「真田丸」最終章スタートです。紀行の曲も変更となりました。今回の下準備から、東洋大の柴裕之氏と日本大の小川雄氏にオフィシャルな形で御助力を仰いでおります(適宜、「資料提供」とOPクレジットで入ります)。まあそれまでも頻繁に電話で相談にのっていただいていたのですが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:01:07 +0000 2016
後藤又兵衛は正しい実名は正親、毛利勝永は正しい実名を吉政というのですが、ここまで変えてしまうと混乱しますので、通説準拠となりました。なお、「毛利」の読みも「もり」が正しいのですが、これは毛利輝元も同じでして、こちらも片方だけ直すのは…という判断です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:03:54 +0000 2016
信吉・信政嫡男問題。本当はもう従五位下河内守・同内記に任官しているので(『真田家御事蹟稿』が元和二年任官とするのは誤り)、将軍お目見えも済んでいるはずなのですが、話があっちにいったりこっちにきたりしてしまうので、すへの縁談も含め、国許の話は今回に。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:09:47 +0000 2016
信吉が「稲の養子」扱いで信之嫡男となったことで、諸系図にある生母は1)信綱娘(本作での「こう」)説、2)家の女(侍女)説、3)稲説すべてが出そろった形になりました。諸説あるのをこのように料理されるとは、と唸らされました。しんみりとしていていい話ですね。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:12:42 +0000 2016
なお、TLを拝見していたら、最終的に「真田騒動」(信政死後、信政末子幸道と信吉次男信直(信利は誤伝)が家督を争い、信之が収める)が起こって折角の配慮が…というツイートが散見されました。実はこの話は、信直が沼田藩を改易された後に生まれた創作で、史実ではありません。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:14:59 +0000 2016
当時の史料をみると、信直は幸道家督相続後、信之に頻繁に病気見舞いの書状を出しており、信之死去に際しては、形見分けを差配しています。ようするに、信之・信直の仲は最後まで良好でして、関係が悪化した形跡がありません。また、信直が幕閣に家督相続運動をしたという形跡もなし。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:16:49 +0000 2016
竹本義太夫。前にもツイートしましたが、浅野家臣のなかで、高野山との交渉を担当した人物リストを御渡しし、その結果決まりました。実在の浅野家臣です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:18:35 +0000 2016
九度山脱出。村人達を招いて宴会を開き、酔いつぶして脱出したという話と、九度山から大坂にいった百姓もいる(これは「蜂須賀家文書」のなかにある『乱取帳』に紀伊出身の信繁草履取りがいることから裏付けがとれる)話がベースです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:22:07 +0000 2016
考証に際し、問題になったのは信繁が飲んだ振りをしているのは「清酒でよいか」(つまり「これは水じゃ!」でよいか)という点でした。この時代、清酒はもう存在しましたが、九度山での入手は難しいだろうということで、どぶろくに。じゃあ白く見えるのはということで「米のとぎ汁」という流れ。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:24:23 +0000 2016
信繁の変装。入城時に山伏のような格好をしていて、誰だか分からなかったという軍記物の話と、信繁自身が九度山から小山田茂誠に出した書状で「はなともぬけ申候、ひけなとも、くろきハあまり無之候」とあるのがベースです。後者を使うとはまったく意表を突かれました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:26:56 +0000 2016
大坂方が作った牢人のリスト。NHKスタッフの方が作った下敷きに考証サイドで意見を加えたのですが、個人的に「大谷大学吉治」を目立つ場所に、と御願いしました。吉継の弟で、養子です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:29:11 +0000 2016
秀頼の呼称。「右大臣」「秀頼公」を織り交ぜますが、ベースは「殿様」です。主人公である信繁が、小山田茂誠・之知親子に送った書状で「殿様」と呼んでいるので。家康は「大御所様」、秀忠は「上様」としています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:32:50 +0000 2016
大坂屋敷の兵糧米没収。福島正則には許可をとったという話が伝わっています。正則もそれをみこして、わざと多めの兵糧米を大坂屋敷に入れておいたともいいます。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:34:14 +0000 2016
信之は93歳の長命を保ちますが、慶長4~5年、慶長16年~元和2年と体調を崩しています。この時は沼田で療養していたのですが、江戸に出府して幕府から公式に病気認定をしてもらい、大坂の陣では江戸屋敷で病臥していました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:36:08 +0000 2016
石合十蔵。個人的に一番難儀したのが一言での説明です。石合家は長窪宿の「本陣」(参勤交代時に大名が宿泊する宿屋の経営者)で、長窪の最有力者のひとりなのですが、厳密には村役人ではない。ただ、この説明をドラマでするのは困難で、「名主にしましょう」とご提案しました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:38:24 +0000 2016
こんなところかな。なお稲が冒頭で「酒井様がお見えに」といっているのは、交友関係のある適当な大名がいますかと聞かれ、じゃあ大坂の陣後に信吉が正室を迎える酒井はどうでしょう?という感じで。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Oct 16 12:46:50 +0000 2016
織田信長は右大臣で「上様」と呼ばれていたのに、同じ右大臣で「殿様」なのか?と思っていましたが、やはり考証の結果ですよね。大坂においても江戸の「上様」を憚っていたということでしょうか。#真田丸 twitter.com/kazumaru_cf/st…
— Daisuke HIROSE 広瀬 大介(@dhirose)Sun Oct 16 20:42:47 +0000 2016
大坂は大坂なので、別に憚ってはいません。あくまで信繁の用いた呼び方を採用しただけです。秀忠は、むしろ御所様、公方様と呼ばれることが多かったでしょうが、江戸時代もので馴染みのある上様に落ち着きました。 twitter.com/dhirose/status…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Mon Oct 17 01:43:52 +0000 2016
コメント
コメント一覧
幸村提案かどうか知らんが大名屋敷から兵糧没収はほんと
おかげで徳川軍は兵糧が足りなかった
江戸なんてまだまだ片田舎だぞ
秀吉存命時からそうしていたからじゃないのかな?
経済の中心云々なら、江戸時代になってからも大阪が中心だったぞ。
検知のような厳密な管理がされていたわけじゃないから供出自体は大名の采配に任されてたけど
って、この程度のことは自分で調べろよな。