1: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:29:57 ID:VOs
ワイの印象に残った・好きな故事を紹介するやでー
まあ横山光輝版の史記やwikiでの知識で数少ないけどよかったら見てくれやでー

3: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:31:18 ID:VOs
【覆水盆に返らず】
太公望の呼び名で有名な呂尚とその別れた妻のエピソードから生まれた故事。
呂尚は周に仕える前に結婚していたが、呂尚が仕事もせず毎日読書ばかりしていたので妻は愛想つかして離縁を申し出た。
その後、呂尚は周の文王・武王に仕え殷を倒す功績をあげ、その功により斉を与えられた。
そんな呂尚に妻は復縁を求める。
呂尚は盆から水を床にこぼしそれを盆の上に戻せと妻に言うが出来るはずがなく
それを見て呂尚は上のように「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻る事は無い。それと同じように私とお前との間も元に戻る事はありえないのだ。」
といい復縁を断った。
【覆水盆に返らず】は一度起きたことは元に戻らないという意味で使われるようになった。
まあ働きながら読書しろよと思ってしまうが…

4: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:31:23 ID:96E
はえ~覆水盆に返らずって中国がもとなんか

5: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:31:25 ID:wwS
ほーんこれも故事成語やったんか

7: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:33:36 ID:VOs
【管鮑の交わり】
斉の名宰相と名高い管仲とその友人鮑叔の関係について。
斉公・公孫無知が暗殺され公子である糾と小白(のちの桓公)の二人は次の斉公の座を巡って対立することになった。
対立の結果、小白が斉公の座を手にし桓公と名乗るようになった。
そして糾とその部下である管仲を処刑しようとしたところ桓公の配下である鮑叔が「管仲を殺してはなりません。公が天下の覇者となるためには彼の力が必要です」
と進言した。
管仲に一度暗殺されかけてるので桓公はあまり乗り気になれない、それに管仲のいい評判も聞かない。

桓公「お前と管仲が仲良いのは聞いてる。しかし管仲の悪い評判もよく聞いているぞ?」

桓公「お前たち二人が若いとき商売をしてその儲けはちゃんと分けずに管仲が多く取ったと聞く」

鮑叔「それは管仲の家が貧しく欲でやっていることではなかったのです。私も認めておりました。」

桓公「お前が管仲のせいで窮地に陥ったと聞いたが」

鮑叔「あれは管仲が私の名を成さしめようとしたことです。それが裏目に出ただけで人生すべて物事が上手くいくわけではありません。」

桓公「それに幾度か仕官してもそのたびにお払い箱になってるらしいじゃないか」

鮑叔「それは時節に恵まれてなかっただけです。管仲が無能だからではありません。」

鮑叔「公が斉一国だけではなく天下の覇者となられるのであれば私たちだけでは不足です。ぜひ管仲を公のそばに置いてください」

鮑叔の説得により桓公は管仲と面会をし宰相として政治を任せた。
その高い能力は遺憾無く発揮され斉は管仲の徹底した政策によりたちまち強国となり、桓公は覇者となった。
管仲は「私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれるのは鮑叔である」
二人は深い友情で結ばれそれは一生変わらなかった。
その二人の友情を後世の人びとは【管鮑の交わり】と呼ぶようになった。
横山光輝版の史記を読んで最初に驚いたのは桓公の懐のデカさと鮑叔の管仲への信頼の高さ。
直接命を狙われたにも関わらず管仲を宰相に抜擢する桓公(まあ管仲亡きあとはアカンけど…)と鮑叔がいかに管仲が優れてるか桓公に説いて自分より偉くなってしまったのに変わらぬ友情ってステキやん?

9: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:35:57 ID:VOs
【宋襄の仁】
宋の襄公による故事。
襄公は斉の桓公と密接な関係にあった。
桓公の無き後、斉に内部抗争が始まりその騒動に襄公が介入し鎮圧に成功する。
これに自信を持った襄公は覇者になろうと全国の諸侯を集める会を主宰した。
しかし楚の成王はなぜ自分の国より小国の宋が仕切るのかと納得いかず自身は参加せず将軍の子玉を代わりに参加させる。
これには対して他の諸侯は楚を非難したが、主宰者である襄公がなだめた。
代わりに派遣された子玉も襄公が盟主の座にいることに不満で、襄公に恥をかかせようと思いなんと襄公を拉致する。
そして子玉は襄公を連れ周辺の村を荒らし回った。
宋の兵も襄公が人質になってるため手が出せず黙って見ている他なかった。
見かねた諸侯のなだめによりようやく子玉は襄公を解放する。
子玉は襄公に恥をかかせて面目丸潰れとなったことに上機嫌となり楚へと帰っていった。
この話を聞いた宋の国民は怒り楚への戦いを決意することになった。
襄公は決戦の地を泓水のほとりに決めやがて楚軍が現れた。
宋の宰相・子魚は

子魚「まともに戦っては勝ち目がありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」

襄公「君子は人が困っているときに更に困らせるようなことはしないものだ」

と言ってこれを退けた。

子魚は
「ああ、わが君はいまだに戦いを知らない」
と嘆いたという。
結果は宋の大敗。
襄公自身も負傷しその傷が元で二年後に死亡してしまう。
これ以来、不相応な情けなどのことを【宋襄の仁】というようになった。
wikiでこの戦いについて中国史学者の落合淳思とかいう学者が
「楚は大国で、宋は中小国。宋襄の仁がなくとも楚が勝つのは順当なことだ」

と評してる…悲しいなぁ…

12: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:39:01 ID:VOs
【鳴かず飛ばず】
名君と名高い楚の荘王の故事。
荘王が即位時まだ若いため公子の一人が謀反を起こした。
一時は首都、王室を完全に支配下に置き王を名乗り謀反は成功するかに見えたが、盧という町で殺され荘王は首都を取り返した。
それ以降、荘王は政治を見ずに毎日のように宴会を開き諫言するものは誅殺すると家臣に宣言し、誅殺されるのを恐れ誰もがなにも言えずにいた。
荘王が即位して三年目のある時、荘王の家臣・伍挙が

伍挙「荘王に謎かけをしたいと思います。ある鳥が3年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」

と言い荘王は

荘王「その鳥は一旦飛び立てば天まで届き、一旦鳴けば、人を驚かせるだろう。お前の言いたい事は解っている。下がれ」

と答え返した。
その後も宴会ばかりして政治を見ない状態が続き、ついに家臣の蘇代が荘王へ諫言をしにきた。

荘王「諫言する者は死罪なのは分かっているのか?」

蘇代「王が目を覚ましてくれるのであれば本望です。」

これを機に荘王は今までの愚かな振る舞いを解いた。
荘王は三年、愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたのである。
悪臣を数百人誅殺し、目を付けておいた者を新たに数百人登用して、伍挙と蘇従に国政を取らせた。
民衆の人気は一気に高まり、国力も大きく増大。
楚は周辺諸国を脅かす存在となった。
この事からじっと機会を待つことを【鳴かず飛ばず】と言うようになった。
今はパッとしないみたいな時に使われてるけど…
wiki見てると斉の威王にも同様の逸話があるみたいやなぁ
日本の三年寝太郎はこれから着想したんか?しかし家臣の品定めに三年って長いような・・・
まあ実際こんくらい掛かってまうんかな…

14: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:40:00 ID:7vW
鳴かず飛ばずも中国やったんか
新聞の見出しの決まり文句かと思ってた

15: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:40:20 ID:wwS
意外と多いんやなあ中国由来

24: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:43:15 ID:eeZ
東周英雄伝読もうぜ
横山とはレベルが違うんですよ(画力的に)

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B00B8EX7YI/

28: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:45:30 ID:VOs
>>24
情報サンガツ
横山光輝版しか知らないからこういうのどんどん読みたかったわ

33: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:50:49 ID:eeZ
>>28
台湾人著者やけど、歴史物の劇画ではこの人に勝てる人はおらんと思うやで

まあ読めば分かるはずやで
翻訳もなかなか痺れる

65: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:33:57 ID:JSu
>>24
東周英雄伝めっちゃ好き
大きい版のも文庫版も両方買ったわ

29: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:46:13 ID:VOs
【絶嬰の会】9
これも楚の荘王の逸話。
ある夜、荘王は家臣を集め宴会を開いた。
皆大いに酒を飲み大いに酔った。
その時、風が吹き宴席の蝋燭が消え辺りが闇に包まれた。
その闇の中で蒋雄という者が后の召し物に触れてしまった。
后はすぐさま、蒋雄の纓を引きちぎり、荘王にこう言った。「蝋燭が消えた隙に、私に無礼を働いた者がおります。私はその者の纓を引きちぎりました。蝋燭を灯しさえすれば、それが誰だかすぐわかります」
すると、荘王は「みな、明かりがつかぬ間に纓を引きちぎれ」と命じ、一同がその通りにした。
そのおかげで蒋雄は罪を問われずに済み、蒋雄は心から荘王に感謝した。
その後、楚と秦との戦いで敵に囲まれ荘王に危機が迫る。
危機を救おうと蒋雄は自ら危険を省みず荘王を見事救いだした。
荘王「よくやってくれた。だが、私はお前をそこまで大事にした覚えはないのに、何ゆえ命を惜しまずにここまでやってくれたのか?」

蒋雄「いいえ、王は私を救ってくださいました。私は絶纓の会の時、后様のお召し物に触れた者です」

といった。
荘王の器のデカさが伝わるエピソード。
横山光輝版三国志にも出てくるエピソードで李儒が董卓を諌めるときに話した。
なお結果…

31: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:48:22 ID:VOs
【屍に鞭打つ】&【日暮れて道遠し】
呉の伍子胥による故事。
伍子胥は元々楚に仕えていたが楚の奸臣、費無忌(ひむき)による謀略で平王は伍一族を捕らえ投獄させた。
伍子胥はなんとか命からがら楚から逃げ出し呉へ流れついた。
そして楚の平王が父兄を処刑したと聞き楚へ復讐を誓う。
伍子胥は呉の王である闔閭(こうりょ)に仕え重臣として活躍し父兄が処刑されてから十数年後、楚の首都を陥落させた。
しかし仇敵である平王、費無忌はすでにこの世に無く楚の新しい王も首都から逃げ出した。
恨みを完全に晴らせてない伍子胥は平王の墓を暴き、部下に命じ屍に300回鞭打てと言った。
部下はその言葉に驚くが伍子胥の凄まじい怒りに圧倒され言われるままに鞭を打った。
このことから死んだ人へ残酷なこと、悪口言うことを【屍に鞭打つ】と言うようになった。
そしてこの伍子胥の苛烈な所業を聞いた楚の臣である申包胥(しんほうしょ)が伍子胥を非難する手紙を書いた。
伍子胥は返書に
「われ日が暮れて道が遠い、故に倒行してこれを逆施するのみだ」
(私も老いてく身、だが目的を果たすにはまだまだ道のりは遠い。それゆえ焦って非常な振る舞いをしてしまったのだ)
年をとってもまだ人生の目的が達成されてないときなどに【日暮れて道遠し】と言われるようになった

34: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:51:35 ID:VOs
【臥薪】(臥薪嘗胆)
呉王・夫差と越王・勾践(こうせん)の故事。
呉の王・闔閭は越との戦いの最中に負傷してしまい、その傷が元でこの世を去る。
跡を継ぐ夫差は闔閭の遺言により越への復讐を誓い、その恨み忘れないために寝床に薪を置いた。
薪の上で寝てその痛みで恨みを忘れないよう心掛けた。
なお結果…

41: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)22:56:52 ID:VOs
【嘗胆】(臥薪嘗胆)
越王・勾践は呉の復讐を恐れ重臣の范蠡(はんれい)の諫めを聞かずに呉へ出撃する。
しかし呉は強く越は負け続け逆に追い詰められてしまう。
勾践は和睦の使者を送り呉に服従を誓うように伝える。
しかし伍子胥は強く反対する。

伍子胥「勾践を生かしていたら必ず災いになります。先王の遺言をお忘れですか?」

と諫言し夫差は和睦を断る。
しかし勾践の重臣である文種は夫差の重臣に賄賂を送り、和睦出来るよう工作した。
そして和睦の条件として夫差の下僕として仕えるようになった勾践は部屋に肝を吊るしそれを舐めることで悔しさを忘れないように心掛けた。
これが【嘗胆】で【臥薪】と合わせ、復讐を心に誓って辛苦することまたは目的を遂げるために苦心し、努力を重ねることを【臥薪嘗胆】というようになった。
その後、呉王・夫差は越が完全に呉に服従してると油断しきって覇者となるため中原へ進出し始める。
そして幾多の遠征で国力が減っていきたびたび諫言する名臣の伍子胥を煙たくなり殺してしまう。
夫差は自滅の道を辿る。
その間に越は着々と富国強兵をしていきついに準備が整い呉へと侵略。
呉は滅亡し夫差は自害する。
伍子胥が好きだからこの結果は悲しいンゴ…

81: 名無しさん@おーぷん 2016/11/05(土)00:06:27 ID:7Eg
臥薪嘗胆の話は「ひそみに倣う」もセットになっとるな
東周英雄伝では

45: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:05:07 ID:VOs
【吮疽の仁】(せんそのじん)
孫子の兵法書と並び有名な兵法書呉子に出てくる呉起の故事。
呉起は始め魯に仕えていたが、妻が斉の人であることで重用することを危ぶまれそれを晴らすために妻を殺してしまう。
(横山光輝版の史記では殺さず離婚したとなっている。まあそれがなぜか妻を殺したと噂されていくんだけど…)
しかしそれが余計に人格を疑われついに懲戒免職を申しつけられる。
失意のまま魯をあとにした呉起は魏へと旅立つ。
元々魏は春秋時代の大国・晋であり、そこから魏、趙、韓の三つに分裂した。
当時の魏はまだ正式な国として認められておらず、早く国として認められてもらうため名君と名高い文候が積極的に人材を集めていた。
呉起が仕官してきたと聞き文候は部下の李克(りこく)に相談をした。

47: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:06:43 ID:VOs
【吮疽の仁】2
文候「呉起というものが仕官してきた。どのような人物か知っているか?」

李克「おお斉の大軍を打ち破った呉起が仕官してきたのですね?」

文候「斉軍を打ち破ったのか?ならば優秀な人物なのだな」

李克「しかし悪い評判も聞きます。人なりは貪欲で好色であるとか」

文候「そのような人物を果たして信用できるであろうか…」

李克「悪い評判も聞いてはいますが、軍事にかけては斉の名将・司馬穣苴も敵いません。登用を迷われてるのであればぜひ取るべきです。」
※司馬穣苴(しばじょうしょ)兵法書・司馬法で有名らしい…すまんな…名前しか知らんンゴ…

李克の助言を聞き入れ文候は呉起を迎え入れ将軍に任命し軍を任せることにした。
そしてさっそく敵国の城の攻略を命じる。
呉起は出陣の際、馬にも乗らず兵士と共に歩き行軍し兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て最下級の兵士の労苦を分かった。
魏軍の士気は凄まじく高まり周辺の国々を攻略、服従させ魏を列強の一国へとのしあげた。

48: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:07:25 ID:VOs
【吮疽の仁】3
その快進撃の中、一人の若い兵士の倒れるところを呉起が目撃する。

呉起「どうした?負傷したのか?」

兵士「すみません…実は足の傷が腫れて膿んでしまいまして…」

呉起「見せてみよ……これはいかん。傷に膿が貯まっている。このままでは体に毒が回るぞ」

そう言うと呉起はその兵士の足に貯まっている膿を口で直接吸いだした。

兵士「将軍!?」

呉起「早く膿を出さねばならぬ…ほらこれで膿は取り出せた。あと傷口に薬を塗りしばっておくのだぞ」

兵士「…ありがとうございました…」

それを見た兵士達はみな涙を流し感動した。
それを伝え聞いた兵士の母は嘆き悲しんだ。

ある者が

「将軍さま直々にあのような行為をしてくださってるのになぜそんなに泣くのか?」

と聞くと母は

「あの子の父親は将軍様に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」

と答えた。
このように兵士達は呉起へ信服し呉起のためなら命を惜しまぬという気持ちで士気が高まり軍は圧倒的な強さを誇った。
リーダーがメンバーを手厚くいたわることを【吮疽の仁】といわれる。
横山光輝版史記の呉起めっちゃ好きだけど、wikiだと人なりが【吮疽の仁】以外あまりないなぁ
やっぱりちゃんと呉起関連の本を読んだ方がいいわね

50: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:10:14 ID:VOs
【まず隗より始めよ】
燕の昭王の故事。
昭王の父である燕王?(えんおうかい)は人のよいお坊っちゃん国王で王としての資質に欠けていた。
国政を宰相・子之に任せ自身はほぼ隠退同然の立場にあった。
そのため子之は絶大な権力を誇り、自身のなすがままに燕を支配し逆らうものは容赦なく処罰し、国内は乱れた。
国を憂えた太子・平(のちの昭王)は子之打倒の兵を挙げ、この内乱は長期化になり燕はさらに乱れていった。
その中、斉国から太子・平への援軍と称した軍が到着する。
平は歓喜するが、斉は援軍とは名ばかりで燕に侵略し燕王?、子之は殺され燕は斉に服属することになる。
二年後、平は斉の従属国のまま燕王になり昭王と名乗る。
斉への復讐のため人材を集めるにはどうすればいいか郭隗に相談した。

昭王「斉は騙し討ちし燕は従属国になり父も殺された。この恨みをなんとか晴らしたい」

昭王「国を建て直すためには優れた人材が必要になる。人材を集めるいい方法はないものか?」

郭隗「それではまず私から始めてください」

昭王「どういうことだろう?」

郭隗「私次第で決まります。私程度でも優遇されるのだからより優秀なものはさらに優遇されると思うでしょう。そうして人材が集まってくるはずです」

納得した昭王は郭隗に豪邸を作り師と仰ぎ厚遇した。
そして優れた人材が集まってきて中で春秋戦国時代屈指の名将・楽毅(がくき)も燕に仕官してきた。
こうして斉打倒のための準備が着々と進み趙、魏、韓、楚で連合軍を形成された。
これを率いた楽毅は斉の首都を落とすなど大活躍した。
このことから大事な事をなす時にまず手近からすることを【まず隗より始めよ】と言うようになる。
(しかし今は事を始めるには自分自身からという意味で使われる)

66: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:34:00 ID:n3S
>>49
馬の骨の元ネタやっけ?

69: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:39:44 ID:05j
>>66
馬の骨の逸話とくっついてるバージョン読んだ事あるな

53: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:14:01 ID:VOs
【鶏鳴狗盗】
戦国四君の一人・孟嘗君の故事。
斉国の人・孟嘗君は若いときから聡明で優れた人物として他国にも名が知れわたっていた。
孟嘗君に多くの人が訪ね一芸に長けた者であれば誰でも食客に迎え入れその数は三千人以上いたと言われている。
中には盗みの名人、物真似の名人、偽造の名人などもいた。
ある日、秦の昭襄王から使者が来て有名な孟嘗君と会いたいので秦に招きたいと言ってきた。
孟嘗君は食客を連れ秦へ赴き昭襄王は歓迎し迎えた。
昭襄王は孟嘗君を高く評価し秦の宰相にしたいと考えるが、昭襄王の配下たちは

「孟嘗君は一流の人物であるのは認めますが、所詮は斉の人物であり斉の益になることはしても秦の益になることはしないでしょう。秦にとって危険な人物となり得るので殺すべきです」

そういわれた昭襄王は孟嘗君が泊まっている屋敷を包囲するよう命じる。
それに気づいた孟嘗君は昭襄王が寵愛している側室・幸姫へ使者を送り包囲を解いてもらうよう王に口添えしてくれと頼んだ。
しかしその見返りに狐白裘を所望してきた。
孟嘗君はこれに困った。
狐白裘は秦に来て昭襄王に献上してしまっていて手元にはもうなかった。
そこで食客の一人で盗みの名人の者が狐白裘を盗みだしそれを幸姫に渡せばよいと進言する。
見事に盗み出し幸姫に渡し包囲の解除に成功する。
しかしいつ王の気が変わるか分からない。
いつまでもここにいられないと判断し孟嘗君は包囲を解かれてすぐに屋敷を出て斉の帰路へとついた。
案の定昭襄王は気が変わって追っ手を向かわせていた。
孟嘗君一行は関所の函谷関に到着する。
しかし時間は真夜中で門は閉ざされていた。
当時、関所の門が開かれるのは鶏がときを告げたらというしきたりがあった。
そこで食客の一人の物真似名人が鶏の真似をすると進言して、さっそく実行させる。
名人の鳴き声に周りの鶏たちも反応しだし門番はいやに早いと疑問に感じながらもしきたりなため門を開く。
こうして孟嘗君は秦から無事脱出することに成功した。
学者や武芸者などの他の食客は、盗みや物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満だったが、このときばかり孟嘗君の先見の明に感心した。
ワイも何か特技ほしいンゴ…

56: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:17:30 ID:VOs
【完璧】
趙王・恵文王の家臣・藺相如の故事。
秦が趙に和氏の壁と城十五城を交換してくれと言ってきた。
条件は悪くないが相手は虎視眈々と侵略しようとしている大国・秦。
口約束の可能性が高く、和氏の壁だけ取られ城十五城を貰えない可能性がある。
かといって断ればこれだけの好条件を出したのに断るなど無礼と侵略の口実を与えることになる。
それに使者の人選も悩む所だ。
和氏の壁を取られ城も貰えずでは話にならずそれに秦へ赴くのは虎穴に入るようなもので生きて帰れる保証もなく、みんなしり込みした。
議論は重ねるがなかなか打開策が出ない中、家臣・穆賢が一人の男を推挙した。

穆賢「趙王さま。私の食客に藺相如という智勇兼備の者がおります。その者ならこの問題を打開出来るかもしれません。」

趙王「その男はどういう人物なのだ?」

穆賢は藺相如とのことを話した。
昔、穆賢は趙王の怒りを買い処罰を恐れて燕へ亡命しようとした。

藺相如「穆賢さま、なぜ燕へ逃れるのですか?」

繆賢「以前に趙・燕の会談で私は趙王のお供で着いてったのが、その時に燕王と会ったことがある。燕王は私の手を握って友人になりたいと願ってきた。きっと私を快く迎えてくれるだろう」

藺相如「それは間違いです。燕は弱小国であり、比べれば趙は強国です。燕王があなたと友になりたいと願ったのは、あなたが強国である趙王さまの寵愛を受けていればこそ。寵愛を失い不興を買ったあなたが燕に行っても、燕王は匿うどころか捕らえて送り返すでしょう」

穆賢「確かに…ならば私はどうすればいいか…」

藺相如「穆賢さま。ここは誠意を持って趙王さまに謝罪するべきです。あるいは助かるかもしれません」

穆賢は藺相如の言うとおり必死に趙王へと謝罪し許された。

この話を聞いた趙王はさっそく藺相如と会見しどうすればいいか相談した。

趙王「この問題についてどのような対処をすればいいか?」

藺相如「秦は強大国です。受けざるを得ないでしょう。」

趙王「だが璧を奪われ、城を渡されなかったらどうする。それに任せられる使者が居ない」

藺相如「使者がいないのなら私が秦に出向きます。城を受け取れなければ“璧を完うして帰ります”(璧を全く損ねることなく帰る=必ず持ち帰るの意味)」

これから【完璧】が生まれ今では完全無欠の意味で使われるが“壁を完うして帰らん”から生まれた。
藺相如かっけぇー

57: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:20:15 ID:itb
>>56
高校の漢文でやったンゴねぇ…

55: 楽【49】-阪【53】 2016/11/04(金)23:16:06 ID:KLu
完璧って故事成語なんか

60: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:26:44 ID:VOs
【怒髪天を衝く】
藺相如による故事。
藺相如は秦への使者に抜擢され秦の昭襄王と対面する。
そして和氏の璧を渡すが、受け取ったとたん寵姫や群臣に見せびらかし続け、城の話をする気配が無い
昭襄王の態度に、城を渡す気が全く無いと判断する。
藺相如「実は小さい傷があるのです。よろしければお教えいたしましょう」
と近寄って璧を奪い取り、柱の側へ駆け寄った。
そして、冠を突き上げる程に髪を逆立てた凄まじい
怒りの形相になった。
これが【怒髪天を衝く】の由来。
秦王「なにをする!」
藺相如「趙では疑う意見が多かったが庶民ですら欺くのを恥とするのに、ましてや大国の王が欺くなどあり得ないとの私の意見を趙王さまは聞いてくれて、秦に敬意を払い五日身を清め和氏の璧を私に渡していただいた。なのに秦王さまは一国の使者に対し礼に欠いた振る舞い、もう城を渡す気はないと思い璧も自分の頭もこの柱で叩き割ります!」
秦王「待て!?それは誤解だ!地図を持ってまいれ!」
秦王はすぐに地図を持ってこさせどの城を渡すか説明するが、藺相如は見えすいた芝居と思い秦王に五日間身を清めることを要求した。
秦王も五日間の我慢ならと思いそれに従った。
藺相如が五日間身を清めることを要求したのは時間稼ぎでその間に従者の一人に壁を趙持ち帰らせた。
そして約束の日が来て秦王は再度和氏の壁を要求した。
藺相如「秦王さま。歴代の秦王で約束を守った王は聞いたことがありません。秦王さまに謀られ趙王さまの信頼を裏切るのを恐れ壁は趙へ送り返しました」
秦王「なんだと!?」
藺相如「貴国が改めて使者を出し先に城十五城くださるなら趙は喜んで壁を出しましょう。しかし私は秦王さまを欺く大罪を犯しました。死罪を受けても文句はありません。」
これに怒った秦の部下たちは処刑すべきだと言ったが、秦王・昭襄王は藺相如の剛胆さに感心し
秦王「この者を殺しても何も得られず趙との友好も終わりだ。ここは気持ちよく送り返すんだ」
と言い罪を許した。
そのあと藺相如は改めて秦王から手厚くもてなされ無事に趙へ帰還を果たす。
趙王はこの功で藺相如を上大夫に取り立てた。

63: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:32:38 ID:VOs
【黽地の会】
藺相如が趙に仕えてから数年経ちその間に秦がたびたび侵攻してきた。
ある時、秦から和議の使者がきて黽地にて両国の友好を深めるため会談を開きたいと言ってくる。
しかし趙王は気が向かない。
和氏の壁の件といい秦たびたび攻められ城も奪われしかも黽地は秦領内で生きて帰れないかもしれない。
だが趙の大将軍・廉頗が

廉頗「ここで行かなければ秦はつけあがり他の諸侯も趙を侮るでしょう」

と言い藺相如もこれに賛同した。
趙王は意を決して黽地向かうことを決め、三十日以内に帰らなければ太子を王に立てて敵討ちせよと言い残した。
共には藺相如を連れていき趙を出た。
そして黽地につき秦王が歓迎しさっそく宴が開かれた。
宴もたけなわとなった時、秦王が

秦王「趙王どのは音楽が好きだと聞いています。一つ両国の友好のために琴を弾いていただけませんか?」

趙王「…分かりました」

仕方なく趙王は琴を弾き、その直後、秦王は記録官に国史へ“秦王 趙王に命じ琴を弾かせる”と書くように言った。
秦は趙を臣下どころか楽士(宴会などで音楽を弾く使用人)扱いし見下そうとしている、と見た藺相如は秦王に近づいた。

64: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:33:24 ID:VOs
【黽地の会】
藺相如「貴国では宴席で瓦盆を叩くと聞いています。両国の友好を祝してぜひ叩いていただけませんか?」

確かに秦にはそのような風習があったが、中原諸国では下品とされる行為で、ましてや王に頼むの無礼なこと。

秦王「なんだと!無礼であろう!」

秦の家臣たちもこれに怒り藺相如に掴みかかりそうな勢いだったが

藺相如「私は今秦王の五歩以内の距離にいます。もし承諾いただけなければ命をいただきます」

藺相如の勢いに圧倒されて秦王は仕方なく瓦盆を叩いた。
藺相如は記録官に“秦王 趙王のために瓦盆を叩く”と記録させ秦王さまのおかげで宴席は盛り上がったと言った。
そして秦の家臣が

秦・家臣「趙王さま」

趙王「なにかな?」

秦・家臣「わが秦王のご長寿を祝して貴国の城十五城を差し上げてはいかが?」

すかさず藺相如が

藺相如「貴国こそ趙王のご長寿のために首都・感陽を差し上げてはいかが?」

と返し秦の家臣は黙ってしまった。
終始藺相如の機転により最後まで秦は趙を格下扱いできず、黽地から帰国する際も警戒を怠らず無事に趙へと帰還を果たした。
趙王はこの功績により藺相如を上卿(大臣)に取り立てた。
同じ上卿の廉頗より上の位になった。

73: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:50:38 ID:VOs
【刎頸の交わり】
藺相如と廉頗の故事。
廉頗は藺相如が自分より位が上なことに誰構わず不満を漏らしていた。

廉頗「俺は趙の総大将として戦場で数々の功績を挙げてきた!それなのに口先だけの藺相如よりなんで位が下なのだ!」

廉頗「皆のもの見ていよ!今度あいつに会ったら必ず辱しめてやる!」

この話は当然藺相如にも伝わり、廉頗と会わぬように病気と称して屋敷に篭り、宮中に参内するときも廉頗が居ない日を見計らうようにしていた。
ある日、馬車で外へ出た藺相如は偶然に廉頗と会いそうになり藺相如はすぐにわき道に隠れた。
これを見た家臣一同はその夜、藺相如に話を申し入れた。

74: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:53:55 ID:VOs
部下たちは

部下「我々が親戚縁者の下を離れあなたに仕えるのは、あなたの高義を慕っているからです。しかし今日のご主人さまの行いは匹夫(取るに足らない男)でさえも恥じ入るような行いです。
なのにご主人さまは全く恥じるそぶりも見せませぬ…
最早我慢できません。
全員お暇をとらせていただきとうございます。」

藺相如「そうか……お前達、秦王と廉頗将軍ではどちらが恐ろしいか」

部下「もちろん秦王です」

藺相如「私はその秦王と二度にわたって堂々と渡り合った。
この相如は役立たずとはいえ廉頗将軍を恐れる訳があろうか。
思うにあの秦が趙を攻め切れていないのは、私と廉頗将軍が健在であるからこそだ。
いま私と将軍が戦えば、両虎相討つようにどちらも生きるということはない。
私がこのような行動をとるのは、個人の争いよりも国家が大切だからだ。分かってくれ」

これを聞いた部下たちは藺相如の思慮の深さと器量を感じ入り、頭を下げた。

75: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:55:09 ID:VOs
この話は宮中でも噂となり、これを聞いた廉頗は心打たれ、自らを恥じて藺相如の屋敷を訪れた。
そして藺相如の前に肌脱ぎして座し、背負っていた茨の鞭を差し出した。

廉頗「藺相如どの、あなたのお心を知らずに愚かな態度を取ってしまい申し訳ありませんでした。この鞭で気の済むまで打ってください。しかし貴方に今まで与えた屈辱を考えればそれでも足りません」

藺相如「何をおっしゃいます!あなたがいるから他国は趙に手を出せないのです。」

と廉頗は快く許した。
廉頗はさらに心を打たれ

廉頗「藺相如どの…あなたのためならばこの首を刎ねられても悔いはございません」

藺相如「私も将軍のためならば、喜んで首を刎ねられましょう」

と誓った。
こうして二人は互いのために頸(首)を刎ねられても悔いはないとする誓いを結んだ。
これが【刎頸の交わり】の由来。
藺相如とこのエピソード好きだからつい長々と書いてしまったわ

77: 名無しさん@おーぷん 2016/11/04(金)23:58:51 ID:VOs
【馬鹿】
秦の宦官で悪臣と名高い趙高の故事。
秦が天下統一し始皇帝は数々の事業に着手した。
しかしその負担は国民への犠牲が多く不満続出していた。
そして全国を巡幸中に始皇帝が急死した。
だがこの急死は始皇帝の末子・胡亥、趙高、丞相・李斯(りし)しか知らず趙高はこれを利用し謀略する。
本来であれば長男の扶蘇が後継者となるはずが末子の胡亥が後継者となるよう工作し扶蘇は始皇帝の遺言だと偽り自殺させる。
趙高はさらに二代目皇帝となった胡亥を利用し他の公子や不平を漏らす者を次々と処刑していき恐怖政治となっていく。
そんな中、始皇帝の頃から貯まっていた国民の不満が爆発し史上初といわれる農民反乱“陳勝・呉広の乱”が起こる。
陳勝・呉広の乱は半年あまりで鎮圧に成功したがその乱は各地に飛び火していたため戦国時代に逆戻りになりつつあった。
このような状態の中でも趙高は二世皇帝・胡亥に反乱などの事実を伝えずに毎日酒と女で遊ばせていた。
丞相・李斯は国の不安定な状況を胡亥に伝えるためたびたび上奏書を提出するが、すべて趙高が握りつぶした。
そればかりか趙高は李斯に言われなき罪を被せ処刑してしまう。
こうして趙高は丞相となりさらに権力を意のままに操れるようになった。
しかし政争が行われてた間に反乱軍は増大し都・感陽のすぐ近くまできていた。
趙高もこの状況を不安視し、胡亥を暗殺し反乱軍に協力しようと画策した。
しかし誰が自分の計画に味方するか分からないので、一計を案じた。
趙高は二世皇帝・胡亥やその他の家臣達の前で珍しい馬を見せるといいさっそく連れてきた。
しかしそれはどう見ても馬じゃなく鹿であった。

胡亥「これは鹿ではないか?」

趙高「いえこれは馬でございます。そなたにはどう見える?」

家臣A「これは鹿です」

趙高「そなたは?」

家臣B「…馬です」

趙高はこの場ではちょっとした余興ですませたが、そのあと鹿と答えた家臣を逮捕し罪を着せて処刑した。
【馬鹿】という言葉この時生まれた。
権力に恐れ白い物でも上が言えば黒という意味で、まあ現代ではけなす言葉になってるけど
この後、趙高は二世皇帝・胡亥を暗殺し新たに傀儡皇帝として子嬰を立てる。
しかし趙高は反乱軍に取り入れようしていた。
子嬰は趙高の謀略を見抜き一計を案じ趙高が自身の屋敷に訪れさせ一人になったところ見計らい殺害する。
悪臣を倒し国を建て治そうとするが時すでに遅し秦はあえなく滅亡する。

78: 名無しさん@おーぷん 2016/11/05(土)00:01:09 ID:WbH
やっぱ宦官ってクソだわ

79: 名無しさん@おーぷん 2016/11/05(土)00:01:26 ID:vNN
以上やでー
長々と付き合ってくれてサンガツやでー

あと情報くれた人サンガツー

80: 名無しさん@おーぷん 2016/11/05(土)00:03:20 ID:WbH
イッチ乙面白かったで