690: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:41:17 ID:jJBkNqp3v
イランとイラクの動向に話を戻してみる。

ホメイニ率いるイラン・イスラーム共和国は、当初は東西冷戦のどちらの陣営にも与せず、
イラン国内で「法学者の統治」を貫徹していくことだけを目指していたらしい。
ホメイニによれば「アメリカ逝ってよし、ソ連も逝ってよし」とのこと。

しかし、アメリカ大使館占拠事件やイラン・イラク戦争など、激動する政治状況のなかで
イランはむしろ、積極的にイスラーム革命の理念を「輸出」していくことにした。

ホメイニによれば、そもそもナショナリズムなんていうのは西欧の異教徒どもが
イスラーム世界を分断するために捏ね上げたもので、ムスリムは国境なんぞにとらわれず、
全イスラーム世界でイスラーム法が施行される理想の社会を実現すべきだというのである。

要するに「万国のムスリムよ、団結せよ!」ということか。

イラン政府は「革命委員会」なるものを組織して各国のイスラーム復興運動を煽り立てたり、
諸外国の大使館を拠点にイスラーム革命の宣伝を行ったりした。

その結果として、イラン革命から1年も経たないうちにサウジアラビアでアル・ハラム・モスク占拠事件が起こり、カディーフの町ではシーア派の大暴動が発生した。

イラクでは第二次世界大戦以来、スンナ派に抑圧されてきたシーア派信徒がナジャフの最高位法学者バーキル・サドルのもとで「ダアワ党」として纏まりはじめていたが、ダアワ党とイランの結びつきを恐れたイラク大統領サダム・フセインは、バーキル・サドルを処刑し、ダアワ党を弾圧した。
聖地ナジャフの最高位法学者が処刑されたことはイスラーム世界に激甚な衝撃を与えた。
ダアワ党の残党はテヘランに逃れ、イラン政府に協力してイラク軍と戦うことになる。

1981年にはペルシア湾岸の小国バーレーンでシーア派組織による政府転覆計画が発覚。
1983年にはクウェートでダアワ党の煽動による爆破テロが頻発。
さらに、レバノンでイスラエルの侵入に対抗して生まれたシーア派民兵組織、ヒズブラもイランの影響下に入る。

そんな風にイランはスンナ派諸国に揺さぶりをかけるとともに、イスラーム革命を連鎖発生させようと頑張ったのだが、
当然ながら周辺のスンナ派諸国、そして欧米諸国もイランを重大な脅威と見なして袋叩きにした。
691: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:42:59 ID:jJBkNqp3v
イラクのサダム・フセインが開始したイラン・イラク戦争は何年も続いた。

フセインは最初、イラン西部のアラブ系民族が味方に付くと思っていたらしい。
ところがどっこい、彼らは民族よりも国家を選び、イラク軍に激しく抵抗。
さらにイランの一般民衆が続々と義勇兵として参戦し、目算が狂う。

両国は地上で空で激しく戦い、互いにミサイルを撃ち込みあった。
イランがイラク北部のクルド人を煽って蜂起させると、フセインは容赦なく爆弾を投げ落とし、
主敵のイラン軍にも化学兵器を乱射した。

イランを押さえる番犬としてフセインを支援してきた欧米諸国もさすがに引いた。

「おまえら、そろそろいい加減にせいや」

1988年。
とうとう米軍がペルシア湾に乗り込み、イランを直接攻撃。
ここにいたって、フセインとホメイニは停戦を受諾した。

「苦い。実に苦い。真っ黒な泥を呑むよりも苦い・・・」

ぶつぶつ愚痴を零しながら停戦を受け入れたホメイニは、翌1989年6月にこの世を去る。86歳だった。

ホメイニは国葬となったが、その最中にうっかり棺が転落し、遺体が道路に落っこちた。
それを見た群衆は卒倒するものもあり、ここぞとばかりに駆け寄って衣服や遺体をもぎ取って聖遺物にしようとする者あり、まことにグロテスクな大騒動になったという。
692: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:53:16 ID:jJBkNqp3v
ホメイニという絶大なカリスマを失ったイランでは、次の「最高指導者」が誰になるのかという問題が起こった。

この時期、シーア派法学の最高権威者たちは、なんと全員ホメイニの唱えた「法学者の統治」理論に反対していた。

「わしらは政治に首突っ込む気ないから。今だから言えるけど、ホメイニの学説は何かおかしいよ」

イラン政府は困惑した。いまさら投げられても困るだろ。誰か都合のいい法学者はいないのか。
で、結局ホメイニの弟子兼側近だった「アリー・ハメネイ」が担ぎ出された。
ハメネイは実のところ法学者としては準一流程度のレベルでしかなかったのだが、他に人がいないんだから仕方ない。
693: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:58:16 ID:UrC4hIwy0
やっぱマトモな法学者は政治に介入まではしたくないんだな
ホメイニが急進派すぎたのか

694: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)23:08:27 ID:jJBkNqp3v
第2代最高指導者となったハメネイだが、亡きホメイニに比べればカリスマ性の不足は隠しようもない。

一方、王制打倒時にイスラーム主義を熱狂的に支持したイランの国民も、長い戦争が終わって冷静になったところで
「よく考えてみると、ここまでガチガチに宗教一筋の世の中っていうのも不便なような」などと言い出したり。

以後、最高指導者ハメネイを中心にイスラーム主義の堅持を目指す「保守派」と、
世俗化路線への修正、対外開放を目指す「改革派」が綱引きをしはじめる。

最高指導者ハメネイの下で大統領位についたラフサンジャニー、ハタミはいずれも改革を目指した。
とくに1997年に大統領となったハタミは「文明間の対話」という理念を掲げ、ローマ法王をはじめ他宗教の指導者たちと積極的に交流し、スンナ派イスラーム諸国や西洋諸国との国交正常化に尽力し、法の支配や表現の自由などといった目標を掲げて改革派の学生や知識人、女性たちに絶大な支持を受けた。

となれば当然、議会やハメネイ周辺の保守派はハタミを目の敵にする。

「ハタミはイスラーム的な価値観を蔑ろにし、道徳を退廃させ、国体を脅かしておる!」

彼らはイスラーム主義の牙城である「革命防衛隊」や、司法・治安関係の機関を使って改革派の新聞や雑誌を片っ端から発禁にし、左派の知識人たちを次々に投獄し、気に入らない法案はイスラーム法との抵触を理由に尽く却下した。

ハタミは何をやっても保守派に足を引っ張られまくった挙句、2002年に思わぬところから止めをさされた。
アメリカのブッシュ大統領が、イランを「悪の枢軸」と名指しで非難したのだ。

「やっぱりアメリカは敵だ。妥協の余地はない」

保守派はここぞとばかりに騒ぎ立て、ハタミに期待を寄せてきた若者たちも幻滅した。
失意のうちにハタミは退任し、代わって「革命防衛隊」出身のアフマディネジャドが大統領となる。
695: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)23:24:32 ID:jJBkNqp3v
イランについてはここまでとして、次にイラクの動向について。

1989年にイラン・イラク戦争が終わったところで、イラクのサダム・フセインは、はたと困った。
イラクはまことに難治の国である。
フセインは権力掌握とほぼ同時に対イラン戦争を開始することでイラクを一つに纏めてきたのだが、戦争の勝利という共通目標が消えればイラク国家はたちまち分裂しかねない。
おまけに戦費がかさんでイラクは大借金を抱え込んだ。
油田とか港とか、カネになるものをどうにかして増やせないかなあ。

そこで彼は、南隣のちっぽけな国家に目をつけた。

「うほっ、いい国」

1990年8月2日午前2時。
イラク軍10万がクウェートに侵攻し、わずか6時間でクウェート全土を占領した。「湾岸戦争」の始まりである。
696: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)00:02:55 ID:dxlXrg04W
アラビア半島とイランのあいだに、ペルシア湾が斜めに入り込んでいる。
ペルシア湾の南西側、アラビア半島東岸には17世紀頃からいくつもの首長国が連なっていた。
このあたりの海域はメソポタミアとインドを結ぶ要衝である。
それゆえ、イギリス東インド会社が「海賊討伐」を名分として、早くからこの一帯に進出した。

イギリスは「海賊」と認定した首長国に次々に砲火を浴びせたうえで、「もう海賊はするなよ」と言い渡して休戦条約を締結した。
なお、これら首長国が実際に海賊行為をやっていたのかどうかは不明である。察するべし。

首長国の側としても、オスマン帝国だのアフシャール朝だのに頭は下げたくなかったので、
これはこれでメリットはあった。
イギリスもインドも遠いし、この異教徒たちは、多少の税金を払えばうるさいことを言ってこない。

時は流れ、内陸から新たな民族移動の波があり、いくつかの首長国が入れ替わり、20世紀へ。
第二次世界大戦後、ペルシア湾岸では続々と油田が発見された。
まもなく、世界帝国を維持する気力を失ったイギリスはこの地域からも撤退していき、あとには油田とアラブ人が残された。

湾岸の首長たちはなんだかんだかくかくしかじかな経緯を経て、油田の権益を手中にした。
でもって、彼らはこの地域に4つの国家を作り出した。
「アラブ首長国連邦」、「カタール」、「バーレーン」、「クウェート」である。

これらの国々では、何もしなくても石油会社が莫大なカネを政府に払ってくれる。
ゆえに国民に納税の義務はない。
政府はただそこにいるだけ、国民もまたそこにいるだけ。

この国々は政治学上の用語として、「レンティア国家」、つまり「地代で生活する国」と呼ばれている。

そのうち最も北に位置するのがクウェートである。
砂漠の女王ガートルード・ベルの計らいにより、イラクの海への出口に蓋をするかのような立地で、汲めども尽きぬ油田を抱えて栄えている。

フセインはここを狙ったのだ。

今夜はここまで。
697: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)02:59:08 ID:Ll9rao0qz
乙!
聞き覚えのある名前が続々登場してきてますます面白い

698: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)21:39:19 ID:s7Du8LXJf
クウェート陥落の報に世界中が驚愕した。

ときは東西冷戦終結直後。
半世紀にわたる二大強国の対峙が終わり、全人類の恒久平和も遠い先のことではないかと夢見ることすらできた時期。
そんな幻想をいきなり吹っ飛ばしたサダム・フセインの快挙、じゃなくて暴挙である。

直ちに国連安保理がイラク非難決議を採択し、イラク軍の即時撤退と国連全加盟国による対イラク制裁を要求した。
欧米諸国ばかりかアラブ諸国までもがイラクを非難した。フセインにとっては全く予想外だった。

「何故だ! 我が国はイランからアラブ諸国を守った功労者ではないか!」

とりあえずそこらにいた外国人たちをかき集めて人質にしてみたが、これは諸外国の怒りを更に煽るだけだった。
数年前には考えられなかったことだが、この十年というものイラクに大量の兵器を供与してきたソ連、じゃなくてロシアまで大正義アメリカに「うちがイラクに与えた兵器はかくかくしかじか」と情報提供する始末。

狼狽したフセインは唐突に「イスラエルが全部悪い!」と主張し、ミサイルを撃ち込んでみた。
イスラエルを挑発してユダヤとアラブの戦争に持ち込めば、アラブ諸国が味方に回ると考えたらしい。
しかし、これはアメリカが全力でイスラエルを宥め、イスラエルが歯を食いしばって耐えたので不発に終わった。

11月29日に国連安保理が対イラク武力行使を決議し、アメリカを中心とする多国籍軍84万5千がペルシア湾一帯に展開。
翌1991年1月17日、満を持して「砂漠の嵐作戦」が開始される。

多国籍軍による猛烈な空爆によってイラクの軍事能力はズタズタに破壊される。
そのうえで地上軍が投入され、イラク軍はクウェートから全力で逃げ始めた。
敗走するイラク軍の上に次々と爆撃が加えられ、クウェートから北上する幹線道路は「死のハイウェイ」と化した。

2月27日、クウェート解放。
アメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(親父)は戦争目的の達成を宣言した。
イラク本土への追撃を進言する軍人たちもいたが、アメリカ軍参謀総長コリン・パウエルが断固として反対した。
「イラク本土に侵攻すれば部族対立と宗派対立の嵐に巻き込まれ、収拾がつかなくなるだろう・・・」

サダム・フセインは屈服し、湾岸戦争はイラクの完全敗北で幕を閉じた。
699: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)22:07:20 ID:s7Du8LXJf
パウエルの危惧が正しかったことは12年後に実証される。

しかしこの時多国籍軍がフセイン政権を崩壊にまで追い込まなかったことにより、イラク国内では
秘密警察を駆使するサダム・フセインによる独裁が続き、欧米諸国はフセインが、
イラン・イラク戦争期に開発した化学兵器を本当に廃棄したのか、
リベンジを狙って密かに核兵器を開発しているのではないかといった疑惑を抱き続けることになる。

イラクは湾岸戦争により5万人から12万人といわれる人命を喪った。

敗戦直後、南部のシーア派住民と北部のクルド人がフセイン政権打倒を目指して暴動を起こし、
一時は国土の過半を掌握した。
彼らは数か月前までフセインと戦っていた多国籍軍の介入を期待したのだ。
しかし、いまなおアメリカはイランの影響でシーア派革命が中東に連鎖発生することを非常に警戒していたから南部シーア派の蜂起に対する支援は一切与えられなかった。
フセインは手元に温存していた最精鋭部隊「共和国防衛隊」を投入し、シーア派の蜂起を徹底的に鎮圧。

クルド人の蜂起に対しても、欧米は冷たかった。
クルド人はイラン・トルコ・アゼルバイジャンにまたがる山岳地域に居住しており、
うかつにイラクのクルド人の独立を支援すれば、他の三国も不安定化する恐れがあったのだ。

とはいえフセインはイラン・イラク戦争のさなか、反乱を起こしたクルド人たちに化学兵器を投下した前科がある。
最低限の措置として、アメリカはクルディスタン上空を監視し、イラクの戦闘機の飛来を阻止し続けた。
イラク北部のクルド人地域はイラク国内でありながら、フセイン政権の力が及びにくい状況になる。

イラクは厳しい経済制裁を科され、国民生活は窮乏化した。
さすがのフセインも、これ以上戦争によって求心力を維持する手は取れない。
フセインはちまちまとアメリカにせこい喧嘩を売って「強い指導者」を演出し、
秘密警察による国民の監視を強化し、そこらじゅうに自分の銅像を建てて個人崇拝を強化した。

湾岸戦争からイラク戦争まで、イラクの失われた12年間。
この時期のイラクは「恐怖の共和国」と呼ばれることもある。

とはいえ、フセインはただの暴虐な独裁者だったわけではない。
湾岸戦争以前には石油を国有化してイラクの経済力を飛躍的に向上させ、国中に電力網を整備し、学校教育を振興して識字率を爆上げし、女性の社会進出を強く支援した。
フセイン政権は中東アラブ諸国のなかで、おそらくもっとも多くの女性公務員を雇用していた。

なによりも、恐怖と懐柔を自在に使い分けたこの独裁者は、難治の国イラクをとにかくにも
数十年間にわたってひとつに纏め続けた。
それがどれほどの偉業だったかは、フセインがいなくなった後に誰もが理解することになる。
700: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)22:41:54 ID:s7Du8LXJf
さて、湾岸戦争は多国籍軍の圧勝に終わり、悪者のイラクは追い返され、クウェートは解放され、
ひとまずハッピーエンドで終わったかに見えた。
だが、そうは思わなかった者たちもいる。

多国籍軍のイラク侵攻の際、サウジアラビア王国が米軍の国内駐留を認めた。
サウード王家は、クウェートの次には自国にフセインが手を伸ばすのではないかと恐れたのだ。
実際、サウジアラビアはイラクと長い国境線を持つし、湾岸戦争の中でイラクは幾度はサウジアラビアにも攻撃を仕掛けている。

だが、ワッハーブ主義を標榜するサウジアラビア国内の厳格なムスリムたちは、異教徒の軍勢が自国に駐留することを嫌悪した。
そも、サウジアラビアはイスラーム世界の中枢、メッカとメディナの二聖都を擁する聖なる国家ではないか。
それでなくても、中東戦争後半からやたらイスラエルの肩を持つアメリカの評判は悪い。

アメリカ軍は湾岸戦争が終結した後も、イラクの監視とペルシア湾の安定化のためと称し、サウジに留まり続けた。
その数、約3万4千。

保守派ムスリムのなかでも特に過激な一派は、実力でアメリカ軍を追い出そうとし始めた。
その中心になったのは、アフガニスタンでソ連と「聖戦」をやって来た若者たちである。
彼らはソ連撤退直後、ジャララバードの戦いでアメリカが自分たちを見捨てた恨みも忘れていない。

1983年頃、パキスタンのペシャワールでムスリム同胞団により、ソ連との戦いで戦死したムジャヒディンの遺族を支援する慈善団体が作られた。
この団体があれよあれよという間に、新人ムジャヒディンに軍事訓練を施すキャンプに変貌し、
やがて1988年にはアフガニスタンのみならず、世界各地に聖戦志願者を送り出す中継センターと化した。

その名を「アルカーイダ」という。
701: 名無しの司馬遷 2014/09/08(月)22:47:17 ID:s7Du8LXJf
サウジアラビアへの米軍駐留を怒る過激派たちはアルカーイダを中心に、アラビア半島や東アフリカなど、各地で対米嫌がらせテロを企画実行し始めた。
いたるところで米軍基地だの大使館だの軍艦だのが爆破される。
アメリカは神経をとがらせ、情報を集め、ついにアルカーイダの存在を突き止めた。

アルカーイダは明確な指揮系統を持つ組織ではないが、豊富な資金力とカリスマ性により、
組織全体に強い影響力を持つ黒幕がいた。
彼はサウジアラビアの大富豪の子で、青年時代にムジャヒディンとしてアフガニスタンで戦い、
世界各国のムジャヒディンと人脈を築いた。

湾岸戦争後、実家のコネを活かして国王に面会し、「直ちに米軍を追い出すべし!」と直談判。
断られるとサウード王家の政策に反発して自国を出奔。あるいはサウジアラビア政府によって追放されたともいう。

1990年代前半、彼はアフリカのスーダンを拠点に、各地の反米テロを指令し、アルジェリアやバルカン半島の戦場にも盛んにムジャヒディンを送り込んでいたが、居場所をアメリカに嗅ぎ付けられ、馴染みのアフガニスタンへ居を移した。

そこで黒幕は、カブールを占領するタリバンの客将となる。同じイスラーム原理主義同志で水があったのだろう。
人脈とカネの力を活かし、アルカーイダの黒幕は、ムハンマド・オマル率いるタリバンを次第に乗っ取り始めた。

「オサマ・ビンラディン」というのが、この黒幕の名前である。
no title
今夜はここまで。
703: 名無しの司馬遷 2014/09/09(火)00:31:37 ID:YHxjCZ17I
乙!
アルカイーダ、オサマ・ビンラディンまで来たか

704: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)21:52:11 ID:pfXKbwJ38
1990年代後半。
タリバンにカブールを奪われ、アフガニスタン北部に敗走した軍閥たちは「北部同盟」を結成する。
北部同盟の盟主ともいうべき人物は「パンジシールの獅子」、アフマド・シャー・マスードである。
no title
伝えられるところによれば、どうやらマスードは世界史上でもっとも新しい英雄だったらしい。
彼の故郷は、彼が過酷な対ソ戦のなかで最後まで守り抜いたパンジシール渓谷である。
故郷の人々のために、彼は10度にわたり世界帝国の猛攻を退けた。
もっとも暗い時にはアフガニスタンの国土の9割以上がソ連に屈した。そのとき、パンジシールだけが独立を維持していた。

タリバンがカブールを奪った後、マスードは戦線を押し戻し、カブール市街を射程範囲に抑えた。
しかし彼は市街戦を展開してカブール市民を戦火に巻き込むことを躊躇って兵を引いた。

彼は戦争の天才だったが、流血を好まなかった。
ソ連撤退が決まると、多くの捕虜たちを無条件で解放し、去りゆくソ連軍に対して一切の攻撃を仕掛けることなく見送った。
ソ連兵の中にはマスードの度量にほれ込み、護衛としてマスードのもとに留まる者もいた。

マスードはもともと、大学で建築学を学ぶ純朴な若者だった。
いつか内戦が終わったら大学に戻って建築学を学び直し、荒れ果てた祖国の再建に力を尽くすのが夢だった。
子供たちには人の命を救う医者か教師を目指すことを勧めた。
読書を好み、カブール撤退の際には何千冊もの蔵書を持ち出し、激戦のなかでも深夜まで詩集に読みふけっていた。
多忙を極める日々の中でも、故郷の人々や異国のジャーナリストの前ではいつも気さくだった。

私欲は微塵もなく、無辜の民への暴虐に断固として反対した。
あるとき、マスードの部下のひとりが路傍のトラックから数個のメロンを抜き取った。それを目にしたマスードは、彼から武器を取り上げ、営倉につないでしまった。

彼はアイユーブ朝のサラディンに似ている。
20世紀の黄昏にあって、騎士道精神を貫いた孤高の軍人だったのだ。

アフマド・シャー・マスードがいる限り、タリバンはアフガニスタンを平定できぬ。

タリバンを牛耳るオサマ・ビンラディンはアフガニスタンを統一して純正なるイスラーム国家として確立し、ここを拠点に宿敵アメリカに対する世界的規模での聖戦を開始することを構想した。

2001年夏、オサマ・ビンラディンは2つの指令を下した。

アフマド・シャー・マスードを暗殺する。
そしてアメリカ合衆国中枢部へ、大々的なテロ攻撃を加えるのだ。
705: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:15:04 ID:pfXKbwJ38
マスードはオサマ・ビンラディンの脅威を感じていた。

2000年、彼は故郷に初めて自分の家を建て、タジキスタンにいた家族を呼び寄せて、15日間だけ一緒に過ごした。
マスードはおそらく自分の死が遠くないことを予感していたのだろう。

その頃、タリバンは動揺の兆しを見せていた。
本来の指導者であるムハンマド・オマルをよそに力を強めるビンラディンと、その取り巻きのアラブ人たちへの反発。
戦場ではいつまでたってもマスードを追い込めない。
タリバン多数派のパシュトゥーン人たちも、しきりに北部同盟に寝返った。
だが、当時アフガニスタンの内戦は世界から忘れられ、北部同盟を本気で支援する国はなかった。
まあ、北部同盟にしてもマスード以外はみんなモヒカン連中なのだが。

2001年4月、マスードは生まれて初めてヨーロッパを訪れた。

「米国を標的にしたテロリズムにはすべてビンラディンが関わっているが、米国は危機の深さも理解せず、対策もしていない」
「米国がパキスタンとビンラディンを止めなければ、遠からず全世界がつけを払うことになるだろう」
「我々は人々を幸せにする平和なイスラーム国家を築きたい。そのためにアフガニスタンを解放したい」

タリバンの危険を訴える彼の声は、ほとんど反響を呼ばなかった。

マスードは間もなく自分が爆発に巻き込まれて死ぬ夢を見た。
ぼろぼろの軍用ヘリコプターが墜落して爆発するのではないか。彼は大切な部下たちを決して自分と同乗させないことにした。

そして8月の終わり。
2人のアラブ人ジャーナリストがマスードに取材を求めた。
多忙を極め、体調も思わしくなかったが、2週間待機させたうえでマスードはようやく取材に応じた。
彼は自由と民主主義を信奉していたから、可能な限りジャーナリストには対応するのが常だった。

9月9日。
取材が始まった直後に記者の持つカメラが爆発し、マスードは殺された。

ビンラディンはマスード暗殺が2週間も遅延したことによって大いに目算が狂った。
マスードを消してアフガニスタンを掌握するという計画が遅延したまま、翌々日に米国中枢へのテロ攻撃が敢行される。
757: 名無しの司馬遷 2014/09/18(木)02:16:22 ID:jHnxVkTQc
>>705
「パンジシールの獅子」の予言は不幸にも当たってしまったのか

706: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:18:31 ID:pfXKbwJ38
なお、マスード暗殺後に極東のとある国のネットの海のさなかでこんなものが
http://mimizun.com/log/2ch/whis/1000543671/

707: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:34:26 ID:pfXKbwJ38
オサマ・ビンラディンを中心とするアルカーイダは、当初はサウジアラビアからの米軍撤退を
要求していただけだったのかもしれない。

だが、思想というのは往々にして自己触媒的に過激化する。
どこまでも純正な原初イスラームを蘇生させようとするワッハーブ主義。
ムスリム同胞団以来の「イスラーム世界復興のためには暴力をも辞さず」という思潮。
イラン・イスラーム革命に端を発した「第二次イスラーム復興」のうねり。
アフガニスタンで燃え上がった「聖戦」のムーブメント。

イスラーム復興運動のなかでも最も原理主義的で過激で暴力的な潮流がアルカーイダのなかで煮詰まり続け、いまやアルカーイダは世界を、アメリカを中心とする異教徒と、虐げられるイスラーム世界という二極構造でしか捉えられなくなっていたのかもしれない。

アルカーイダは、当の敵たるアメリカが完成したグローバリゼーションの波を逆用し、
全世界で欧米諸国に対する「聖戦」を開始することを目論んだ。

具体的な戦術としては大規模な無差別テロを柱とする。
テロによって傲慢な欧米諸国に恐怖を味あわせるとともに、欧米とイスラーム世界の対立を露わにし、眠れるイスラーム世界の大衆を奮起させ、聖戦へ動員する。
その第一歩として、アメリカの経済力、軍事力、政治力の中心部を急襲する。

というわけで2001年9月11日の朝、アルカーイダのテロリストは大型旅客機を乗っ取り、
それをまるごと兵器として、世界経済の心臓たるニューヨークの世界貿易センタービル、
アメリカの軍事的中枢たる国防総省に突っ込ませた。

アルカーイダによる「グローバル・テロリズム」のネットワークが、世界帝国アメリカに宣戦布告をしたのである。

世界最強の国家を自負してきたアメリカは巨大な衝撃を受け、悲哀の底に沈み、それから激怒した。
宣戦布告は受け入れられ、2000年代の「対テロ戦争」が開始される。

今夜はここまで。(短い)
709: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:40:23 ID:pfXKbwJ38
日本時間2001年9月11日の午後9時54分に、極東某国のネットの海の某巨大掲示板にて生まれた同時代史料
http://www.geocities.jp/mega_fepus/911/news1.txt

708: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:35:41 ID:DfkTaMfCs
うあぁぁ 知らなかったけど
調べれば調べるほど英雄じゃないか

惜しい人を亡くしてしまっていたのね

710: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:44:21 ID:pfXKbwJ38
>>708
アフガニスタンはこの千年で4人の英雄を生んだ。

11世紀にはガズナ朝のマフムード。
16世紀にはスール朝のシェール・シャー。
18世紀にはドゥッラーニー朝のアフマド・シャー・ドゥッラーニー。
20世紀にはアフマド・シャー・マスード。

惜しいね。本当に惜しい。アフガニスタンに必要な人だった。

711: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)22:47:49 ID:D78l5iMg2
おつ
さすがにこの頃はよく覚えてるわ
当時はただ衝撃的だったけど、こうして歴史の流れで見てみると事件の背景とかよくわかるね

712: 名無しの司馬遷 2014/09/10(水)23:03:08 ID:pfXKbwJ38
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1405776434/
対テロ戦争、パレスチナ、アラブの春1980~2014年