1: チンしたモヤシ ★ 2017/06/16(金) 05:48:04.95 ID:CAP_USER9
6月16日は「和菓子の日」。さかのぼること平安時代……その由縁と歴史について
あの吉田松陰も大好物だった……といわれる「大福」
tenki.jpサプリ 記事(更新 2017/6/15 16:30)
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017061500078.html
6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
http://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2017/06/image-11-900x491.jpeg
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071
梅雨らしい空模様が続くと外出が億劫になりますが、そんな日に自宅で過ごす楽しみといえば「菓子、アイス、スイーツを食べること」という方も少なくないと思います。特に見た目がかわいらしいケーキや和菓子は、天気に関係なく(笑)、ひと時の幸せをもたらしてくれますよね!
そんな折、明日6月16日が「和菓子の日」であることをご存じですか? 実はこの「和菓子の日」は、古くから“いわれ”のある記念日なのです。それにしても、なぜ6月16日が「和菓子の日」なのでしょう? 和菓子にまつわるトリビアも交えつつ、早速ご紹介していきましょう。
●「嘉祥の日」が「和菓子の日」に
だいぶ古い話になりますが、遡ること約1170年前の平安時代(848年/承和15年・嘉祥元年)。
仁明(にんみょう)天皇が「6月16日に“16”にちなんだ菓子などを神前に供えるように」という神のお告げに従ったことが「和菓子の日」のそもそものはじまり、といわれています。そして、仁明天皇はこのお告げをきっかけに、「めでたい」という意味がある「嘉祥(かしょう)」に元号をあらためたそう。神のお告げによって元号があらたまる……なんて現代では考えられないことですが、平安時代の時代性がうかがえるエピソードでもありますね。
鎌倉時代になると、時の天皇が6月16日に16枚の通貨と同価値の菓子を神前に供えるようになりました。さらに、室町時代には6月16日が「嘉祥の日」となり、天皇にお祝いの菓子を献上していたと『御湯殿上日記』に記されています。安土桃山時代には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を行っていましたし、江戸時代には6月16日に大名や旗本を江戸城の大広間に集めて、時の将軍から菓子が配られました。その際に用意された菓子は約2万個!にものぼり、儀式は「嘉祥頂戴」と呼ばれました。
庶民にも嘉祥の習わしは広まり、十六文(もしくは米一升六合)で買った菓子を食べていたのだとか。さらに、6月16日の夜に、16歳の子の振袖をおとして詰め袖にする「嘉祥縫」という風習もありました。他にも、6月16日に収穫した梅で作った梅干しを「嘉祥の梅」と呼び、旅立ちの日に食べることで旅の無事を祈ってもいました。
平安時代に始まった「嘉祥の日」の習わしは、災難を逃れ、健康を招く恒例行事として明治時代まで続きます。その後、昭和54(1979)年に一度忘れられた「嘉祥の日」を復活させるべく、全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」としたのです。
つづく >>2-5
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497559684/あの吉田松陰も大好物だった……といわれる「大福」
tenki.jpサプリ 記事(更新 2017/6/15 16:30)
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017061500078.html
6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
http://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2017/06/image-11-900x491.jpeg
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071
梅雨らしい空模様が続くと外出が億劫になりますが、そんな日に自宅で過ごす楽しみといえば「菓子、アイス、スイーツを食べること」という方も少なくないと思います。特に見た目がかわいらしいケーキや和菓子は、天気に関係なく(笑)、ひと時の幸せをもたらしてくれますよね!
そんな折、明日6月16日が「和菓子の日」であることをご存じですか? 実はこの「和菓子の日」は、古くから“いわれ”のある記念日なのです。それにしても、なぜ6月16日が「和菓子の日」なのでしょう? 和菓子にまつわるトリビアも交えつつ、早速ご紹介していきましょう。
●「嘉祥の日」が「和菓子の日」に
だいぶ古い話になりますが、遡ること約1170年前の平安時代(848年/承和15年・嘉祥元年)。
仁明(にんみょう)天皇が「6月16日に“16”にちなんだ菓子などを神前に供えるように」という神のお告げに従ったことが「和菓子の日」のそもそものはじまり、といわれています。そして、仁明天皇はこのお告げをきっかけに、「めでたい」という意味がある「嘉祥(かしょう)」に元号をあらためたそう。神のお告げによって元号があらたまる……なんて現代では考えられないことですが、平安時代の時代性がうかがえるエピソードでもありますね。
鎌倉時代になると、時の天皇が6月16日に16枚の通貨と同価値の菓子を神前に供えるようになりました。さらに、室町時代には6月16日が「嘉祥の日」となり、天皇にお祝いの菓子を献上していたと『御湯殿上日記』に記されています。安土桃山時代には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を行っていましたし、江戸時代には6月16日に大名や旗本を江戸城の大広間に集めて、時の将軍から菓子が配られました。その際に用意された菓子は約2万個!にものぼり、儀式は「嘉祥頂戴」と呼ばれました。
庶民にも嘉祥の習わしは広まり、十六文(もしくは米一升六合)で買った菓子を食べていたのだとか。さらに、6月16日の夜に、16歳の子の振袖をおとして詰め袖にする「嘉祥縫」という風習もありました。他にも、6月16日に収穫した梅で作った梅干しを「嘉祥の梅」と呼び、旅立ちの日に食べることで旅の無事を祈ってもいました。
平安時代に始まった「嘉祥の日」の習わしは、災難を逃れ、健康を招く恒例行事として明治時代まで続きます。その後、昭和54(1979)年に一度忘れられた「嘉祥の日」を復活させるべく、全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」としたのです。
つづく >>2-5
2: チンしたモヤシ ★ 2017/06/16(金) 05:48:35.99 ID:CAP_USER9
つづき >>1
●和菓子はお好きですか?
「和菓子」と聞いて、みなさんがまず思い浮かべるものは何でしょうか。
あるインターネット調査で人気の和菓子を調べたところ、1位は「大福」、2位は「どら焼き」、3位は「みたらし団子」でした。
中でも男性は「大福」「どら焼き」「カステラ」「ようかん」といった食べ応えのあるものを好み、女性は「みたらし団子」「桜餅」「わらび餅」「あんみつ」のように、タレやきな粉がかかったビジュアル的に華やかで、つるんとした食感のものを好むようです(@ニフティ何でも調査団2012年9月実施アンケート結果より)。
1位になった大福は、現在では和菓子店はもちろんスーパーやコンビニでも目にしますが、昔は家庭で作られていました。腹もちがよいことから「腹太餅(はらぶともち)」とも呼ばれ、時間が経って硬くなると、火鉢で香ばしく焼いて食べていたのだそう。
そんな大福がお店で売られるものになったのは江戸時代に入ってから。“おたまさん”という女性が、小石川のあたりで最初に大福で商いを始めたのが元祖「大福店」ともいわれています。
さらに、女性に人気のお団子は、なんと縄文時代から食べられていたんですよ! 当時はドングリやトチノミなどをすり潰して作られていたといわれています。
また、男性に人気のようかんは、「羊羹」(「ひつじ」の「あつもの」/羹は熱い吸い物のこと)の字のとおり、今のようかんとは似ても似つかぬ「羊の肉が入った汁もの」だったのです。中国から伝わった羊羹の羊肉が口に合わなかった日本人は、羊肉のかわりに小麦粉や小豆を入れるようになり、いつしかその中身だけ取り出し、蒸して食べるようになったそう。そう、これが……「蒸しようかん」誕生のいきさつと言われているのですが、江戸時代に寒天が発見されて以降は、今の姿に近い煉羊羹も作られるようになりました。
―― さて、これからスーパーに買い物に行く方、仕事帰りに買い物をする方は、この記事を読んでいただいたからには、ぜひ和菓子を一品購入してみては!「和菓子の日」を記念した特別なお菓子を販売しているお店もありますから、ネットや店舗でぜひチェックしてみてくださいね!
6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071
●将軍からお菓子をもらえる日!?
「和菓子の日」のルーツは「嘉祥(かじょう)」と呼ばれる行事でした。嘉祥とは、旧暦6月16日に16個の菓子または餅を食べて、厄払いするという習わし。室町時代には、すでに朝廷でまんじゅう等が贈答されていたようです。
江戸時代、徳川幕府もこの行事を大切にしており、毎年6月16日にはお目見え以上の大名旗本を江戸城大広間に招き、全員に7種類(のちに8種類)のお菓子をふるまいました。城内大広間には、繊細な和菓子が約2万個も積まれ、1つずつ取っていったというのですから、もらう方も大変だった事でしょう。前日15日も月例の登城日だったため、大名旗本のみなさんは「昨日も今日も登城かよ~」と思っていたかもしれません。
ちなみに2代将軍秀忠までは、将軍自らが手渡しで一人一人に菓子を配ったそうで、その後数日間肩が痛かったとか。まるでアイドルの握手会状態です。あまりにも将軍の負担が大きいので、やり方が変わっていったようです。
●江戸幕府が嘉祥を大事にした理由
なぜ幕府がそこまでこの行事を重視したのかというと、話は江戸幕府開闢前の元亀3年 (1572) までさかのぼります。
天下の織田信長の同盟者に過ぎなかった家康に、出世チャンスが到来。上洛のため近づいてきた武田軍3万人に対し、三方ケ原 (浜松市の西方)で迎え撃つ家康軍は1万5千人足らず。自軍の倍以上の敵に挑むこととなりました。戦の目前、家康は道端で嘉定十六年製の「十六」が刻まれた宋銭、嘉定通宝を拾います。
「嘉定通宝」→「嘉通」→「かつう」→「勝つ!」
縁起をかついで、家臣の大久保藤五郎(のちに江戸幕府御用達の和菓子屋)は、手製の菓子を6種献上して、家康を奮い立たせました。結果、この戦には大敗してしまいますが、家康の勇敢さや忠誠心が賞賛され、その後の評価につながる合戦となりました。
嘉定通宝の「嘉定」が、昔からの行事「嘉祥」に通じるということで、江戸幕府開闢後もこの行事は重んじられたのです。
●庶民の嘉祥は、どんなふうにしてた?
ちなみに庶民の嘉祥は、16文で買った16個の菓子や餅を神棚に祀った後、無言・無表情を保ったまま家族で16個完食するというシュールな行事だったそうです。私たちも、16日は無表情で和菓子を食べてみたら、なにか良いことが起こるかもしれません。
●和菓子はお好きですか?
「和菓子」と聞いて、みなさんがまず思い浮かべるものは何でしょうか。
あるインターネット調査で人気の和菓子を調べたところ、1位は「大福」、2位は「どら焼き」、3位は「みたらし団子」でした。
中でも男性は「大福」「どら焼き」「カステラ」「ようかん」といった食べ応えのあるものを好み、女性は「みたらし団子」「桜餅」「わらび餅」「あんみつ」のように、タレやきな粉がかかったビジュアル的に華やかで、つるんとした食感のものを好むようです(@ニフティ何でも調査団2012年9月実施アンケート結果より)。
1位になった大福は、現在では和菓子店はもちろんスーパーやコンビニでも目にしますが、昔は家庭で作られていました。腹もちがよいことから「腹太餅(はらぶともち)」とも呼ばれ、時間が経って硬くなると、火鉢で香ばしく焼いて食べていたのだそう。
そんな大福がお店で売られるものになったのは江戸時代に入ってから。“おたまさん”という女性が、小石川のあたりで最初に大福で商いを始めたのが元祖「大福店」ともいわれています。
さらに、女性に人気のお団子は、なんと縄文時代から食べられていたんですよ! 当時はドングリやトチノミなどをすり潰して作られていたといわれています。
また、男性に人気のようかんは、「羊羹」(「ひつじ」の「あつもの」/羹は熱い吸い物のこと)の字のとおり、今のようかんとは似ても似つかぬ「羊の肉が入った汁もの」だったのです。中国から伝わった羊羹の羊肉が口に合わなかった日本人は、羊肉のかわりに小麦粉や小豆を入れるようになり、いつしかその中身だけ取り出し、蒸して食べるようになったそう。そう、これが……「蒸しようかん」誕生のいきさつと言われているのですが、江戸時代に寒天が発見されて以降は、今の姿に近い煉羊羹も作られるようになりました。
―― さて、これからスーパーに買い物に行く方、仕事帰りに買い物をする方は、この記事を読んでいただいたからには、ぜひ和菓子を一品購入してみては!「和菓子の日」を記念した特別なお菓子を販売しているお店もありますから、ネットや店舗でぜひチェックしてみてくださいね!
6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071
●将軍からお菓子をもらえる日!?
「和菓子の日」のルーツは「嘉祥(かじょう)」と呼ばれる行事でした。嘉祥とは、旧暦6月16日に16個の菓子または餅を食べて、厄払いするという習わし。室町時代には、すでに朝廷でまんじゅう等が贈答されていたようです。
江戸時代、徳川幕府もこの行事を大切にしており、毎年6月16日にはお目見え以上の大名旗本を江戸城大広間に招き、全員に7種類(のちに8種類)のお菓子をふるまいました。城内大広間には、繊細な和菓子が約2万個も積まれ、1つずつ取っていったというのですから、もらう方も大変だった事でしょう。前日15日も月例の登城日だったため、大名旗本のみなさんは「昨日も今日も登城かよ~」と思っていたかもしれません。
ちなみに2代将軍秀忠までは、将軍自らが手渡しで一人一人に菓子を配ったそうで、その後数日間肩が痛かったとか。まるでアイドルの握手会状態です。あまりにも将軍の負担が大きいので、やり方が変わっていったようです。
●江戸幕府が嘉祥を大事にした理由
なぜ幕府がそこまでこの行事を重視したのかというと、話は江戸幕府開闢前の元亀3年 (1572) までさかのぼります。
天下の織田信長の同盟者に過ぎなかった家康に、出世チャンスが到来。上洛のため近づいてきた武田軍3万人に対し、三方ケ原 (浜松市の西方)で迎え撃つ家康軍は1万5千人足らず。自軍の倍以上の敵に挑むこととなりました。戦の目前、家康は道端で嘉定十六年製の「十六」が刻まれた宋銭、嘉定通宝を拾います。
「嘉定通宝」→「嘉通」→「かつう」→「勝つ!」
縁起をかついで、家臣の大久保藤五郎(のちに江戸幕府御用達の和菓子屋)は、手製の菓子を6種献上して、家康を奮い立たせました。結果、この戦には大敗してしまいますが、家康の勇敢さや忠誠心が賞賛され、その後の評価につながる合戦となりました。
嘉定通宝の「嘉定」が、昔からの行事「嘉祥」に通じるということで、江戸幕府開闢後もこの行事は重んじられたのです。
●庶民の嘉祥は、どんなふうにしてた?
ちなみに庶民の嘉祥は、16文で買った16個の菓子や餅を神棚に祀った後、無言・無表情を保ったまま家族で16個完食するというシュールな行事だったそうです。私たちも、16日は無表情で和菓子を食べてみたら、なにか良いことが起こるかもしれません。
15: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 06:57:49.88 ID:PdTHj3sz0
>>1
和菓子好きの明仁天皇は、仁明天皇の生まれ変わりとも言われている。
和菓子好きの明仁天皇は、仁明天皇の生まれ変わりとも言われている。
4: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 05:56:55.92 ID:UuiLrhqp0
二万個手渡しとか絶対に誇張だろな。
そもそも大名から旗本入れても二万人居ないし、物理的に無理w
そもそも大名から旗本入れても二万人居ないし、物理的に無理w
5: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 05:59:12.22 ID:VfpmUtdP0
>>4
akbの握手会形式なら行けんじゃね?
akbの握手会形式なら行けんじゃね?
11: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 06:41:49.12 ID:mhTLj15Z0
>>4
なぜ一人に一個と思ったか
あと、手配りとは言って無いし
茶坊主が菓子配った後に
上段に座ってる将軍に一同でお礼言上みたいな形式だったんじゃね
なぜ一人に一個と思ったか
あと、手配りとは言って無いし
茶坊主が菓子配った後に
上段に座ってる将軍に一同でお礼言上みたいな形式だったんじゃね
14: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 06:57:48.06 ID:9uzZXWob0
>>11
秀忠までは実際に配っていたと書いてあるよ。その後は負担が大きいので、実際に配るのはやめたみたい。
秀忠までは実際に配っていたと書いてあるよ。その後は負担が大きいので、実際に配るのはやめたみたい。
39: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 15:18:40.32 ID:qBNmwkse0
>>4
手渡しな訳ないだろ
将軍手ずからとかそんなのあったらすげー光栄だぞ
平伏したまま三の間くらいに一歩にじりよって盛られた三宝からおし頂くくらいが関の山のイベントだろ
手渡しな訳ないだろ
将軍手ずからとかそんなのあったらすげー光栄だぞ
平伏したまま三の間くらいに一歩にじりよって盛られた三宝からおし頂くくらいが関の山のイベントだろ
7: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 06:01:36.73 ID:nQi0Zjie0
大名の格によってもらえる数が違うのか
17: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 07:02:10.99 ID:41uEDDDkO
お菓子を供えてくれとリクエストする神様が可愛い
37: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 14:23:27.90 ID:1WG4AQ+l0
>>17
子供が物陰からゴニョゴニョ言ったいたずらだと思う
子供が物陰からゴニョゴニョ言ったいたずらだと思う
40: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 15:21:09.46 ID:CBGH5Ewm0
6月16日ねえ・・・
梅雨で腐りやすいカビが生えやすい
あまり菓子にとってはいい季節じゃないな
ひょっとして土用の丑の鰻のように
陰陽五行説的な解釈あるのかな?
梅雨で腐りやすいカビが生えやすい
あまり菓子にとってはいい季節じゃないな
ひょっとして土用の丑の鰻のように
陰陽五行説的な解釈あるのかな?
41: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 15:32:21.88 ID:jJypXyUq0
>>40
旧暦の6月16日だったら梅雨は明けているよ。
旧暦の6月16日だったら梅雨は明けているよ。
32: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 12:01:56.98 ID:0IuIletn0
おもしろい風習があったんだねえ
21: 名無しさん@1周年 2017/06/16(金) 08:28:02.94 ID:CJKOieqv0
バラまき政治
コメント
コメント一覧
「御目見以上」と言っても、元服後に嫡子として届け出た時や予定していない家督相続の時など、一生に一度しか拝謁しなかった人間も多い。
その拝謁も廊下や庭に平伏して将軍が通り過ぎる足音を聞くだけだった。
某ドラマみたいにウエサマが「余の顔を見忘れたか?」なんて聞いたところで、将軍の顔を直接見たことのある人間なんて側衆や諸侯の一部など限られた人間だけだったわけで、「えーっと・・・誰?」ってなるのがオチ。
ドラマではその某将軍の「腹心」とされている町奉行ですら、年間数回の謁見で十数メートル先にいる将軍に対して直答すら許されなかったそうだからな。
低級旗本の代官(役高200石)や陪臣である大名の家老が将軍の顔なんて拝めるわけがないし声すらかけてもらえない。
将軍家姫君の婚儀などは茶坊主や小姓、あるいは側用人が走り回って意見を集約する場合もあるだろうし。