http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161622713/
         bk_b44cca11d22dd10983cb6dc29a775ddb_qrfDkH
1: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 01:58:33 ID:MrQnEw320
中国史上屈指の乱世五代十国時代。

栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。

この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
3: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 02:03:27 ID:MrQnEw320
と言うわけで、五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、
唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、
まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、
黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、
まず語らなければなるまい。

6: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 11:02:36 ID:ls0BDsa60
李克用(858~908年)
 突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して
功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で
病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。

7: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 11:45:02 ID:D4HbLrDN0
昼まで暇なんで、李克用について。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。

沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は
(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)
ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。

安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。

で、それなりに唐との誼もあるので、ホウクンの乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。

李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領を殺し独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によって殺されかけるところでした。

しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。

が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。

9: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 15:52:23 ID:WJXOjL0Z0
>>7
三戦板のスレでも、指摘していた人がいたけど、その説明を読むと、
李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。

11: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 21:20:57 ID:D4HbLrDN0
>>9でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。

李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。

その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。

李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。

楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。

で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。

李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。

10: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 17:01:01 ID:p6hSK/du0
南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、
英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、
天下を望むことはできたのかな?

15: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/25(水) 01:08:32 ID:ldm+WpPM0
>>10 南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。

しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。

この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。

16: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/25(水) 01:17:28 ID:ldm+WpPM0
>>15 
このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。

17: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/25(水) 08:53:45 ID:n7udpV/20
>>15
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、
張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、
官塩ってすごい財源なんだね。

25: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/26(木) 20:02:27 ID:e12cwApx0
うはw 史板のソレ、レベル高いんだよね。 中盤からは何しゃべってるのかわからなくなるくらい…

さて、爆弾投下。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。

これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。

そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。

朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。

そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。

また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。

30: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/28(土) 09:05:28 ID:BavDBui30
五代物語

第一部は、黄巣の乱、黄巣が主人公。
第二部は、残唐から大梁建国で、朱温が悪の主人公。
第三部は、李克用とその子孫を正義の側に立てた、打倒大梁と後唐建国。
第四部は、語り手馮道による五代群雄伝。
第五部は、郭威による後周建国と、柴栄の天下統一推進、趙匡胤の活躍。
第六部は、趙匡胤の宋建国、天下統一、南唐滅亡と後主の悲劇。

41: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/30(月) 17:19:54 ID:h7OvxIrK0
流れを無視して、五代物語のつづき。
>>30さんは、第二部で朱温を主役に添えるように書いているけど、自分、朱温側はまだ把握しきれていないので、あいかわらず李克用側からの流れで…

黄巣の乱のおり、賊軍に味方した河陽節度使(孟州)の諸葛爽という人の下に、李罕之という男がいました。
李罕之は驍勇人に優れ、膂力もまた人一倍だったけど、無学のため無頼をやっていました。
いろいろあって諸葛爽に副将として扱われたが、諸葛が死ぬとその専権を握った劉経が、李罕之を危険視して討とうとします。
しかし李罕之は張言と協力してこれを返り討ち、李罕之は河陽(孟州)、張言は河南(洛陽)をそれぞれ領有しました。
ふたりは親友といってよい信頼関係を得た… はずでした。

李罕之はそもそも横暴な性格で、実は張言のことを見下していました。
それゆえ張言にはあれこれ無理を押し付け、自分は何もしないので、張言はぶちキレて、李罕之を攻めました。
張言は善政を布いていたので、将兵は彼に付き、李罕之は進退窮まってしまいます。

そこで李罕之は隴西郡王たる李克用を頼り、太原(=晋陽)に奔りました。
李罕之を受け入れた李克用は、李存孝、薛阿檀、安休休らに7千を率いさせ、李罕之とともに河陽奪還に出陣させました。
それに対し張言は汴梁の朱全忠に救援をもとめ、丁會、牛存節、葛従周らが後押ししました。
ここに、李VS朱が、はじめて対立するようになるわけですが、朱全忠軍が李克用軍の退路を断ったので、李軍は大敗します。
また、潞州(上党)で李克用の弟、李克脩が亡くなると兵乱がおこり、叛した将は朱全忠側に降ってしまいました。
それを取り戻すべく、康君立、李存孝を遣わすものの、すでに朱全忠側の驍将・葛従周が潞州に入り、防備を固めていたので、手が出せませんでした。
戦況不利な河東軍を、討伐のチャンスと見て取った、幽州の李匡威、雲州の赫連鐸らは宰相の張濬に働きかけ、一気に太原を攻撃しようとしました。

宰相・張濬は、かつて李克用に「お前は口だけだ」と言われたことがあり、それを根に持っていたので、昭宗の許可を得て、李克用の官位を削除、朝敵に認定しました。
張濬を総大将、孫揆を副将とし、実戦部隊の指揮者として華州の韓建をあて、邠州の王行瑜、鳳翔の李茂貞、李匡威、赫連鐸らを加え、大規模な包囲陣を布きました。

当然、朱全忠もこの機に北上し、李罕之がいる澤州を攻めさせました。
逆賊となった李克用は、幽、雲方面には、李嗣源(後唐明宗)、李存信、周徳威らを派遣し、李罕之の救援には李存孝に5000の兵を与え急行させました。
李存孝は進軍速度を重視し、500の騎兵のみで、澤州を包囲する汴の勇将・鄧季筠に迫りました。
李存孝は鄧季筠を一騎討ちで擒え、李罕之と内外呼応して汴軍を破り都将を数十人虜にしつつ追撃し、馬牢関で斬首万余級の大勝をあげました。
さらに官軍の副将たる孫揆が潞州へと陣を移そうとしていることを察知し、軽騎300にて隘路に伏兵し、孫揆の親軍3000を奇襲。
孫揆を生け捕った李存孝は、そのまま汴将・葛従周の篭る潞州を強襲して、復することに成功しました。

李存孝の悪魔な活躍で南方面が安全となった李克用は、晋州に陣取る張濬を討つべく進軍を開始しました。
張濬もこれに対し野戦で決着をつけようとしたものの、陰地関の戦いで破れ晋州城に後退しました。
さらに頼みの韓建も李存孝に敗れたので、長安へと遁走してしまいました。

そこで李克用は朝廷に無実を説き、楊復恭らの張濬追い落としの思惑もあって、官位が旧に復され朝敵の汚名は返上されました。
この一連の戦いで李存孝の勇名は鳴り響き、『旧五代史』などにはわざわざ
「挺身陷陣、万人辟易、蓋古張遼、甘寧之比也」
と書かれているという。

32: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/28(土) 21:08:41 ID:1OIh1RIN0
流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。

139: 名無しのしばせん 投稿日:2007/03/03(土) 02:05:02 ID:wIAkmz870
ここにはかなり詳しい人がいるので聞いてみたいんだが、沙陀の連中は
民衆から収奪するばかりで、まともな統治をしなかったというのは本当だろうか。
それとも当時はどこも同じだったのか?

140: 名無しのしばせん 投稿日:2007/03/03(土) 12:23:45 ID:Fcn9qi5g0
>>139 学術的に詳しくないが、雑感として思うところを述べてみるテスト

山西に鎮した李克用には、方々での掠殺の記録もあり、統治はむろんするが、小さな過失でも容赦がなかったように思えます。
そもそも戦争屋としての資質が第一なこの軍閥にあって、毛筆関連は下に見る傾向があったわけです。
山西に根付く尚武の気風というヤツでしょうね。

ただし、河東監軍の張承業は別格であって、李克用のような暴れん坊が、この人をして師あるいは兄としたのは、珍しいことでもあったといえるでしょう。
李克用は部下の偏重が多く、人心の掌握が薄かったので領域内での反乱が多く、一時は滅亡寸前まで追いやられました。この辺、項羽的な性格だったと思える。
そこで山西が軍閥として崩壊しなかったのは、ひとえに張承業の手腕によるのではないかと。
張承業は在野の士を招いたし、馮道の登用を強く推したのも彼だった。
つまるところ沙陀出身で国づくりを意識したものは少なく、いわゆる漢人によって保たれたと思えるわけです。
また、劣勢な晋が梁を圧倒できた背景には、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の妻、楊氏の蓄財が大であったのです。
李嗣昭自身は勇猛な武将で蓄財の才能はなかっただろうけど、その妻に異様な才能があって、李嗣昭の家財は巨万となっていました。
山西は昔から鉄の産地で、その貿易によって荒稼ぎしたものと思われます。
名前は伝わっていないこの夫人が、晋をして梁に勝たしめた、とさえ言えます。

ちなみに収奪の度合いは、後晋中期にそのピークを迎えます。
出帝のとき後晋はとんでもない不作と黄河の氾濫にあい、国土は破滅寸前にも関わらず、主戦派のアホウどもが契丹との開戦に踏み切ったため、軍糧の調達でさらに疲弊を促していたのです。

節度使という制度自体が収奪を促すものであって、自制なき強者の私財収集は際限がなかったのです。

309: 名無しのしばせん 投稿日:2008/02/15(金) 01:49:51 ID:31Qsgo220
李克用の親父の李国昌、この人物はウイグルの崩壊にも一枚噛んでるんだけど、それが840年 
ごろのことで死んだのが887年だから随分長生きしたように感じる。といっても年齢が分からん 
のだけど。 
息子や孫に比べりゃ地味だが河西に侵入した吐蕃相手に奮戦して敵に恐れられたり 
龐勛の乱の討伐で敵に突っ込んで危うくなりながらもこれを打ち破るところは、やはり李克用 
李存勗はこの人物の血を引いているんだなと思わせる。 

340: 名無しのしばせん 投稿日:2008/05/13(火) 08:03:54 ID:oIv9N4w20
この時代は大規模な民衆反乱がほとんど無いから、節度使にとっての正解は民衆を犠牲にして 
その分軍隊を優遇することになる。実際、軍隊の反逆で倒された節度使や皇帝はいくらでも 
いるけど民衆の反乱でその地位を追われた人物はあんまりおらんわけで・・・。 

脳みそ筋肉節度使の筆頭ともいえる李克用支配下の山西なんか 
”克用親軍皆沙陀雑虜、喜侵暴良民、河東甚苦之” 
という有様で、なんでこんな奴等に20年以上も支配されて反乱が起きないのか 
不思議でならん。李克用本人は一応「これじゃいかん」とは思っていたようだけど。

347: 名無しのしばせん 投稿日:2008/05/31(土) 20:25:06 ID:b9ctkc1S0
>>340 
やはりそれなりの政治は行ってたんじゃないかなあ。

350: 名無しのしばせん 投稿日:2008/06/28(土) 02:07:04 ID:C6eNU8ds0
>>340 
まあそこらへんは割り引いてもいいと思う。 
なにせ政権握ってたのは軍人とか異民族だから、悪く書き立てられたというのもあると思う。 
第一、そんなに収奪ばかりしてたら、すぐ民衆の反乱が起きるでしょ。 
反乱が起きなかったってことは、やはりそれなりの統治はしてたと思うよ。 
李克用や朱温の良い面を信じたい。

351: 名無しのしばせん 投稿日:2008/06/28(土) 11:19:23 ID:yOvFGIMN0
李克用の面白エピソードのひとつに、こういうのもある。 

燕地方の幽州節度使、劉仁恭の将佐に高思継というのがいる(演義でいい役のひと)。 
高思継には兄と弟がいて、兄弟三人で燕軍を分掌していた。 
高兄弟の掌握する兵は、山北の豪傑で多く構成されていて、節度使の劉仁恭でも 
いろいろはばかられるところがあった。 
ある戦いで李克用が燕と兵を併せるため、一将を遣わしたのだけど 
戦い終わって、その将が帰り際、「高先鋒兄弟の勢いは州府を脅かすほどです。 
いずれ燕にとっての災いとなるでしょう」などと吹き込んだ。 

一方で、晋から派遣された兵らは、燕の地でほしいままに横暴に振舞っていた。 
高思継ら兄弟は、正しく法に則って(燕に法?笑)、多くを断罪した。 
李克用はひどくお怒りになって、劉仁恭に詰め寄り、ついに高兄弟を殺害させて 
しまった。 
劉仁恭は高兄弟の子らを憐れみ慰め(笑)、自らの帳下に置いた。 
成人していた高行珪は牙将として抜擢し、10歳だった高行周は側仕えとした。 
まんまと高兄弟の強兵を手に入れた劉仁恭なわけだけど、単細胞な李克用を 
彼が利用したのか、それとも李克用のあるいは反間の計だったのか 
つまびらかではない。 

だが結局、燕は李存勗によって滅ぼされ、高思継の子らは晋王府軍に転籍 
することになる。 
高行周はこののちに活躍する五代を代表する名将で、契丹を恐れさせた双璧のひとり。 
とある講談では、耶律徳光と一騎討ちするさままで演出されたりとか。

12: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 22:25:41 ID:1mQzRoWo0
五代 
後梁(907年 - 923年)  
 建国者は朱全忠(朱温、朱晃) 
後唐(923年 - 936年) 
 建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。 
後晋(936年 - 946年)  
 建国者は石敬?。 
後漢(946年 - 950年) 
 建国者は劉知遠。 
後周(951年 - 960年) 
 建国者郭威。 

十国 
呉(902年 - 937年) 
南唐(937年 - 975年) 
呉越(907年 - 978年) 
?(909年 - 945年) 
荊南(907年 - 963年) 
楚(907年 - 951年) 
南漢(909年 - 971年) 
前蜀(903年 - 925年) 
後蜀(934年 - 965年) 
北漢(951年 - 979年) 

他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など

13: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 22:26:15 ID:1mQzRoWo0
前蜀(903年 - 925年) 
 黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年 
に後唐に攻め滅ぼされる。 

後蜀(934年 - 965年) 
 前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して 
後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。 

呉(902年 - 937年) 
 開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。 
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐 
知誥に禅譲する形で滅亡。 

南唐(937年 - 975年) 
 呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。 
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。 

呉越(907年 - 978年) 
 無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争 
するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。

14: 名無しのしばせん 投稿日:2006/10/24(火) 22:26:47 ID:1mQzRoWo0
?(909年 - 945年) 
 節度使王審知が、後梁に入朝して?王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、 
 内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。 

荊南(907年 - 963年) 
 後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、?、南漢、後蜀のほとんどの周辺国 
に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。 

楚(907年 - 951年) 
 唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し 
続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。 

南漢(909年 - 971年) 
 唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉?が913年に皇帝を称 
して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。 

北漢(951年 - 979年) 
 後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。 
979年に宋に攻め滅ぼされる。