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168: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/27(火) 21:39:23
蜀(益州)って国力が小さかったって言うけれども 
太平洋戦争の日本vsアメリカほど酷いという感じでも
169: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/27(火) 21:56:38
人口、兵数、人材は負けてるが、金があるから装備は三国最高
魏、呉、蜀ともに利点と弱点があって統一した晋は弱点だけになり更に弱体化
蜀の鉄や銅は蜀だけで使うには足りたが全土にまわす余裕はなく晋の皇帝にそうした認識はなかった
三国分裂してたほうが外敵に抵抗できただろうに

170: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/27(火) 23:53:20
晋の捕らえられた皇帝の死に様はみじめで辱められたものだったな。それも二代続けて

173: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/28(水) 13:57:18
当時って米は暖かい南の呉くらいでしか作れなかったというのは嘘ですか?
他はひえきび麦を食っていたとか

177: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/28(水) 23:30:25
>>173
南のほうだけは本当。呉くらいは嘘。蜀南部でも作ってた。魏は呉や蜀から買うしか手に入れる方法は無かった。

174: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/28(水) 18:08:28
ひえきび麦が穀、大豆が豆、米は別にしてそれ以外は雑穀
例えば190年頃の飢饉の曹操軍の糧食は主に桑の実だったとか

179: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/11/07(土) 11:20:48
前漢時代に小麦が伝来し三国時代にはむしろ小麦やキビ、地域によってはヒエが主食。
またこの時代はオオアワとコアワが栽培されており現在も栽培されているオオアワには別の字が当てられている為注意が必要。
米が伝来していない頃は粟に米の字を当てることもあった。
粟は収穫量は多い為前漢では主食だが地力が落ちることから後漢の華北ではキビ、小麦の混作になっており収量は大幅に減少していた。
後漢末期の凶作時にはススキの実ですら主要穀物とされたが戦場では人肉食すら頻繁だったので当然か。
三国時代には小麦や南方での米の栽培が増加した。

181: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/11/08(日) 01:10:58
主要穀物には五穀、六穀、八穀と色々分類の仕方があるが漢末は「百穀」
小麦かキビか粟20?(当時の一石=10斗)に50万董卓銭の買値がついたのが劉備が徐州牧を譲られた190年。
税は免除せざるを得ず、糧食はほぼ皆無。その状況で曹操、袁術、最後に呂布が敵対・・・
兵の食い物は想像するまでもなく食えればなんであろうとまし(曹操軍も人肉を混ぜたと言われ、呂布にも糧食はない)
この辺から演義での「妻を殺して劉備に食べさせた」が善い事のように描かれて違和感があるんじゃないかと。
漢末は人肉食が奨励されてはいないが「暗黙の了解」だった可能性は高い。

189: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/12/12(土) 05:45:59
低い農業生産性、戦乱で滞る物流、董卓銭という悪貨の流通
……つまりは、三国時代ってーのは、全体的に見れば、恐るべきスタグフレーション時代だったわけやね。

190: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/12/13(日) 11:32:08
農業生産性はアジアはヨーロッパの20倍だが

191: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/12/13(日) 11:34:09
ヨーロッパは雑草も生えにくい、発芽率が数%。アジアは80%以上

196: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/01(金) 19:23:17
もし牟田口閣下の十五軍がこの時代にタイムスリップしたなら
呂布や末期孔明ですら歯が立たない無敵軍なんだよな

198: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/04(月) 23:17:33
>>196
現地調達できるし道もビルマほど酷くないし武器も槍と剣と弓があればいいだけだし
WW2の日本と連合軍みたいに武器性能の差無いし案外成功するかもな。
董卓、馬超ぐらい暴れまくってたかもしんない。
時と場所とある程度の兵に恵まれれば力攻めオンリーの大将は案外成功する。

199: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/05(火) 17:54:55
>>198
危険な最前線には赴かずに後ろで女とヤルばかりだった牟田口に兵が付いていくわけがなかろう。
現代と違ってこの時代の兵は国家への帰属意識が低いので将軍の人望が低ければ脱走だけで軍は壊滅してしまうよ。
で、軍が瓦解するなか部下が手土産に牟田口の首を取って降伏するのがよくあるオチだろ。

201: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/05(火) 20:18:57
>>199
董卓が前線に出てバリバリ指揮取っていたとでも?
正史だと若い時は個人戦闘能力高かったって書いてあるけど洛陽占拠後は後方でふんぞり返ってるだけだろ。
牟田口と大してかわらん。
佐藤幸徳、宮崎繁三郎もいるし彼らが指揮を執るから問題ない。
ってかね日本の戦国大名とかと違って中国の王、皇帝、君主って前線に出ない人多いよ。
出ても重臣にほとんど任せる奴のどっちか。
始皇帝、秦の2代皇帝、劉邦、武帝、孫権、劉表、劉禅パッと思い浮かぶのでこれ。
まだ探せばゴロゴロいる。
春秋戦国時代の王なんてほとんどそうだし
呉の伍子胥、越の范蠡とか重臣に任せっぱの王も大勢いる。
これらの王は大抵無能で讒言にだまされるか才能に恐れて名臣を粛清するか追放する。
中国人は馬鹿揃いだから牟田口みたいな馬鹿の言うことも聞くよ。
ってか勝ってる間は無能な君主でも兵は将兵はついてくるもんだよ。
龍造寺隆信とかがいい例。
奴が生きてる間は兵もよく戦ってる。
負けたら置き去りにされて殺されちゃったけど。

211: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/07(木) 01:27:54
>>201
すまんが洛陽にいた時の董卓は劉協を抱えていて権威があったし、政治権力を行使できた君主なわけで、将帥の話じゃないんだが。
三国時代の将帥としての資質の話だというのは理解できないのかな?

203: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/06(水) 02:03:39
孔明も補給無視の無能。
孔明が昭和19年第15軍率いてたらムッチーと同じことやりそうで怖い。
名将ギエンの案をことごとくしりぞけ自分の大好きな無能バショクを重要。そして大敗。
ギエンが佐藤幸徳に見えてならない。
敗戦の責任をバショク一人に負わせ自分に匹敵する地位の名臣リゲンを追放。
こいつろくでもねぇ。

204: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/06(水) 02:25:45
李厳ってなんで補給担当なんてやらされたんでしょうね。
軍事の才能もズバ抜けてて劉備が後を頼むって言って死んだ一人で劉備も才能見抜いてたのに。
孔明は人を見る目がありませんね。
逆に劉備は人を見る目が凄いですね。
馬謖が口だけなのも見抜いてますし。
陸遜に匹敵すると言わしめた李厳を使わない孔明はほんとに有能だったのか疑問ですね。
それとも活躍されると自分の地位が危ういから重用しなかったのか。
蜀からの補給はそれこそ第15軍が経験したぐらいの苦労だったろうに
自分の戦略失敗の責任は取らないんですよね孔明。

205: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/06(水) 07:28:01
馬謖は普通に有能だっただろ。参謀としての実績もある。
指揮官経験がないのにいきなり重要な戦闘の総大将に任命した上、
負けたからって死罪にする孔明がアホなだけ。

213: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/07(木) 10:47:26
>>205
>馬謖は普通に有能だっただろ。参謀としての実績もある。
実績無いでしょ?
南蛮平定で活躍したのは張嶷、馬忠ですよ

>指揮官経験がないのにいきなり重要な戦闘の総大将に任命した上、
>負けたからって死罪にする孔明がアホなだけ。
馬謖が死罪になったのは命令を無視したからでしょ……

206: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/06(水) 12:03:21
蜀は攻勢に出る場合兵站は大変だったから兵站担当官は大勢いたけど?
筆頭の李厳が責任取らされたわけで
孔明無能論は数倍の軍勢率いてて守勢に終始した魏軍の立場がなくなるからやめたら?

207: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/06(水) 13:15:56
孔明=100点満点はつけられません(当たり前)=落第点の無能(なんでだ)
ってやつだからな

214: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/07(木) 17:58:53
馬謖「何でぼくの言うとおり戦わない!何でぼくの思ったとおりにならないんだよぉーーーーー!」

馬謖ってこんな奴だぜ。
しかもこの馬鹿、最初王平に責任転嫁してやがんの。
「何で王平様が罰せられるの?」
と兵達が騒ぎ出したため孔明もかばい立てできなくなって死罪を通告。

215: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/08(金) 03:12:11
それ演戯

216: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/08(金) 11:23:45
王平は諸葛亮の命じた通りに山麓に陣取るべきという諫言を行った所までは正史も演義も同じだけどな。
自分だけ山麓に陣して奮戦したのではなく、馬謖軍が破れた時に、
殿軍となって張合βの追撃を阻んだのが正史の記述。
馬謖は斬られたが、王平はその功績で討寇将軍に任じられた。

217: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/08(金) 16:25:31
孔明とかどうしようもない奴だよな。

218: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/09(土) 00:26:54
あんだけ戦争して国を傾けなかった手腕は無視かね?

219: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/09(土) 02:22:36
上杉謙信だって戦ばかりやって領土拡張してないのに越後他衛星国20万石たらずで100石超える北条武田織田と戦いながら最終的に150万石行ってる。
孔明は戦が下手すぎたが法正だったら第1回北伐の時点で長安まで雪崩れ込んで一気に魏国に浸入していた。
もう第1回目のチャンス潰した時点で北伐は無理になった。第1回が終わった時点でガチガチに守り固められ電撃戦が不可能になっちゃったから。
第1回目の絶好のチャンス潰した孔明はやはり無能といわざるを得ない。

220: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/10(日) 10:21:33
魏の将は超絶無能ってことでいいすか

222: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/10(日) 11:42:59
>>220
蜀を攻める気があんまりなかったんじゃね。司馬氏が国内固めるために動いてたり皇帝死んでごたごたしたり。
曹丕も曹叡も早死にだったしね。

227: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/10(日) 17:15:42
>>223
>司馬氏が国内固めるために動いてたり
軍オタ詳しくないなら無理に書かなくていいのに。

223: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/10(日) 13:17:58
牟田口が勝手に自滅したインパールもイギリスがビルマに侵攻したのでさえ1945年だからな。
ビルマもインパールさえなきゃ終戦まで英軍に取られなかった。
当時の魏⇔蜀も大軍で行軍に向かない。道が悪い。物資の輸送が大変で攻めたほうが負ける地勢だった。
魏が攻めたら逆に返り討ちにあってたね。
孔明死んで宦官が蔓延って腐敗したから負けたけど孔明がいたら魏も撃退されてたね。
ま、孔明が生きてるうちは魏も蜀を攻めようなんておもわんかったでしょ。

231: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 21:56:44
軍才ないか?作戦から戦略単位ではほとんど破綻がないと思うが
それこそ第四次北伐あたりは普通に見事だと思うけどね
戦術以下の単位での前線指揮ができないだけ(だけっていうのもおかしいが)で、
人事能力の低さなんかに比べればよっぽど軽い弱点だろ

233: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 22:05:04
ちゅうか、なんか無能無能ってことになってるねい。
陳寿がいってるのも、陳寿と同時代の奇策で異民族の大軍を鎮圧した人の策略の腕を踏まえて、
ただ、「そういう大差ひっくり返すような軍略の才能はなかったんじゃない?」って推測の話なのに。

234: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 22:06:57
無能とか劣ってるというのではなく「優秀ではなかった」程度って事か

235: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 22:20:51 ID:HnQKSRXG
>>234
陳寿の書き方だと
「こんなにすごい人なのになんで失敗したんだろう?奇策が下手だったの『かもしれない』」
という意味になる

優秀ではなかったどころか陳寿ですら優秀だったとは認めてるんだけど決め手に掛けてたという程度の認識

236: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 22:39:28
>>235
「応変の将略」は「奇策」ではないだろ。つまりその場で作戦を修正するのが苦手ってこと。
事前に緻密にスケジュール組んでそれに従って難しい作戦をこなすタイプだったって意味。

237: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 22:59:21
>>235
根拠のない解釈だな
陳寿は普通に孔明は軍事下手だと思ってたかもしれんよ
優秀だと思ってたけど晋の手前本音が言えなかったって可能性もあるが

>>236
陳寿は孔明を「奇策に劣る」とハッキリ言ってる

240: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/11(月) 23:32:49
>>237
はっきりとは言ってない。
蓋しってのは「~だと思われる」「~ではないだろうか」っていうニュアンス。

あと、陳寿が蜀内部で外征派と対立する派閥に属していた事実を軽視しちゃならんよ。

245: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 00:51:35
>>240
>>237の「奇策に劣る」とハッキリ言ってるってのは
諸葛氏集の上奏文

244: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 00:31:39
兵站から見れば諸葛亮の軍才は普通に高いじゃん。
桟道を補給線にしなければならないハンデと外征地での野営の不利をしょっていても
それを最後には克服し長期持久戦を可能にした力量、
強力な魏の騎兵軍団を殲滅できるだけのハードと組織と戦術の構築、
どれも驚異的じゃねーか。

246: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 04:12:26
北伐の戦略目標は最終的には中原の恢復(出資の表より)
とりあえずは長安占拠
そのための前提条件として
長安駐留軍の撃破、増援の魏本国軍の撃破、涼州の確保
が必須
そして、自軍は補給のため活動時間が制限されてる

第一次こそこういった条件を理解して戦略を立てているようだが
以後は、魏本国軍の撃破は無理。長安駐留軍を撃破して点数稼ぎ
みたいな戦略なき出兵ばかり
戦術面で優秀でも、勝利条件が厳しい戦を自ら企画して失敗続きじゃあ
国家の最高軍事指導者としてどうなの?
結局、非戦派との政争の材料だったんだろうね
弟子の姜維により一層顕著に顕れてる

247: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 04:32:06
そういった視点で観ると
魏延の長安急襲案は興味深い
ともかく長安占拠して目標達成
策源地を失った長安駐留軍の弱体化(うまくいけば自壊する)
喧伝効果による涼州の鎮撫効果増(馬超が生きていれば完璧だった)
長安蔵の穀物による活動時間の延長(その間に涼州を確保すれば∞に)
拠点を得れば、魏増援軍との戦いも(史実より)有利

不確定要素が多いことも確かだが
勝利条件と自軍の弱点とをちゃんと見極めてる
無謀とか言われるけど、現地の最高責任者が無茶な立案はしないと思うんだけど

249: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 19:09:16
>>247
孔明が一般的に戦下手だと言われているのは
魏延の長安奇襲案を採用しなかったから、という理由が挙げられる場合も多い

248: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/12(火) 13:02:59 ID:+/CoGdHQ
ニコニコ動画で悪いんだけど、孔明の軍事能力を評価する作品

論点を説明すると
 -魏延の作戦は無謀
 -孔明の戦略そのものは無問題
 -孔明が馬謖を選んだのは自分も本から学んだだけで軍を率いることができたんだから馬謖も
  それぐらいできるだろうと思い込んだ天才ゆえの過ち
 -張合β本体の時間稼ぎのために派遣された馬謖は、張合βには速攻の一手しかないと踏み
  山頂に布陣するが、なんと張合βは持久戦をかけてきた
 -しかも馬謖は実は現場指揮官としては無能だったため酸敗

261: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/16(土) 14:50:18
だって戦下手なんだもん。
張良みたいに戦は他の人に任せてた方がよかったな。
局地的な勝利はあっても結局兵糧が続かず撤退して魏に元通り取られての繰り返しで国力を疲弊させた人間だよ。
これをどう評価しろっての。

269: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/17(日) 17:19:40
諸葛亮無能論は意図を読み取らない結果論。
結果論で論ずるにしても、諸葛亮の意図を読み取らなければ、有能無能の判断すら出来ないだろう。

諸葛亮の兵の詭道は、政治戦略にあり、国力で劣るにも関わらず、戦術的勝利を挙げうる環境を整えている。
勝利を得ている以上、政治戦略で対蜀軍の中核を孤立させて叩こうとする諸葛亮の戦略は、大筋妥当と言っていいだろう。
そして兵も強兵で、統率力があった事は記述から読み取れる通り。問題は他にあるという事になる。

>>261
局所的な勝利と、戦略的敗北に繋がった理由を考察するなら、
有能無能どちらの結論を出すにせよ、そんな短絡的な思考で結論は出ないはずだけど。
第二次、第三次に関しては連携、もしくは計画失敗を収集する事で三次の成功に繋げてるしね。
四次に関しては惜しい。どの史料を参考にするかによるが、少なくとも司馬懿の大勝利はありえない。五次の兵力から考えてね。

となると、司馬懿の攻撃をいなして痛撃を与えた+事前の諸葛亮軍の行動により、司馬懿軍は郭淮に頼るほど補給が欠乏していた
という理想的な状況を築き上げた事になるけど、長雨と李厳でオジャンになって終了。

第五次に関しては評価は下せん。途中で死んだから。あえて経緯だけを見るなら、諸葛亮、司馬懿よりも、曹叡がヤバイ。
孫権の大軍を寡兵で撤退させつつ、増援部隊を司馬懿に送るとか、軍事における視点、能力が高すぎる。

それと聞きたいんだけど、諸葛亮が国力を疲弊させたってのは、何処から出た発想なんだろう?
後半の北伐になるにつれ兵力が増加している事は無視?
国力が落ちた記述なし、さらに戦術勝利によって得られる人間(捕虜ではなく、現地人の収奪な)を考えれば、
敗北を重ねたにしても、国力を低下させたなんて発想は中々出てこないと思うけど。

270: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/17(日) 19:53:36
三国志の諸葛亮伝を読む前、孫子は読んでいるのかな?
孫子は史家にとっても常識なんで。孫子だと正をもって当たり奇をもって勝つとある。
そして正とは廟算に基づいた作戦計画とその実施であり、戦争の行方のほとんどはこれで決まる。
陳寿はその部分は絶賛していて、だが同時にこれだけ優秀なのに何故勝てなかったのか悩んだ。
一方、司馬仲達の評によれば諸葛亮は智謀に長けるが土壇場での決断力が少し遅いとあり、それが原因ではないかと考え
応変は苦手かもしれないと評したのではないか?

275: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/18(月) 00:42:58
>>270
李衛公問対のように正奇の変化で語ってるケースもあるがな

272: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/17(日) 21:25:57
作戦計画とその実施で戦争の行方がほとんど決まるなんて
そんなこと孫子に書いてあったっけ?なんか一次大戦のドイツ軍みたいだな……
孫子ってまず戦争に負けないための国づくりや
戦争の勝敗を分けるのはその国の国土なり諜報などの努力なり、
外交面で優位に立ったりといった、戦争に入る前の努力で行方が決まる
そして戦争に入ったときにはすでに、勝負がついてなきゃいけない
そして戦争に入る前に必勝の状態を作れっていうのが最重要課題で
作戦なんかは二の次だった気が気がす

276: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/18(月) 18:33:21
孫子って出せば黙るとでも思ってる三戦馬鹿ウザイから消えてくんないかな。
近代戦じゃ通用しないからもう来なくていいよ。

279: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/19(火) 00:10:42
>>276
クラウゼヴィッツの戦争論になら聞いたことあるが
孫子が近代戦で通用しないとは寡聞にして聞いたことがなかった
自分が軽く目を通した限りでも十分通用する論となっていると感じたが

284: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/01/19(火) 21:10:43
>>279
孫子読んでその通りやればアメリカに勝てるんだ凄いね。
ミサイルまず飛んできて次に圧倒的多数の航空機から攻撃されて制空権とられて地上部隊フルボッコ。
孫ピン、孫武の時代にはミサイル、空母、航空機、潜水艦、戦車はありません。
WW2でポーランドは一応兵力はそれなりにあったけど機械化されたドイツにまったくもってかないませんでしたね。
硫黄島も孫子の言うとおり水際上陸したところを叩いてたら栗林中将なみの踏ん張りはできなかったでしょう。
艦砲射撃で壊滅してたね孫子の言うとおりやってたら。