no title
376: 名無しの司馬遷 2014/08/07(木)23:56:39 ID:YpHpOAzgC
ジャマールディーン・アフガーニー。
19世紀末のイスラーム世界全土を遍歴し、いたるところでムスリムの団結を呼びかけ、革命の火を点けた怪人。
この稀代の思想家の生涯、とくに前半生は謎に包まれている。

その名の通りアフガニスタン出身かと思えば、実はイランの出自であるともいう。

彼の足跡が明確になり始めるのは1860年代。
このとき彼はインドに留学し、インド大反乱の決起と敗北をつぶさに見つめ、西欧列強の力と脅威に慄いた。

これ以後、アフガーニーは世界各地をめぐり、列強からの独立を説いた。
そのために不可欠なのはイスラーム世界の団結と復興、そして列強と結んで保身に走る専制君主たちの打倒!

アフガーニーの説くイスラーム復興とは何か。
彼はそれを「ジハード」、つまり「聖戦」という言葉で表現する。
彼の語るジハードとは単に異教徒との戦争だけを指すのではない。
それ以上に大切なことは「内なるジハード」、つまり全イスラーム世界が一致団結して
知識を発展させ思想を深め、公正な社会を築くことだという。

アフガーニーの胸は熱く燃えていた。
「いかなる危機の時代にあっても、真のイスラームは断じてオワコンではないのだ!」と。
377: 名無しの司馬遷 2014/08/07(木)23:59:28 ID:YpHpOAzgC
1870年代のアフガーニはエジプトで過ごし、この地で多くの弟子を得た。
そのなかで最も知られているのはムハンマド・アブドゥフ。
農民の子として生まれながらアズハル大学で学問を究めた俊英だった。
no title
二人は影と形のごとく寄り添い、帝国主義への抵抗と専制打倒のために煽動も陰謀もテロリズムも辞さない。
彼ら二人のエジプトにおける最高傑作がウラービーの反乱に他ならない。

1880年代、エジプトを追われた師弟は英国を経てパリに赴き、ここで『固き絆』という雑誌を発行した。
これによって広大なイスラーム世界のあらゆる知識人たちに二人の存在と思想が知れ渡る。

ここで弟子と別れたアフガーニーはロシアに移り、多くの政治家たちと接触する。
この地で彼が試みたのはグレートゲームの全面戦争化。
英露対立の火種を掻き立てるだけ掻き立てて二大列強の全面戦争を引き起こし、
その混乱に乗じて東方諸民族の独立を達成しようという大胆不敵な術策だった。

だが、あいにく当時のロシアにもカネに余裕がなかったので陰謀は不発に終わる。

かくてアフガーニーはイランへ向かい、ここでタバコ・ボイコット運動を燃え上がらせた。
379: 名無しの司馬遷 2014/08/08(金)00:14:45 ID:1z5dKWKYR
ガージャール朝のナッセロディーン・シャーは当初、高名なアフガーニーの滞在を歓迎していた。
しかしアフガーニーは手元に飼うには危険すぎ、歯に衣着せなさすぎる。
タバコ・ボイコット運動でそれを思い知らされたナッセロディーンはアフガーニーを追放した。

こうしてアフガーニーは終焉の地、イスタンブルへたどり着く。
ここで彼は、この時代のもう一人の巨人たるオスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世と出会い、軟禁された。

アブデュルハミトによってガージャール朝への批判を禁じられたアフガーニーは、それでも屈しない。
軟禁される師を訪ねた弟子のひとりに、ひそかに示唆する。

「あれだ、分かるな? 察しろ」

1896年5月。
ガージャール朝ペルシアのナッセロディーン・シャーはアフガーニーの弟子によって射殺された。

かようにまことにきな臭い思想家アフガーニーは翌年癌によって、一説では毒殺によって世を去るが、彼の説いた思想は20世紀のイスラーム世界に多大な影響を残した。
380: 名無しの司馬遷 2014/08/08(金)00:23:11 ID:1z5dKWKYR
帝国主義への飽くなき抵抗。
イスラーム世界の大同団結。
近代の現実に合わせたイスラームの再解釈。

アフガーニーの愛弟子アブドゥフは、「イジュティハードの門は開放された」と宣言した。
カッコいい。

「イジュティハード」とはイスラーム法の解釈のこと。
かつてイスラーム世界の草創期、急速に拡大する世界のなかで多様な難問に直面した法学者たちは預言者ムハンマドや初期の信徒たちの言行を柔軟無碍に再解釈してイスラーム法を整備していった。
これを「イジュティハード」という。

やがてイスラーム世界の拡大が一息つくと、「イジュティハードの門は閉じられた」というのが定説となる。
もはやイスラーム法は完成した。これ以上余計な手を加える必要はないのだと。

だが、今やイスラーム世界は未曾有の危機に直面し、予想もしない事象に溢れている。
イジュティハードの門を再び開き、現実に合わせて柔軟にイスラーム法を解釈し直すべきなのだと。

後半生のアブドゥフは陰謀だのテロだのからは足を洗い、イスラーム法の再解釈と教育に専念する。
たぶん毒気が強すぎる師匠がいなくなったせいだろう。
アブドゥフ、さらにその弟子であるラシード・リダーらによってイスラーム復興運動は大きなうねりを見せる。

その一方で、アフガーニーの思想と行動のうち、力による帝国主義への抵抗という側面に強く影響される者も多くいる。
それをひたすら突き詰めれば2001年9月11日の某大事件まで行きつくわけで、やはりアフガーニーのインパクトは大きい。

今夜はここまでで。(超短い)
382: 名無しの司馬遷 2014/08/08(金)13:07:20 ID:Q2qr1LL7g

ジハードか

384: 名無しの司馬遷 2014/08/08(金)23:05:33 ID:Eog4Hakhk
>>382
ジハードですな。
ちなみにジハードは本来「努力」というような意味で、必ずしも「聖戦」とイコールではないんだけど
どうしても「宗教戦争」のイメージが強くて誤解を招きやすいので、これまで用語として使わなかった次第。

381: 名無しの司馬遷 2014/08/08(金)00:33:23 ID:1z5dKWKYR
(思想史より政治史のほうが面白いんだけどなあ、面倒な時代に入ったわ)

(小並感)

387: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)21:49:07 ID:q3czdMq1p
とりあえず、1875年にオスマン帝国が破産したあたりから再開。

このとき、帝国は危機に直面していた。
もちろんここ数十年ずっと危機に直面し続けているのだけど、それにももちろん波があって、
75年頃はとくに危機の波が高いタイミングだった。

具体的にいうと、バルカン半島でまたしても正教徒の反乱。
ボスニア・ヘルツェゴビナで減税を求める蜂起が発生し、余裕がない帝国はてっとり早く虐殺で対応。
それに対して毎度のことながら列強が武力介入するという噂が立ち、帝都で学生デモが発生。

ときの皇帝アブデュルアズィズはマッチョのミリオタで、オスマン帝国歴代皇帝としてはじめて西欧を訪れたときそこで見かけた軍艦に熱狂し、帝国の財政状況を無視して使いもしない軍艦を大量に買い漁っていた。
その一方、内政面では父のマフムト2世とは逆に保守的な政策を取り、若手の改革派官僚から嫌われていたので、改革派は学生デモを煽りたててドルマバフチェ宮殿を包囲し、アブデュルアズィズは退位に追い込んだ。

ところが新たに帝位についたムラト5世は精神に異常をきたしていた。

もともと彼はタンジマート改革による新教育制度のもとで育って若手の改革者たちと親しく、新世代の期待の星だった。
だが、それだけに先帝アブデュルアズィズの警戒を受け、長く先帝のスパイに監視されながら軟禁されていた。見えざる眼と耳への怯えがムラトの精神を蝕み、酒に走らせた。
(ムスリムが酒飲んでいいのかってことについて論じると長くなるのでry)

てわけでめでたく即位したムラトも当初から挙動不審で、入れ替わりに幽閉された先帝アブデュルアズィズが翌年に怪死(自殺臭が漂う)したことで完全に発狂し、廃位された。

帝国の国庫は枯渇。
地方は反乱、都ではわずか2年で2人の皇帝が廃位される。
そしてムラト5世廃位の前にはセルビアとモンテネグロが帝国に宣戦を布告し、列強の本格介入の気配が漂いつつある。

1876年9月。
ムラト5世の後を継ぎ、第34代皇帝アブデュルハミト2世が即位したのは、こんな状況のときだった。
389: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)22:06:45 ID:2nHZCtZeA
イラン:腐ってる
うーんw

391: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)22:20:14 ID:q3czdMq1p
>>389
イラン、腐ってること実に40年間www

いや、そのあいだにもアッバース・ミルザーの改革とかイスマーイール派の反乱とか
ヘラート紛争とかバーブ教徒の反乱とかいろいろあるんだけどね。
(と言いつつ半分は反乱である)

390: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)22:16:38 ID:q3czdMq1p
アブデュルハミト2世はオスマン帝国末期を飾る、良くも悪くも(どっちかというと悪く)大物皇帝なのだが、この時点ではその実力も思想もほとんど未知数だった。
Sultan_Abdul_Hamid_II_of_the_Ottoman_Empire
彼が即位した時点で、セルビア・モンテネグロがオスマン帝国と開戦。
相手がバルカンの小国に過ぎないのでさすがに帝国側が勝利するが、正教諸国の盟主を自認するロシアがここで圧力をかけ、休戦を強要。
情勢がややっこしくなってきたので列強が介入し、イスタンブルでバルカン問題を整理する国際会議が予定されていた。

内紛状態の帝国側としては会議で有利な立場を確保するためにも、近代化改革を再開し、
列強に対して「いい子」のフリをする必要がある。

そこで勅令発布。
改革派官僚たちの中心だった大宰相の「ミドハト・パシャ」に命じて、憲法を制定させたのだ。
これがアジアで最初の憲法として知られる「ミドハト憲法」である。

ミドハト憲法のなかで、帝国の全臣民は信じる宗教に関係なく「オスマン人」と呼ばれることになっており、選挙によって議会を開くことが規定されていた。

憲法はあらゆる国法の頂点に立ち、支配者をも拘束する。

絶対専制君主だったオスマン皇帝も遅ればせながら西欧風の「立憲君主」に宗旨替えし、時代遅れのイスラーム法に変えて西欧風の近代法体系が整備される・・・かに見えた。

しかしアブデュルハミト2世はさりげなく、こんな一節を憲法に追加させた。
「非常事態の際には戒厳令を発布し法律と文民統治を一時的に停止する。治安当局の調査によって政府の安全を破壊する者が明らかになった場合、皇帝はその者を国外に追放する権利を有する」

アブデュルハミト2世はこの条項に基づき、第一回議会招集を前にミドハト・パシャを国外追放とした。
どうやら新帝は立憲君主制などお気に召さない様子。

「ミドハト憲法」の制定を持っても列強は納得してくれなかったので国際会議は間もなく決裂し、翌1877年にはロシア帝国が宣戦布告した。

バルカン半島では上から押し付けられた「オスマン人」などという概念に何の実感も持てなかった
正教徒たちが続々蜂起し、怒涛のように南下したロシア軍は、1878年2月に帝都イスタンブルから
10キロしか離れていないサンステファノ、現アタテュルク国際空港の一帯まで到達して終戦。

この危機の中、アブデュルハミトは議会を「一時休止」し、憲法を「一時停止」した。
以後、30年間にわたってアブデュルハミト2世の専制政治が続くことになる。
392: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)22:40:57 ID:q3czdMq1p
たぶん、アブデュルハミト2世は先立つ2人の皇帝が「改革派」によって次々に廃位されたのを見て、何よりもまず「改革派」から身を守ることを優先したのだろう。

憲法停止後、アブデュルハミトは秘密警察を組織し密告を奨励して権力強化に努めた。
その成果はすぐに現れる。
没落した改革派たちが廃帝ムラト5世が幽閉されるチュアラン宮殿を襲撃し、彼の復位を企てたのだ。
この事件を機にアブデュルハミトは国外追放したミドハト・パシャらを含む改革派官僚たちを一掃し、宮殿の奥深くに引きこもって絶対支配を開始する。

とはいえ、彼は彼なりに有能な統治者だった。
彼のもとで中央集権化は著しく進み、道路・鉄道・海運・郵便・電信・各種産業も大いに発達した。
財政再建にも努力し、政府と宮廷の支出を切り詰めるだけ切り詰める。

一方で教育の振興にも尽力した。
全国民の初等教育が義務化され、各種専門学校や大学も整備。
財政破綻の中でも教育分野には惜しみなくカネが注ぎ込まれた。
カリキュラムも昔ながらのコーラン暗唱大会は取りやめにして、西欧的な実学を奨励した。

改革派官僚たちを嫌悪したアブデュルハミトだが、帝国の未来のために近代教育が欠かせないことは理解していたのだろう。

その肖像は同時代、清朝末期に国権を握った西太后を彷彿させる。
帝国末期の独裁者は権力保持を優先して改革派の官僚たちを粛清するが、実は誰よりも改革の必要性を理解し、一人孤独にその努力を続けるのだ。
393: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)23:06:52 ID:q3czdMq1p
けれどその営みは孤独で誰にも理解されず、報われることもない。
たった一人、歴史の殿軍にたって終わりなき敗走を続ける末世の皇帝。
懸命に滅びゆく国家を支えようとしても、その周囲であらゆるものは音立てて崩壊し続ける。

オスマン帝国の領土は減り続ける。
アブデュルハミト即位早々の露土戦争敗北の結果、バルカン山脈以北のブルガリアとボスニア・ヘルツェゴビナを喪失。
これによってオスマン帝国は領土の4割と550万の人口を失った。

その時すでにエジプトは事実上帝国の手を離れ、シリアも列強の影響下にある。
エジプトより先に続くアルジェリアやモロッコなど北アフリカ地域も、19世紀初期からフランスに蚕食されつつある。
三大陸に君臨したスレイマン大帝の時代は遠い夢の幻と化している。

失われた領土から大量のムスリムが帝国領に流れ込む。
難民になった彼らは帝都イスタンブルの人々に、自分たちを故郷から追い出した「異教徒ども」の暴虐を語って聞かせる。
残された領土にあってもナショナリズムという「疫病」の蔓延はやむことを知らない。

ムスリムと非ムスリムの平等をうたう理念とは裏腹に、帝国各地で異なる宗教、異なる民族間の紛争、暴力と抑圧が広がっていく。

アルメニア人たちは政府高官を標的とする爆弾テロに走り、ムスリムたちはこれに報復し、1894年には東部アナトリアとクルディスタンでアルメニア人とムスリムの大規模な衝突が発生。

マケドニアではブルガリア人、ギリシア人、セルビア人、ワラキア人、アルバニア人など、混在する諸民族が対立し、それを各民族の「本国」が支援し、裏では列強が自国の影響力拡張を図る。
バルカン半島は「世界の火薬庫」と化していく。

帝国を侵す暴力の渦の中で、二つの機運が生まれる。

ひとつは、いまあらためてオスマン帝国がイスラーム世界の盟主であるという誇りを取り戻そうというもの。

そしてもう一つは、異教諸民族の海に包囲された帝国中心部のムスリムたちもまた、ひとつの「民族」であるという主張。
久しく忘れられていた「トルコ人」という概念が蘇る。
オスマン帝国は諸民族の融合にあらず、トルコ人が三大陸を支配した栄光の国家なのだ、と。
要するに、ついに帝国中枢までもが「疫病」に感染しはじめたということになる。
394: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)23:28:47 ID:q3czdMq1p
帝都イスタンブルにイスラーム世界復興を説く思想家アフガーニーが姿を現したのもこの頃だが、
アフガーニーを幽閉し毒殺したアブデュルハミト2世もまた、イスラーム世界の大同団結を図ろうとしていた。

ただし一つだけ譲れない条件がある。
大同団結したイスラーム世界に君臨するのは、この自分である。

この頃、「オスマン帝国の皇帝は実はカリフでもあるんだぞー」という宣伝が大々的になされた。
なんでも16世紀にセリム1世がマムルーク朝エジプトを征服したとき、マムルーク朝が保護していたアッバース朝カリフの末裔をイスタンブルに連れ帰り、カリフの地位も譲られたのだという。

そんな話は当時の記録のどこにも一言も書いてないし、そもそもイスラーム法の多数意見では預言者ムハンマドの一族、クライシュ族の血を引いていないとカリフに就任する資格がないはずなので中央アジアから来た遊牧民の子孫がカリフなんぞになるのはおかしいのだが。

最盛期オスマン帝国は本当に超大国だったので、18世紀あたりからなんとなく語り伝えられていた伝説がここにきて一躍表舞台に。
オスマン皇帝は「スルタンカリフ」なのだと宣伝される。

カリフを兼任するのであれば、オスマン帝国皇帝の権威は帝国の領土を越えて、スンナ派イスラーム世界の全土に及ぶ。

ここで今更持ち出されるのが19世紀初頭のキュチュク・カイナルジ条約にさりげなく入っていた一節。

「ロシア皇帝はオスマン領内の正教徒の保護権を持つ。オスマン皇帝はクリミア半島のムスリムに対する精神的な権威を持つ」

これまで前半ばっかりやたら援用されてきたわけだが、ここにきて後半が俄然脚光を浴びる。
クリミア半島のみならず、世界中のムスリムはみんなオスマン皇帝の精神的権威のもとにあるという後付け設定。

アブデュルハミト2世はこういう方向で帝国の権威を復活させようとした。
これを「汎イスラーム主義」という。

実際、列強の侵略・圧制に苦しむインドや東南アジア、中央アジアやロシアのムスリムたちはこぞってオスマン皇帝に使者を送って(あまり期待はしていないにせよ)助けを求めてきた。


アブデュルハミト2世は「イスラームの連帯が続く限り、イギリス・フランス・ロシア・オランダは余の掌中にある。余が一言発すれば、たちまち全世界で聖戦が起こる」とまで豪語した。

その虚しさは彼自身が誰よりも分かっていただろう。
世界各地のムスリムたちは確かに今なお列強に抗して地中海の一角を支配する老大国に敬愛を示したが、それは所詮、敬愛でしかなかった。

アブデュルハミト2世はこうも言う。
「聖戦はいわば伝家の宝刀。時が来るまでこれを用いてはならぬ」

そんな時などきっと永遠に来るわけがないのだから。
395: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)23:38:38 ID:mBTcAU0Z3
いんしゃらー

396: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)23:42:00 ID:q3czdMq1p
もっとも、イスラーム世界の連帯を説く思想は色合いを微妙に変えつつ、19世紀末の世界各地で唱えられていた。

アフガーニーとその弟子アブドゥフもその一人。
アブドゥフのさらなる弟子、シリア人のラシード・リダーは1897年に『マナール』という雑誌を発行した。
このタイトルはアラビア語で「灯台」を意味する。
暗黒時代のなかで輝く灯台のように、イスラーム世界の団結と復興を宣べ伝えようという趣旨だ。

『マナール』は「イスラームの原点に立ち返ろう!」と主張した。
これを「サラフィー主義」という。「サラフ」とは「父祖」を意味する。

そんな『マナール』の思想に強く影響を受けた人物の一人に「ハサン・アルバンナー」というエジプト人がいる。
やがて彼が築き上げることになる「ムスリム同胞団」という政治団体は20世紀、さらに21世紀にまで強烈な存在感を示し続ける。

そう、パレスティナのハマスも、イラクのISISも、元はといえば同胞団の分派だし。

話が飛び過ぎたけど、当時の汎イスラーム主義の思想家としては、ほかにクリミア半島のガスプリンスキーなんかも有名。

なお、アブデュルハミト2世はオスマン帝国の権威を世界中のムスリムたちの目に見せようと思い、最新式の軍艦に世界一周を命じる。
ところが残念ながら、このエルトゥールル号という軍艦は地球を半周して
極東の新興国日本の沖合に差し掛かったところで、嵐に遭遇して難破してしまう。

熊野灘の波は荒い。
398: 名無しの司馬遷 2014/08/09(土)23:52:26 ID:JRJbFdHkR
スルタンカリフを言い出したのはそういうことなのね
今はもう否定されてるけど、一昔前までは教科書にも載るくらい認められていたんだよね

399: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)00:01:43 ID:6bwQqc9HF
>>398
まあスレは単純化して書いてるから、実際はもう少し前からスルタンカリフ制が唱えられていたようだけど、
脚光浴びたのはやっぱりアブデュルハミト2世の時代じゃないかな。

ちなみにスレではカタカナ用語をなるべく減らしたくて、オスマン帝国の支配者を基本的に
「皇帝」と書いてるけど、同時代では「パディシャー」と呼ぶことがいちばん一般的で、他には単純に「スルタン」とか、アラビア語・ペルシア語・モンゴル語をハイブリッドした「スルタン・シャー・ハン」、時にはローマ皇帝に由来する「カイサリ」という称号が使われることもあったらしいね。

404: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)00:20:57 ID:ZebivsH36
ここでエルトゥールル号が出てくるのか

405: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)01:23:26 ID:9SQieWzvu
何かイランって他の国に比べてどうにも国家統治体制が未成熟なんばっかだな

406: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)01:33:45 ID:6bwQqc9HF
>>405
うーん確かに。
と言っても、かつてアケメネス朝ペルシアやササン朝ペルシアを築き、アッバース朝全盛期や
モンゴル帝国時代に有能な文人官僚を輩出したイラン人は政治的に無能だとは思えないんだよね。
セルジューク朝以降、絶え間なく遊牧民に国内引っ掻き回されていっぱいいっぱいだったのかな。
今もイランの政治状況はゴチャゴチャしてるけど、イラン人一般の教育レベルとかは凄く高い(らしい)。

407: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:01:30 ID:6bwQqc9HF
19世紀の終わりが近づくころ、世界を支配する列強のなかにドイツ、イタリア、日本といった新勢力が台頭し始めた。
とくに1871年に成立したドイツ帝国はオーストリアとフランスという二大強国を破り、19世紀末ヨーロッパの政局を自在にコントロールしてみせた。

新興のドイツ帝国は海外植民地をほとんど持たず、帝国主義の戦場では後発だった。
イスラーム世界では、この新興勢力が旧来の列強を押さえ、新しい時代を開いてくれるのではないかという期待が広まった。
オスマン帝国からは多くの青年がドイツに留学して政治や軍事を学び、ドイツの軍人や政治家たちと人脈を築いた。

ドイツもまた野心を育んでいる。
1888年、29歳でこの新興国の帝位を継承したヴィルヘルム2世は辣腕の宰相ビスマルクを疎んじ、対外膨張論者を集めだした。
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「ドイツ、世界に冠たるドイツ!」

ヴィルヘルム2世は1898年、イスタンブルに来訪。
皇帝アブデュルハミト2世や陸相エンヴェル・パシャをはじめ、上下の人士に熱烈な歓迎を受けた。

オスマン帝国と誼を通じたヴィルヘルム2世は遠大な東方計画を実現に移す。
それは目の上の瘤、大英帝国が抑えるアジアの富を奪うべく、ベルリンからペルシアに至る鉄道を敷設することだった。

このときベルリンからイスタンブルまでの鉄道路線はすでに完成していた。いわゆるオリエント鉄道である。
ドイツはオスマン帝国の認可を受けて鉄路をさらに東へ延伸し、アナトリアの山間を越えてメソポタミアに抜け、イラクのバグダードを経てペルシア湾頭のバスラとクウェートまでを結ぶことを画策した。

これによって英国が握るスエズ運河を経由することなく、直接東洋へのアクセスが可能となる。
一朝事あらば大軍を直ちにオリエントへ展開することもできよう。

アブデュルハミト2世はこの申し出を快諾した。
もちろんアブデュルハミトにも思惑はある。鉄道が完成したら適当な口実を設けてすぐに国有化するつもりだった。

加えてドイツ諜報部は中近東一帯に「カイザー・ヴィルヘルムはイスラームに改宗した」という奇妙な噂を流す。
イスラーム世界にドイツへの好感を広めれば、いずれ大英帝国統治下のムスリムたちを一斉蜂起させられるのではないか。

ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らない。
408: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:02:52 ID:cQ3W09oGL
ボコハラムはイスラム教徒からどう思われてるの?

409: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:04:45 ID:6bwQqc9HF
>>408
イスラム教徒と言っても一枚岩じゃないから地域や個人個人でいろいろ見解はあるだろうけど、
大多数のムスリムには基地外認識されているのでは。

410: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:07:22 ID:cQ3W09oGL
「アラーが売れといった」とかギャグなら笑えるけど、
悪魔の詩の作者みたいに死刑宣告は出さないのかね。

411: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:12:46 ID:6bwQqc9HF
>>410
イスラームにキリスト教のような教会組織はないから、サルマン・ラシュディの「死刑宣告」っていうのも
イランのシーア派法学者の最高権威が「あいつは殺すべき」と「法的見解」を発表しただけで、
「世界中のムスリムに対してサルマン・ラシュディの殺害を命じた」というような性格のものではないよ。

ボコ・ハラムに対してもどこかの法学者が「滅ぼすべき」とか見解発表しているのかも知れないけど
今のところそういう報道はないね。
まあ、仮にそういう見解を出したとして、実際その通りに動く人がいるかどうかは全然別問題だし。

412: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:31:18 ID:6bwQqc9HF
さて、ヴィルヘルム2世にロックオンされてしまった大英帝国の側だが、こちらはそろそろ足腰に衰えを感じる頃合いとなっていた。
それを象徴するのは1881年に始まるマフデイー戦争と1899年のボーア戦争での大苦戦、そしてヴィクトリア女王の崩御。
長年七つの海に君臨し、ロシア帝国とユーラシアを二分するグレートゲームを展開してきた英国も、ドイツに追い上げを食らいはじめる。

マフディー戦争というのは、スーダンでエジプトの支配への抵抗として始まったもので、スーダン人指導者のムハンマド・アフマドが「マフディー」、つまり「救世主」を自称したことが名前の由来。
no title
スーダンは1819年からムハンマド・アリー朝のエジプトに支配され、重税を課されていた。
加えて伝統的な奴隷貿易を禁止されたことがスーダン人の怒りに火をつけた。
奴隷貿易なんぞ無いほうがいいと思うけど。

イスラーム復興主義を標榜する武装教団で修行を積んでいたムハンマド・アフマドは、イスラーム暦の13世紀が終わろうとする1881年、イスラーム的世紀末ムードの波に乗って突如宣言した。
「我はマフディー、終末の世に遣わされた救世主なるぞ!」と。

ムハンマド・アフマドに関する記録は敵対していたエジプトやイギリスによるものが多く、その実像はおそらく歪められている。
だから彼がどのようにして台頭したのか、確かなことはよく分からない。
いずれにせよ、彼のメッセージはスーダン人たちの心を掴み、「救世主」のもとでエジプトに対する独立戦争が始まった。
413: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:35:44 ID:9gfTjh0oO
怒濤の近代イスラーム世界…
同時代の日本がよく西欧列強の食い物にされなかったもんだ

この差はやはり地理的条件かな?

416: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:42:17 ID:6bwQqc9HF
>>413
最大の理由は、西洋列強が東ユーラシアに進出するまで時間的余裕があったことじゃないかな。
そのあいだに日本は西洋と渡り合うだけの基礎力を養い、列強を観察して学ぶことができた。

>>414
そのうち書くつもりだけど、サウジアラビアはイスラーム原理主義のワッハーブ派を国是としていて、
石打ちとか公開処刑とかもれっきとして存在しているよ。

ただしそれを猟奇的にだけ捉えたり、単なる狂信扱いしてもあまり実りはないと思う。
サウジの内情はいろいろ複雑で、ある意味日本以上に「近代化」している側面もあるし、
国民がワッハーブ主義一枚岩かっていうと、それも怪しい。

420: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)10:24:41 ID:9SQieWzvu
>>413
>>416
地理的条件だけじゃ説明できんと思うな
俺は
・日本も封建時代を経験し、リアリストである軍人(=サムライ)が支配していたため、思考回路が西洋人のそれと比較的近かった
・偶然にも「ナショナリズム」という疫病に対する耐性を持っていた、それどころか自らの結束に大いに役立てた
・朝廷と幕府、権威と権力の分離ができていたため権力体制の再構築がスムーズに出来た
これらが特に重要だと思うな
特にナショナリズムの観点でオスマン帝国と比較すると日本の恵まれぶりが半端じゃない

423: 名無しの司馬遷 2014/08/11(月)00:06:33 ID:2kxjvoO5i
>>420
うん、確かに。
日本は単一民族国家ではないけど、限りなく単一民族国家に近い状態になっていたし
武士階級の資質も優れていたし、そのへんの内在的な要因も凄く重要だろうね。
個々の要素だけなら他にも当てはまる国はあるだろうけど、
これほどいい条件が重なっていた国は日本だけかも知れない。

415: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)02:36:57 ID:6bwQqc9HF
この救世主は人々の宗教的情熱を煽る才能に長けていた。
戦略的後退を預言者ムハンマドの「聖遷」(メッカで迫害されたのでメディナに逃げた例の事件)に
なぞらえて信徒の戦意を掻き立てつつ、南の砂漠の奥深くエジプト軍を誘い込む。

スーダン人たちは装備に乏しく、棒や石を武器にしていた。
エジプト軍は、まあ無理もないと言わざるを得ないけど、それを見てスーダン人を完全に舐めてかかり、見張りも立てずに野営したところ、マフディー軍の総攻撃を受けて壊滅した。

こうしてマフディー軍は大量の武器弾薬から軍服までをゲット。
一夜にして軍の近代化が達成されたのだった。
418: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)03:04:51 ID:6bwQqc9HF
1883年、エジプトは本腰を入れてマフディー討伐を図り、再度スーダンに遠征軍を送り込む。
この軍はヨーロッパ人士官が指揮する精強部隊、のはずだったが何しろ国庫にカネがないので兵士の給料すら払われない。

マフディー軍は総勢4万に達する。彼らは救世主の下で聖戦の情熱に燃え、過酷な訓練を繰り返し、死を恐れない。
そして敵将ムハンマド・アフマドは戦術の天才だった。

意気上がらぬエジプト軍は、エル・オベイドの戦いで大敗した。

この頃、財政破綻しているエジプト政府は英国の完全統制化にある。
英国の経理官は属国エジプトにムダ金は一文の支出も認めない。
「スーダンの狂信土人ども」との戦争継続などもってのほかである。
どうせスーダン自体がろくに収益も上がらない砂漠と沼地で、ワニとラクダと遊牧民しか住んでない。
いい機会だからあんな土地捨ててしまえ、ということになった。

とはいえスーダンには未だエジプトの駐屯軍が残り、責任ある宗主国としては彼らの撤退をサポートせねばならない。
そこで大英帝国は、伝説の男を投入。「チャールズ・ゴードン」である。
no title
今ではほとんど忘れ去られた人物だが、当時七つの海に君臨する大英帝国では知らぬ者の無い名将だった。
彼の軍歴は東洋で積まれた。アロー戦争、太平天国の乱で活躍し、清朝皇帝から勲章を授与されたこともある。
ゴードンは英国の誇りでありヒーローであったのだが、ひとつだけ弱点があった。
プライドが高すぎたのだ。

スーダンのハルツームに入ったゴードンはマフディー軍5万に包囲される。(いつの間にか1万増えてる)

彼はスーダン各地に散らばる駐留軍たちが全て撤退するまでハルツームを去ることを拒絶。
名誉の命じるところに従って自ら囮を買ってでたのか、単純にニゲルノカッコワルイと思ったのかは不明である。

で、手遅れに。

救援が派遣されるもギリギリで間に合わず、ゴードンと将兵たちはことごとくマフディー軍に虐殺されてしまった。

ヴィクトリア女王以下、大英帝国の全国民は計り知れない衝撃を受け、グラッドストーン内閣は国中から罵倒を食らって退陣。
そして英国はスーダンから完全に手を引いたのだった。
419: 名無しの司馬遷 2014/08/10(日)03:24:10 ID:6bwQqc9HF
それから十数年の歳月が流れた。
この間にムハンマド・アフマドが世を去り、人々は動揺した。救世主が救世する前に死んでしまうとは!

エチオピア、イタリア、ベルギーとの戦争もあり、スーダンは疲弊。
マフディー国家は何しろ周囲の全勢力に敵視されているのだ。

大英帝国はエジプトの軍と財政を再建し、機が熟したことを悟るとスーダン再征服に乗り出した。
英国軍は前回の轍は踏まない。
砂漠深く引きずり込まれることもなく、ナイル川に沿って鉄道を敷設しながら慎重に慎重に南下する。

スーダン側の兵の数は圧倒的に多いが、万全の装備を整えてきた大英帝国の敵ではない。
すでに救世主はおらず、彼が掻き立てた情熱も衰えつつあった。
1898年、ハルツーム近郊のマフディー国家の中枢、オムドゥルマンの戦いでマフディー軍は惨敗した。

なお、残党が南部スーダンに逃走したので英国軍はこれを追跡するが、翌年ナイル河畔のとある村で予想もしなかったものを見出す。
村の小屋の上に高々と翻るフランス国旗。

「なんでこんなところにおまえ等がいんのや!」
「あんたらこそ、なんでこんなところに出てくるんや!」

あわや全面戦争になりかけるところだったが、落ち着いて状況を確認すると事態が判明した。
かねて西アフリカから大陸横断政策を進めていたフランスが、ちょうどこの時ナイル川まで達しており、そこにたまたまマフディー残党を追跡する英国軍も登場したというわけだった。

世にいう「ファショダ事件」である。

かくのごとく列強の世界制覇は完成しつつあったが、かくのごとく大英帝国ももはや全盛の勢いはなかったのだ。

今夜はここまで。
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