1: 新規スレッド作成依頼1065-435@チンしたモヤシ ★  2017/01/21(土) 07:56:15.46 ID:CAP_USER9
「広島か下関か」日清戦争講和会議の場所悩む、伊藤博文の書簡見つかる 島根大付属図書館で公開

日清戦争講和会議の場所選定の謎を解く手がかりの一つになる可能性がある伊藤博文の書簡
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伊藤博文首相
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産経WEST 2017.1.20 12:00
http://www.sankei.com/west/news/170120/wst1701200038-n1.html

 日清戦争の終盤に、当時首相だった伊藤博文が講和会議の開催場所を「広島にするか下関か決まっていない」などと記した書簡が見つかった。戦争を終結させた「下関講和会議」については、開催地の検討経緯や決定理由がよく分かっておらず、その一端に触れた貴重な資料とみられる。書簡は島根大付属図書館(松江市)で、22日まで公開されている。

 書簡は、戦前の主要紙の一つ「時事新報」の記者だった足立荘に宛てて伊藤が送ったもの。当時、大本営のあった広島にいた伊藤が、戦時取材をしていた足立に対し、外務省の役人だった井上勝之助が下関に赴いていること、陸奥宗光外相が広島に来ることを紹介。その上で講和会議の開催地について「本地(広島)ニスルカ馬関(下関)ニスルカ未定ナリ/両三日中ニハ略々決定スルニ至ルベシ」としている。

 同図書館が、足立らをテーマにした展示を準備していた昨年12月、親族から寄贈を受けた。額装された状態で保管され、封筒がなく投函(とうかん)時期は不明。下関講和会議は明治28年3月20日に始まり、4月17日に日清講和条約(下関条約)が締結されている。このため、書簡は3月20日の少し前に書かれたとみられる。

 同図書館によると、足立は当時、入社2年目だったが、その後、政治部長や編集局長を歴任し、退社後は実業家として成功したという。伊藤を初めて取材した頃、何度行っても会ってくれなかったため、名刺に英語で用件を記したところ、伊藤から英語で返事をもらい、知遇を得た-などの苦労話を後年に述懐している。

 下関講和会議に詳しい下関市立歴史博物館の松田和也学芸員によると、日清戦争の講和をめぐり同会議の開催までに、清の使節が27年11月に神戸、28年2月に広島を訪れたが、いずれも講和に至らず、3月19日に清の全権として李鴻章(りこうしょ)が下関を訪れ、翌20日から会議が始まったという。

 松田学芸員は「下関がなぜ開催地に選ばれたのか諸説あるが、明確なことは分かっていない」と指摘。「下関での開催に決まるまでの経緯の一端をうかがわせる貴重な資料といえる」と話している。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1484952975/

5: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 08:12:48.73 ID:7+7Dvosp0
安重根に暗殺された伊藤博文

みんな忘れるなよ

35: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 15:17:33.62 ID:vyzyPxYT0
>>5
日本にも李鴻章を暗殺しようとした馬鹿が居たんだけど、
あんまり知られていないよなw
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E8%B1%8A%E5%A4%AA%E9%8E

8: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 09:03:09.84 ID:Qi39sWWV0
ぶっちゃけどっちだろうと大した違いないんじゃね?

9: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 09:21:26.28 ID:8P1+w9V00
講和条約やんなきゃよかったのにー

博文だせー^^

14: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 09:54:35.03 ID:kf/M5Ii00
>>9
この講和条約で莫大な賠償金を得られたからこそ日本の発展があった

10: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 09:33:40.74 ID:+V2wyCRJ0
日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日には、
広島県広島市に置かれた大本営(→広島大本営)において、明治天皇が直接戦争の
指揮にあたった(広島大本営は翌1896年(明治29年)4月1日に解散)。1894年(明治27年)10月の
第7回帝国議会は広島市で開催されている。立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転
していたことになり、この時期は広島が一時的に首都機能を担った

22: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 11:48:14.32 ID:C4TZVCMf0
>>10
いわゆる帝都廣島。明治帝は広島城本丸の広島大本営で起居され、
皇后の御座所と共に、原爆投下までの広島の名所の1つとなった。

帝国議会議事堂は、現在の広島県庁の東側のセブンイレブン付近だった。

明治帝の御便殿は、議事堂の横から広島市南区の比治山の北端へ移築され、
広島大本営と共に広島の代表的な観光名所となったが、原爆で消滅した。

25: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 12:57:59.24 ID:LS/ULlHX0
>>10
広島カープのファンが地元紙中国新聞の記事を大本営発表と揶揄するのも広島に大本営があったから

12: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 09:44:22.62 ID:5iJ7+8Vq0
地元だから山口にしただけ
明治30年くらいまでは薩長でやりたい放題できたから

20: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 10:55:41.98 ID:gJta2LcE0
>>12
無い無い
普通に考えて地理的な問題だろ

日清戦争当時の日本の首都機能は広島市にあって
明治天皇も日清講和条約が締結されるまでは広島に滞在中だったわけで
首都の広島ではなく首都よりも交戦国に近い小都市で講和条約を締結するのは
場所のチョイスとして世界中の歴史的な講和条約の類いを見てもごく普通

37: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 16:04:02.70 ID:Ebr0TXjG0
>>31
徳川幕府や田中角栄と違って、薩長は全く故郷に我田引水してないよな
むしろ薩長は東京や東日本に利益誘導して故郷を衰退させてる始末だわw

例えば帝国大学の設置も東大と京大の次は東北(札幌・仙台)でその次が九大(福岡)で
その後も北大(札幌)、阪大(大阪)、名大(名古屋)と東日本優先の順序で設立されて
早くから帝大設置を請願していた西日本の金沢と広島には遂に帝大が設置されなかった
(その当時は金沢や広島の方が、札幌、仙台、福岡よりも大都市だったにも関わらず)

薩長が我田引水したければ首都は東京ではなく、山口や鹿児島か京都か大阪だろうし
帝国大学だって、鹿児島市や山口市か萩市などに設置していたはずだわな

29: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 14:28:46.42 ID:8J8yCy8h0
下関で良かったじゃない。
広島は伊藤博文の死後36年で、世界的に有名になるでしょ。もし下関条約が教科書に無かったら、下関なんて知らなかったかも。

36: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 15:25:34.95 ID:LddMRpYN0
下関の方が風光明媚でいいじゃん

38: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 17:42:25.03 ID:b81CycYA0
伊藤博文って魚介類の料理が好きだったらしく
伊藤博文が下関に来たときに、悪天候で海が時化てて漁師が漁に出られなくて
料理人がその時に残ってたふぐを仕方なく出したら凄く喜んでくれて
当時ふぐを食べるのは禁止されてたけど、下関では普通に食べられてたふぐ料理を下関だけ許されたって

で、下関に決まったとか?w

40: 名無しさん@1周年 2017/01/21(土) 21:43:57.66 ID:yM+1PK7u0
>>38
その伝説はいろいろな意味で相当に怪しい

とはいえ、その伝説の舞台となったのが日清講和条約交渉の場として用いられた春帆楼
伊藤が贔屓にし、「春帆楼」の名も伊藤がつけたとされるので、
場所の選定には伊藤の好みが影響したということはあるかもしれないな