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。
現実主義の義直と積極決断の脇坂の二人で新政権樹立か反乱軍組織して兄に謀叛ちゃうか?
関東管領くらいにはなれたかな?
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…
足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が
鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、
鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとして
ボイコットにあった気がする。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。
治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。
新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、
弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで
南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。
え?
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。
38歳の若さで出家し、政界を引退した。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。
鎌倉幕府が倒れ建武の新政が開始されると、政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、陸奥国へ赴く。1335年、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で開いた南朝に従い、北朝に対抗する。
関東地方に南朝勢力を拡大するために、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊(三重県)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。小田治久を頼り、攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(つくば)へと移る。関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけた。
この時期に『神皇正統記 』・『職源鈔』を執筆したとされている。
1340年、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、1343年に城が陥落すると吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。主に摂関や天皇の外戚・生母などに与えられる准三宮の待遇が、一介の「大納言入道」に過ぎない親房に与えられたことは、南朝におけるその権勢を物語る。
1348年に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。観応の擾乱に際して、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪回にも成功した。1354年4月に死去(享年62)。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。
義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。
それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さ
ゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、
あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだ
という解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、
お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし
歴史の皮肉だ。
とは思う
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)
それとも多摩川渡れなかったかな?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。
しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。
それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。
叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。
千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。
それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。
指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…
北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?
代々従五位だ
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった
それはそれで良かったかもよ
なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ
政氏以来そうだったんだからさ
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。
武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立
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