462: 名無しの司馬遷 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、
セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。
前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。
それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。
「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」

「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。
しかし、根本的な理由はシンプルだ。

ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。
しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。

各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。
ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた
各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。

サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。
するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。
オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。
ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。
攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。
かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。

結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。

「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国
「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国
463: 名無しの司馬遷 2014/08/13(水)23:55:06 ID:AKHwF3e5a
40年以上にわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパ。
しかし外の世界ではその40年の間にアメリカ南北戦争や日露戦争があり、戦争というものの姿は大きく変貌していた。
多くのヨーロッパ人が想像をしたこともないほど苛烈に、大規模に、破滅的に。

浪漫の騎士たちは笑って故郷を出征していった。
「爺さんたちの時代には、3週間で普墺戦争は終わったんだってさ」
「僕たちも木の葉が落ちる頃までには帰ってくるよ」
「クリスマスにはまた会おう」

誰が知ろう。
この戦争にはロマンも武勲もない。
いかなる国も敵国の塹壕を突破する力を持たず、戦線はすべて膠着。
泥の戦場の中で死者だけが量産され、すべての兵士は単なる数字に還元される。
死者の数字は1000万にも及ぶ。
この戦争はいわば、ひとつの時代の終わり、ひとつの世界の終わりを告げることになるだろう。
464: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)00:28:21 ID:9rgXeq7IU
オスマントルコ帝国は1914年11月11日に連合諸国に宣戦布告し、世界大戦に参戦した。
このとき、帝国の実質的な領土はアナトリア半島からシリアとメソポタミアに及ぶ範囲であり、
当面の主敵はエジプトを抑える大英帝国と、黒海北岸のロシア帝国となる。

当時、オスマントルコ帝国はタラート・パシャ、ジェマル・パシャ、エンヴェル・パシャによる三頭政治の下にある。
うち、軍事面での主導権を握るのは陸軍大臣兼参謀総長のエンヴェル。
ところがこのエンヴェル・パシャは完全なるロマンチストだった。

ギリシア独立の火を点けたアレクサンドル・イプシランディ以来、オスマントルコは
ロマンチストたちに散々苦しめられてきた。
エンヴェル・パシャは当の帝国の内に現れた、最後にして最大級のロマンチストであり、
この帝国を破滅へ導くことになるだろう。

「オスマン帝国」と呼ぶよりは、むしろ「オスマントルコ帝国」と呼ぶ方が実態に相応しい。
帝国は次々に領土を奪われ続け、ついにはほとんどトルコ人だけからなる民族国家に変貌しつつある。
それゆえにこそ、エンヴェルはむしろ夢見た。

「トルコ人よ思い出せ、諸君の誇りと父祖とを思い出せ。諸君の故郷はアナトリアにあらず、はるか東方の広大なる草原こそ・・・」

トルコ人、正確にはテュルク人は中世の昔、中央ユーラシアの広大な草原から来た遊牧民の末裔であり、その中央ユーラシアには異教徒ロシア人の圧制のもと、今も多くの同胞たちが生きている。
帝国を蘇らせるためには、父祖たちの来た道を遡行しよう。
ユーラシア大陸を東へ、ロシア国境を破り、カフカス山脈を越えて中央ユーラシアに遠征し、その地のテュルク系民族を大統合して、今度はテュルク系民族だけからなる大帝国を再建しよう。

これがエンヴェル・パシャの唱えた「汎テュルク主義」。

うん、明らかに無茶だろ。
あんたはアレクサンドロス大王でもティムールでもないんだから。
465: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)00:28:30 ID:9rgXeq7IU
開戦早々の1914年冬。
エンヴェルは東部アナトリアの前線に向かい、カフカスを越えてきたロシア軍と対峙する。
真冬の雪のなか、エンヴェルは越冬準備に入ったトルコ軍に強引な前進を命令する。
目指すはロシアの前線拠点サルカミシュ。

軽装のトルコ軍9万はロマンに生きる指揮官によって厳冬の山中行軍を強制され、後続もないまま疲弊して孤立。
ロシア軍の反撃を受けて潰走し、帰還できたのはわずか1万2千人だったという。

ロシア軍が帝国領内深く進出すると、東部アナトリアに残るアルメニア人たちが独立好機と見て不穏な動きを見せる。
これを察知したエンヴェルは命じた。
「アルメニア人たちを全てシリアに移動させよ」

1915年5月からアルメニア人たちの強制移住が開始され、過酷な移動やトルコ兵の暴行、途上のクルド人の襲撃などによって数十万人のアルメニア人が命を落としたとされる。
この事件は20世紀最大のジェノサイドのひとつとして、今もトルコとアルメニアの間で深刻な歴史問題となっている。
467: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)01:12:45 ID:pUuOCKYAr
ほうほう

468: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)01:22:00 ID:9rgXeq7IU
世界大戦が始まったことで、いくつもの伏線が動き出している。
ドイツのヴィルヘルム2世が打っていた東方への様々な布石もその一つである。

ドイツ政府は、オスマン帝国が開戦早々に発した「聖戦の法勅」と、かねて中東にばら撒いてきた
「ドイツ皇帝は実は隠れムスリム」だの「ドイツ皇帝がメッカに巡礼した」だのという類のネタ的な流言を利用してイラン・中央アジア・インドに至る地域のムスリムたちを大英帝国に対する「聖戦」を煽動しようとした。
「ツィンマーマン計画」という作戦である。

末期オスマン帝国が広めようとしていた「汎イスラーム主義」という伏線もある。
「スルタンカリフ」を称するオスマントルコ皇帝が発した聖戦命令とあれば、イスラーム世界ではかなりの重みを持つはず。イスラーム世界が決起すれば大英帝国の世界支配など根底から崩れ去る。

ドイツ外相ツィンマーマンは密使団を中東に送り込んだ。
代表として選ばれたのはペルシア南部で領事を務めたことがあるヴァッスムスとニーダーマイヤー大尉。
ところがこの密使たちは出発早々仲間割れをする。

ニーダーマイヤーと対立したヴァッスムスは、一人かつて赴任したイラン南部へ潜行。
この地の遊牧民の族長たちを煽動してペルシア湾一帯に展開する英国軍へのゲリラを仕掛けるが、族長たちも馬鹿ではない。
ヴァッスムスが約束したドイツの正規軍はいつまで待っても来ないし、カネも尽きてくる。
結局ヴァッスムスは終戦間際にペルシア政府に逮捕された。

ニーダーマイヤー大尉たちは英国とガージャール朝の監視を晦ますために灼熱の砂漠を強行突破し、なんとかアフガニスタンにたどり着いて、アフガニスタン国王に反英決起を要請した。
しかし大英帝国の打つ手の方が早い。
英国はアフガニスタンを繋ぎとめるために国王への年金倍増を約束していた。
失敗を悟った密使団は為すことなくカブールを去るしかなかった。

密使団は二手に分かれ、ニーダーマイヤー大尉自身はイランで反英決起の煽動を試みる。
が、煽動のせの字も出ないうちに、全く関係のないそこらの盗賊に身ぐるみはがれて砂漠に放り出される。
その後、命からがらドイツへ帰国するまでのニーダーマイヤーの動きは個人的なサバイバル以上のものではない。

別隊はさらに東へ向かい、中国領新疆に潜入。
この地の回族たちを煽動して列強商人の居留地を襲撃させようとしたが、あっさり英国領事に察知されてこれも逮捕。

結局、ドイツの壮大なイスラーム世界決起計画は完全に不発に終わったのだった。
469: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)01:39:04 ID:9rgXeq7IU
ドイツがオスマントルコと組んでイスラーム世界を反英決起させようとしたのに対して、
英国側も似たようなことを試みようとしていた。
ただし目の付け所が少しだけ違う。

確かに、かつてオスマン帝国はイスラーム世界の盟主だったかもしれない。
だが、今のオスマン「トルコ」帝国は、実質的にトルコ人の民族国家と化している。
帝国はなおもシリアとメソポタミアのアラブ人たちを支配し、アラビア半島にもある程度の影響を保持しているが、民族国家と化したオスマントルコでは、アラブ人への扱いは粗略なものになっており、アラブの族長たちはイスタンブル政府への不満を強めつつある。

ならば、これを利用しようではないか。

アラブとトルコを分断し、シリアとメソポタミアをトルコ帝国に対する反抗に立ち上がらせよう。
名付けて「アラブの反乱」。

1915年、エジプトのカイロにアラブ反乱計画の指令本部、「アラブ局」が設置された。
海千山千の中東専門家たちがアラブ局に召集される。

最もよく知られているのは考古学者出身のトーマス・エドワード・ロレンス。
オリエント学者のデヴィッド・ホガース。
外交官マーク・サイクス。
没落した名家の出で、英領インドで官歴を積んだジョン・フィルビー。
そして紅一点は富豪の娘として生まれながら独身を通し、幾度も砂漠を旅した女性探検家のガートルード・ベル。

彼らが大英帝国の中東政策と、その後の歴史を規定していくことになる。

今夜はここまで。
471: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)12:21:05 ID:Rf1W3tCN0
英はやっぱり老獪なんだなあ

472: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)13:08:16 ID:CGmk2nahC
今某やる夫第一次大戦が動画になっていたので見ていたが、
それと時代が重なってきて、互いにいい補完になってて面白い

473: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)13:14:25 ID:AgX46KVM7
またウィキペディアのコピペか

478: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)16:44:13 ID:w10BOv9C5
お腹が空いたので休憩。


>>471
なんといっても世界でいちばん植民地支配のノウハウ持ってるからね。

>>472
ちょっと見てみた。これは面白いわ。

>>473
ウィキペディアでは情報が足りませぬ。
足りないのでエンヴェル・パシャの記事とか、数年前に自分で書いたし。

475: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)15:52:37 ID:w10BOv9C5
大英帝国の打つ手は一つだけではない。

開戦早々、1914年11月に英領インド帝国軍がペルシア湾頭のバスラに上陸。
そこからティグリス・ユーフラテス川に沿ってメソポタミアを北進しようとしていた。
ドイツのヴァッスムスが散々妨害しようとしていた戦線である。

英領インドを管轄するインド省は、カイロのアラブ局が立案したアラブ反乱計画に猛反対した。
というのも、インドではヒンドゥー教徒・ムスリムを問わず英国支配への不満が鬱積しており、
中東でアラブ族の自立を下手に焚き付ければ、自立の波はインドに波及し、当の英国に対する
独立運動に発展するおそれがあったのだ。

肥沃三日月地帯を東から攻め上ろうとするインド省と、西から食い千切ろうとするアラブ局。
両者の対立は、戦況の変化によって落としどころを見出した。

メソポタミアに駐留していたオスマン軍はサルカミシュだのガリポリだのにどんどん兵力を引き抜かれていたが、英軍の北進を頑強に拒み続けていた。
1915年秋、英軍はバグダードの南30キロに位置するササン朝ペルシアの古都クテシフォンに達するが、ここでトルコ軍の猛反撃を受けて敗走、クートでトルコ軍に包囲されてしまう。

南イラクには葦の茂る広大な沼地が広がり、バスラから派遣された救援の英軍は湿地に足を取られて幾度も撃退される。
アラブ局から派遣された英国屈指のアラブ通、ガートルード・ベルは冷ややかに言い捨てた。

「インド省はアラブの族長や貴人たちを蔑ろにし、彼らのことを理解も尊重もしようとしません。
 メソポタミアの地理に精通する土着の民は英国にそっぽを向いています。これでは勝てるわけがありません」

クート包囲戦は4か月に及び、とうとう英国軍は全面降伏。
インド省は嫌々ながらアラブ反乱計画の発動を容認した。
476: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)16:08:49 ID:w10BOv9C5
アラブ族を一斉に蜂起させるためには、利害を異にする諸部族が異論なく受け入れられる指導者が必要。
大英帝国アラブ局が白羽の矢を立てたのは、メッカの太守フサインだった。

アラビア半島西岸、ヒジャーズ地方。
ここは何世紀ものあいだ、預言者ムハンマドの血を引くハーシム家の統治下にある。
イスラーム世界きっての名門にして、聖地の守護者。
アラブ所属を決起させるのに、これ以上の神輿はないだろう。

エジプト高等弁務官マクマホンがフサインに書簡を送り、対トルコ反乱の見返りとして、
肥沃三日月地帯全域にわたるアラブ国家の建設を約束した。
いわゆる「フサイン・マクマホン協定」である。

ただし、ハーシム家の決起にあたってはひとつ解決しておくべき課題があった。
空になったヒジャーズ地方を横から奪いかねない梟雄がアラビア砂漠の奥深くに潜んでいる。
まずはこの男を英国は懐柔する。

1915年11月26日、主任政務官パーシー・コックスは彼をバスラに呼び出した。
砂漠の蜃気楼の彼方から、白の長衣をまとい、ターバンを巻きつけたアラブの族長がやって来る。
その名は「アブドゥル・アズィーズ・イブン・サウード」。
サウジアラビア王国の建国者である。
477: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)16:37:02 ID:w10BOv9C5
18世紀後半。
ベドウィン族の大族長サウード家は、イスラーム復興を説く宗教改革者アブドゥル・ワッハーブと結び、アラビア半島を席巻した。

この「第一次サウード王国」は19世紀初頭にオスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリーに滅ぼされるが、生き残った王家とワッハーブ家の一族が1824年に半島中部のリヤドを奪い、「第二次サウード王国」を復興。

しかし第二次サウード王国は王位をめぐる内紛に明け暮れ、19世紀末には半島北部のラシード家によって事実上滅亡に追い込まれた。

ラシード家はサウード王国の首都リヤドを奪い、オスマン帝国に従属して砂漠の覇者となる。
サウード王家の生き残りは放浪の末、1893年にペルシア湾に面するクウェートの太守サバーハ家のもとに身を寄せる。
その地でアブドゥル・アズィース・イブン・サウードは成人した。ラシード家への復讐を胸に誓いつつ。

1901年、イブン・サウードはクウェート太守から40頭のラクダを譲り受け、一握りの部下とともにリヤドを急襲した。
人跡未踏のルブアルハーリー砂漠の彼方から突如現れた襲撃者たち。
守備兵は狼狽して為すところを知らず、リヤドはたちまち陥落。

イブン・サウードは一族をリヤドに呼び寄せ、ワッハーブ家との盟約を再確認し、厳格なワッハーブ主義を「国教」とする
「第三次サウード王国」の復興を宣言した。これがつまり「サウジアラビア王国」となる。

イブン・サウードは「砂漠の豹」と呼ばれる猛将である。
身長2メートルを超す偉丈夫で、文字は全く解さないが、実に怜悧な頭脳と優れた決断力、そして鉄の意志を備えている。

厳格な信仰と信徒の平等を説くワッハーブ主義を利用して、ベドウィンの戦士たちを部族から切り離し、「イフワーン」と呼ばれる精強な軍隊を整備。
これを尖兵としてアラビア半島の征服を進め、ラシード家を破って半島北部を制圧し、東岸に駐留するトルコの守備兵を追い払う。
あわせて征服した各地のオアシスに兵士たちを入植させ、農業を振興した。

自給自足が可能な屯田兵たちによって国力を増強し、戦時には聖戦の情熱を掻き立てて苛烈に敵国に侵攻する。

英国は武器と資金の供与を見返りとしてイブン・サウードを懐柔し、サウード家に対して
ヒジャーズに攻め入ることなく、ラシード家との対決に集中するよう働きかけた。

こうしてアラブ反乱のお膳立ては整った。
1916年6月10日、メッカの太守フサインはオスマントルコ帝国からの独立と、
「ヒジャーズ王国」の建国を宣言し、アラビア半島西岸の北上を開始した。
479: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)16:50:34 ID:w10BOv9C5
(イブン・サウードがバスラに来たのが、本によって15年だったり16年だったりして困惑)

480: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)17:23:38 ID:Sd2E8NwCP
少し上に書かれていた「残酷な刑」も宗教的な背景があるんだね。

483: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)18:32:44 ID:w10BOv9C5
>>480
サウジアラビア王国はワッハーブ主義を国是として成立した国で、サウード王家の正統性自体が
ワッハーブ派の守護者という立場に基づくので、どうしてもワッハーブ主義を否定することはできない。
といって嬉々として斬首や投石なんかをやっているわけではなくて、
サウジ政府は近代化とイスラーム主義のバランスにすごく苦慮している。

そのへんもそのうち書きますねー。

481: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)18:05:34 ID:w10BOv9C5
大英帝国アラブ局はハーシム家に協力するため(当然お目付け役も兼ねている)、一人の将校を送り込んだ。
その名はトーマス・エドワード・ロレンス。
映画「アラビアのロレンス」で全世界的に知名度ありまくりである。

アラブ局は、将校用のビリヤードに悪戯を仕掛けたり、マッチの火を指で消したりするこの変人を持て余していたようだ。
砂漠に送り込まれたロレンスは、太守フサインの三男ファイサルと友誼を結び、
アラブの戦士たちに交じって水を得た魚のように活躍しはじめる。

ハーシム家の率いるアラブ軍は神出鬼没のゲリラを展開し、トルコ軍を翻弄した。
鉄道を爆破し、橋を落とし、1917年7月に紅海最奥の軍港アカバを陥落させる。
トルコ軍はゲリラに対抗するためヒジャーズ地方に張り付けられ、エジプトに駐留する英国軍の攻勢を防ぎきれない。

1917年、エジプトの英国正規軍が侵攻開始。
シナイ半島を占領し、ガザに侵攻し、12月にはエルサレムを占領。
トルコ軍はシリアへ後退する。英軍はこれを追って北上し、アラブ軍が側面からそれを支援した。

1918年9月、メギドの戦い。
ここは紀元前15世紀にエジプト王トトメス3世がカナン諸侯を破り、
19世紀にムハンマド・アリー朝がオスマン帝国を破った古戦場。

トルコ軍はガリポリの英雄ムスタファ・ケマルのもと14万の軍を配して英軍に備えるが、
物資不足による士気の低下が留めがたく、歴史の前例をなぞるがごとくトルコ軍は潰走する。

かくて10月1日、英国軍はダマスカスに入城。24日にはアレッポを占領し、アナトリアに迫っていったのだった。

メソポタミア戦線でも英軍の攻勢が再開された。
クート陥落後、英国は失地回復のため南イラクに15万の兵士を集結させ、総指揮官には
マフディー戦争、ボーア戦争、ガリポリ上陸戦、西部戦線で活躍した猛将スタンリー・モード将軍を充てる。

1916年冬にモードは北進を開始し、たちまちクートを抜き、翌17年3月にはクテシフォンに到達。
トルコ軍は撤退し、3月11日に英国軍は一滴の血も流すことなくバグダードを占領した。

「千夜一夜の都、ついに陥落」

勝報が英国を沸かせる。

年が明けて1918年、英軍は北イラクに侵攻を再開し、11月にはモスルを陥落させる。

数世紀にわたるオスマントルコ帝国のシリア・メソポタミア支配は、こうして崩壊したのである。
482: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)18:27:49 ID:w10BOv9C5
バルカン半島では1915年にブルガリアが中央同盟諸国側に参戦し、10月にドイツ軍がセルビアを破る。
英仏はセルビア支援のためにテッサロニキ(サロニカ)に上陸し、ギリシアも連合国側に参戦。

1918年、連合諸国の攻撃に耐えかねたブルガリアで反乱が起こり、9月29日に停戦協定を結んで脱落。
ブルガリア軍が消えたあと、牙を剥く連合軍の前にトルコ帝国の首都イスタンブルは無防備の状態となった。
シリア・メソポタミアで英国の猛攻を受ける帝国には、本国の守備に回す余剰兵力など残っていない。
これ以上の抗戦は不可能である。

10月8日、大宰相タラート・パシャが辞任し、三頭政治体制は崩壊。

1918年10月30日、オスマントルコ帝国はムドロス休戦協定により、連合軍に全面降伏した。
これにより、第一次世界大戦の中東戦線における戦いはほぼ終了した。

11月に入ると連合諸国軍がイスタンブルに入城。帝国は敗北したのである。

「もはや祖国のために有益な仕事をイスタンブルで果たす可能性が無くなった」
敗戦の責を取るべき軍部の最高指導者エンヴェル・パシャは、1枚の書置きを残して何処へともなく姿を消した。

今日はここまで。
484: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)18:42:36 ID:Sd2E8NwCP
「エンヴェル・パシャの最後の冒険」か

486: 名無しの司馬遷 2014/08/14(木)18:43:37 ID:w10BOv9C5
そうだね、次は「納得しなかった男」の最後の冒険と、英国の三枚舌外交か。
ムスタファ・ケマル1919~1938年