1: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/11(日) 12:07:15 ID:Ny0Tf2Xj
語れ
487: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/12/31(木) 13:50:18 ID:DfSUZFK1
諸勢力の草刈場。

2: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/11(日) 12:08:10 ID:Ny0Tf2Xj
参考リンク
地方別武将家一覧関東
http://www.www2.harimaya.com/sengoku/bk_kanto.html

3: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/11(日) 12:08:30 ID:rxEbHwiO
成田の離反が無ければ、謙信の関東征伐は成功してたのかな。

7: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/11(日) 12:14:56 ID:xjc9e77V
微妙、離反がなくても北条の領国統治システムは優れていたし
謙信は長期遠征による負担というアキレス腱を抱えたまま

多少は楽になった程度ではあるまいか?

8: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/11(日) 15:28:12 ID:T+G37EEn
【北条vs上杉】河越の夜戦は本当にあったのか?

9: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/12(月) 00:30:24 ID:KrSW+uno
>>8
なかった説ってあるの?

10: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/12(月) 09:47:17 ID:A7HKP9Ef
>>9
「夜戦」が無かったという説はある。
もう少し言えば、河越夜戦があったという証拠がほとんど無い。

18: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/13(火) 15:48:27 ID:Z5zNBcTp
兵力は詳しくないのでなんともいえないし、誇張多いしね

>>10
夜戦があった証拠
内容は知らないが、「太田資頼状」「上杉憲政書状」「行伝寺過去帳」等があるそうだ

19: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/13(火) 21:35:52 ID:8pSrKMiQ
>>18
ああ、知らないようだから補足しておくね。
北条氏綱が河越奪取に前後して扇谷勢を夜襲で撃破したことがある。
行伝寺過去帳はその記述は天文六年の夏頃、
天文十五年の、氏康の河越夜戦の記述ではない。
同様に太田資頼は天文10年に亡くなっているので、彼が関わったのは必然的に氏綱の河越合戦。

上杉憲政書状では、河越で合戦があったことの証明にはなっても夜戦であった証明にはならない。
そもそも伝わっているような大戦の割には確認されている感状が上杉側の二通のみ、というのも疑惑の種にもなっている。

23: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/15(木) 12:09:04 ID:pXsZtosG
>>19
>>18についてまず訂正
「太田資頼状」→、「太田資武状」です、パンチミス申し訳ない

「行伝寺過去帳」の件
「川越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙牛四月」もあります
ただし夜とは記述がないですね

いろいろ見てみましたが、一つの大きな戦いなのか、
何年にもわたる幾度の戦いが、合わさり一つの戦として軍記物に記載されたのか、諸説あるようですね

扇谷が滅亡し、山内も滅亡一歩手前
一度の戦で、出来すぎといえばそう感じないこともないですね

11: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/12(月) 22:18:54 ID:4C94u50R
あの兵力差はありえないな。
8万も動員できるわけがない。

12: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/12(月) 22:25:40 ID:30X5cdji
両上杉+古河公方だけなら、最大動員で四万くらい、妥当な線で二万前後くらいかと。
さすがに八万はあり得ない。

15: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/13(火) 11:01:29 ID:X14+2Br2
>>13
謙信の場合は佐竹辺りも参陣していることを考慮に入れてみると、
五万くらいは集まっていたかもな。

万石あたり400人動員すれば、八万に届くかもしれん。

17: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/13(火) 15:14:39 ID:YdylkTzG
戦国期、最大動員兵力は七人役と言われている。
一万石あたり七百人。
これはあくまで防衛戦に限る動員可能人数らしい。
関ケ原時の上杉の動員計画で行なわれかけた。(それでも多数の浪人衆を集めてるが)
これを越える動員をやったのが、関ケ原時の黒田氏。
(大金はたいて集めた。)

20: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/13(火) 21:48:49 ID:8pSrKMiQ
まあ要するに

1:扇谷上杉と北条が(同じ対戦相手が)
2:天文年間に(同じ元号で)
3:河越を巡って戦い(同じ場所で)
4:北条が(同じ勝者)
5:夜戦で勝利した(同じ勝因。ただし氏綱のは史実、氏康のは史実か?)

ので、紛らわしいといえば紛らわしいよね。
これらをまず念頭に置いた方が良いみたいだよ。

27: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/19(月) 15:19:58 ID:IRy6znQI
わんこ大好き資正たん
1410329307
ツタナトサオ・サ・・ユ」ア

32: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/21(水) 14:50:58 ID:6XnfXCYC
戦国のトップブリーダーって印象が強すぎ。
『甲陽軍鑑』によると、資正は軍用犬を飼いならして活用しており。城に訓練させた犬を数匹飼い、敵が攻め寄せてきた場合には書状を入れた竹筒を犬の首に結び付けて城外に放ち、味方と連絡を取り合い、北条勢を撃退していたとする逸話を記している。資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」として知られており、北条側が配下の風魔一党に命じて人間の使者を捕殺しても、犬の使者までは完全に捕殺できず、常にその軍事行動が太田側に筒抜けになり、「資正は曽祖父・道灌に劣らない名将ぶりを見せた」と人々も褒め称えたという。

34: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/21(水) 18:15:29 ID:CtQwWy6N
三楽斎は武将風雲録でなぜか深谷上杉氏配下に押し込まれて渋い顔してた印象しかないな
太田 資正。出家して「三楽斎道誉」と称した。

35: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/21(水) 19:00:15 ID:8NYLPft8
資正は長野業正とともに関東の武将で一番好きなんですけど、
業正と比べると全体的に一回り小さい気がしますね。残念ながら。
太閤Ⅴで忍犬の術の秘技を持ってるのは(;´Д`)ハァハァですよ。
で、塚原卜伝門下で香取神道流の使い手の成田長泰は、
何の特徴もないただの凡将に設定されてるのがちと寂しい。

37: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/23(金) 22:19:23 ID:DKXdho8D
>>35
業正は猛将だな
上野は彼でもっていたようなもの

36: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/22(木) 15:24:45 ID:owu5lGr8
没落しかけた名家の割には活躍したと思う、三楽斎

岩付と松山を基盤とした北条への抵抗
嫡子氏資の岩付乗っ取り後は、常陸片野城に移り、あくまでも北条方と戦う
一途なのよね、結構

191: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/07/30(月) 06:50:20 ID:cGWEWXjo
三楽斎の「三楽」って、どんな楽しいことなんだろ?

192: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/07/30(月) 07:44:03 ID:DaX8O/t5
・合戦(言わずもがな) 
・茶の湯(風流人だったらしい) 
・セックス(励んだおかげで子供結構いる) 

じゃないかな

193: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/07/30(月) 18:09:33 ID:wpqqE8xS
大辞泉より 

1 《「孟子」尽心上から》君子の三つの楽しみ。一家の者が無事であること、天にも人にも恥じるところのないこと、天下の英才を教育すること。 

2 《「列子」天瑞から》人生の三つの楽しみ。人間として生まれたこと、男子として生まれたこと、長生きしていること。

488: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/12/31(木) 18:32:06 ID:9GVOqqKD
太田三楽斎さんって北条が滅んだ翌年くらいに亡くなったんだよな 
宿敵の最期を見届けられて安心して死んじゃったんだろうな

41: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/24(土) 15:44:54 ID:lctMQ835
東上野:箕輪長野
西上野:金山由良

43: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/24(土) 21:42:07 ID:+zBMvJOa
西が長野で東が由良じゃないの?
つか由良は謙信を激怒させてるが怖くなかったのかな?
佐野などもそうだけど反旗を翻しても北条はロクに支援してくれないだろうに。
それどころか佐竹・宇都宮勢まで来襲してくるわで得な事は一つもないだろうに。
そんだけ利根川以北にも北条の圧力が強かったのかな?
太田や里見などと共闘した方がいいような気がするがなぁ。

44: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/24(土) 23:18:48 ID:fBwoGwZh
いや、そうでもないと思う。
謙信との決戦こそ避けているが、対陣は頻繁に起きているみたいだし。
あと頼りないという点では北条<上杉なのは確定だろ、詳細は省くが。
また謙信が越山してくるのが期間限定なので、
四六時中領国を接している北条の方が良くも悪くも気にかかる存在だろうしな。

47: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/26(月) 17:30:48 ID:kXznXXJa
謙信の越山は台風みたいなものだからな。
自然現象を当てにしていてはまともな戦略を立てられないよね。
北条側も慣れたのか、後年になればなるほど越山の脅威は薄れてるのがなんとも哀れ。
特に杉山城及び関宿城後詰めの失敗は謙信と反北条諸将にとっての致命打になったな。

55: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/04(火) 15:40:21 ID:3Xi8BDOk
実際地元では誰が著名or人気なのかな?

57: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/05(水) 00:07:55 ID:on9Bz7tn
他県の人でも分かるだろうけど、全県的に人気も知名度もある人物っていないね。
道灌は埼玉に重畳の縁があっても郷土の英雄と呼ぶには無理があるし、
強いてあげればやはり源平期の熊谷直実か畠山重忠、まあ直実かな。

59: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/06(木) 16:42:53 ID:KojK1AQ9
>>57
やはり鎌倉に近すぎる地勢がそうさせるのかな
道灌は江戸~ってイメージが強いし
河越の扇谷も岩付の太田もそう長い期間でなく、いなくなちゃったし
江戸期は江戸と近すぎるし

33: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/06/21(水) 15:02:48 ID:Z6XlPt5e
確かに扇谷、ひいては山内を支えていた人物ではある、道灌 
でもあそこで殺されて、そのあと旧勢力の没落が始まるから、評価をより高めているような気も

66: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/08(土) 13:53:21 ID:Rio/JUEU
葬儀社のHPなのに忍城について色々載ってて結構面白い
http://www.gyoda.co.jp/gyodahanasi.htm

67: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/09(日) 01:05:09 ID:6ku4Xspk
なぜ葬儀社が?
社長の趣味か?それとも郷土愛か?

194: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/08/03(金) 16:26:54 ID:oTPktiza
『関八州古戦録』(だったと思う)を読んでいたら、次のような話がありました。
1572年 奥州寺山城下の戦い。葦名・白河・田村7000、佐竹4000が戦い、
7/27 馬場都々古別神社で双方の代表が集まって、和睦を話し合った。

葦名代表…佐瀬源兵衛・松本源左衛門
田村代表…田村月斎顕頼
佐竹代表…太田三楽斎・車斯忠(一説には北義斯とも)

195: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/08/03(金) 16:31:51 ID:oTPktiza
続き
かつて佐瀬源兵衛は青年時代、見聞を広めるため、
全国を放浪していたが、その時岩附城に立ち寄り、
三楽斎と兵法について一晩語り合った事があるという、旧知の仲であった。

この時、源兵衛は鎧を捨てて身一つで三楽斎の陣を訪れたのだが、
他の代表たちがこれを非難すると、
源兵衛は「三楽斎はそんな人物ではない」と鼻にも引っ掛けなかったと言う。

戦国時代の男同士の厚き友情物語でした。

93: 名無しの司馬遷 投稿日:2006/07/27(木) 11:58:13 ID:JKIBdTxE
資正追放の発端は、資正が継室(大石定久の娘)の言をいれ、 
前室の子氏資を吃音を理由に遠ざけ、 
継室の子政景に家督を譲る旨を、上杉輝虎に伝えたこと 

これに北条氏康が乗じ、資正の留守中に、氏資や老臣と謀った上での追放劇 
(小田原記によるので、史実かどうかは?の部分もあるようだけど) 

当初追放されたのは資正のみ 
政景は岩付城内に幽閉→家臣により救出、以後父に同行

231: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/17(土) 16:49:08 ID:YZ7SZKq8
想像の域を出ないが、
おきまりの家督問題でもあったのかもね。
よくある嫡男を差し置いて次男を・・・のパターンで。

まあこの手のゴタゴタだと嫡男(氏資)側が勝つのもまたパターン。

244: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/23(金) 09:40:42 ID:HVCUt0LE
そういや成田家の下馬不要って、当時の人には周知のことだったのかな?
越後の龍は知らなかったか、知ってて打ちのめしたかよく分からないけど。
知ってて、自らの権威付けの為にやったならバカということになるけど。
HJ016

251: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/23(金) 13:08:28 ID:qXtxpFAS
鎌倉時代・室町時代で成田氏が下馬不要だったなんて聞いたことないんだけど

252: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/23(金) 13:09:48 ID:HVCUt0LE
結局、面白おかしく逸話として良く来たのは後世の創作の可能性が大ということか……。

253: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/24(土) 13:50:47 ID:nI6qHlBm
そして史実では成田を叩いたりしない。なんせ足利の外戚たる簗田が関東不案内な景虎にいろいろとアドバイスしてたから。
小山と千葉の関東での主座争いで揉めたのが原因なのを講談では成田を叩いたと捏造した。

254: 名無しの司馬遷 投稿日:2007/11/24(土) 17:16:52 ID:Uh/Azdwm
千葉胤富(重臣原氏が後北条に内通し千葉本家は乗っ取り滅亡寸前にまで圧迫されてる下克上前夜の現状を打破したいはず)と 
小山高朝(古河公方権力を支えた小山持政という名将が有名。また結城合戦で有名な結城氏は同族で伝統的に反上杉勢力)とが 
関東管領山内上杉を継いだ謙信の仲裁(公方の外戚関宿城主簗田氏のアドバイスであろう)によって千葉胤富が首座となった事に小山氏は不満だった。 
むろん同族の深谷上杉氏や岩槻城の太田氏は扇谷上杉(武蔵・相模)家臣団なので謙信に従った。 
今の群馬県太田市付近は両勢力の最前線だった歴史の流れがあり 
太田・佐野・足利・館林あたりは利根川・渡良瀬川に挟まれた大湿原地帯でパワーバランスが露骨にでるため背反が多く面従腹背で生き延びてきたのだろう。 
この争いで関東諸将がバラバラになったのであって成田ムチ打ちで関東諸将が謙信を見限った話を捏造。 
単に北条側の鉢形城や川越城からの松山城総攻撃(武田との連合軍)に前後しての示威行動が弟の騎西城や忍城に強大な圧力をかけられたからだろう。 
また里見・太田連合軍が松山城救援に失敗し翌年には国府台で正月から酒盛りをして夜襲を受けての大敗により 
太田資正の岩槻城まで喪失し上総の久留里城まで里見勢力が押し込められたパワーバランスの後退ってのが大きい。

469: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/06(火) 17:06:27 ID:OcxtGLAZ
本当は烏帽子を落とされたんだよね

470: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/07(水) 14:58:09 ID:Kd8Zb/TV
烏帽子が脱げるほど打擲されたと言うべきかな。

472: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/10(土) 08:54:03 ID:UmJzAv4Y
>>469>>470 
講談話で史実じゃないエピソードだけどな

478: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/23(金) 03:49:30 ID:W6yMdd9y
>>472 
決定的反証がないかぎりは暫定的に史実として扱うべきなのでは?

480: 名無しの司馬遷 投稿日:2009/10/23(金) 09:50:08 ID:Hv+3Yr5X
>>478 
いや、あの、それじゃ森蘭丸たんが山伏の滑降して春日山に進入したとか、 
謙信たんが女性であるとか、反証できないから信じろとはいえないですよ。 
それよりも以下の問題をひとつでもクリアしないとこれを事実と認定できない。 

・一次史料による裏づけができない 
・景虎は関東の武将たちに家格や礼式について丁重に教えを受けている 
・成田は馬上から管領を見下せる家柄ではない 
・それでも本当に成田が殴られたなら成田の自業自得であると周囲は思うはず 
・事件があったとされた直後成田は人質に子息を政虎へ差し出している

274: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/02/18(月) 11:43:27 ID:7YjtIFuI
資正は佐竹に亡命してからは、関東や東北への同盟の使者として頑張ってたらしいね。

275: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/02/18(月) 16:15:53 ID:JkN6UL6G
秀吉との外交もやってるしね。
関ヶ原まで生きていたら三楽の発言も取り入れ佐竹の動きがより明確な行動につながってたかも知れないし面白かったかもね。
あくまで岩槻帰還を考えていたら徳川ウザッって思ってるだろうし上杉とのパイプもバッチリ持ってるし真田昌幸並みに曲者だからねw

314: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/06/08(日) 02:14:31 ID:J5p4kzeH
岩槻城も1478年に古河公方方の忍城主成田顕泰の父であった成田自耕斎正等が築城したって事らしい。
長尾景春の乱に同調し上杉を裏切り古河公方へ味方した為に岩槻城を豊島氏を滅ぼした道灌に奪われたとか。

品川湊近くに太田家は居館を構えていたらしいけど
古河公方との戦いで道真が河越城を築城して扇谷上杉当主を補佐して道灌が江戸城を築城したってのが通説。
埼玉は景春の乱での勝利によって得られたように思えるが結局は扇谷上杉定正に道灌は暗殺され、岩槻系と江戸系の太田氏は分裂。
双方とも結局は北条氏に併合されちゃうんだよね。

315: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/06/08(日) 07:16:13 ID:u7W9Ilxh
成田や由良らは謙信が死去したら迷走を始めたよ。
彼らは謙信がいたから北条も好条件で味方に引き寄せていたんであって彼ら自身の力で独立を守ってたわけじゃないからね。
小田原征伐の時に成田は人質として小田原城に入城し小田原城が落城した後も成田家臣が守った忍城は落ちなかったね。
まー三成が秀吉にあくまで水攻めをやれって指令されてたから落城を免れてたとも言えるけど。
おかげで堤防が壊れて失敗し戦下手とか言われて三成カワイソス
由良足利兄弟は小田原城へ出頭したら北条に拉致られてしまったw
解放されたが金山城を北条に譲渡して桐生城へ後退するハメに。

316: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/06/08(日) 08:16:02 ID:L8jjC49d
由良は成繁が謙信とほぼ同時期に死んだからだろ。
足利長尾の旧臣が残したものによれば
成繁は北条のやり方は常に無道であるから兄弟そろって北条に同陣してはならないと遺言したが
兄弟はそれを破って二人揃って厩橋城に行った為拉致。

317: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/06/08(日) 10:13:55 ID:zefVJ+VO
>>316に全面的に同意

成田だって、北条の軍事指揮下には入っていたけど与力大名的な立場で、
その証拠に領内には北条から派遣された家臣が一人もおらず、
軍役も成田氏独自のものだった。
北条からは内政・外交の自治権をも認められていた。

故に天正期に入ってからもある程度自力での独立を保っていたとみるべきである。

318: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/06/08(日) 18:37:56 ID:lhAM6LYJ
あれを独立と言えるのかどうか・・・・

330: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/26(土) 22:15:21 ID:qmwpH/cx
河越氏が関東公方に追放されずに室町時代を生き延びて戦国大名化できてたら・・・
山内・扇谷両上杉氏が同族喧嘩に憂き身をやつさず、一本化できてたら・・・
情けない主君に愛想つかした太田道灌が下剋上に成功していたら・・・
o0230023012682319796

どれかひとつでも成功していたら武蔵というか埼玉県域は草刈場にならずに済んだんだろうがな。
でも、武蔵って主要部が平坦で攻めるに易く守るに難い国だからそれでもどうだったか。

331: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/27(日) 00:53:05 ID:qSR9Eovg
上杉定正のドコが情けないんだ?w
kao16

333: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/27(日) 13:46:10 ID:Z+S56xe8
定正は道灌暗殺のせいで正当な評価を受けてなさすぎるよな……。

334: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/27(日) 22:30:21 ID:kKWMSJX5
定正は、優秀すぎて危険な不穏分子となった道灌を殺した。 
それは結果としてむしろ良いことだったかもしれない。 
これは尼子晴久にも言えるな。 

実際、道灌死語も強大な山内上杉を相手に互角の戦いをしていた 
わけで、むしろ定正は傑出した武将だったと言える。

335: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/28(月) 04:32:23 ID:J+nq+7lt
>>334 
そのくらい傑出してたら、どうして自ら山内家に下って上杉家の力を一本化しようと思わなかったのか。 
定正の死後、北条が成長して武蔵に入ってきてからの山内・古河公方との連合はいかにも野合としか見えなかった。この時期では遅すぎた。

336: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/28(月) 10:56:46 ID:YyAjcgNa
>>335 
>自ら山内家に下って上杉家の力を一本化しようと思わなかったのか。 

自ら下って一本化できるのか?山内家主導になるだろうし、それでは扇谷家の臣が 
不満をあらわにするだろう。下った時点で定正に主導権は与えられないだろうし

345: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/10(日) 16:21:33 ID:p3IhMw6U
>>331333-334>>336>>339
上杉定正の子孫の方ですか?

347: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/23(土) 15:48:02 ID:JSF2wkyy
>>345
お察しのとおりです。
却って道灌のせいで扇谷上杉は弱体化してしまったと思います。
定正は獅子身中の虫道灌を取り除こうとしたのですが、寿命が彼に力を貸しませんでした。これも天命だったのでしょうが残念です。

348: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/23(土) 21:13:59 ID:6h9upot8
>>345
劣勢の中、負けよりむしろ勝ち戦のほうが多いんだから、定正が
武将として良い評価されるのは当たり前でしょう。


360: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/09/17(水) 10:28:45 ID:78Aw6xBg
>>334さんへ。私は、長享の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。

(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。

一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」

(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年~2年(1492~1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)

(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。

(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?

(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか?

362: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/09/19(金) 09:33:58 ID:F29H2JmK
>>360
敗北気味の結果論から大森らが言い訳みたいに言っているんでないのかな
もし主にとって脅威になる存在でなければ、よりによって謀殺されたりしないだろ。
道灌は山内上杉重臣に道灌状を渡して定正への不満讒言してるし
扇谷重臣の不満にも赴いて弁解すらしないで、
自分の館に家臣を集めて政庁みたいにしちゃってるし。
道灌の父が若き道灌をたしなめたり、諌めたりしたのを言い返したり野心家ぶりが出てくるし。
定正の妻の兄弟である長尾景春の巻き返しの謀略があったとするなら納得できるけど。

363: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/09/20(土) 16:07:20 ID:fIRpzIjb
>>362
定正の子孫乙

366: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/10/05(日) 23:43:37 ID:yQWiIlk3
>>363
定正の評判を落とそうと必死・・・・・気持ち悪いです。

367: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/10/06(月) 17:23:34 ID:Y2aOR18e
>>366
道灌の評判を落とそうと必死・・・・・気持ち悪いです。

365: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/10/02(木) 14:29:39 ID:gHAvo8a2
>>362さんへ。返レスどうもありがとう。
1.「大森教訓状」について
これは、死の病に苦しみながらも、(事実、この1~2年後に氏頼は病死するのですが…)
関東の平和を願う氏頼が、定正に宛てた「心の叫び」なんですよ。比喩やオーバーな表現が多いのがネックですが…、
読み終えた後、私は胸が熱くなりました。あの「出師表」のように…、
興味あるなら…レス下さい。長文なので概要のみね。

2.道灌暗殺について
あなたのレスは最もです。
粛清されるか?or独立するか?は、戦国時代や古今東西を問わず№2の宿命でしょうね。
(マキャベリの『政略論』にもありますよ。)
さらに、>>362に追記するならば…、
(この点はは何故か?誰も論じないのですが…)
道灌自身が優秀なスポークスマンであり、かつ(文化人を利用しての、)自分擁護の宣伝も巧みですね。

ただ、私の意見を言わせてもらうと…、
いろいろな複合的な対立の渦中に道灌は暗殺されたと思うんですよ。
成氏vs.政知。顕定vs.定正。道灌vs.景春。道灌vs.曽我兵庫とかね。
一度、五年位前にまとめたリポートがあるので、興味合ったらレス下さい。恐々謹言。

370: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/10/10(金) 10:33:33 ID:wB4wK8J3
1 .「大森教訓状」の概要
(1).山内家は上杉の棟梁として(鎌倉)公方様の時代から関東諸将の尊敬比類なく、配下の軍勢は20万騎である。
一方、扇谷家は100騎だけど、たまたま天運と道灌の器量によって天下に名を揚げ、関八州に誉れを振い、
(関東の)諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。
その道灌を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい。

(2).こんな諌言をするのは、氏頼が代々の家風(家臣)で、心底から別儀(二心)があるわけでなく、
(闘病中で、もうじき死んでしまう)今こそ、思う所を述べさせてもらいます。

(3).先年(長享元~三年・1486~1488年)の山内と扇谷の対立の時は、
山内側は味方が無く、扇谷は公方政氏様を引き立て、長尾伊玄を従えて、高見・須賀谷において、敵と戦い勝利するも、
(顕定の本拠地の)鉢形は未だに滅亡していない。
(氏頼もこれらの戦いに参加している。『相州兵乱記』)

(4).それはお屋形(定正)様が勝利に慢心して公方様を見捨てたからではないでしょうか?
どうか一番大事なことは何か?よくよく考えて下さい。
関東の平和は万民の悲願です。これはお屋形様一人の判断にかかっています。(つまり山内と和睦して下さい!!)

373: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/11/04(火) 17:16:28 ID:icTUJVmv
>>370
なかなかの名文ですね。死の病にかかって
主君を憂うる心がみえますね。
やっぱり古河公方との連携って重要ですよね。
そもそも妻の兄である義兄弟の景春の援軍も古河からの兵も大分いたでしょうしね。

337: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/28(月) 22:04:29 ID:rsohFbIX
連合自体は悪くないとおもうがね。
今川との共同作戦だったようだし。
負けるほうが難しい状況だった。

338: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/28(月) 23:12:07 ID:WZRH5GIG
まぁ情けない主君って訳でもなかったろうが、
傑出した武将、は言い過ぎだろう。

339: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/07/31(木) 20:08:49 ID:9kUSqu7r
定正は軍事的には有能なんだが、政治的にはどうかと言われると疑問、
つか不明なことが多すぎて評価しにくい。
重臣の力を削いで平均化し、当主権力の強化に成功しているので無能ではないはず。
顕定に比べれば遥かに優れてるんだが、家格が違いすぎて連合は難しいだろうな。

340: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/02(土) 02:00:07 ID:y5iHPWYn
顕定の父である越後守護がウザイんだよ。
あいつ、信濃半国守護でもあるんだよな。しかも謙信の祖父がついてるし。
顕定の弟だっけ?を白井城に駐屯させて輸送路も確保してるしな。
越山されると厄介。

342: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/02(土) 14:01:04 ID:DGDM5wq1
>>341
顕定の父房定はなかなかの傑物。

349: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/23(土) 21:40:43 ID:CrebJ2XB
連勝したことで本人が奢ってしまい末期には古河公方が怒って断交してしまい(古河が派遣した景春との仲も微妙になったろう)
山内との国力差に嘆き始めてるがな。定正は良い時に死んだのかも知れん。
まぁ山内上杉顕定が越後で敗死するからまだまだわからんが。

355: 名無しの司馬遷 投稿日:2008/08/28(木) 04:08:04 ID:O/sOkD9k
扇谷は早雲に頼りすぎたんだよなぁ。
それで山内も謙信の爺ちゃんの越後勢の投入に踏みきっちゃった。
肝心の早雲は知ってか知らずか伊豆で温泉つかっちゃって援軍来ないし。
越後勢が平塚まで蹂躙・・・。
やっぱり他家に頼るのは亡国への道だよな。

535: 名無しの司馬遷 投稿日:2010/10/07(木) 20:40:39 ID:YeFL/XWS
忍城はがっかり城でござった
明治政府まじで勘弁しろよ…