今回は「前々から変えて貰いたかった描写」を三谷さんに上手く描写シテいただいた回でした。なにかというと、「七将襲撃事件」の流れです。もっとも、完全に史実通りにすると、それだけで丸々一回使う事になる上、前回とダブるので、ラスボス家康を中心にした描写にはなりましたが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:16:43 +0000 2016
最初、三成が蟄居していますが、これは創作です。「家康暗殺未遂」は、大谷吉継が家康支持を表明したことで、風聞の段階で収束したので、三成には処分はくだされていません。2月に家康と他の9人が起請文を交換して「私婚問題」関連のごたごたは終結しています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:19:08 +0000 2016
前田利家が徳川屋敷を訪ねたのは史実ですが、内容は不明です。個人的には、「自分の死後、利長を頼む」という話であったと推測していますが、それを三成謹慎解除の談判という風にアレンジしていただいた形です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:20:20 +0000 2016
「七将襲撃事件」以後の政治史は、俗説がほとんど駆逐されていません。今回が、最初の一歩になってくれればと思っています。ドラマですので、史実(研究成果)と視聴者の知っている「物語」の間のバランスを取る必要があり、さじ加減が非常に難しいのだと思います。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:23:02 +0000 2016
七将襲撃ですが、狙われたの三成だけでなく、増田長盛・前田玄以も標的でした。前田玄以が入っているので、「七将」の不満を朝鮮出兵時のトラブルに求めるのはやはり無理があるでしょう。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:26:00 +0000 2016
肝心なのはその後の動向で、「通説」では「追い詰められた三成は『政敵』徳川家康の屋敷に逃げ込み、窮地を脱した」とされています。しかし、これはもう2000年には否定された説です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:27:41 +0000 2016
三成が逃げ込んだのは、伏見にある徳川屋敷ではなく、伏見にある自分の屋敷でした。そして石田屋敷は、城下だけではなく、城内にも存在します。三之丸を出た脇にある曲輪「治部少輔丸」がそれで、そこに逃げ込みました。つまり、「伏見城に籠城」したわけです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:29:06 +0000 2016
真田丸のここ数回で「治部少輔丸」というテロップが出てきたのは、この事前説明でした。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:30:00 +0000 2016
一方「七将」は、伏見入りしたことを家康に書状で伝え、家康から苦労をねぎらわれています。この家康の行動はとんでもないものです。豊臣政権の「政庁」伏見で争乱を起こした加藤等を、咎めていないからです。このことは、家康が「七将寄り」の立場にいたことを示唆します。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:32:24 +0000 2016
それに対し、石田三成もあろう事か毛利輝元に援軍派遣を求め、輝元がそれに応じるという事態になります。すなわち、国許に援軍派遣を指示するとともに、伏見にいた手勢を集めて上屋敷に布陣します。伏見城下は、一触即発となりました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:33:57 +0000 2016
大坂の動きはどうか。大坂城中の「輿論」は片桐且元が「石田三成を支持しない」という方向で固めます。且元はこの時、石田正澄(三成の兄)・石川光吉(大谷吉継の妹婿で、信繁の上司の弟)・石川一宗とともに秀頼傅役四人衆の一人でしたが、それを制した形。実際の且元は、徳川寄りであったわけです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:36:41 +0000 2016
さて、事態に困惑した人物が2人いました。まずは一緒に伏見に籠城する羽目になった増田長盛です。増田長盛は強硬論を唱え続ける三成に反対し、毛利輝元に「三成隠居による決着」と、秀吉遺言に従い上杉・徳川間での姻戚関係構築を提案します。景勝も巻き込んで和議に持っていこうというわけです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:39:24 +0000 2016
より積極的に動いたのが大谷吉継です。吉継は毛利輝元に「国許からの援軍派遣中止」を求めるとともに、徳川家康に事態収拾に協力してくれるよう求めます。今回、大谷吉継が信繁を家康のもとに派遣させたのは、この動きを下敷きにした作劇です。彼自身、病気で上手く動けないと後で述べていますし。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:41:14 +0000 2016
これにより、三成も籠城継続と毛利輝元と組んでの決戦は「不可能」と判断しました。そこで増田長盛とともに、「毛利輝元・上杉景勝の調停案であれば従う」旨を提案します。これを受け、毛利輝元は家康に徳川・毛利間に遺恨はない旨を確認。徳川・毛利間で談合がもたれます。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:42:59 +0000 2016
そこで家康が出したのは、奇しくも増田長盛と同じ「石田三成に全責任を負わせ、政界から引退させる」というものでした。ところが、「七将」は増田長盛の処罰も要求していたようで、困惑した家康は、この提案が自分から出たことを伏せて欲しいと述べています。毛利の案に折れた形にしたかったようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:45:36 +0000 2016
それで憤激したのが加藤清正であったようです。清正は今度は家康と距離を取り、前田利長と結んだとされます。「されます」というのは、根拠となる史料が外国人の手によるものなので、国内情勢をどこまで正確に認識しているか、要検討の部分があるからです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:47:49 +0000 2016
慶長4年9月9日、重陽の節句のお祝いのために大坂の秀頼を訪ねようとした家康に、前田利長(在国中)・加藤清正による暗殺計画の情報が入ります。家康は大谷吉継に石田家臣を率いさせて前田領国境を封鎖。これで前田利長が生母を人質に出すという流れになります。大谷吉継の動きもポイント。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:50:12 +0000 2016
厳密には、大谷吉継の養子(弟)の吉治が、大谷・石田勢を率いて加賀国境を封鎖したようです。家康はこの一件を調査し、「知らない」と応えた「五奉行」浅野長政が「事実を伏せている」と評価されたためか、隠居に追い込まれます。浅野長政は三成と距離がありましたが、それでも疑われたようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:52:50 +0000 2016
したがって今回の大河で、ようやく「七将襲撃事件で三成が逃げ込んだ先は伏見城治部少輔丸」「家康に調停を要請したのは大谷吉継」という政治史をドラマ化していただくことができました。毛利はここまでドラマの主軸としてでてきていないので、割愛する形です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:55:36 +0000 2016
この間、政治史上は島津家中の内紛である「庄内の乱」、宇喜多秀家の家臣が対立した「宇喜多騒動」が起きていますが、いずれも家康と吉継が調停に動いたり、動こうとしています。これは「直江状」でも同様で、増田長盛と大谷吉継が上杉景勝上洛を説得していました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 12:57:48 +0000 2016
なお加藤清正は、「庄内の乱」に際して反乱を起こした伊集院氏を支援しようとした形跡があり、それが露見して家康の不興をかったようです。彼は「会津征伐」に従軍していません。実は家康は一時「加藤勢の上洛阻止命令」を出しており、清正も黒田如水に家康の機嫌を損ねたと書き記しています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 13:03:24 +0000 2016
さて、直江状ですが、実際には越後の堀氏や旧臣藤田信吉から「謀叛の気配あり」と訴えられたことへの弁明状という要素が強いです。そのためか、近世上杉家の作成した古文書集にも採録されています。ただまあ、あれを読んだら怒るだろうという気はするのですが…。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 13:05:23 +0000 2016
「直江状」原本は残っていません。花押が付されているのもあるのですが、兼続のものとは形が違うので、関ヶ原時の兼続花押に置き換えてもらいました(ようするに、小道具として家康が手にした直江状は全文書いてある)。問題は追而書(追伸)で、事実上の宣戦布告なのですが、軍記物による加筆です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 13:08:13 +0000 2016
「直江状」は転写を繰り返されており、そのたびに誤写が生じたり、「江戸時代の人にわかる言い回し」に置き換えられたりしたようです。古態をとどめた写本をみると、豊臣期の文章として問題ありません。写本の成立もかなり早いです。むしろ幕府が、関ヶ原の正当性主張に利用したようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 13:09:48 +0000 2016
なお、家康は実際に「豊臣正規軍」の総大将として会津へ出陣しています。ドラマでは片桐且元が秀頼の名前を用いることを阻止しようとしたという見せ場がありますが、彼は家康に近い立場にあり、挙兵した三成の動きに逆らえなかったとみるのが妥当です。これ以上は、次回以降に。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Aug 28 13:15:59 +0000 2016
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どの程度この説が正しいのか判断すら出来んが。