1: 泥ン ★ 2018/01/13(土) 23:52:48.50 ID:CAP_USER9
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
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 本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。

 「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。

 井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。

 経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。

 それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。

 さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。

 アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。

 これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。

 田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。

 近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。

続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515855168/
12: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:02:29.08 ID:JUGddaTiO
朝廷は蝦夷を獣と思っていたからな。
田村麿は人してアテルイやモレを認めて降伏の仲立ちをして京都に連れていったが、担当の役人は会う前に処刑を命令したからな。

29: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:17:04.66 ID:4slRlHKb0
九州だって熊襲は野蛮人
熊襲征伐だつて
ヤマトタケルの東征だって
大和朝廷は正当化してるだけだし

31: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:19:13.58 ID:nQOZuAAu0
>>29
更に遡ればヤマタノオロチ伝説も製鉄を生業にしてた民族を滅ぼしたことを正当化してるんだっけか

53: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:33:16.40 ID:HGxv1BbU0
>>31
ヤマタノオロチは洪水じゃね?
鉄は桃太郎と聞いている。

135: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 02:12:05.05 ID:kwarR7Zo0
>>53
スサノオという中央から派遣された、もしくは政略結婚で来た領主・代官が治水をして成功し、鉄製品(天叢雲剣)/製鉄技術を手に入れた
と解釈するのが一番自然

出雲を武力を以て滅ぼしたってのはないだろうね

257: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:36:13.83 ID:dCQ4OgZS0
>>53
桃太郎も鉄だったのか
出雲大社のトイレ入ってみて
水から鉄が出るから、便器茶色く染まってる

あと、ヤマタノオロチの腹側が赤いのも
鉄の表現、と言われてる

281: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:50:56.71 ID:jgpm27wN0
>>31
ヤマタノオロチは単に捜神記(六朝)にも採取された祭蛇記が元だから
古代中原の越王族に連なる人間達がそこに来たって証拠なだけ

越は元々既に銅精錬と農耕文化を発展させてたらしいから
新たに鉄を見つけてたかも解らんけどね

38: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:23:21.85 ID:M76Zxu4z0
この辺の埋もれた歴史は面白いねどんどん研究してほしいな

39: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:23:36.39 ID:PizAg08C0
滅ぼされたから弱いんだよ

名分が必要だから、理由なんてどうでもいいんだよ

40: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:24:25.92 ID:ryzaQ5P10
>>39
文化が劣っていたんだろうな
出雲も縄文東日本も

41: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:25:24.50 ID:n3jIouvf0
>>40
ローマはゲルマンより文化が劣ってたわけではない

51: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:31:45.31 ID:e5ecREko0
アテルイがいた9世紀くらいはそうなんだろうけど、
11世紀の前九年の役・後三年の役の頃には、日本文化圏になってるからね

どうしようもないね

92: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 01:31:46.22 ID:EHvmHxnQ0
蝦夷って酷い名前だよな
まんま中華思想

418: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 07:13:20.20 ID:wsT3iMk/0
>>471 
最初はエミシとの関係も上下関係なく、古事記神武東征誌によると、エミシを「愛瀰詩」と表記してたのな。 
愛瀰詩、愛をあまねくするポエム。いい名前だろう。 
中華思想が入ってきて、東側の外国人に東夷とか蝦夷と呼ぶようになったけど、蔑視感情ではなく、 
勇猛果敢との印象から、蘇我蝦夷とか小野毛人とか佐伯今毛人とか鴨蝦夷とか、普通に貴人の氏名にも使われてた。 

蔑視感情に変わるのは、桓武以降。

102: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 01:40:34.06 ID:4+wQ+db10
奥州藤原にいたってはその頃には文化的差違もなくなってきているし
奥州藤原安部清原が蝦夷出身ってのも証拠なしのただの推理レベル
史書には安部や清原氏出身の鎮守将軍や国司が散見されるからこいつらの末裔の可能性の方が
まだ高い

77: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 00:58:06.60 ID:5FooNdFM0
まぁ京都が日本の文化の中心みたいなステロタイプな認識はどうかとおもう昨今

143: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 02:21:44.46 ID:IUq85Dyy0
征 夷 大将軍だからな

151: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 02:44:53.27 ID:8+Xds2V/O
この人の語り口はともかく、こういう“まつろわぬもの”と言われてた人たちの歴史って面白いよな。

222: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:10:53.90 ID:zkTt11L90
とはいえ、初期の武士が蝦夷の戦術や装備をパクってるという説が広まってて30年前より自由な感じするよ

171: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 03:16:03.04 ID:LqnWXaVT0
アイヌとかとは関係ないとはいえ
アテルイとかモレとかて名前を聞くとなんとなく容姿が違った民族を想像してしまうな

まあしかし中華思想てのは朝鮮も小中華なんて自負してたくらいだしさすが兄弟だな

180: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 03:31:56.62 ID:QuXVOIRB0
この場合の中華っていうのは中国とは関係ない 
「自分が中心で華やかでその外側は野蛮」っていう思想って意味だろ

172: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 03:19:01.76 ID:jgpm27wN0
つーか、制度的には中央集権を図る君主制だけど

中華思想とは言えないからそういう助命嘆願もあったんじゃねえの
田村麻呂だって官僚なんだしその後に参議にまでなってる

昔の参議は最低限な身分は必要だけど
位や官職を問わない天皇のシンクタンクなんだし

174: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 03:24:48.45 ID:IUq85Dyy0
九州南部が朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい

261: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:39:00.92 ID:1ebToR5W0
>>174
隼人の場合は居住地の中に大分などから結構な数の公民を移住させて教化混血していく施策がなされたけど
蝦夷の場合は俘囚として関東にも畿内にも九州にも分散して強制移住させたっていうから
対処がかなり違うんだよね
意図や理由が分からないけど

266: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:41:13.80 ID:orLsC89n0
>>261
人数の割合がわからんからな
それぞれ何人くらいとか解ってんの

278: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:48:09.97 ID:1ebToR5W0
>>266
隼人の方は豊前国から5000人を移住させたってwikiに書いてある
蝦夷の俘囚の方は旧国別に1の位まで詳細に数が記されたものがあったんだけどどこで見たか忘れた

285: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 04:53:10.38 ID:orLsC89n0
>>278
未開の地がまだまだあって開墾などもしてたろうしな奴隷的な労働力としてでも使い道あったろうし
飛騨の職人みたいに技術もってたら連れていきたいだろな

隼人の方は詳しくはないが女は売春婦にされたりはしてるな、今現在でも苗字でわかったりする

338: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 05:29:56.06 ID:dCQ4OgZS0
>>261
隼人は、地勢的に中国に近いこともあり、
中央集権、とかそれほど抵抗なかったのかもな
近世の日本の藩で、唯一植民地経営が上手だったのも
薩摩、というくらいだし

蝦夷は、あちこちに分散させないとヤバい、と
感じたのかもなぁ。自分が統治者だったら、とにかく
バラけさせるじゃん、反骨な人を
それも、災害の多い地域に移住させてるよね、多分

197: 名無しさん@1周年 2018/01/14(日) 03:44:02.16 ID:IUq85Dyy0
田舎もんが住む区域と土人が住む区域の境界が↓コレ
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touhokukeiei