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563: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:01:02 ID:jEa
今日は曹植伝の訳をやっていくで
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1487757732/#

564: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:01:24 ID:jEa
陳思王植、字子建。

陳思王曹植は字を子建という。

565: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:02:20 ID:jEa
年十歲餘、誦讀詩論及辭賦數十萬言、善屬文。

年十余歳にして『詩経』、『論語』及び『辞賦』数十万言を読誦し、文章を作るのが上手であった。

566: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:03:11 ID:jEa
太祖嘗視其文、謂植曰「汝倩人邪」植跪曰「言出爲論、下筆成章。顧當面試、柰何倩人」

太祖(曹操)はかつてその文章を見て曹植に言った「お前は人に頼んだのか」曹植は跪いて言った「言葉は出でて論となり、筆を下せば文章となります。目の前で試してみてください。どうして人に頼みましょうか」

※曹操は正史で諱を避けられ太祖や曹公と呼ばれている

567: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:04:24 ID:jEa
時鄴銅爵臺新城、太祖悉將諸子登臺、使各爲賦。植援筆立成、可觀、太祖甚異之。

時に鄴の銅雀台が新たに築かれ、曹操は諸子を皆連れて銅雀台に登り、各々に賦を作らせた。曹植は筆を使い賦を作ると見事なものであったので曹操はとても優れていると思った。

※賦は韻文の形式の一つ、物事を羅列的に表すのが特徴

568: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:05:40 ID:Fwu
才能も性格も芸術家なのに後継者争いに加わった不幸

569: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:07:18 ID:jEa
>>568
意外と武官としても活動してるで
後々出て来るけど出征させて下さいって願いでてるし

570: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:07:27 ID:jEa
性簡易、不治威儀。輿馬服飾、不尚華麗。

性格は単純で、作法は出来ていなかった。馬車と服装は華麗さを大切にしなかった。

571: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:08:22 ID:jEa
每進見難問、應聲而對、特見寵愛。

難問を出されるたびに進み出て質問の声に答えるので曹操から特別寵愛された。

572: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:09:22 ID:jEa
建安十六年封平原侯。十九年徙封臨菑侯。

建安十六年(211年)、平原侯に封じられた。建安十九年(214年)、臨菑侯に封じられた。

※参考までにいうと建安十六年は潼関の戦い、建安十九年は劉備が入蜀したあたり

573: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:10:55 ID:Fwu
酔っ払って軍務に就けんかったかなんだかいう逸話、正史にあったっけ?

574: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:11:36 ID:jEa
>>573
あるで
この伝で出てくる
正確にいえばちがうが

575: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:11:44 ID:jEa
太祖征孫權、使植留守鄴、戒之曰「吾昔爲頓邱令、年二十三。思此時所行、無悔於今。

曹操が孫権を征伐し、曹植は鄴の留守を任された。曹操が曹植を戒めて言った「私が昔頓邱令だった時、齢は二十三歳であった。その時したことを思い返しても、今後悔することなど無い。

577: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:12:46 ID:jEa
今汝年亦二十三矣、可不勉與」植既以才見異。

お前もまた今年二十三歳になるが努力しないわけにはいくまい」曹植は既に才能が優れていると見られていた。

578: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:13:43 ID:jEa
而丁儀、丁廙、楊脩等、爲之羽翼。

丁儀、丁廙、楊修らが翼となって曹植を助けた。

580: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:15:11 ID:Fwu
>>578
負けた側やからやけど、このメンツを見るとね…

579: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:14:53 ID:jEa
太祖狐疑幾爲太子者、數矣。而植、任性而行、不自彫勵、飲酒不節。

曹操は幾度となく太子にする者を悩んだ。しかし曹植は性格を行くままに任せ、自らを彩ることに励まず、酒を飲んでは節度を持たなかった。

584: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:18:34 ID:Fwu
>>579
この辺、芸術家よな

581: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:16:25 ID:jEa
文帝、御之以術、矯情自飾。宮人左右並爲之說、故遂定爲嗣。

文帝(曹丕)ははかりごとを用い、感情を正し自らを着飾った。宮中の人は皆これを説くので、遂に太子となった。

※曹丕は正史では諱を避けられ文帝と呼ばれている

582: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:17:24 ID:jEa
二十二年增置邑五千、幷前萬戶。

建安二十二年(217年)、邑五千を追加され、合わせて万戸となった。

583: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:17:55 ID:l66
曹彰すこ

585: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:18:38 ID:jEa
植嘗乘車行馳道中、開司馬門出。太祖大怒、公車令坐死。由是、重諸侯科禁、而植寵日衰。

曹植はかつて車に乗り天子しか通れない道を走らせ、司馬門を開いて出た。曹操は大いに怒り公車令を刑死させた。これによって諸侯の禁令は重くなり、曹植に対する寵愛も日に日に衰えていった。

586: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:19:07 ID:7Wj
>>585
(アカン)

587: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:19:15 ID:Fwu
そうか
いろんなことでやらかしてるんやな

588: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:19:55 ID:jEa
太祖、既慮終始之變。以楊脩頗有才策而又袁氏之甥也、於是以罪誅脩。植、益內不自安。

曹操はいつも事変を憂慮していた。楊修が策を練る才能があったうえ袁氏の甥であったことから、罪をもって楊修を誅殺した。曹植は益々不安になった。

589: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:21:09 ID:jEa
二十四年、曹仁爲關羽所圍。太祖以植爲南中郎將、行征虜將軍。欲遣救仁、呼、有所敕戒。植醉不能受命、於是悔而罷之。

建安二十四年(221年)、曹仁が関羽に包囲された。曹操は曹植を南中郎将、征虜将軍とした。曹操は曹植を曹仁の救援に向かわせようと呼び出して戒めようとした。曹植は酔っていて命を受けることが出来ず、曹操は後悔してやめた。

590: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:21:39 ID:Fwu
結局、曹操は見るところは見てて、打つ手は打つ
情愛に流された袁紹・劉表との大きな違いよな

591: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:23:21 ID:jEa
>>590
その二人との違いは部下の進言を聞くかどうかやろなぁ

592: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:23:28 ID:jEa
文帝卽王位、誅丁儀丁廙幷其男口。植與諸侯並就國。

曹丕は王位に就くと丁儀、丁廙とその一族の男を誅殺した。曹植は諸侯と共に国に赴いた。

593: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:24:36 ID:jEa
黃初二年、監國謁者灌均、希指、奏「植醉酒悖慢、劫脅使者」

黄初二年(221年)、国を監視する灌均は指示に従い、奏上して言った「曹植は酒に酔うと傲慢になり、使者を脅しました」

594: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:25:43 ID:jEa
有司請治罪、帝以太后故、貶爵安鄉侯。其年改封鄄城侯。

曹丕は役人を処罰したが、太后に配慮して曹植は安郷侯に格下げで済ませた。その年、曹丕は曹植を鄄城侯に改易した。

595: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:26:00 ID:Fwu
これだけやらかしてて、国家の為に働きたいって何回も言ってくんねんな…

598: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:27:38 ID:jEa
>>595
曹植は国のために働きたいってより立身出世のためやとワイは思うわ
自分の才能を過信してるところちらほらみられるし

600: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:28:41 ID:Fwu
>>598
それやと余計、曹丕からしたら
こいつ何言ってんねん
てかんじやろうな

601: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:29:36 ID:jEa
>>600
せやな
最後まで曹丕には疎まれとったと思うわ
ただ母親に遠慮して殺せなかっただけで

596: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:26:36 ID:7Wj
酒は身をほろぼすなあ

597: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:27:34 ID:Fwu
北方三国志での曹植に対する曹丕の陰険さ大好き

599: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:27:47 ID:jEa
三年立爲鄄城王、邑二千五百?。四年、徙封雍丘王。

黄初三年(222年)、鄄城王に格上げし、邑二千五百戸を有させた。黄初四年(223年)、雍丘王に封じられた。

602: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:29:45 ID:jEa
※曹植の上奏文が入るが長いので省略
内容は朝廷への参内を許されたお礼

603: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:30:01 ID:jEa
六年帝東征、還過雍丘、幸植宮、增戶五百。太和元年、徙封浚儀。二年、復還雍丘。

黄初六年(225年)、曹丕は東征し帰り道に雍丘を通り、曹植の宮殿へ御幸し、戸を五百ほど増加した。太和元年(227年)、浚儀に封じられた。太和二年(228年)、再び雍丘に封じられた。

604: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:30:54 ID:7Wj
兄ちゃんは扱いに苦労してんな

605: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:32:04 ID:jEa
>>604
任地をコロコロ変えとるし力持たせない配慮常にしとったんやろなぁ

606: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:32:10 ID:jEa
植常自憤怨、抱利器而無所施。上疏求自試曰。

曹植は常に己の才能が振るうところを持たないことに憤りを感じていた。自分を試すように上奏して言った。

607: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:33:05 ID:jEa
※曹植の上奏文が入るが長いので省略
内容は呉蜀を倒してやるから自分を出陣させろというもの
曹植は文の人のイメージが強いが実は武闘派

609: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:34:10 ID:Fwu
まともに軍を指揮したことないくせに自信だけは無駄にあったんやろうな…

608: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:33:09 ID:Fwu
曹丕は一族に力持たせたがらんかったからな
曹彰もさっぱりやったよな

610: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:34:58 ID:jEa
>>608
せやな
曹氏は一族に力持たせなかったから滅んでるけど司馬氏が一族に力持たせまくって八王の乱やからどっちがええかわからんけど

615: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:37:05 ID:7Wj
>>610
諸行無常やな…

616: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:37:42 ID:Fwu
>>610
まあ、今回の正男君の件にしてもそうやけど、近い血縁は存在自体が不安定要素やからな…
そういう意味では、徳川家康は秀逸やったと思うわ

611: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:35:09 ID:jEa
三年、徙封東阿。

太和三年(229年)、東阿に封じられた。

612: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:35:28 ID:jEa
※またもや曹植の上奏文が入るが長いので省略
内容は駙馬都尉、奉車都尉のどちらかにさせて宮仕えさせてくれというもの

613: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:36:11 ID:jEa
※またまた曹植の上奏文、長いので省略
内容は推挙に関すること

614: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:36:37 ID:jEa
其年冬、詔諸王朝六年正月。其二月以陳四縣、封植爲陳王、邑三千五百戶。

その年(231年)の冬、諸王に太和六年(232年)の正月に参内せよとの勅命が下された。その二月に陳の四県をもって曹植は陳王に封じられた。邑は三千五百戸であった。

617: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:38:22 ID:jEa
植每欲求、別見獨談、論及時政、幸冀試用、終不能得。既還、悵然絕望。

曹植は常に一人での謁見を願って、時の政治について論じ、試しに用いられることを望んだが、遂に叶わなかった。帰還すると絶望した。

619: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:39:43 ID:jEa
時法制、待藩國既自峻迫、寮屬皆賈豎下才、兵人給其殘老大數不過二百人。又植以前過、事事復減半。

時の法律では藩国の待遇はひっ迫しており、属するものは皆才能などなく、兵士は老いたものが支給され多くても二百人を超えることはなかった。また曹植は以前の過失から事あるごとにその半分を減らされた。

621: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:41:31 ID:jEa
遺令薄葬。以小子志保家之主也、欲立之。

曹植は質素な葬儀にするよう言い残した。末子の曹志が家を保てる人物であると思い、後継者にしようとした。

622: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:42:23 ID:jEa
初、植登魚山臨東阿、喟然有終焉之心、遂營爲墓。

それより前、曹植が魚山に登り東阿に臨んで、この場で終焉を迎えたいと思い、墓を作った。

623: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:43:32 ID:jEa
子志嗣、徙封濟北王。

子の曹志が後を継ぎ、済北王に封じられた。

624: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:44:11 ID:jEa
※詔が書かれているが長いので省略

625: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:44:23 ID:jEa
志累增邑、幷前九百九十戶。

曹志は邑を増やされ併せて九百九十戸となった。

626: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:45:30 ID:jEa
※陳寿の評

陳思、文才富豔、足以自通後葉。

陳思王(曹植)は、文才が豊富で後世に名が残るには十分であった。

627: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:46:46 ID:jEa
※七歩の才について

曹植の才能をあらわす言葉に七歩の才というものがあるが実はこれは言葉通り七歩ではない
古代中国では右足を出し左足を出しはじめて一歩と数えるため現代でいうところの十四歩分歩いていることになる
同様に五十歩百歩も現代でいえば百歩と二百歩の差になる

632: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:53:19 ID:G0M
>>627
七歩詩貼っとこか
https://www.youtube.com/watch?v=p-_t26nwkaI


七歩詩自体は絶句なんで時代的に曹植作はありえんけど
そういう伝説が作られるほどやった言うことやね

633: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:54:34 ID:jEa
>>632
これスリキンか?

635: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:56:03 ID:G0M
>>633
せやでー

628: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:47:53 ID:jEa
これで曹植伝は終わりや

629: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:48:41 ID:7Wj
おつやで
意外と暗殺とかされてないねんな

630: 名無しさん@おーぷん 2017/02/25(土)19:50:14 ID:jEa
>>629
むしろ曹丕は刑罰をもって堂々と処刑出来る立場にあったけど母親のこと考えてしなかったんや
暗殺はなおさらせーへんで