98649883e656b3c3873fe3e8a5d0a415
887: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:02:24 ID:u7m
荀彧、字文若、潁川潁陰人也。祖父淑、字季和、朗陵令。當漢順桓之閒、知名當世。有子八人號曰八龍。彧父?、濟南相。叔父爽、司空。

荀彧は字を文若といい潁川潁陰の人である。祖父の荀淑は字を季和といい、朗陵令であった。順帝、桓帝の時代に当世に名を知られていた。子が八人あり、八龍と号していた。荀彧の父荀?は、済南の相であった。叔父の荀爽は司空であった。
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1501927686/
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1502103402/

888: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:03:06 ID:u7m
彧、年少時、南陽何?異之曰「王佐才也」永漢元年舉孝廉、拜守宮令。

荀彧が年少の時、南陽の何顒はこれを素晴らしいと思い言った「王を補佐する才である」永漢元年(189年)、孝廉(※)に挙げられ、守宮令を拝命した。

※孝廉は郷挙里選という人材登用法の一つで孝行な者が選ばれた

890: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:04:10 ID:u7m
董卓之亂、求出補吏、除亢父令。遂棄官歸、謂父老曰「潁川、四戰之地也。

董卓の乱があり、出でて補吏になることを求められたが、亢父令を除した。遂に官職を棄てて帰り、集落の代表者に言って曰く「潁川は四方に戦いが起こる土地です。

892: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:05:11 ID:u7m
天下有變、常爲兵衝。宜亟去之、無久留」?人多懷土、猶豫。

天下に変があれば、常に兵が衝突します。速やかにここを去るのがよろしく、久しく留まる所ではありません」郷の人の多くは土地を懐古して、決断を遅らせた。

894: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:06:03 ID:u7m
會冀州牧同郡韓馥、遣騎迎立。莫有隨者、彧獨將宗族至冀州。而袁紹已奪馥位、待彧以上賓之禮。

その時冀州牧で同郡の出身の韓馥が騎馬を遣わして迎えに来た。随行するものはなく、荀彧は一人宗族を率いて冀州に到った。しかし袁紹が既に韓馥の位を奪っており、荀彧を賓客以上の礼で待遇した。

896: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:07:10 ID:u7m
彧弟諶及同郡辛評郭圖、皆爲紹所任。彧度紹、終不能成大事。

荀彧の弟荀諶及び同郡の辛評、郭図は皆袁紹に任じられる所となった。荀彧は袁紹を計って終いには大事を成すに能わないとした。

897: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:08:12 ID:u7m
時太祖爲奮武將軍、在東郡。初平二年彧去紹從太祖。太祖大悅曰「吾之子房也」以爲司馬、時年二十九。

その時太祖(曹操)は奮武将軍となり、東郡に居た。初平二年(191年)、荀彧は袁紹の元を去り、曹操に従った。曹操は大喜びで言った「私の子房※)である」司馬となって、その時年齢は二十九であった。

※漢の高祖に仕えた張良という人物の字
 高祖を補佐し天下を取らせた傑物であるため、曹操は荀彧を彼に例え称賛している

899: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:09:07 ID:u7m
是時、董卓威陵天下。太祖以問彧、彧曰「卓暴虐已甚、必以亂終、無能爲也」

この時、董卓の威は天下をしのいでいた。曹操は荀彧に問い、荀彧は言った「董卓の暴虐は既にはなはだしく、必ず乱によって終わり、何も出来ないでしょう」

901: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:10:10 ID:u7m
卓、遣李?等出關東、所過虜略、至潁川陳留、而還。?人留者多見殺略。

董卓は李傕らを遣わして関東※)に出し通過した所で略奪させ、潁川、陳留に到り、帰還した。郷の人で留まった者は多くが殺された。

※函谷関の東のこと
 古代中国の王朝はその多くが咸陽、長安を首都として定めていたため、それらのそばにある函谷関を基準として土地を東西に分けて呼んでいた

902: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:11:07 ID:u7m
明年太祖領?州牧、後爲鎭東將軍、彧常以司馬從。

翌年、曹操は兗州牧を領し、後に鎮東将軍となったが、荀彧は常に司馬として従った。

903: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:11:07 ID:nXj
董卓「地元の派閥の為に頑張るのは中華の伝統やのにいつの間にか暴君扱いされてもうた……」

905: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:12:02 ID:u7m
>>903 
董卓って暴君じゃないって説もあるもんな 

906: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:12:15 ID:u7m
興平元年太祖征陶謙、任彧留事。會張?陳宮以?州反、潛迎呂布。

興平元年(194年)、曹操が陶謙を征伐し、荀彧を留守に任じた。その時張邈、陳宮が兗州で離反し、密かに呂布を迎えた。

907: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:13:18 ID:u7m
布既至、?乃使劉翊告彧曰「呂將軍來助曹使君?陶謙。宜亟供其軍食」衆疑惑。

呂布は既に到り、張邈は劉翊を遣わして荀彧に告げて言った「呂布将軍は曹操殿が陶謙を討つのを助けに参りました。速やかに食料を提供して下され」皆疑った。

911: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:14:40 ID:u7m
彧、知?爲亂、?勒兵設備、馳召東郡太守夏侯惇。而?州諸城皆應布矣。

荀彧は張邈が乱を起こしたと知り、すぐに兵を整えて備え、東郡太守夏侯惇を呼んだ。しかし、兗州の諸城は皆呂布に呼応した。

912: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:15:38 ID:u7m
時太祖悉軍攻謙、留守兵少。而督將大吏多與?宮通謀。惇至、其夜誅謀叛者數十人、衆乃定。

その時、曹操のほとんどの軍が陶謙を攻め、留守の兵は少なかった。さらに督や将、大吏の多くが張邈、陳宮と謀って通じた。夏侯惇が到ると、その夜に数十人の謀叛者を誅殺し、衆人はこうして定まった。

913: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:16:46 ID:u7m
豫州刺史郭貢、帥衆數萬、來至城下。或言、與呂布同謀、衆甚懼。貢、求見彧。

豫州刺史郭貢は兵数万を率い、城下にやって来た。ある者が呂布と通じていると言い、皆はなはだ恐れた。郭貢は荀彧に会うのを求めた。

914: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:17:55 ID:u7m
彧將往、惇等曰「君、一州鎭也。往必危、不可」彧曰「貢與?等、分、非素結也。今來速、計必未定。

荀彧が行こうとすると夏侯惇らは言った「君は一州を鎮めている人物だ。行けば必ず危うく、すべきではない」荀彧は言った「郭貢と張邈らは分かれていて平素より結託していない。今速やかに来たのだから、計略は定まっていないだろう。

916: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:18:47 ID:u7m
及其未定、?之、縱不爲用可使中立。若先疑之、彼將怒而成計」貢、見彧無懼意、謂?城未易攻、遂引兵去。

計略が定まっていないのに及んでこれを説き伏せれば、例え用いられずとも中立には出来る。もし先んじてこれを疑えば彼は怒って計略を巡らせよう」郭貢は荀彧が恐れていないのを見て、鄄城は攻めやすくはないと言い、遂に兵を引き上げた。

917: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:19:32 ID:Nce
儒教ネットワークおばけやから合理主義の曹操より儒教重視の劉備と相性良かったんかもな

919: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:21:01 ID:u7m
>>917
もし劉備と先に出会ってたら憂悶のまま死なずにすんだから悲しい
裴注に従えば自殺命じられとるし

918: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:20:11 ID:u7m
又與程昱計、使?范東阿。卒全三城、以待太祖。太祖自徐州還、?布濮陽、布東走。二年夏太祖軍乘氏、大饑。人相食。

また程昱と計って范、東阿を説き伏せさせた。遂に三城を全うし、こうして曹操を待った。曹操は自ら徐州に帰ると濮陽で呂布を迎撃し、呂布は東に敗走した。興平二年(195年)夏、曹操は乗氏に軍を出したが、大飢饉となった。人は互いを食らいあった。

920: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:21:16 ID:u7m
陶謙死。太祖欲遂取徐州、還乃定布。

陶謙が死んだ。曹操は遂に徐州を取ろうとし、帰って呂布を定めようとした。

921: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:21:28 ID:OTX
張鄄の名前しか出ていないが、彼の弟の張超こそ兄をたきつけた黒幕だと思う
張超は正史では反董卓連合を発起人であり、なかなかの野心家策略家で面白いで

923: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:22:47 ID:u7m
>>921
そういえば全然注目したことない人物やな
この機に調べてみるのも面白いかもしれへん

938: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:28:43 ID:OTX
>>923
張超の配下の臧洪という将が正史に立伝されてる
曹操に反逆した張鄄の弟のそのまた配下が、わざわざ単独の伝が立ってるってのは一見奇異やけど、それだけの価値がある面白い人物や
調べてみても損はないで

922: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:22:15 ID:u7m
彧曰「昔高祖保關中、光武據河?。皆、深根固本以制天下。進足以勝敵、退足以堅守。故雖有困敗、而終濟大業。

荀彧は言った「昔高祖は関中を保ち、光武帝は河内に拠りました※)。皆、根を深くして本拠地を固めることで天下を制したのです。進んでは敵に勝つに足り、退いては守りを堅くするのに足ります。ゆえに敗れたといえども終いには大業を成したのです。

924: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:22:54 ID:iVw
なんで三国志ってこんな他人の情報に詳しいねん

927: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:24:31 ID:u7m
>>924
実は荀彧伝に限って言えば後付けかもしれん箇所があるんや
もしかしたら詳しいんやなくて結果から歴史書を作ったのかもしれん

933: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:26:27 ID:iVw
>>927
はぇ^~
でも敵軍の参謀が自分の仲の悪い奴とか仲の良い奴とか把握しとったら怖いわ

925: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:23:03 ID:u7m
※高祖は漢を興した劉邦のことで、光武帝は王莽に簒奪された実権を取り返し漢を復興させた劉秀を指す
 どちらも関中、河内はそれぞれが拠点とした場所で、荀彧は領地をしっかり守ることの大切さを表す例として用いている

929: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:25:10 ID:u7m
將軍本以?州、首事。平山東之難、百姓無不歸心、悅服。且河濟天下之要地也。今雖殘壞、猶易以自保。是亦將軍之關中河?也、不可以不先定。

将軍は兗州を本拠として取り仕切っております。山東の難を平定し、百姓は帰心しない者がなく、喜んで服しております。かつ黄河、済川は天下の要衝の地です。今崩壊したとはいえ、なお我らの土地を保つのは容易でありましょう。
これはまた将軍にとっての関中、河内で、先に定めないべきではございません。

932: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:26:25 ID:u7m
今以破李、封薛蘭※)。若分兵東?陳宮、宮必不敢西顧。以其閒、勒兵收熟麥、約食畜穀。一舉而布可破也。

今、李封、薛蘭を破りましょう。もし兵を分けて陳宮と東で討てば、陳宮は必ず西を顧みようとはしないでしょう。その間に兵を整えて熟した麦を収穫すれば家畜の穀物を節約できます。

※原文ママ
 「李封、薛蘭」の間違いと思われる

934: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:27:21 ID:u7m
破布然後南結揚州、共討袁術、以臨淮泗。若舍布而東、多留兵則不足用、少留兵則民皆保城不得樵採。

呂布を破った後に揚州と結んで南進し、共に袁術を討ち、淮河、泗水に臨みましょう。もし呂布を捨て置いて東に行けば、(本拠に)多く兵を留めるなら用いるに足りず、少なく留めるなら民は皆城に籠り木こりをすることも出来ません。

936: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:28:10 ID:eC0
呂布配下のモブ達すき

940: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:29:16 ID:Nce
>>936
統率武力70台知力政治30台ばっかりやな

943: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:31:15 ID:nXj
呂布の部下なら高順さんすこ
人格者で強いって、上司にしたい三国志武将上位に入りそう

947: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:33:10 ID:u7m
>>943 
高順さんええね 
ちなみにワイが一番上司にしたくないのは甘寧や

939: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:28:47 ID:u7m
布乘?寇暴、民心益危。唯?城、范、衞、可全、其餘非己之有。是、無?州也。

呂布が虚に乗じて襲撃し、民心は益々危うくなりましょう。鄄城、范、衛だけは全う出来ますが、その他は自分の物ではなくなります。これでは兗州が無くなるようなものでありましょう。

942: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:30:49 ID:u7m
若徐州不定、將軍當安所歸乎?且陶謙雖死、徐州未易亡也。彼懲往年之敗、將懼而結親相爲表裏。

もし徐州を定めずにおけば、将軍はどこに帰る所があるのでしょうか?そして陶謙が死んだといえども、徐州を滅ぼすのは容易ではございますまい。彼らは往年の敗戦に懲りており、まさに恐れて結託し、互いに表と裏を突いてきましょう。 

944: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:31:54 ID:eC0
魏続なんとなくすき

945: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:32:09 ID:u7m
今東方皆以收麥、必堅壁清野、以待將軍。將軍攻之不拔、略之無獲。不出十日、則十萬之衆未戰而自困耳。

今、東方の人々は麦を収穫して、必ず焦土作戦で将軍を待ちましょう。将軍はこれを攻めても抜けず、これを攻略するも得るものが無いでしょう。出て行けば十日足らずで十万の兵は戦わずに困窮するだけです。

948: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:33:23 ID:u7m
前討徐州、威罰實行。其子弟念父兄之恥、必人自爲守無降心。就能破之、尚不可有也。

以前徐州を討伐した際、刑罰を実行※)しました。その子弟は父兄の恥を思い、必ず人々は自ら守り、降伏の心は無いでしょう。これを破ったとしても、なお有することは出来ますまい。

※曹操が徐州で大虐殺を行ったことを柔らかく表現しているのだと思われる

950: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:34:39 ID:u7m
夫事固有棄此取彼者。以大易小、可也。以安易危、可也。權一時之勢、不患本之不固、可也。今、三者莫利。

そもそも事を固めるには取るべきものとそうではないものがあります。大をもって小に変えるのは良いことです。安をもって危に変えるのは良いことです。一時の勢いを借りて本拠の固まっていないのを憂いないのも良いことです。今、三つの利はありません。

969: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:42:34 ID:OTX
しかし>>950の言い回しの意味がよく解らンゴ・・・

972: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:45:14 ID:u7m
>>969
小を大にするのも、危険を安全に変えるのも、勢いで攻めに行くのもいいけど今はどれも得られないよね
みたいなニュアンスやない?

989: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:53:23 ID:ut8
>>981
人材推挙はそれだけデカイ功績ってことやな、特に儒教が主流ならなおさら
人物を評したりコネを作ることがブームな時代やし

951: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:34:50 ID:eC0
曹豹とかいうどさくさで殺されるやつかわいそう
ことごとく頼りない顔グラにされてもっとかわいそう

953: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:36:30 ID:u7m
>>951 
裏切った人物なんか腐るほどいるのに何故かこいつだけ冷遇されてるんだよなぁ 

952: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:34:59 ID:OTX
呂布陳宮張邈の反乱が曹操最大の危機だったと思う
ギリギリで本拠地三城を死守した荀彧陳宮の功績は計り知れない

953: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:36:30 ID:u7m
>>952 
荀彧がいないと曹操は五回くらい死んでた

954: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:36:42 ID:u7m
願將軍熟慮之」太祖乃止、大收麥。復與布戰、分兵平諸縣、布敗走。?州遂平。

願わくば将軍はこれを熟慮されますよう」曹操はこうして中止し。大いに麦を収穫した。また呂布と戦い、兵を分け諸県を平定して、呂布は敗走した。兗州は遂に平定された。

969: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:42:34 ID:OTX
>>954 
この長い提言ようするに曹操に呂布陳宮を追って東進するのは止めて、兗州を慰撫しろって事なのね

956: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:37:45 ID:u7m
建安元年太祖?破?巾。漢獻帝、自河東還洛陽。太祖議奉迎都許。

建安元年(196年)、曹操は黄巾を撃破した。漢の献帝は河東から洛陽に帰った。曹操は迎え奉り許を都とすることを議論した。

960: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:38:41 ID:u7m
或以「山東未平。韓暹楊奉、新將天子到洛陽。北連張楊。未可卒制」

ある人は主張した「山東は平定されておりません。韓暹、楊奉は新たに天子を率いて洛陽に到りました。北は張楊に連なっております。にわかには制することが出来ません」

963: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:40:11 ID:u7m
彧勸太祖曰「昔高祖東伐、爲義帝縞素、而天下歸心。自天子播越、將軍首唱義兵。

荀彧が曹操に勧めて言った「昔高祖は東に征伐しに行き、義帝のために白の喪服を着たことで天下が帰心しました※)。天子が自ら(長安より)逃げられると、将軍は義兵を唱えました。

※高祖の宿敵である項羽は主君である義帝を殺害した
高祖は義帝のために喪に服したことで大義名分と天下の歓心を得た

965: ■忍法帖【Lv=12,ひょうがまじん,9gJ】 2017/08/07(月)19:40:43 ID:eC0
張楊って案外と勢力として見られてたんすね
寄せ集め感しか感じなかった

967: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:41:38 ID:u7m
>>965
演義では取り上げられないけど一応群雄の一人やからね

966: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:40:44 ID:u7m
徒以山東擾亂、未能遠赴關右。然猶分遣將帥、蒙險通使。

ただ山東で憂いるべき乱があり、未だ遠く関右に赴けませんでした。そうであっても将帥を遣わして険阻を越え使者を通じられたのです。

968: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:41:53 ID:u7m
雖禦難于外、乃心無不在王室。是、將軍匡天下之素志也。今車駕旋軫、義士有存本之思、百姓感舊而增哀。

外において難を防いでいたといえども、心が王室になかったわけではありません。これは将軍が天下を正さんとする志があったからです。今、天子の御車は戻られて、義士はこれを存続させようとする思いがあり、百姓は昔を思い哀れみを増しております。

970: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:43:30 ID:u7m
誠因此時、奉主上以從民望、大順也。秉至公以服雄傑、大略也。扶弘義以致英俊、大德也。

誠にこの時こそ、お上を奉り民の望み従うのが、大いなる順です。公正さに乗じて群雄を服させるのが、大いなる略です。義を広め英俊を招致するのが、大いなる徳です。

971: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:45:10 ID:ut8
荀彧が推挙した人材の優秀さは尋常じゃない、郭嘉だの鍾繇だのと天下の奇才ばかりやわ
この辺りの働きを見ると、光武帝の配下の第1位のトウウの如しやな

974: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:47:08 ID:u7m
>>971
このほかに荀攸とか陳羣も推挙してるからね
人脈おばけや

981: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:51:02 ID:OTX
>>971 
死ぬほど軽率で、頭に血が上ると見境がなくなり、他人の才能は見抜けるけど自分の才能は見抜けない荀彧とでも言うべき鄧禹 
こんなんでも最高の待遇で生涯を終えられた辺り、君主との相性が人生を分けるんやなと感じる

973: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:45:56 ID:u7m
天下雖有逆節、必不能爲累、明矣。韓暹楊奉、其敢爲害!

天下に逆臣ありといえども、必ず何度も上手くいかないのは明らかです。韓暹、楊奉がどうして害になりましょうか!

975: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:47:25 ID:u7m
若不時定、四方生心、後雖慮之、無及」太祖遂至洛陽、奉迎天子都許。

もし時を定めずして四方にこのような心が生まれれば、後に憂慮しても遅いでしょう」曹操は遂に洛陽に到り、天子を奉って迎え、許を都とした。

976: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:47:44 ID:eC0
2行でめっちゃ行動してて草

978: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:49:26 ID:u7m
>>976 
正史はあくまで簡潔やからな 
張苞の生涯なんて七文字で終わるし 

977: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:48:16 ID:ut8
屯田の始まりや!

978: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:49:26 ID:u7m
>>977 
屯田は曹操の政治のなかでも優れたものやな 
屯田で力つけたといっても過言ではない

980: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:49:58 ID:eC0
屯田は世界史の教科書に載るくらいすごいことなんやな

993: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:54:44 ID:ut8
屯田というか土地制度ってマジで重要やからな、日本史でも班田収授法とか墾田永年私財法とか太閤検地ってやるやろ

979: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:49:42 ID:u7m
天子拜太祖大將軍、進彧爲漢侍中、守尚書令。常居中、持重。太祖、雖征伐在外、軍國事皆與彧籌焉。

天子は曹操を大将軍に拝命し、荀彧は漢の侍中に進み、尚書令を代行した。常に中央に居て、重用された。曹操は征伐で外にあっても、軍事のことは皆荀彧と計った。

982: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:51:18 ID:u7m
太祖問彧「誰能代卿爲我謀者?」彧言「荀攸、鍾?」先是、彧言策謀士進戲志才。志才卒、又進郭嘉。太祖以彧、爲知人。

曹操は荀彧に問うた「誰が卿に代わり私の謀略家となれるか?」荀彧は言った「荀攸、鍾繇です」これより先に荀彧は策謀の士と言って戲志才を勧めた。戲志才が亡くなるとまた郭嘉を進めた。曹操は荀彧を人材を知っているとした。

988: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:53:12 ID:dXe
>>982
畑から収穫でもするみたいに推挙しよるな
うーんこの人脈おばけ

984: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:52:08 ID:Nce
孔明とほう統が荀のネットワークにおらんかったの不思議やな

983: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:51:18 ID:ut8
荀彧が官渡で籠城中の弱気になった曹操に激励の手紙を送るエピソード好き、まさに君臣の信頼がよく分かる

990: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:53:34 ID:u7m
>>983 
そこもやるで 
曹操って方針を間違えること多いけど部下の言うこと聞くから強い 

985: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:52:13 ID:eC0
空箱「よろしく二キーwwwwwww」

987: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:52:38 ID:u7m
諸所進達、皆稱職。唯、嚴象爲揚州、韋康爲涼州、後敗亡。

諸所の勧められた者は皆職に相応しかった。ただ、厳象は揚州刺史となり、韋康は涼州刺史となり、後に敗死した。

992: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:53:47 ID:u7m
自太祖之迎天子也、袁紹?懷不服。紹既?河朔、天下畏其彊。

曹操が天子を迎えてから、袁紹は不服を内に抱いた。袁紹は既に河朔を併合し、天下はその強さを恐れた。

995: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:55:23 ID:nXj
袁紹とか立場だけ見たら頑張ってる主人公感あるねんけどな
名家の生まれだけど妾の子、だけど名士が集まる人望とか

996: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:56:35 ID:eC0
沮授 有能
田豊 有能

3: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:58:00 ID:u7m
太祖方東憂呂布、南拒張?、而?敗太祖軍於宛。紹益驕、與太祖書、其辭悖慢。太祖大怒、出入動靜變於常。衆皆謂以失利於張?故也。

曹操は東に呂布を憂い、南に張繍を拒み、そして曹操軍は宛において張繍に敗れた。袁紹は益々驕り、曹操に書を与え、その言葉は傲慢であった。曹操は大いに怒って挙動が常に変であった。衆人は皆張繍のために利を失ったためだと言った。

6: 張繍 2017/08/07(月)19:58:40 ID:nXj
なんかアイツ、ワイの兄嫁に惚れこんでそうやな……

10: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:00:12 ID:u7m
>>6
演義やと策での降伏やけど正史やとガチで降伏したのに兄嫁取られて切れて攻撃して勝ったみたいなながれやからな
そこらへんほんと草

8: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:58:57 ID:u7m
鍾?以問彧、彧曰「公之聰明、必不追咎往事。殆有他慮」

鍾繇は荀彧に問うと、荀彧は言った「公は聡明で、必ず過ぎたことを咎めない。恐らく他に憂慮があるのだろう」

9: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)19:59:39 ID:ut8
よく曹操がキレキレの革新的な奴扱いされるけど、袁紹の方がよほどファンキーやからな
曹操は漢の将軍でありたいと思っていたらしいし

14: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:01:32 ID:u7m
>>9
袁紹保守派やと思ってる人も多そうやけど劉虞を皇帝に擁立しようとしたりしてるんだよなぁ

11: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:00:24 ID:u7m
則見太祖問之、太祖乃以紹書示彧、曰「今將討不義。而力不敵、何如?」

そうして曹操に会ってこれを問うと、曹操は袁紹の書簡を荀彧に示して言った「今まさに不義を討つべきだ。しかし力では敵わなず、どうすればよい?」

13: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:01:26 ID:eC0
部下に恵まれてれば食料庫をもっとマシな奴に守らせてるんだよなぁ

24: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:04:28 ID:ut8
>>13
淳于瓊は西園八校尉の超大物やぞ!格なら曹操に匹敵する

16: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:01:46 ID:u7m
彧曰「古之成敗者、誠有其才、雖弱必彊。苟非其人、雖彊易弱。劉項之存亡、足以觀矣。

荀彧は言った「古より成功と失敗は、本当に才があれば、弱いといえども必ず強くなります。仮に才がある人でなければ、強いといえども弱くなります。劉邦と項羽※)の存亡を見ればわかることです。

※秦が滅びた後、天下を争った二人のこと
初めは項羽の勢力が上回っていたが、後に逆転し劉邦が勝った

19: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:02:59 ID:u7m
今與公爭天下者、唯袁紹爾。紹、貌外寬而?忌、任人而疑其心。公、明達不拘、唯才所宜。此、度勝也。

今、公と天下を争える者は、ただ袁紹だけです。袁紹は外面では寛容ですが内面は妬みがあり、人を任じてもその心を疑います。公は明達でこだわらず、ただ才を良く思います。これは度の勝利です。

20: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:03:05 ID:ut8
袁紹には十の敗因、曹操には十の勝因好き

26: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:04:53 ID:u7m
>>20
郭嘉やな
他にも賈詡が四勝四敗を挙げたりとかしてて面白いで

23: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:04:00 ID:u7m
紹、遲重少決、失在後機。公、能斷大事、應變無方。此、謀勝也。

袁紹は決断が遅くて少なく、後にある機会を失います。公は大事を決断出来、臨機応変です。これは謀の勝利です。

25: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:04:50 ID:eC0
有能軍師がいなくなって負けるのは王猛と苻堅みたいやなぁ

27: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:04:57 ID:OTX
ここまでもこれからもだけど、荀彧伝の大半は曹操への進言だよな
それだけこの王佐が曹操をなだめすかしケツを蹴ってきたって事なんやろう

32: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:07:04 ID:u7m
>>27
曹操はよく方針を間違えるからね
荀彧がいなければ大陸の三分の一を制圧出来なかった

38: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:10:01 ID:OTX
>>32
逆に言うと正史曹操ってめっちゃ喜怒哀楽と気分の浮き沈みが激しいんだよな
劉備の方が感情を表に出さなかったって記述があるし、表面的な性格は間逆やったんかなーと思う

44: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:14:25 ID:u7m
>>38
ライバル同士が性格真逆って面白いな
厚い展開

28: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:05:10 ID:u7m
紹、御軍寬緩、法令不立、士卒雖衆、其實難用。公、法令既明、賞罰必行、士卒雖寡、皆爭致死。此、武勝也。

袁紹は軍を制御するのに緩く、法令は成り立っておらず、兵士は多くとも、その実用いるのに難しいのです。公は法令を明らかにし、賞罰は必ず行われ、兵士は少ないといえども、皆死を争います。これは武の勝利です。

29: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:05:45 ID:dXe
でもこの時代におんjがあったらほとんどが「Vやねん袁紹軍」やろなぁ

33: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:07:29 ID:u7m
紹、憑世資、從容飾智、以收名譽、故、士之寡能好問者多歸之。公、以至仁待人、推誠心不爲?美、行己謹儉、而與有功者無所?惜、故天下忠正效實之士咸願爲用。此、德勝也。

袁紹は代々の資産に就き、ゆったりと智恵を飾り、名誉を収めるので、故に士は能が無く問答を好む者が帰します。
公は仁によって人を待遇し、誠心を推して見せかけの美しさをなさず、行いを慎み、功ある者に惜しみなく与え、故に天下の忠義と実力のある士が用いられようと願っております。これは徳の勝利です。

35: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:08:38 ID:ut8
曹操が方針を間違っても勢力を拡大できたのは、度量の広さや戦争に強いからやろうなあ
戦争の強さは騎馬民族を散々に打ち破ってるあたり歴代でも相当のもんやで

37: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:09:57 ID:u7m
>>35
曹操の致命的といえる欠点って方針を間違えることなのに部下の進言を聞くとすぐ修正するから手が付けられん
ここんとこ劉邦とかと似てると思う

36: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:08:54 ID:u7m
夫以四勝、輔天子、扶義征伐、誰敢不從?紹之彊、其何能爲!」太祖悅。

この四勝※)をもって天子を補佐し、義を助けて征伐すれば、誰が敢えて従わないでしょうか?袁紹の強さは何が出来ましょう!」曹操は喜んだ。

※似たような話が郭嘉伝や賈詡伝などにも見て取れる
 おそらくそのどれかは彼らの才能を表現するための創作であろう

39: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:10:27 ID:Nce
劉備に負けすぎて曹操に戦上手の印象ないな

44: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:14:25 ID:u7m
>>39
曹操は決して戦が上手いってわけではないからね
戦術レベルで神ってるのと部下の忠言を良く聞き入れたから勝てた
逆に聞かなかったときに負けまくってる
赤壁の賈詡の進言スルーとか

40: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:11:22 ID:eC0
人口比数倍の国に勝ちまくったからなぁ
鶏肋ですよ鶏肋

41: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:12:06 ID:ut8
横山三国志を初めて見たとき、豚を振る舞おうとした親切さんを皆殺しにした曹操にビビった子供はワイだけでは無いはず

42: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:12:23 ID:u7m
彧曰「不先取呂布、河北亦未易圖也」

荀彧は言った「先に呂布を取らずして、河北は容易に計れないでしょう」

43: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:13:03 ID:eC0
さんざっぱら徐州の奴は統治者変わって大変そうっすね

46: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:14:40 ID:nXj
>>43
領民はもう慣れてそうやなぁ

45: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:14:37 ID:u7m
太祖曰「然。吾所惑者、又恐紹侵擾關中、亂羌胡、南誘蜀漢。是我獨以?豫、抗天下六分之五也。爲將奈何?」

曹操は言った「その通りだ。私が惑わすのは、また袁紹が関中に侵攻して、羌族や異民族が乱を為し、南の蜀、漢を誘わないかということだ。これは私一人が兗州、豫州で天下の六分の五に抗うことである。どうすればよいのだ?」

47: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:14:49 ID:ut8
未来をわかってるとしか思えない戦略眼と人材が湧き出る泉のすごさよ、曹操の第一の功臣は荀彧やな
我が子房とはしゃいだのも分かる気がする

48: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:16:04 ID:u7m
>>47
これ
荀彧伝を読むと曹操の方針のほとんどが荀彧の立てたものってのがわかる
郭嘉ですら比べ物にはならへん

50: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:16:23 ID:u7m
彧曰「關中將帥以十數、莫能相一。唯韓遂馬超最彊。彼、見山東方爭、必各擁衆自保。

荀彧は言った「関中の将帥は十数名で、一つにまとめることは出来ないでしょう。ただ、韓遂、馬超が最も強くございます。彼らは東方の争いを見ると、必ず各々が衆を擁して自らを保つでしょう。

52: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:17:24 ID:OTX
曹操の真骨頂は不屈である事に尽きると思う
致命的な大敗しようとその度に立ち上がる
滎陽の戦いの致命的大敗北からの流転流転、流転中にも反乱起こされてニッチもサッチもいかなくなり、
袁紹の下に付き泥をすすってようやく兗州に辿り着き、その先で青洲黄巾軍と対峙する
この辺のボロボロ曹操が一番すき

55: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:18:34 ID:u7m
>>52
曹操って追い込まれたり少数のときにやたら強くなるからな
不屈の主人公ですわ

53: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:17:33 ID:u7m
今若撫以恩德遣使連和、相持雖不能久安、比公安定山東、足以不動。鍾?、可屬以西事。則公無憂矣。」

今もし恩徳をもって慰撫して使者を遣わして和を講じれば、相対して久しく安んずることが出来ないといえども、公が山東を安定させるまでに動けなくするに十分でしょう。鍾繇に西のことを任せるべきです。こうすれば公の憂いはなくなるでしょう。」

54: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:18:06 ID:eC0
鍾繇って顔グラが野獣先輩っぽいやつ?

56: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:18:50 ID:ut8
>>54
凄腕の官僚にして、書道の大家やで

65: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:22:09 ID:OTX
鍾繇は有能なだけやなく畜生としても輝いてる偉大な畜生なんで、そういう見方するのも面白いで
魏諷を引き立て、鍾会の親父って時点で畜生スメルが漂ってくる

67: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:22:58 ID:eC0
>>65
スメルで草

75: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:25:11 ID:u7m
>>65 
ただようのは山椒の匂いだけどな

57: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:19:13 ID:Nce
劉備の生き残る力と危険人物を見抜く眼は優れてるけど流浪のはてに身につけたもんやろうし
配下に人材推挙の鬼がおったら曹操もやることないわなあ

58: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:19:14 ID:u7m
三年、太祖既破張?、東禽呂布、定徐州。遂與袁紹相拒。

建安三年(198年)、曹操は既に張繍を破り、東で呂布を捕らえ、徐州を平定した。遂に袁紹と相対して拒んだ。

60: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:20:12 ID:u7m
孔融謂彧曰「紹地廣兵彊。田豐許攸、智計之士也、爲之謀。審配逢紀、盡忠之臣也、任其事。顏良文醜、勇冠三軍、統其兵。殆難克乎」

孔融が荀彧に言って曰く「袁紹の土地は広く兵は強い。田豊、許攸は智謀の士であり、謀を為す。審配、逢紀は忠義を尽くす臣であり、事を任じる。顏良、文醜の武勇は全軍の筆頭で、兵を統率する。ほとんど勝つのは難しいだろう」

61: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:21:01 ID:nXj
たまに思うのが
こういう曹操vs袁紹とか歴史のメインイベントにかかわりのない地域って何してたんかなという
張魯とかこの頃が激動の時期みたいやし

68: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:23:05 ID:u7m
>>61
劉表は日和見してたし孫策はこのころちょうど死んだ
曹操は孫策を憂いてたみたいだけど郭嘉があいつ死ぬでって予言したら実際死んだ

62: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:21:24 ID:ut8
ついに袁紹とのガチンコと思いきや、その勢力差は隔絶してるからなあ
後ろには劉表や孫策もおるし、まだまだ苦しい状況やで

68: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:23:05 ID:u7m
>>62
劉表は日和見してたし孫策はこのころちょうど死んだ
曹操は孫策を憂いてたみたいだけど郭嘉があいつ死ぬでって予言したら実際死んだ

72: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:24:44 ID:nXj
○○は優柔不断だ!

いや、そら魏呉蜀(+他勢力)に挟まれて決めろとか悩むやろ……

76: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:25:32 ID:eC0
>>72
蔡瑁と黄祖でどないして勝つねんって話だよな

79: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:26:59 ID:nXj
>>76
シュリーフェンプラン応用すればいけるやろ(適当)

116: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:36:57 ID:NUK
>>72
劉表の優柔不断って病死の時期から言って
健康問題かも知れないと思うわ

64: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:21:58 ID:u7m
彧曰「紹兵、雖多而法不整。田豐、剛而犯上。許攸、貪而不治。審配、專而無謀。逢紀、果而自用。此二人、留知後事。

荀彧は言った「袁紹の兵は多いといえども軍法は整っていない。田豊は剛情で上を犯す。許攸は貪欲で治まらない。審配は専行して無謀だ。逢紀は果断で自ら働く。この二人は留まって後事を為している。

66: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:22:45 ID:dXe
>>64
チームがバラバラじゃねーか

71: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:24:02 ID:OTX
>>66
沮授 「みんなちゃんとまとめてるよ」

74: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:25:11 ID:6D5
>>71
農民兵「次は勝つんだな?」

80: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:27:27 ID:OTX
>>74
袁紹「次(倉亭の戦い)は絶対勝つ!」

69: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:23:23 ID:u7m
若攸家犯其法、必不能縱也。不縱、攸必爲變。顏良文醜、一夫之勇耳、可一戰而禽也」

もし許攸の家の者が法を犯せば、必ず望み通りにならないだろう。望み通りにならなければ、許攸は必ず変を起こす。顔良、文醜は匹夫の勇だけで、一戦すれば捕らえられるだろう」

※荀彧の人物眼を表している逸話であろうが、許攸の家の者が罪を犯して許攸が曹操の下に降るということまで言い当てるのは異常である
十中八九創作であろう

73: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:24:57 ID:ut8
袁紹の河北制圧って、曹操も憧れたレジェンド光武帝も行なった大正義戦略やからなあ

77: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:25:35 ID:u7m
五年、與紹連戰。太祖保官渡、紹圍之。太祖軍糧方盡、書與彧、議欲還許以引紹。

建安五年(200年)、袁紹と連戦した。曹操は官渡に籠り、袁紹がこれを包囲した。曹操軍は兵糧がまさに尽き、荀彧に書を送って、許に帰って袁紹を引きつけたいと意見した。

78: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:26:34 ID:u7m
彧曰「今軍食雖少、未若楚漢在?陽成皋閒也。是時、劉項莫肯先退。先退者、勢屈也。

荀彧は言った「今兵糧が少ないといえども、楚軍、漢軍が?陽、成皋の間に居たとき※)ほどではありません。この時、劉邦と項羽は先に撤退しませんでした。先に撤退した者は、勢いに屈するからです。

※楚と漢は秦が滅亡した後天下を争った勢力であり、滎陽、成皋の地で何度も戦った

84: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:28:30 ID:dXe
幼なじみとの対決というのも官渡の熱さに華をそえとるよな

88: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:29:29 ID:u7m
>>84
そういうところにも三国志ってロマンあるな

83: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:27:48 ID:u7m
公、以十分居一之衆、畫地而守之。扼其喉而不得進、已半年矣。情見勢竭、必將有變。此、用奇之時、不可失也」太祖乃住。

公は十分の一の兵で地を区切って守っておられます。(袁紹は)その喉を締め付けられるように進めておらず、既に半年になります。状況を見れば勢いは尽き、必ず変がありましょう。これは奇計を用いる時で、失ってはなりません」曹操はこうして留まった。

86: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:29:03 ID:u7m
遂以奇兵襲紹別屯、斬其將淳于瓊等。紹退走。審配、以許攸家不法、收其妻子。攸、怒叛紹。顏良文醜、臨陣授首。田豐、以諫見誅。皆如彧所策。

遂に奇兵をもって袁紹の別の駐屯地を襲い、将軍淳于瓊らを斬った。袁紹は敗走した。審配は許攸の家の者の法を犯したことをもってその妻子を収監した。
許攸は怒って袁紹に背いた。顔良、文醜は陣に臨んで首を授けた。田豊は諫言して誅殺された。皆荀彧の計った通りであった。

89: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:29:38 ID:nXj
食糧庫は張コウに守らせとけば歴史変わったかなぁ

100: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:32:34 ID:OTX
>>89
淳于瓊は何の失態もしていないし、むしろ烏巣をよく守り一時は曹操を押し返してる
しかも生け捕りにされた後は潔く負けを認めて、曹操も帰服を促そうとしている
こんな将軍を酔っ払いにした演義ってやっぱ功罪深すぎだわ

104: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:33:12 ID:nXj
>>100
めっちゃ、ええ人やん……

105: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:33:54 ID:u7m
>>100
しかも演義だと手足斬られて馬に縛り付けられて帰って来るからな
それで怒った袁紹に斬られたという

102: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:33:08 ID:eC0
あの酒飲みそんなできる奴だったのか…

90: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:29:41 ID:Nce
関羽は何もしてなかったんやな

94: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:31:08 ID:u7m
>>90
関羽の伝に詳しいからここでは省かれてるだけやで
敵陣に突入して首を取って来るっていうリアル三國無双みたいなことした

92: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:30:12 ID:u7m
六年太祖、就穀東平之安民。糧少、不足與河北相支。欲因紹新破、以其閒、?討劉表。

建安六年(201年)曹操は東平の安民に穀物を取ろうとした。食糧は少なく、河北を支えるのには不足した。袁紹を新たに破ったことで、その間に劉表を討とうとした。

93: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:30:46 ID:ut8
この曹操の粘りは本当やばい、呂布との戦争の時もピンチやったけど盛り返したし
勇将の下に弱卒無しとはこの事やな

95: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:31:33 ID:eC0
>>93
命だけはお助けくだされ
「于禁 横山」の画像検索結果
96: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:31:47 ID:u7m
彧曰「今紹敗、其衆離心。宜乘其困、遂定之。而背?豫、遠師江漢。

荀彧は言った「今袁紹が敗れ、衆人の心は離れております。その困難に乗じるのがよろしく、これを定めましょう。兗州、豫州を背後に、遠く長江、漢川に出師したとしましょう。

97: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:32:14 ID:nXj
そろそろ関羽の高速道路料金所破りみたいな旅が始まるんか

105: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:33:54 ID:u7m
>>97
正史には載ってないで

101: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:32:56 ID:u7m
若紹收其餘燼、承?以出人後、則公事去矣」太祖復次于河上。

もし袁紹が残り火を集めて虚を突いて後ろに出たら、公の事業は去るでしょう」曹操はまた黄河の上に続いた。

106: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:34:13 ID:u7m
紹、病死。太祖渡河、?紹子譚尚。而高幹郭援、侵略河東、關右震動。鍾?、帥馬騰等?破之。語在?傳。

袁紹が病死した。曹操は黄河を渡り、袁紹の子袁譚、袁尚を攻撃した。高幹、郭援が河東に侵略し、関右が震撼した。鍾繇は馬騰らを率いてこれを撃破した。その話は鍾繇伝にある。

108: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:34:46 ID:nXj
>>106
袁家の跡目争いは悲惨やけど、それも含めて歴史のロマンよなぁ

117: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:37:04 ID:u7m
>>108
もしその争いがなければ孫家は地盤を固めて急に対抗できなくなり袁尚、曹操、孫権の三國志になったかもしれん

120: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:38:56 ID:P84
馬騰ってなんで攻め込まれたんやっけ

129: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:40:27 ID:u7m
>>120
曹操軍が攻め込むのではないかと恐れた馬超が先んじて反乱起こしたから

133: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:41:39 ID:P84
>>129
やっぱり脳筋やったんやね馬超

140: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:42:50 ID:ut8
>>133
つっても曹操を殺しかけた猛将やからなあ、ホンマ北伐に従軍してないのが悔やまれる

112: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:35:48 ID:u7m
八年太祖?彧前後功、表封彧爲萬?亭侯。太祖拔?、領冀州牧。

建安八年(203年)、曹操は荀彧の前後の功績を記録し、上表して万歳亭侯に封じた。建安九年(204年)、鄴を抜き、冀州牧を領した。

118: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:37:29 ID:u7m
或?太祖「宜復古、置九州。則冀州所制者廣大、天下服矣」太祖將從之。

ある人が曹操に説いた「復古して九州※)を置くのがよろしいでしょう。冀州が制する所は広大となり、天下が服しましょう」曹操はこれに従うべきとした。

※後漢では州が十三に分けられていた

121: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:38:57 ID:u7m
彧言曰「若是、則冀州當得河東、馮翊、扶風、西河、幽、?之地所奪者衆。

荀彧が言って曰く「もしこうすれば、即ち冀州は河東、馮翊、扶風、西河、幽を得て、併合後で奪う所が多くなります。

124: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:39:37 ID:OTX
袁家の後継者争いに関しては審配が原因
袁紹の遺言を捏造して、わざわざ内紛を起こし、挙句忠臣面して斬られる
笑いじゃなくて怒りが沸いて来る数少ない武将だわ

126: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:39:56 ID:nXj
袁煕の「首は万里を行くのに、なぜ今さら筵がいるのか」ってのすこ

なお子孫は唐で宰相になった模様

136: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:42:18 ID:u7m
>>126
息子が皇帝だから(とんでも説を採用)

130: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:40:38 ID:u7m
前日公、破袁尚禽審配、海?震駭。必人人、自恐不得保其土地、守其兵衆也。

前日公は袁尚を破り審配を捕らえて、海内は震撼しております。必ず人々はその土地を保てないことを恐れて兵士を使って守りましょう。

138: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:42:38 ID:u7m
今使分屬冀州、將皆動心。且、人多?、關右諸將以閉關之計。今聞此、以爲必以次見奪。

今冀州に分属させれば皆動揺します。そして、多くの人が関右の諸将で函谷関を閉ざす計を説いております。今これを聞けば必ず次に(領地を)奪われると思うでしょう。

144: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:43:32 ID:u7m
一旦生變、雖有善守者、轉相脅爲非。則袁尚得寬其死、而袁譚懷貳、劉表遂保江漢之間、天下未易圖也。

一旦変が生じれば、善を守るものであっても、転じて脅されれば非を為すでしょう。即ち袁尚は死を延ばされ、袁譚は二心を抱き、劉表は長江、漢川の間を保ち、天下は容易に計れなくなるでしょう。

148: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:44:43 ID:u7m
願公急引兵先定河北、然後修復舊京、南臨荊州、責貢之不入。則天下咸知公意、人人自安。

願わくば公は急ぎ兵を率いて先に河北を平定し、しかる後に旧都(洛陽)を修復し、南に荊州に臨んで、朝貢を入れないのを責めましょう。こうすれば天下はあまねく公の意を知り、人々は安んじられましょう。

152: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:45:11 ID:OTX
余談やが昔の三國志だと何故か200年無くて201年のシナリオばかりだった
官渡が終わって袁紹郡の人的損失が致命的なのにそこからどうしろと

155: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:45:58 ID:u7m
天下大定、乃議古制、此社稷長久之利也」太祖遂寢九州議。

天下が大いに定まってから、古の制度を議論すれば、これこそ社稷※)の長久の利益でございます」曹操は遂に九州の議論を止めた。

※社は土地神を祭る祭壇、稷は穀物神を祭る祭壇のことでこれらを祭る「国家」の代名詞となった

159: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:47:05 ID:eC0
公孫瓚はちょっと部下がねぇ
ギユーとカンゾーとデンヨじゃ勝てんよ

166: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:48:20 ID:OTX
>>159
公孫瓚と義兄弟の契りを結び、彼に巨万の富をもたらしたであろう商人とか名前すら残ってないんだよな
いかに当事の中華が商業というものを軽視してたか解る

170: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:49:41 ID:nXj
>>166
宋ぐらいからかな、商人の重要性って
とはいえ、ちうごくの歴史で有名な商人って聞いたこと無いなぁ

172: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:50:27 ID:u7m
>>170
ぶっちぎりで有名なのは范蠡と呂不韋かな
時代を動かした商人

189: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:54:38 ID:OTX
孔明がリスペクトした管仲も商業を重視し、富国強兵に成功した名宰相やった
管仲は誰しも認めてるのに、管仲がやった政策の中身については認めない
寂しいわほんま

160: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:47:13 ID:u7m
是時荀攸、常爲謀主。彧兄衍、以監軍校尉、守?、都督河北事。太祖之征袁尚也、高幹、密遣兵謀襲?。衍、逆覺、盡誅之、以功封列侯。

この時荀攸は常に謀の主体となっていた。荀彧の兄の荀衍は監軍校尉となって鄴を守り、河北のことを都督していた。曹操が袁尚を征伐すると、高幹は密かに兵を遣わして鄴を襲おうと謀った。荀衍は逆に発見し、ことごとくこれを誅し、この功で列侯に封ぜられた。

162: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:47:29 ID:d22
恥っこにいる群雄はたいていやベーやつよ

164: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:47:44 ID:eC0
>>162
区 星

171: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:50:25 ID:d22
>>164
発想がやベーやつ(孫家の養分になれ)

165: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:48:08 ID:nXj
>>162
張魯「ワ、ワイはまだ倉庫にカギ閉めたし大丈夫やな!」

173: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:50:40 ID:ut8
>>162
荊 州 四 英 傑

163: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:47:38 ID:P84
張任が蜀に降りたら少し状況変わってたんやろか

167: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:49:00 ID:u7m
>>163
演義基準だとかなり有能やから南征北伐がかなり楽になったかもしれん
正史は知らん

169: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:49:27 ID:u7m
太祖以女、妻彧長子惲。後稱安陽公主。彧及攸、並貴重、皆謙沖節儉。祿賜、散之宗族知舊、家無餘財。十二年復增彧邑千?、合二千?。

曹操は娘を荀彧の長男荀惲に嫁がせた。後に安陽公主と称した。荀彧及び荀攸は、並んで重用され、二人とも謙虚で倹約であった。賜った禄は、宗族や旧知の者に分け、家に余った財はなかった。建安十二年(207年)、また荀彧の邑は千戸に増やされ、合わせて二千戸となった。

175: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:51:06 ID:u7m
太祖將伐劉表、問彧策安出、彧曰「今華夏已平、南土知困矣。可顯出宛葉、而閒行輕進。以掩其不意」太祖遂行、會表病死。

曹操は劉表を征伐しようとして、荀彧にどこから出るか問うと、荀彧は言った「今中原は既に平定され、南方は困窮したことを知っておりましょう。宛、葉から目立つように出て、間道から軽装兵を進ませるべきです。その不意を急襲するのです」曹操は遂に行動したが、その折劉表は病死した。

183: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:53:09 ID:u7m
太祖直趨宛葉、如彧計。表子琮、以州逆降。

曹操は宛、葉で荀彧の計のように進軍した。劉表の子劉琮は州をあげて降伏した。

185: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:54:02 ID:u7m
十七年董昭等謂、太祖宜進爵國公九錫備物、以彰殊勳。密以諮彧。

建安十七年(212年)、董昭らは曹操が国公に爵位を進めて九錫※)を備え、殊勲を顕彰されるのがよろしいと言った。密かに荀彧に相談した。

※恩賞の中でも最高のものである九種類の道具の総称
 天子のみが使用できる道具を与えることで恩賞とするが、皇帝と同等の権威を持っていると示せることから、禅譲の前段階と見なされている
 それゆえ次の段落で荀彧は批判を加えている

188: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:54:17 ID:ut8
なおこのちょっと前にトン兄は負けた模様

192: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:55:21 ID:u7m
彧以爲、太祖本興義兵以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實。君子愛人以德、不宜如此。

荀彧は、曹操は元より朝廷を助け国を安んずるために義兵を起こし、忠誠に則って、謙譲の実行を守って来たと言い、君子は徳をもって人を愛し、これはよろしくないとした。

196: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:56:18 ID:OTX
曹操「漢王朝と曹操……どっちの臣なんだ?」
荀彧「漢です・・・(揺るがぬ決意)」
曹操「そっかあったま来た」

201: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:57:24 ID:d22
>>196
曹操「空箱だ!」
荀彧「(憤死)」

外野が見てたら草生える

197: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:56:19 ID:ut8
曹操の功績がデカすぎるからなあ、曹操本人の望みはともかく簒奪しなきゃならん状況やと思う

199: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:56:40 ID:u7m
太祖由是心不能平。會征孫權、表請彧勞軍于?。因輒留彧、以侍中光祿大夫持節、參丞相軍事。

曹操はこれを理由として心中平静でいられなくなった。折しも孫権を征伐し、上表して荀彧に譙で軍を慰労することを請うた。そのまま荀彧を留め、侍中、光禄大夫として節を持たせ、丞相の軍事に参加させた。

200: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:57:20 ID:eC0
程昱はいい辞め方だったなぁ

202: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:57:38 ID:P84
曹操ってヤンデレっぽさあるよな

203: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:58:07 ID:u7m
太祖軍至濡須、彧疾、留壽春。以憂薨、時年五十。諡曰敬侯。明年、太祖遂爲魏公矣。

曹操軍が濡須に到ると、荀彧は病となり、寿春に留まった。憂いて亡くなり、時に齢は五十であった。敬侯と諡された。翌年、曹操は遂に魏公となった。

208: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:59:38 ID:u7m
>>203
ちなみに異説として曹操に空の箱を送られ自殺したってのがあるで

204: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:58:12 ID:ut8
そういえば荀彧は三公にはなってないんやっけ?

216: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:02:43 ID:OTX
>>204
曹操は荀彧を三公に推薦しようとしたが、荀彧は荀攸を使者に送り何度もこれを辞退したため、曹操はやっとこれを取り下げた(『荀彧別伝』)。

とWikiにはあるな、多分207年に
この先はちょっとわからないけど

209: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)20:59:51 ID:u7m
子惲、嗣侯、官至虎賁中郎將。初、文帝與平原侯植並有擬論、文帝曲禮事彧。

子の荀惲が侯を継ぎ、官職は虎賁中郎将に至った。当初、文帝(曹丕)と平原侯曹植は(どちらが太子になるかで)それぞれ議論があった、曹丕は礼を曲げて荀彧に仕えた。

212: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:01:01 ID:u7m
及彧卒、惲又與植善、而與夏侯尚不穆。文帝、深恨惲。惲、早卒。

荀彧が亡くなり、荀惲はまた曹植と良く付き合い、夏侯尚と睦まじくはなかった。曹丕は荀惲を深く恨んだ。荀惲は早死にした。

213: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:01:52 ID:u7m
子?、?、以外甥故、猶寵待。惲弟?、御史中丞。?弟?、大將軍從事中郎。皆知名、早卒。

子の荀甝、荀霬は(曹丕の)外戚の甥であったため、寵愛を受けた。荀惲の弟荀俁は御史中丞となった。荀俁の弟荀詵は大将軍従事中郎となった。皆名を知られていたが、早死にした。

214: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:02:15 ID:eC0
早死にした
ほんとぉ?

215: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:02:20 ID:dXe
50かぁ
こっちも若いなぁ…

219: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:03:22 ID:u7m
?弟顗、咸熙中、爲司空。惲子?、嗣爲散騎常侍、進爵廣陽?侯、年三十薨。

荀詵の弟荀顗は咸熙年代(264-265年)に司空となった。荀惲の子荀甝は後を継ぎ散騎常侍となり、爵位は広陽郷侯に進み、齢三十にして亡くなった。

223: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:05:31 ID:u7m
子、?嗣。?、官至中領軍、薨、諡曰貞侯、追贈驃騎將軍。子、愷嗣。

子の荀頵が後を継いだ。荀霬は官位が中領軍に至り、亡くなると、貞侯と諡され、驃騎将軍が追贈された。子の荀愷が後を継いだ。

229: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:06:28 ID:u7m
?妻、司馬景王文王之妹也、二王皆與親善。咸熙中、開建五等。?以著勳前朝、改封愷、南頓子。

荀霬の妻は司馬景王(司馬師)文王(司馬昭)の妹であり、二王とは皆親しかった。咸熙年代(264-265年)に五等級の爵位が立てられた。荀霬の前朝での勲功が著しいことから、荀愷を南頓子に改めて封じた。

231: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:07:22 ID:u7m
評曰。荀彧、清秀通雅、有王佐之風。然機鑒先識、未能充其志也。

評曰く。荀彧は秀麗で優雅さに通じ、王を補佐する風があった。機を鑑みて先のことを知ることが出来たが、その志を満たすことは出来なかった。

234: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:08:38 ID:nXj
>>231
王佐の才、王とは果たして誰なのか

238: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:09:49 ID:OTX
>>234
永遠の課題やね
多分荀彧自身も最期まで煩悶していたと思う

232: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:07:48 ID:OTX
イメージの話やけど荀彧といえば尚書令
三公なんて似合わん似合わん
あ法正さんも尚書令なんすね、あっ大丈夫っす・・・

235: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:08:45 ID:u7m
以上で荀文若は終わりや
質問ややってほしい人物がおったらどんどん言ってクレメンス

239: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:09:54 ID:d22
空箱にお前の才を詰めるんやでという小粋な発想だった可能性が微レ存…?

241: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:10:35 ID:eC0
>>239
鳥の骨って言うただけで部下を殺す奴やぞ
ホンマ痛かったわ

248: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:12:31 ID:ut8
そういえば荀彧は公式にイケメンと認められた人なんだよな
儒教的にイケメンってかなり重要やし

274: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:22:28 ID:F9W
荀彧ってイケメン顔だけの無能ってディスられてるからな

279: 名無しさん@おーぷん 2017/08/07(月)21:24:20 ID:OTX
>>274
禰衡は全方位ディスってるだけだろいい加減にしろ