播磨学研究所/編『世界の遺産 姫路城』所収の黒部亨さんの講演で紹介された話。越後高田藩主の榊原政永が能好きで、自らの能に家臣やその家族に拝観を許可したが、何日も続くので来なくなる。すると次は領民に触れを出す。最初は城内見物がてら喜んでいた領民もそのうち飽きてしまう…。(続く)
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Sun Jul 17 13:38:18 +0000 2016
(承前)でも能好きの榊原政永、観客が居ないと張り合いがないので、ついに領内の村々に石高に応じた観客割当を命じる。庄屋達が粘って、日当と弁当付きになったが、それでも農繁期には辞退者が続出。最後は野良者や博打打ちが日当と弁当目当てに殿さまの能を見に行くという珍事態になったとか…(汗)
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Sun Jul 17 13:43:25 +0000 2016
>RT え~~落語の「寝床」だっけ⁉︎大家さんがヘッタクソな義太夫を長屋の店子達に無理やり聞かせようとして…にそっくり~~(`∇´°!実話だった⁉︎
— 高瀬理恵(@kugesamurieta)Sun Jul 17 16:48:25 +0000 2016
@kashiwagiyugehi リアル「寝床」殿様お能版、ご紹介ありがとうございます(*゚∀゚)
— mikiko_k(@mikiko_k)Sun Jul 17 23:08:49 +0000 2016
@mikiko_k 本当に落語になりそうな話で。元が講演を文章化した話ですし、作家さんだということもあって、明確な出典が示されていないのですが、是非、原典の資料を見てみたいですね。あまりお殿様が趣味人だと、領民は苦労すると…。その御触れをいきわたらせる役人たちも大変だ(^^;)
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Sun Jul 17 23:45:09 +0000 2016
.。oO( …なんとなく好感の持てるお殿様だが…ある意味、暴君には違いない…。 >RT
— 奥原佳津夫(@KatsuoOkuhara)Sun Jul 17 15:31:19 +0000 2016
@KatsuoOkuhara 困ったお殿様ですよね(^^;) 榊原政永の父、姫路藩主だった政岑は姫路藩主でしたが、かなり能好きだったようで、神道の吉田家から「翁の大事」の伝授を受けたほど。姫路藩主歴代でもワーストに数えられる評価で、結局、強制隠居→越後高田に国替えになりました。
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Sun Jul 17 23:38:19 +0000 2016
そうでしたか、御父君の代から…!
それにしても、越後高田は連日の“町入能”だったのですね。領民が能嫌いになっていなければよいのですが…(笑) @kashiwagiyugehi
— 奥原佳津夫(@KatsuoOkuhara)Mon Jul 18 01:42:28 +0000 2016
@KatsuoOkuhara 連日の町入り能…実態はどうだったのでしょうね。明確な出典は示されていないのですが、越後高田の資料などで、具体的な様子も知りたいです。
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Mon Jul 18 09:50:12 +0000 2016
「かれの本質は芸能方面にあったとみるべきでしょう。将棋を指し、三味線を弾き、能を舞っているときがいちばん充実し、幸福だったのです。そういうときの政岑はいちばん美しくよい顔をしていたのではないでしょうか。」(黒部亨「榊原政岑と高尾太夫」『世界の遺産 姫路城』より)
— 柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)Mon Jul 18 11:09:00 +0000 2016
落語「寝床」の元ネタなのかな。登場人物が町人なので能ではなく義太夫になるが。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9D…
原話は1775年に出版。榊原政永は1736年生まれ、1808年没。時期はかぶるが。
— kaoruww(@kaoruww)Tue Jul 19 01:25:19 +0000 2016
榊原政岑 - Wikipedia
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真田丸の紀行コーナーでも滝川一益が3ヶ月ほどしか居られなかった厩橋の地で
当時のかの地ではまだ珍しかった能を披露して見せた、と紹介していたけれど
もし織田の世が続いて滝川様が上州の地に根付き隠居生活を許されていたら
たびたび上演会を催して真田家の人々をはじめ家臣や民を辟易とさせていた?
お疲れ気味で湯治をしたがってた段田一益なら、そんなこともなさそうだが
辛抱強すぎたろ家臣団