1: もろ禿HINE! ★@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:01:30.15 ID:CAP_USER
兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101400388/
ph_thumb (6)
 
 中国北部の土の中から謎のやきものの像が最初に発見されてから、今年で40年あまりになる。考古学者たちは、これらの像が、中国最初の皇帝である秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)の陵墓の副葬品であることを明らかにしたが、土の中に隠されていた秘密はそれだけではない。発掘調査からは歴史書を書き換えるような大発見もあったし、外国人の芸術家が中国人の職人を訓練したとする大胆な新説も生まれた。

 多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、中国史の中でひときわ大きく輝いている。彼が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴だ。(参考記事:「世界最古の十進法の計算表、中国で発見」)

 しかし、始皇帝の最も驚くべきプロジェクトが初めて明らかになったのは、1974年のことだった。秦朝の首都だった咸陽(かんよう)の近くで井戸を掘っていた農夫たちが、土の中から奇妙な像をいくつも掘り出したのである。その後の発掘調査により、これらは皇帝の陵墓を永遠に守護するために周囲に埋められた兵馬俑の一部であることが明らかになった。俑とは、死者を守るために共に埋められる人形のことだ。発掘された3つの巨大な坑には、数千体の兵馬俑が整列していた。兵馬俑の造形は、それまでに中国で発掘されていたどの俑とも違っていたため、研究者たちを大いに悩ませた。兵馬俑を製作した芸術家たちは、どうしてこんなアイディアを思いついたのだろうか?(参考記事:「色鮮やかな兵馬俑」)

 謎を解くためのヒントになりそうな発見もあった。芸人をかたどった「雑技俑」や、青銅製のカモ、ハクチョウ、ツルの像には、ギリシャの影響が見てとれる。そして、中国北西部の遺跡から出土した人骨からはヨーロッパ人のDNAが確認されているのだ。

 一部の専門家は、これらの事実を考え合わせ、兵馬俑は外国の芸術家からインスピレーションを得て作られたのではないかと唱える。マルコ・ポーロより1500年も前に、ギリシャ文化の影響を受けた西アジアから中国にやってきた芸術家が、始皇帝陵の副葬品を製作する中国の職人たちを指導していたのかもしれないというのだ。(参考記事:「2500年前の墓から完全な大麻草13本を発見」)


見えてきた巨大陵墓

 科学者たちは、リモートセンシング、地中レーダー、ボーリング調査などを用いて、始皇帝陵がこれまで考えられていたよりはるかに大きく、その広さは約100平方キロメートルと山手線の内側に匹敵することを明らかにした。中心部には始皇帝の墓を土で覆った巨大な墳丘があるが、まだ調査が行われたことはない。遺跡には、始皇帝以外にも多くの人々が埋葬されている。30年におよんだ陵墓の建設中に死亡した職人や労働者(中には鎖につながれた罪人もいた)の遺体を埋葬したらしい集団墓地や、凄惨な後継者争いの物語を伝えているように思われる集団墓地も発見されている。(参考記事:「21世紀中に解明されそうな古代ミステリー7つ」)
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1476658890/

2: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:01:46.84 ID:CAP_USER
凄惨な後継者争い

 始皇帝は聡明で強大な権力を持っていたにもかかわらず、長男である扶蘇(ふそ)に跡を継がせることができなかった。このせいで大規模な粛清が起こり、紀元前206年の秦朝の滅亡につながったと考えられている。

 紀元前89年頃に前漢の司馬遷が記した歴史書『史記』には、始皇帝亡きあとの凄惨な後継者争いの様子が描かれている。始皇帝には大勢の息子がいたが、その1人である胡亥(こがい)が宦官の趙高(ちょうこう)と共謀して後継者と目されていた長兄を殺害し、みずから帝位についたのだ。

 今日の考古学者たちは、帝位の簒奪(さんだつ)が司馬遷の説明よりも残酷だったことを示す手がかりを発見している。始皇帝陵の周囲からは、王族のものと思われる遺物とともに、数体の人骨が発見されている。その多くが男性の骨で、始皇帝の息子たちのものではないかとされている。1つの頭蓋骨は、近距離から放たれたと思われる金属製の矢じりが突き刺さっていた。専門家たちは現在、胡亥が帝位を確実なものにしようとして兄弟の王子たちを処刑したのだろうと考えている。

 始皇帝が埋葬されている墳丘のすぐそばには、100個ほどの墓が集まっている場所があった。考古学者たちはその一部を発掘してみたものの、それがなんなのか確信が持てずにいる。墓室は空っぽで、戸口付近にはバラバラにされた遺体が置かれ、真珠や金が散らばっていた。来世でも始皇帝に仕えることができるように、皇帝のすぐ近くに埋葬された側室たちだろうか? それとも、なにか忌まわしいことが行われたのだろうか?

『史記』によると、帝位に就いた胡亥は、父親の側室の多くを殺害したという。悲しいことだが、帝位簒奪者にとっては意味のある行動だったのかもしれない。彼はすでに始皇帝の後継者と目されていた長兄の扶蘇を殺害し、自分の地位を脅かすおそれのある兄弟たちも殺害していた。しかし、父親の側室の誰かが妊娠していたら?ひそかに男の子を産み、戦士として育てようとしたら? その子は将来、年の離れた兄である自分を殺して、帝位と領土を奪い取ろうとするかもしれない。

 この最悪のシナリオを考えると、胡亥には父親の側室を全員殺害する以外の選択肢はなかっただろう。ただ、彼女たちの遺体がバラバラにされた理由はまだ分からない。まだ発掘されていない墓はたくさんあるので、そのうち手がかりが得られるかもしれない。

 結局、すべての流血は無駄に終わった。胡亥は父親のような偉大な皇帝にはなれなかった。彼が帝位についてからわずか3年で秦王朝は滅亡する。始皇帝の墓には、もっと驚くような財宝が眠っているはずだが、近いうちに発掘調査が行われる予定はない。繊細な遺物を不用意に空気や光にさらすと、取り返しのつかない損傷を与えてしまうおそれがあるため、画期的な保存技術が発明されるまでは、始皇帝陵の発掘は行われないだろう。(参考記事:「ツタンカーメン王墓の「隠し部屋」、迷走の真相」)

 司馬遷によると、始皇帝の亡骸は青銅製の棺におさめられ、その墓室には、宮殿のレプリカや水銀の川や「珍品や豪華な品々」で満たされたという。けれども、司馬遷が『史記』を書いた時期は、始皇帝の死から1世紀以上が経過している。彼はこうしたこまごました点を本当に把握していたのだろうか?

 始皇帝が70万人の労働者や罪人を働かせて壮大な陵墓を建設したなど、司馬遷の文章には誇張と思われる箇所もたくさんある。重要な事実も書き落としているようで、兵馬俑の製作については一言も触れていない。

 しかし、若い王子による帝位の簒奪の前に大勢の王族が殺害されたことを示す証拠が実際に発見されているところを見ると、始皇帝の墓室についての司馬遷の記述も正しい可能性がある。いつの日か、考古学者たちが始皇帝の伝説的な財宝を発見する日がくるのかもしれない。

46: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 17:42:46.99 ID:51YTg6s4
>>2
>始皇帝の墓には、もっと驚くような財宝が眠っているはずだが、近いうちに発掘調査が行われる予定はない。
繊細な遺物を不用意に空気や光にさらすと、取り返しのつかない損傷を与えてしまうおそれがあるため、画期的な保存技術が発明されるまでは、始皇帝陵の発掘は行われないだろう。

これは褒めるべきだなあ

だけど政権交代しておかしい事になる前に調査して欲しいな

4: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:08:45.29 ID:7F/oPHAU
その当時から、技術は海外から入手する、中国人

6: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:14:48.44 ID:5lVIMbz/
>1 約100平方キロメートル
ふーん、正方形換算で一辺が約 10km ということか。

8: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:24:02.60 ID:SpbqCJU2
そんなことより三星堆遺跡を研究しろや

9: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:27:23.22 ID:PThot0l/
スケールがデカすぎてため息が出るわ

12: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 08:47:18.85 ID:1RnXDEUr
皇帝はさびしがり屋だな

13: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 09:02:39.66 ID:B0z2Cy+J
さすがに歴史はすごいな
紀元前なんて日本はどうだったかさっぱりわからんのに

15: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 09:06:30.63 ID:GO3H3Fj6
>中国北西部の遺跡から出土した人骨からはヨーロッパ人のDNAが確認されているのだ

それウイグル人の先祖じゃね?

17: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 09:51:57.04 ID:8q4v5cBc
ギリシャの影響がヘレニズム文化としてインドまで来てるのだから、
当然シナにも伝わっているはずだ。
兵馬俑の顔にはアーリア人の顔がいくつもある。
パクリ屋のシナ人は偉そうなことを言えなくなった。

70: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/19(水) 09:34:59.98 ID:aKhx9/KF
>>17
そもそも始皇帝が白人説あるからなぁ
移民なのかアルビノ的自然発生かはともかく

19: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:16:06.33 ID:Vsb81bhk
そんなにすごい墓なら何か記録があってもよさそうなものだが
すでに漢字とか使ってたんだろ?

22: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:43:29.56 ID:9aUOqFst
>>19
中国では、本当の事を言うと殺されるのは、今も昔も同じ。
司馬遷は命がけで書いたからね。

25: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:54:36.97 ID:51f7+TGX
そこまで影響が見えるのなら,果たして,秦自体が西域民族による王朝だったんじゃないかと。
後々,モンゴルや女真族にも王朝を打ち立てられる地域だから,あながち,空想でもないだろう。

53: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 21:05:21.82 ID:IKSF9Sqn
>>25
漢化してしまったなら征服王朝とは言えなくなるな
まああくまでも学術的な定義での話だが

20: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:36:36.42 ID:cYmzL9UV
秦国が 強かったのは、西方から先進的な技術や物が入ってきたから。

21: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:42:20.81 ID:wA2090Yf
でかすぎて調査が終わるのに何年かかることやら

24: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 10:50:40.09 ID:Pl0UuKtg
項羽が墓荒らししまくったんじゃなかったっけか

34: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 12:10:45.05 ID:7v3AAEW0
麺料理の起源も小麦自体が今の中央アジアが発祥で小麦粉を使ったラグマンという手延べうどんがあり、
それが東に伝わって中国麺になり、西に伝わってパスタになったんだよな。

小麦を使う食べ物のパンも饅頭も餃子も中央アジア起源になる。
まあ中央アジアには現在中国が領土と主張してる地域も入るので中国起源とも言えなくはないが
少なくとも漢民族起源ではないということだw

35: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 12:19:37.09 ID:GZDMWGes
始皇帝の墓が見つかったのて割と近年なんだな
逆によかったな

36: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 12:42:38.90 ID:nywkYRZu
紀元前からモンゴロイドはコーカソイドから文明開花の指導を受けてたのか

44: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 16:13:45.94 ID:oPGGm1kg
高松塚を台無しにした日本に比べると、発掘を控えている中国の方が賢いな。

中国では新王朝が前王朝の歴史をまとめるのが伝統。そのおかげで魏志倭人伝が残り、日本の歴史も明らかになっている。
あと、古事記は稗田阿礼の暗記だけど、日本書紀には中国人学者が参加している。ヘンテコ日本語漢文だったが途中からちゃんとした漢文になっている。
この時点で中国人学者が参加したんだろうとされている。

日本は歴史的に中国にけっこう恩があるから、お前ら中国をあんまり馬鹿にするなよ。天に唾するようなもんだぞ。

49: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 20:31:45.61 ID:DwQuAT1N
中国は外国の文化に強度に依存してきたんだよ、昔から
インド、ペルシャの影響は濃厚だし、ギリシャは勿論だ
秦自体が西域からどんどんと東に勢力拡大してきた国であり、
始皇帝自身がコーカソイドという説がある
当然、始皇帝陵の造営の指揮を取ったのがコーカソイドである蓋然性はあるな

54: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 21:28:48.23 ID:naWCjM0A
昔のことだからわかりようもないけれど
ギリシャ人が似た芸風の人形を作ってなければ
ノーカウントなんじゃないかね

57: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/17(月) 22:12:20.24 ID:DA9HXEGw
紙や絹がモンゴロイド(東方)からコーカソイド(西方)に伝わった
ことも知らん奴がおるとはな。

59: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/18(火) 00:04:35.58 ID:5QYI+tX6
>>57
東方から西方はそうだが、モンゴロイドからコーカソイドとは限らない

60: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/18(火) 20:59:16.90 ID:TBhhC0h2
始皇帝がバクトリア系混血児ならギリシャ人の職人がいてもおかしくない。
アレキサンダーの子孫が世界各国に王朝を築いた。ジンギスカンと同じ。
インドの大月氏(バクトリア人)は始皇帝と親戚かも。

72: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/19(水) 10:03:25.34 ID:CmWErPfq
この当時は現在のウイグル自治区の住民はコーカソイドだったから
始皇帝の軍隊にも白人は当然いただろう

73: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/19(水) 10:34:00.31 ID:Oha6AhTl
これはギリシアの影響がすごかったってことだろうよ
アレクサンダー大王が遠征した事でヘレニズム文化が後に生まれたけれど、
最初期の仏像がギリシア風のリアル指向なのはギリシア美術が伝わったからだと分っている
それまでは仏像を作ることは禁じられていた、偶像崇拝はダメだという理由で
しかし日本も紀元前のことがもっとわかれば良いのに
大陸の影響がなければ縄文時代が続いていただろうがそれはそれで見てみたい

78: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/10/20(木) 01:41:54.93 ID:YJMZn0hk
>>73 
アフガニスタンにアレクサンダーの残存部隊がいたらしい。 
彼は遠征の時、医者から芸術家などそれこそあらゆる職業の人間を連れていったから、 
ギリシャ人がアフガニスタンから中央アジアを通じて、始皇帝の出立地、 
甘粛省あたりに職人が流れてたとしても不思議じゃないね。