「真田丸」も今日も含めて残り3話。冬の陣の和睦から、怒濤のように夏の陣開戦への流れを描いた回でした。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 11:58:44 +0000 2016
織田有楽斎。大坂の陣開戦前に退去した織田信雄(信長次男)同様、彼ら織田一族が、淀殿派閥を形成していた観があります。淀殿から秀頼への権力委譲がなかなかなされないのも、彼らが自分の発言力を担保したいという思惑があり、淀殿も引くに引けない形だったようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:01:12 +0000 2016
一件訂正。織田信雄の大坂退去は、冬の陣後でした。有楽斎退去の直前ですね。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:17:00 +0000 2016
有楽斎は、冬の陣の段階で、家康の指示を受け、秀頼に和睦を受け容れさせようと説得にあたりましたが、秀頼はなかなかうんといいませんでした。これも、有楽斎の立場が淀殿に比して、秀頼とは多少距離があったためと思われます。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:03:40 +0000 2016
冬の陣後の情勢はかなり混沌としています。淀殿は江戸下向も辞さないという姿勢で、かなり軟化していました。秀頼も、家康との和睦を遵守する意向を崩していません。そのため、牢人に退去を命ずる立て札をだしていました。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:05:17 +0000 2016
@kazumaru_cf 小説やドラマでよく見る狂信的に強硬な淀殿や淀に従う秀頼、というわけではなかったのですね。
— Yoshi(@Yoshikun21c)Sun Dec 04 12:20:51 +0000 2016
@Yoshikun21c たぶん、秀頼のほうが強硬だったと思います。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 13:35:54 +0000 2016
@kazumaru_cf 秀頼の実像は従来のイメージとかなり離れてますね
— Yoshi(@Yoshikun21c)Sun Dec 04 14:00:29 +0000 2016
@Yoshikun21c 淀殿に全責任が押し付けられてきたからです。中世では、未亡人が幼少の息子に代わって家督を代行するのは当たり前でしたが、近世では女性の政治介入が忌避されたので、淀殿の介入で滅びたという形になったわけです。もっとも、淀殿の発言力はまだ大きいのですが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 14:05:47 +0000 2016
しかしながら、京都所司代板倉勝重が3月にしたためた報告書によると、牢人の数はかえって増えており、兵糧や武具も買い付けているとあります。いっぽう、紀州藩主浅野長晟は、そうした話は噂話にすぎないと退けており、報告の内容が分かれています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:08:19 +0000 2016
宣教師ら外国人の史料をみると、冬の陣は「大坂方の勝利」とこぞって記録しており、これは上方の風聞を反映したものでしょう。したがって、「豊臣方に勝機あり」という認識が広まっていたものと思われます。牢人衆が秀頼の意向に反し、退去するどころか増えていったのは、このせいでしょう。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:09:35 +0000 2016
浅野長晟が「大坂方には不穏な動きはない」と述べているのは、上層部、つまり秀頼サイドの動き(牢人退去の立て札など)を伝えている可能性があります。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:10:50 +0000 2016
そうしたところ、大野治房が勝手に大坂城の蔵をあけ、配下の牢人に扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。これに大野治長は不快感を示しますが、最早こうした流れはどうすることもできませんでした。秀頼・治長といった首脳部は、牢人を統制する能力を失ってしまったわけです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:12:30 +0000 2016
そこで秀頼は、牢人を召し抱えるほか対処のしようがないというふうに考えを改めます。というよりも、そうせざるをえなかったのでしょう。そこで家康に、牢人を召し抱えたいが、摂津・河内は戦争で荒廃してしまったので、一ヶ国加増して貰いたいと要請します。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:14:00 +0000 2016
しかし家康からすれば、牢人は「処罰しないが」「退去させる」が和睦の条件でしたので、「牢人を召し抱えるための加増」などという要求は論外でした。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:15:16 +0000 2016
大坂城内ですが、大野治長・後藤又兵衛は牢人退去もやむなし、大野治房・毛利勝永・長宗我部盛親は再戦、真田信繁・木村重成・明石全登は中間派(再戦は望まないが、牢人は召し抱えて欲しい)という派閥であったようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:20:04 +0000 2016
こうしたなかで、大野治長が襲撃され、治房が首謀者という噂が流布します。完全に当事者能力を失っているとしか思えません。信繁は、1月に姉村松殿に送った書状で「明日はどうなるかわからない」と述べており、早々に覚悟を固めたようです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:23:07 +0000 2016
続く2月に娘婿石合十蔵宛の返書で、「私と大助は籠城したからには、死ぬともう決まっている。たとえ気にいらないことがあっても、娘の「すへ」を御見捨てなく」とあり、3月の小山田茂誠・之知父子宛てになると、「私のことはこの世にいる者とは思わないで下さい」とまで、本音を吐露していきます。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:25:16 +0000 2016
ちょうど最後の書状を送ったのは、板倉勝重が家康に「牢人増加・兵糧買い集め」を報告した時期ですから、信繁自身ももうコントロールは不可能と腹をくくったのでしょう。もっとも、この人はやたらと厭世的な文章を書く癖があるのですが。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:26:35 +0000 2016
板倉勝重。京都所司代で、大坂の陣以前は片桐且元に協力して豊臣蔵入り地の管理もしていました。台詞で名前だけ出ていますが、実は家康が読んでいる書状は、織田有楽斎の「あれ」以外は、板倉勝重からの書状を文面含めて作っています。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:44:01 +0000 2016
さて、今日の家康は「豊臣滅亡」を目指して動いていましたが、実際の目標は、どうもそうではなかったようです。この点は、来週お話しした方が良いと思いますのでここまでにしますが、いずれにせよ、牢人問題に尽きるわけです。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:30:34 +0000 2016
これはようするに、片桐且元の「三案」を冷静に判断し、どれかを受け容れていれば、生じなかった問題であるのですが(最終的に淀殿・秀頼・大野治長の辿り着いた答えは同じだったので)、人間というのは常に合理的な行動を取れるというわけではないことを、よく教えてくれるものでしょう。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:33:49 +0000 2016
@kazumaru_cf 夏の陣の前、豊臣家は家康の要求に対し、国替えはかんべんしてくれと回答したと記憶しています。
— 蒲原二郎@『真紅の人』をお願いします。(@kanbarajirou03)Sun Dec 04 12:40:01 +0000 2016
@kanbarajirou03 最終回答がそれで、開戦になります。その前が、もう少しごちゃごちゃと。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 13:35:19 +0000 2016
信繁と矢沢頼幸との対面。実際にはこの場には小山田茂誠はおらず、出陣してきたのは息子の之知でした。なお、小山田父子は昌幸から「真田」を名乗ることを許されているので、一門待遇。矢沢頼幸は実は一門ではなく家老待遇です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:36:13 +0000 2016
ここで信繁は、信吉・信政兄弟と対面しています。信吉と最後に会ったのは、彼が4歳の時でした。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:37:08 +0000 2016
信繁→信之の書状は、三谷さんの当初案をベースに時代考証会議で議論しました。小山田茂誠宛の書状から「殿様(秀頼)からは御懇ろにしていただいているが、よろず気遣いが多い」という部分と、石合十蔵宛の書状から「すへのこと、御見捨て無きよう」という部分を付け足して時代劇語にした記憶が。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:40:18 +0000 2016
実際に信之が読んでいる書状は、それをさらに当時の和様漢文に直していますから、堺さんが読まれている言葉とは違います。署名と花押が映ったんでしたっけ?記憶が錯綜していますが、あれが信繁の最後の花押です。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:42:14 +0000 2016
これまでのいろいろな書状も創作だったのですね、コメントありがとうございました。「真田信繁の書状を読む」を拝読してから、書状が画面にうつるのが楽しみになりました。 twitter.com/kazumaru_cf/st…
— m_squirrel28(てるる)(@m_squirrel28)Sun Dec 04 13:40:41 +0000 2016
ええと、そんなドラマのストーリーにあった書状なんて、まず残っていないので。上杉景勝が真田昌幸の本領を安堵した起請文や、石田三成が作った小田原合戦の陣立書、秀吉遺言状(ただし実際に秀吉自身が自分の意志で書いた)などが数少ない例外です。 twitter.com/m_squirrel28/s…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 13:42:59 +0000 2016
念のために補足しておくと、小田原合戦の陣立書も、作成主体は三成ではありません。秀吉が三成に命じたというのは、お芝居。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 13:45:19 +0000 2016
なお、真田丸ですが、取り壊された後も、元あった場所が「真田丸」と呼ばれ続けています。夏の陣の軍功報告書などをみると「真田丸を通って大坂城内に突入し」みたいな感じで地名となっている感じです。それだけ、印象深かったんですね。攻め手としては。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:51:25 +0000 2016
後藤又兵衛。実際には身内はいるのですが、まあ強がっているような感じでしょうか。幕府は後藤又兵衛を仕官させてやろうといろいろ世話をやいた経緯がありますから、幕府に一番近い立場です。牢人衆の中でもっとも穏健派だったのは、そのため。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 12:55:54 +0000 2016
昨日書こうと思って忘れてた。昨日の真田丸で一瞬映った真田家の本陣、弓立てにちゃんと車輪がついてたのだ。#真田丸
「わたしが考えました😏」pic.twitter.com/X66BAhrnqt t
— もち(BFLY→WLHS)(@nohoho0326)Mon Dec 05 11:47:17 +0000 2016
あ、気がついた人、出てますね。 twitter.com/nohoho0326/sta…
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Mon Dec 05 11:58:44 +0000 2016
さて、残り2話。ついに大坂夏の陣です。信繁たちは、どのような「前夜」を迎えるのでしょうか。
— 丸島和洋(@kazumaru_cf)Sun Dec 04 13:12:25 +0000 2016
コメント
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出奔したことを聞いてる限りじゃかなりの頑固者イメージだったわ
やっぱり徳川ってksだわ
そこら辺が大坂城内での立場に影響したのかも
〇〇が悪いという問題では無い、という事だよ。
来年も井伊氏だから、もっと時代考証優先してほしいネ。
視聴率には問題があるだろうが。