もふもふが父上から信繁に受け継がれました。九度山の冬で過ごすには快適そうです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:28:22 +0000 2016
信之の九度山来訪、史実では慶長10年、秀忠の征夷大将軍任官に供奉して上洛した際、河原綱家とともに立ち寄っています。知らせを受けた信繁は固辞しているので、迷惑がかかると思ったのでしょう。しかし信之は敢えて来訪し、結果的に昌幸・信繁との永遠の別れとなりました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:30:11 +0000 2016
「全部こんな感じ」。美術チームには「→」「凸」などは使わないでください、と御願いをしました。丸・三角・四角や、備えを表するのに太い横線を使うのはよいのですが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:32:29 +0000 2016
昌幸の位牌。上に雲の紋様があったと思います。あれがこの時代の有力者の位牌でして、この形にするよう、強く御願いをしました。また今と違って、「霊位」という下文字が書かれるのも特徴です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:33:46 +0000 2016
蕎麦。いま私たちが食べている形の「そば切り」は、天正2年(1574)、信濃木曽定勝寺の普請日記に、「ソハキリ」を振る舞ったという記録が初見です。松本のほうも同時期と言いますが、文献史料で裏が取れませんでした。ですので、小県で過ごした信繁なら、知っていたかと思います。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:36:52 +0000 2016
ただどうも信之と九度山の関係は、昌幸死去後は途絶えがちになったようです。信繁も、昌幸同様「領主・役人としての仕事ができない」ことでかなり精神的に参っていた模様。家康が「生き地獄」と表現していましたが、当時の武士にとって、「何もすることがない」暮らしは苦痛を伴ったのでしょう。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:42:22 +0000 2016
このあたりは、拙著『真田信繁の書状を読む』(星海社新書)で、と宣伝。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:43:23 +0000 2016
信之の上田領復興政策の苦心は、平山さんの『真田信之』(PHP新書)に詳しいので、ご参照ください。そもそも第二次上田合戦は、本多正信が「刈田を」と進言したことで象徴していただきましたが、収穫期の戦争で、小県は大打撃を蒙っていたのです。逃散した百姓を呼び戻すことから始めています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:46:30 +0000 2016
きりが信之を「9万5000石の大名」と言っていました。これは上田6万5000石、沼田3万石なのですが、元和8年に松代に転封されるときの数字です(沼田はそのままなので、これで13万石となる)。ようは復興後に検地をした後の数値なんですが、それ以前の石高は不明なもので。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:49:01 +0000 2016
信繁が九度山の村人と会話しているシーン。村長以下百姓が脇指を帯びていることにおきづきでしょうか。刀狩り後も、成人した村落正規構成員(男子)の証として、脇指を帯びているわけです。まあ、刀・鑓・鉄砲も普通にあるのですが、鉄砲は登録制になっていきます。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:51:39 +0000 2016
@kazumaru_cf
突然失礼します。初歩的な質問になるのですが、昔学校では刀狩りでは武器を全て取り上げましたと習い、以前丸島さんのツイートで見た黒田さんの記事では身分証明の為に脇差を持っていましたと見ました。武器と身分証明の脇差は何か区別の基準があったりしたのでしょうか?
— 詠竜(ウタ)(@dateuta6_6)Sun Oct 02 13:06:56 +0000 2016
まず、教科書にある「武器をすべて取り上げた」というのは事実ではありません。秀吉という人は、朱印状では大げさに「スローガン」を書かせる癖があり、それを三成達が実現可能な話に落とし込んでいくというのが毎回のパターンです。 twitter.com/dateuta6_6/sta…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:30:18 +0000 2016
中世の村落において、村落正規構成員の百姓男子は、元服すると刀・脇指を身につける儀式を行います(刀指しの祝いといいます)。村落内では脇指を、外出する際には刀も身に帯びていました。脇指を帯びていなければ、「下人(隷属民)」と認識されて… twitter.com/i/web/status/7…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:32:18 +0000 2016
秀吉の刀狩りは、初期には占領地の武装解除令はわずかながらあるのですが、基本的には刀と脇指を形式的に集めただけです。村ごとに、成人男子の人口何人だからひとり一セットずつ出せという感じの割り当て。これは、揉め事がおきたら、武力で解決す… twitter.com/i/web/status/7…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:34:36 +0000 2016
ですから島原の乱の時、細川氏は「百姓から武器を没収できればどんなに楽か」とこぼし、幕府に政策として武器没収令を出せないかと打診しますが、却下されています。江戸時代に入っても、村落内には普通に武器はありましたし、脇指などは身に帯びて… twitter.com/i/web/status/7…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:35:55 +0000 2016
このあたりの詳細は、図書館で藤木久志『刀狩り』(岩波新書赤版)をお読みいただければと思います。現在、品切れ再版未定なので。 twitter.com/dateuta6_6/sta…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:36:19 +0000 2016
高梨内記。実際に大助の「御家老」と記されているのは彼の嫡男采女で、内記はおそらく信繁の傅役です。なお、『真田家御事蹟稿』のうち信繁伝たる『左衛門佐君伝記稿』は、内記について、信綱正室の弟としているのですが、流石にこれは疑問。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:54:27 +0000 2016
もっとも高梨家は大坂の陣で信繁と運命を供にしているので、脚色する必要がある家ではないのですが・・・。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:54:53 +0000 2016
母上。昌幸死去後に落飾し、寒松院と号しています。命日は、昌幸三回忌の前日。やはり夫の死は堪えたのでしょうか。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 12:59:40 +0000 2016
扇をくれた公家は実在しない名前になっています。しかしあぶらとり紙はやはり京都に限る・・・?
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:01:15 +0000 2016
なお信繁ですが、昌幸が死去した年の冬に屋敷が火事にあってまして、付き従ってきた家臣の多くに暇を出した後で寂しさが募っていた時期で、もう踏んだり蹴ったりです。流石に可哀想。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:03:15 +0000 2016
そういうこともあり、信之からの仕送りは生命線でした。昌幸は交際費に使っちゃったもんで、借金の返済のために国許に借金を求めるという、今でもありそうな話。まあ人間というものは、生活レベルを上げるのは簡単なんですが、落とすのは難しい。さらに「大名」という面目を保とうというプライドが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:07:17 +0000 2016
平山優先生の『真田信之』読むと、九度山への仕送りが真田家にとって物凄い負担だったことがよくわかりますので読もう #真田丸
— まとめ管理人(@1059kanri)Sun Oct 02 11:11:18 +0000 2016
年額100両というのがひとつあるのですが、黒田さんの見解だと、この支出を差配している家臣は昌幸の子昌親が出した仕送り分の送付責任者なので、昌親分だけで年100両、信之はまた別個かもしれません。また、あの算用には本来江戸から送る分を… twitter.com/i/web/status/7…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 14:35:50 +0000 2016
関ヶ原直後の信之の石高がわからないのは、家康が敢えてアバウトな文書しか出さなかったためで、全国的なものです。というのも、あくまで家康は秀頼の家老なわけで、知行宛行状は秀頼の名前で出すのが筋。ただそれをやると秀頼の力がついてまた不安定化するので避けたい。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:10:04 +0000 2016
それで家康は、徳川家臣の連署状の形で「どこどこを与える事になりました。正式な朱印状は追って出されます」という文書をだし、正式な朱印状は出さずに放置しました。これにより、朱印状を出すはずの人間が家康なのか秀頼なのかを曖昧にしたわけです。こういうところ、非常に上手い。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:12:06 +0000 2016
もともと豊臣期の石高も、現在では史料がなくて曖昧な場所がありますから、関ヶ原後の石高は確定しがたい大名があるわけなんですね。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:14:11 +0000 2016
ちょっと個人的に悩んでチェックをいれたのは、昌幸が兄弟を「愛する」という言葉は良いか、ということでした。結論から言えば、親子・兄弟間や目下相手なら古代より「いつくしむ」「寵愛する」という意味で使われているので問題ない。ただ、男女間、つまりloveになると、近代語となります。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:20:24 +0000 2016
この「愛」はわりと毎回議論になる言葉のようです。前ツイートの結論から、直江兼続の「愛」の兜はloveではありえません。下に雲の紋様がついているので、神仏(愛宕権現か愛染明王)です。上杉はこういう兜が多いので調べたら、山内上杉憲政の兜の前立てが神仏なんですね。そこからきてるのかな。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:24:23 +0000 2016
次回からとうとう最終章「大坂の陣編」に突入します。今回は、このへんで。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 13:26:53 +0000 2016
九度山時代の信繁がいかに参っていたかは、丸島和洋さんの新著『真田信繁の書状を読む』にかなり詳しいです。昌幸含め金遣いが荒かったのか、とにかく金欠だったようです。また、暇だったためかこの時期に連歌の練習を始めたりもしています。 #真田丸
— 平林緑萌(@seikaisha_moegi)Sun Oct 02 14:19:19 +0000 2016
@seikaisha_moegi また、前半生についても、いわゆる「武将」というイメージよりも、「豊臣政権のスタッフ」という感じがして、文書から見ても #真田丸 の造形に近いんだなと。因みに三成と信幸が個人的に親しかった件についても記述あり。
— 平林緑萌(@seikaisha_moegi)Sun Oct 02 14:22:34 +0000 2016
昌幸は大名家の格というのを下げられなかったというか、まあそりゃ客人来たらもてなさないかんもんなあ。 twitter.com/seikaisha_moeg…
— おりた(@toronei)Sun Oct 02 14:22:42 +0000 2016
近世に入ってもそうですが、武士にとって一番大事なのは「面目」ですので、交際費が嵩むんですよ。特に昌幸生前は、家臣がかなり江戸・沼田・上田と九度山間を往来しているということもあり。 twitter.com/toronei/status…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 02 14:28:21 +0000 2016
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