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61: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:41:51 ID:LIn
趙雲伝も作ってあるから五分休憩のあと趙雲伝開始するで

70: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:47:41 ID:LIn
趙雲、字子龍、常山真定人也。

趙雲は字を子龍といい常山真定の人である。

※演義では濃い眉に大きな目、広い顔で顎が重なっている、威風堂々といった容貌であるが正史には載っていない

72: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:49:28 ID:Cj5
趙雲も楽しみンゴ

73: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:49:39 ID:LIn
本、屬公孫瓚。瓚遣先主爲田楷拒袁紹、雲遂隨從、爲先主主騎。

元は公孫瓚に仕えていた。公孫瓚が先主(劉備)を遣わせ田楷のために袁紹を防がせた際、趙雲は劉備に随行しその配下となった。

※ここで裴松之の注『趙雲別伝』という書物の記載が入るが余りにも趙雲を称賛する記載が多いため信憑性が低いと清の学者の何焯に指摘されている。ワイもそう思うため今回はカットするで

74: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:51:04 ID:LIn
及先主爲曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走。雲、身抱弱子、卽後主也。保護甘夫人、卽後主母也。皆得免難。

劉備が曹操に当陽の長坂に追われるに及び、劉備は妻子を棄て南へ逃げた。趙雲は身に幼子を抱いていたが、これ即ち後主(劉禅)のことである。甘夫人を保護していたがこれ即ち劉禅の母である。皆難を逃れられた。

※俗にいう長坂の戦い
※百万の兵の中ただ一騎で駆け抜けたという逸話も創作であり、青紅の剣も架空の武器なので正史には登場しない

75: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:51:57 ID:iD2
子供を守ったのは事実なのね

77: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:52:31 ID:LIn
>>75
せやで

76: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:52:10 ID:LIn
※劉備が先主、劉禅が後主と呼ばれる理由について解説。
正史では魏を正式な王朝として認めているため劉備や劉禅のことを皇帝と呼べない。
しかし正史の作者である陳寿は蜀に仕えていたため劉親子の名前を避けて呼びたい。
その折衷案として先代の主人、後代の主人としての意味で先主、後主という呼び方が使われている。

78: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:53:30 ID:LIn
遷爲牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。

趙雲は帰還し牙門将軍となった。劉備が蜀に入るとき、趙雲は荊州に留まった。

79: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:54:28 ID:LIn
先主、自葭萌還攻劉璋、召諸葛亮。亮、率雲與張飛等、俱泝江西上、平定郡縣。

劉備が葭萌から引き返し劉璋を攻めると、諸葛亮を召した。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて共に長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。

80: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:55:25 ID:LIn
至江州、分遣雲、從外水、上江陽、與亮會于成都。成都既定、以雲爲翊軍將軍。

江州に至り、軍を分けて趙雲を遣わし、外の河水に沿って江陽に上らせ、諸葛亮と成都で会うようにさせた。成都が平定されると趙雲は翊軍将軍となった。

81: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:56:40 ID:LIn
建興元年、爲中護軍、征南將軍、封永昌亭侯、遷鎭東將軍。

建興元年(223年)、趙雲は中護軍、征南将軍となり、永昌亭侯に封じられたが鎮東将軍に降格となった。

※建興元年の趙雲の出世は劉禅が皇帝に即位したことによるものだが正史では魏を正式な王朝とみなしているため、劉禅の皇帝即位のことは敢えて書かれていない

83: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:58:09 ID:iD2
当時も検閲があったんやろか
それとも自主規制?

84: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)19:59:33 ID:LIn
>>83 
『三国志』は皇帝の命令で作らされたものやなく私撰なんで自主規制や

85: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:00:27 ID:LIn
※趙雲が翊軍将軍(雑号)からいきなり征南将軍という高い官位を貰っているのが謎である。
私見ではあるがこれは劉禅の贔屓の可能性がある。
劉禅は陳祗や黄晧を引き立て、後継者選びには道理に外れ劉恂を選ぶといったように自分の気に入った人物を重用するきらいがある。
劉禅はかつて趙雲に命を救われたため功績以上の官位を与えたのであろう。
そう考えるとすぐに鎮東将軍に落とされたのも納得いくものではないか。

87: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:01:56 ID:LIn
五年隨諸葛亮、駐漢中。明年、亮出軍、揚聲由斜谷道。曹真遣大衆當之。亮、令雲與鄧芝、往拒、而身攻祁山。

建興五年(227年)、趙雲は諸葛亮に随行し漢中に駐屯した。翌年諸葛亮は出陣し斜谷道を経由すると声をあげて喧伝した。曹真は大軍を遣わしこれに当たった。諸葛亮は趙雲と鄧芝に命令して拒ませ、自身は祁山を攻めた。

※俗にいう第一次北伐のこと
※諸葛亮は直接長安を攻めると見せかけて西方に進出する策を取った。このときの囮役となったのが趙雲と鄧芝である

91: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:03:37 ID:LIn
雲芝兵弱敵彊、失利於箕谷。然、斂衆固守、不至大敗。軍退、貶爲鎭軍將軍。

趙雲と鄧芝の兵は弱く敵は強く、箕谷では不利となった。しかしながら、兵を引き締めて固守したため大敗には至らなかった。軍を退却すると鎮軍将軍に降格となった。

※元より囮役として弱兵を率いての出陣なので理不尽に思えるかもしれない。しかし、さきほど述べたように趙雲はあり得ないくらいの昇格をしているのでこの敗北にかこつけて降格させた可能性がある

92: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:04:43 ID:TUQ
趙雲ってにわかに過少評価されがちだよな

93: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:06:07 ID:iD2
なんせ2000年も前の話やし500年前にも1000年前にもにわかっていたんやろなあ
気が遠くなるやね

94: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:06:07 ID:LIn
演義と正史のギャップで過小評価してまうんやろなぁ
関羽張飛に比す大人物だとは言えへんがそこまで酷い人物でもあらへんのに

95: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:06:34 ID:LIn
七年卒、追諡順平侯。

建興七年(229年)に死亡し、後に(劉禅によって)順平侯と諡された。

96: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:07:06 ID:qgD
武器も持つとこ多分木製やんな?
将軍クラスになると鉄で作るんやろか
でも少林寺の槍術とかも木のしなり使ってるしな

102: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:10:51 ID:Kju
>>96
今出土しとる漢代の矛や戟は皆先っぽだけ残ってるので柄は木製やろね

98: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:08:09 ID:iD2
どんな武器で何万人もいる戦場で肉弾戦やってたのかは気になるよね

97: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:07:51 ID:LIn
※二文字の諡は諸葛亮と関羽と趙雲だけである。
張飛ですら桓侯と一文字の諡なのに圧倒的に格下の趙雲が二文字の諡を貰えたのも謎である。
劉禅は関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠ら功臣に諡を与える前に寵愛していた陳祗に諡するなど贔屓が目立つ人物なのでこれもその一端なのかもしれない。

100: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:09:56 ID:LIn
初、先主時、惟法正見諡。後主時、諸葛亮功德蓋世、蔣琬、費禕荷國之重、亦見諡。陳祗、寵待特加殊奬、夏侯霸、遠來歸國、故復得諡。

初め、劉備の時代はただ法正だけが諡された。劉禅の時代、諸葛亮は功徳がずば抜けており、蔣琬、費禕は国の重鎮で、陳祗は寵愛が特別に加えられ、夏侯覇は遠方より国に帰したのでまた諡を得た。

101: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:10:44 ID:iD2
初歩的ですまんけど諡について若干おしえて

107: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:14:08 ID:LIn
>>101
諡は死んだ人に与える称号のことでその人の評価によってつけられる文字が違うんや
例えば外征で活躍した人物なら「武」がつけられたり治世をもたらした人物なら「文」がつけられたりといった具合やで

110: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:15:10 ID:iD2
>>107
サンキューイッチ
戒名みたいなノリでつけるけど全員貰えるわけやないんやな

111: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:17:01 ID:LIn
>>110
皇帝などの貴人や臣下の中でも特に優れた人物に与えられる名誉ある称号や
当然乱発はされへんで

119: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:22:01 ID:Kju
>>101
諡法解っていう虎の巻があって生前の業績によってつけられる
「桓」だったら以下の三種類
辟土服远曰桓。以武正定。
克敬动民曰桓。敬以使之。
辟土兼国曰桓。兼人故启土。
ただし言外の意味も含んでて、表面上良い言葉でも孫策、張飛、斉の桓公みたいに
大いに武威を振るっても終わりを全うできなかったので「桓」みたいな隠れた意味もある
「恵」とかもそう

103: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:11:10 ID:uR5
趙雲は先発のエース格というより中継ぎ抑えロングリリーフと
色々便利に使えるPって印象が強いなあ。

104: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:11:11 ID:LIn
於是、關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲、乃追諡。時論以爲榮。

これにおいて関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠及び趙雲は諡を得た。時論はこれを栄誉なことだとした。

109: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:14:35 ID:LIn
雲子統嗣、官至虎賁中郎、督行領軍。次子廣、牙門將、隨姜維沓中、臨陳戰死。

趙雲の子の趙統が後を継ぎ官職は虎賁中郎、督行領軍に至った。次男の趙広は牙門将軍となり、姜維に従って沓中に行き、陣に臨んで戦死した。

112: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:17:25 ID:qgD
関羽、張飛、馬超、黄忠の4人が、それぞれ前将軍、右将軍、左将軍、後将軍に任じられた。
趙雲は各地を転戦しつつもそれまで大きな功績が少なかった為他の四名より昇進が遅かった。待遇が同格になったのは晩年期であるとされる

くっそ働いてるのになあ 可哀想

113: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:17:56 ID:iD2
まさにブルペンの悲哀

114: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:18:12 ID:LIn
※以下陳寿の評や

趙雲、彊摯壯猛、並作爪牙、其灌滕之徒歟。

趙雲は強くて勇猛であり、そろって爪牙を作り、灌嬰、滕公(夏侯嬰)のともがらであろうか。

※灌嬰、滕公(夏侯嬰)はそれぞれ劉邦に仕えた将軍で漢の功臣

144: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)21:36:56 ID:KVu
>>114
灌嬰・夏侯嬰の同類ってめちゃめちゃ高評価やん
魏で言うなら徐晃・張遼レベルかな

120: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:22:27 ID:uR5
大きな手柄に繋がらなくても黙々と指示された仕事をこなして
くれる便利な人だろうかね。
評価は上がらなくても重宝されてたタイプだろうなあ。

115: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:20:28 ID:LIn
以上で趙雲伝は終わりや
質問あったら受け付けるで

116: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:21:10 ID:iD2
おつやでむっちゃ面白かったわ
蜀の人以外も読んでみたいやね

127: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:26:24 ID:z8V
蜀書のこの巻って明らかに趙雲だけ浮いてるよな
魏延が反逆者扱いされなければ、この巻に入ってたんやろうけど

130: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:30:43 ID:LIn
>>127 
劉禅が諡した五人でまとめられてるけど官職的にも事績的にも趙雲は他の四人より劣るから異質やな 
魏延についてはワイも同意 
性質と事績からすればこの巻だったと思うわ

136: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:36:03 ID:qgD
蜀を善玉にしたいから経歴盛るやで~←まあわかる
ネタ切れてきたな…せや!関羽に架空の子供作ったろ!←やめろや

137: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)20:36:21 ID:z8V
ついでに言うと、こうした忠誠心が強く我が強くないタイプは諸葛亮の好みでもあったと思う

147: 名無しさん@おーぷん 2017/02/22(水)22:44:16 ID:aug
イッチ乙やで
おもろくて前スレから見てきてもうた