1: のっぺらー ★ 2016/06/11(土) 23:05:09.22 ID:CAP_USER
「あの事件」さえなければ、淡路島は兵庫県ではなく、徳島県だったかもしれない。
「あの事件」とは、明治初期の洲本城下町で起きた「庚午(こうご)事変(稲田騒動)」。
江戸時代は徳島(阿波)藩領だった淡路島が兵庫県に編入される発端となった史実をもっと知ってもらおうと、
関係者の子孫らが、先人の足跡を紹介する取り組みを続けている。
b_09176168

庚午事変とは、1870(明治3)年、
徳島藩の一部藩士らが、同藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家と対立する形となり、稲田家臣の家などを襲った事件。
徳島藩側が処罰を受け、淡路島が兵庫県に編入される契機となった。

2013年、稲田家の子孫らが事変で焼失した学問所益習館(えきしゅうかん)にちなみ、市民グループ「益習の集い」を設立。
一般の参加者と洲本市内に残る石碑や墓を巡る歴史ウオークなどの活動を続ける。

ゆかりの地の一つ、江国寺(こうこくじ)には犠牲者を弔う招魂碑があり、側面に「三宅達太郎」の名が刻まれる。
稲田家の武道師範を務めていた達太郎は事変で自決。
グループ会長で、達太郎のやしゃごにあたる三宅玉峰(ぎょくほう)さん(63)=同市=は
「当主のために家臣は無抵抗を貫いたが、武道の達人だった高祖父は何もせず敵の手にかかるのが屈辱だったのでは」と話す。

グループが14年から続ける追悼式では稲田家だけでなく、徳島本藩側の死者も合わせて慰霊することにこだわった。
「両者とも時代に翻弄(ほんろう)された。恩讐(おんしゅう)を超えて、和解する機会としたかった」と三宅さん。
交流は重なり、徳島市のNPO法人と徳島藩主が愛したという「蜂須賀桜」を洲本市内の神社に植樹。
徳島県美馬市では、事変後に北海道の開拓に尽力した稲田家臣らの功績を伝えるパネル展が催された。

事変は、船山馨の小説「お登勢」が原作のNHK時代劇や、北海道で苦闘する家臣らを描いた映画「北の零年」で取り上げられてきたが、
地元淡路島でも事変や稲田家を知らない人は少なくない。

益習館は江戸後期に頼山陽(らいさんよう)ら高名な学者を招くなどして多くの人を育てた。
三宅さんは「その精神を継ぎ、地元に誇りを持てる人材の育成に少しでも貢献したい」と話している。

【庚午事変(稲田騒動)】
1870(明治3)年5月、徳島藩の筆頭家老で洲本城代を務めた稲田家の家臣宅を、徳島藩士が襲撃。
稲田家側の17人が死亡(自決2人を含む)、約20人が重軽傷を負った。
前年の「禄制(ろくせい)改革」で、陪臣(家臣の家臣)である稲田家臣は士族に加えられず、士族編入を嘆願し、分藩独立運動へ。
これを藩主・蜂須賀家への不忠とみた徳島本藩の家臣が暴発した。

明治新政府は首謀者らを切腹や流罪などとし、稲田家側には北海道への移住を命令。
翌71年には淡路島北部が、最終的に全島が兵庫県に編入されたのは、事変のしこりを後世に残さないためとされる。

写真:庚午事変で襲われた稲田家の学問所「益習館」跡に残る庭園。兵庫県の名勝に指定され、土日祝日に公開されている
b_09176169

以下ソース:神戸新聞 2016/6/11 15:15
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201606/0009176167.shtml
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/femnewsplus/1465653909/

4: やまとななしこ 2016/06/11(土) 23:32:39.56 ID:AmYJHsGJ
秀吉の配下の時には最初はそんなに差は無かったのにな、
蜂須賀の家老にされて鬱屈してたんだろ

6: やまとななしこ 2016/06/11(土) 23:53:08.85 ID:k6AoXhyM
ほてるにゅ~~あ~わ~ぁじぃ~

8: やまとななしこ 2016/06/12(日) 00:02:32.10 ID:3fPjThNO
アワとアワジは元々セットです。名前見ればわかるじゃん。

10: やまとななしこ 2016/06/12(日) 00:20:24.81 ID:5HK8/C26
>>8

「阿波国」
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を縁起の良い二字で表記するため粟は阿波に変更された。

「淡路島」
「阿波への道」が語源と言われることが多いが『古事記』・『日本書紀』で最初にできた国が淡路島とあり矛盾する。淡という漢字は淡海(近江)、淡河、淡谷など自然を表す字と組み合わされることが多い。
「路」や「道」は現代で言うところの「地」であったと考えられ、最初に国として完成することができた尊い土地という意味で淡路(淡道)と名づけられたものと思われる。

はい 論破

バーカ

20: やまとななしこ 2016/06/12(日) 09:50:31.71 ID:2qHHs84O
>>10
新日本書紀に載ってる説として、海上から見ると山の高い小豆島は「厚く」見え、比較的低い淡路島は「薄く」見えるそうな

それで、
あつきしま→あずきしま→小豆島(しようどしま)
あわきしま→淡路島
なのだと
でもその新日本書紀ですら異説として紹介している

しかしあの近辺の土地の名称は興味深くて五穀にまつわって

黍(きび)→吉備→岡山
小豆(あずき)→小豆島(しょうどしま)
粟(あわ)→阿波
米・飯→香川県丸亀市飯山町
稗(ひえ)→高知県稗己屋山の付近
と思われる

しかもこの話し、徳島市付近に残る「大月姫」神話と一致する

あの近辺の伝説は古過ぎて・・
大和以前・・はるか古代だろう
上記の話しだって、元々稗、粟等を主食としていた縄文系部族の中に瀬戸内側から米を主食とする弥生系の侵入を推測させるし

もう一つ、淡路島の神話「伊弉諾(いざなぎ)」神話と、今も高知県物部川流域に残ると言われる古代宗教「伊弉諾流」の関係など興味はつきない
http://www.yomiuri.co.jp/local/kochi/news/20160528-OYTNT50134.html

9: やまとななしこ 2016/06/12(日) 00:07:34.48 ID:I4b4tzUI
蜂須賀小六が橋の上で秀吉に会ったとき、小六のそばにいた一の子分が
稻田九郎兵衛。のち蜂須賀家に阿波、淡路が与えられたとき、稻田九郎兵衛
に淡路の仕置きを任せた。稻田家は代々蜂須賀家の家老と淡路の城代を兼ねた。

11: やまとななしこ 2016/06/12(日) 00:21:56.69 ID:pi+wd/PB
徳島だったのか
昭和生まれなので知らなかった

17: やまとななしこ 2016/06/12(日) 01:03:49.75 ID:2qHHs84O
庚午事変(稲田騒動)をモデルにした吉永小百合さん主演の北の零年は名作だった

18: やまとななしこ 2016/06/12(日) 01:07:20.50 ID:Mf1q25Wq
淡路島って、元々滋賀県だろ?だってぴったりあそこにハマる。

24: やまとななしこ 2016/06/13(月) 17:55:12.24 ID:qH3QILj5
庚午事変とその関係文書からの問いかけ
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/article/0007409.html

騒動の歴史的背景

騒動の歴史的背景にはいろいろな説があります。
まず、藩政初期の蜂須賀氏と稲田氏の関係を重視する必要があるのではないかという説。
蜂須賀氏が播州にいる頃稲田氏も2万石の大名になるはずであったのに蜂須賀氏に稲田氏は友情関係によって従ったという経緯があるといわれます。

次に稲田家の役職である洲本城代の成立事情です。かなり資料をあさりましたが判然としないところがあります。
実際に洲本城代がどういう役職でどのような職務であったのか、時代によっては名誉職のようになっていなかったのだろうかなどの不明点があります。 

稲田陪臣層は3000人あったといわれますが、全ては武士ではなかったとされています。
農民身分から武家奉公人の形で仕えていた人も多かったといわれます。
また、稲田家は大坂に蔵屋敷を持っており、利殖をすることができたといわれます。
具体的にどんな経営が行われていたのかはわかりませんが、そういった経済力に養われながら稲田陪臣層が活躍できたという流れがあります。

また徳島藩と稲田家家臣との間には学問の流れの違いがあります。
小倉富三郎の史料を見ていただいてもわかると思いますが、徳島の学問は儒学・朱子学が強く表れていますが、
淡路では本居宣長以前から庶民の中にも国学の流れがあったとされています。

さらに、直臣と陪臣の差別です。
稲田家の家臣は浅黄色の足袋をはかされ、見たらすぐに陪臣であることがわかるようになっていたというような差別がありました。

そうした様々な確執の上に、維新の変革による禄制改革や身分制の改革があり、大きな事件が起こったのです。
25: やまとななしこ 2016/06/13(月) 17:58:30.47 ID:qH3QILj5
稲田侍たちは、徳島藩蜂須賀家の直臣たちから見れば陪臣に過ぎない。
直臣たちには白足袋をはくことが許されるのに対し、稲田侍には浅葱色の足袋しか許されないという身分差別も厳然として存在した。
学問にしても、国許詰めの直臣子弟は寛政3年(1791)城下の寺島に置かれた学問所に、江戸詰めの者たちは安政3年(1856)江戸八丁堀の藩邸に開設された長久館に通ったのに対し、稲田侍たちは洲本城下に稲田家が建てた郷校益習館に学ぶのをつねとした。

この両者の関係がドラマチックに逆転したのは、慶応4年(1868、9月8日明治改元)1月3日に鳥羽・伏見で始まり、
あけて明治2年5月の箱館戦争でおわった一連の戊辰戦争において。
それまで佐幕の立場をとってきた14代目の藩主蜂須賀茂韶は、
奥羽戊辰戦争もおわりかけたころになってようやく新政府軍に二百人の兵を参加させたのだが、
兵たちはあまりに旧式の装備だったため諸藩から失笑を買ってしまった。

一方、稲田家の16代目当主九郎兵衛邦植は、鳥羽・伏見の戦いが起こったと知ると、いち早く百人の兵を新政府軍に派遣。
ついで一大隊の兵力を出征させたため、「稲田藩」「洲本藩」と呼ばれて勤王諸藩から一目置かれ、自身も賞典2千両を与えられるという栄誉に浴した。

明治2年1月、徳島城西の丸に長久館があらたに設立され、砲術、洋学、算術などが教授されはじめたのも、
徳島藩があまりに時代遅れになっていた士風の刷新をめざしたからに違いない。
26: やまとななしこ 2016/06/13(月) 17:59:16.63 ID:qH3QILj5
益習館とは
http://ekisyuukan.blogspot.jp/p/blog-page.html

徳島藩下にあった洲本には蜂須賀氏の「洲本学問所」である「文武学校」が現在の洲本警察署の地にあった。

その後、洲本城代として洲本城下に屋敷を構えていた8代当主・稲田植久(たねひさ)が家臣の教育のために独自の学問所を創設。

13代当主・芸植(すけたね)の代に稲田氏の下屋敷(西荘、西屋敷)へ学問所を移し素封家(豊かな庄屋層など)の子弟にも開放するなどして規模を拡大。
ここでその名称を“益習館”に改める。

~幕末には稲田氏の尊王運動の中核に~

11代当主・稲田敏植(としたね)が公卿の娘と婚姻関係になるなど朝廷との結び付きが強く、天皇を尊ぶ勤皇派が出入りすることも多かったという。
桂小五郎(木戸考允)・西郷吉之助(隆盛)・山縣狂助(有朋)・画家斎藤畸庵など
27: やまとななしこ 2016/06/13(月) 17:59:36.55 ID:qH3QILj5
庚午事変の犠牲者追悼 蜂須賀桜を植樹へ 洲本
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/201504/0007940360.shtml

事変は倒幕で功績を立てた洲本城代稲田家の家臣らが、徳島藩主蜂須賀家に独立を申し出たことに起因する。
反逆とみた藩士から1870(明治3)年に襲撃を受け、無抵抗の子どもを含む17人が死亡。
稲田家の私塾として、家臣の子弟らに古典や武術などを教えた益習館も焼失した。
29: やまとななしこ 2016/06/13(月) 18:42:29.97 ID:c+LnPoNK
同じような話が加賀藩にもありました。
加賀藩の筆頭家老、本多家5万石の家臣は江戸時代には肩で風を切る勢いで
あったが明治維新で本多家の家臣団は全て陪臣になったので藩の直臣からは
足軽と蔑まれる身分に転落して悔しがったと云う話がありました。

30: やまとななしこ 2016/06/13(月) 21:34:25.14 ID:jtZ4b4IM
徳島県洲本市

意外としっくりくるな