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16: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:08:32 ID:vH1
せっかくだから、日露戦争の関係者で後の総理大臣、みたいな打線もやっちょおうかな
17: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:09:52 ID:vH1
後の総理大臣が日露戦争中に何をしていたのかで打線組んだww

18: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:10:47 ID:vH1
1(二) 山本権兵衛(海軍への適切な指示と分権)
2(遊) 加藤友三郎(参謀長)
3(中) 田中儀一(対露諜報活動と未遂に終わった工作活動)
4(捕) 高橋是清(対露戦争公債発行)
5(右) 鈴木貫太郎(鬼貫戦艦二隻撃沈)
6(一) 森恪(バルチック艦隊妨害活動)
7(左) 幣原喜重郎(ロシア電信妨害)
8(三) 犬養毅(日比谷事件終息に向けた行動)
9(投) 広田弘毅(学生時代のロシア横断諜報)

19: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:11:23 ID:vH1
1(二) 山本権兵衛(海軍への適切な指示と分権)
勝海舟の薫陶を受けた海兵2期卒業のスーパーエリート薩摩人。
薩摩閥であり、かつ海軍に対して絶大な影響力を誇った彼は、日露戦争当時海軍大臣であった。
いわゆる「海軍のオーナー」であることから、桂太郎の後を継ぎ大正時代に二度も総理大臣となった。
二度とも、当人の責任とは関係ないスキャンダルで瓦解したことから、総理大臣としての功績はイマイチ。しかし日清・日露戦争において敵国に勝ちうるだけの海軍力を担保し、かつまさしく神采配で適材を適所に無理やり配置した手腕は最大限に評価されるだろう。
日露戦争以前、主に富裕層を中心に「建艦税」と呼ばれる税金がかけられ、
これは国民生活を強く圧迫した。これは夏目漱石の小説に出てくる通りである。
しかしこの税金は結果的に日露戦争勝利に大きく貢献した。
これを実現したのは山本権兵衛の功績と言って問題ないだろう。
また、上村を除けて佐官時代のキャリアに傷を持つ東郷を連合艦隊司令官に任命したのも慧眼と言うべきだ。

20: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:11:38 ID:vH1
2(遊) 加藤友三郎(参謀長)
連合艦隊参謀長として日本海海戦で大活躍した名参謀である。
慢性的な胃痛と胃癌に悩まされ、健康問題で大きな問題こそあったものの、日本の軍事官僚としては最大限に日本に貢献した人物の一人であろう。
高橋内閣におけるワシントン会議において大きな功績を残し、かつ結果に関して海軍を完璧に制御したことは称賛に価する。
日露戦争中は弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。
残蝋内閣や変態内閣など、酷いあだ名が多い。
しかしその功績の大半は前職者高橋是清内閣の遺産でこそあるものの、戦後も大きな功績を残した。皇太子(後の昭和天皇)を大正天皇の摂政とし、自ら決めてきた海軍軍縮条約に基づき海軍の軍縮を行い、ついでに陸軍の軍縮も行い、シベリア出兵もようやく取りやめた。
1923年8月24日に急逝(公式発表は25日)により内閣総辞職する。
しかしその1週間後に帝都に大地震が来て大混乱を招いたのは当人の所為かどうか……

21: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:13:29 ID:vH1
3(中) 田中儀一(対露諜報活動と未遂に終わった工作活動)
小説「坂の上の雲」において、広瀬武夫が注目されていた。
駐露武官として現地で情報収集をしつつロシア人との友好を深めたことが語られていたが、それを帝国陸軍内で行った男がいた。それがこの田中儀一である。
広瀬とは異なりロシア正教の洗礼を受け、ロシア風の名前を名乗り、そして体を壊す寸前まで酒を飲んで現地に溶け込んだ。これはロシア人と付き合う上では非常に重要なことである。
秋山好古が現地の騎兵と打ち解けられたのはこの大酒のみであったという点が非常に大きい。

戦後は在郷軍人会を組織し、普通選挙施行後にその組織票を土産に政友会入りした。
ただしその際の「持参金」が陸軍の機密費だったのではないかという疑惑があり、
なにかと黒い噂の絶えない人物であった。

22: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:14:28 ID:vH1
ロシアに来ていた同郷の伊藤博文と喧嘩したことで一時は「ロシアで革命を手伝って日本の利益にしてやる」と息巻いていたものの、
結局は帝国陸軍軍人としての職務を全うする。
広瀬武夫がそうであったように、駐在・留学武官からの生の情報というのは非常に重要であり、
これを有効活用したことが日露戦争勝利の遠因でもあった。
ただし、シベリア鉄道の輸送力をなんと半分に申告し、帝国陸軍の被害をいたずらに増やしたことはマイナス評価である。
これは六列車事件として当人の自伝に載っている。

後のねつ造怪文書「田中上奏文」や満州某重大事件での昭和天皇からの叱責によって非常にイメージの悪い田中であるが、
昭和前期屈指の長期政権と経済回復・その功績は実はすさまじい。
在郷軍人会をまとめ上げ、それを手土産に高橋引退後の政友会に入党したことは、
日本の政治史において大きな意味を持つこととなった。

23: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:15:13 ID:vH1
4(捕) 高橋是清(対露戦争公債発行)
日露戦争の莫大な戦費を誰が集めたか?それは紛れもなくこの高橋是清の功績である。
当時の世界は、同盟国の英国ですらロシアに対して日本が勝つとは到底思っていなかった。
すなわち、そのような国の国債を購入したところで紙屑になることは目に見えており、
多少利率が高かろうとそのような投資を行う者がいるとは思えなかった。
それゆえ元老はこの勝ち目の薄い戦費調達に自ら動くことはせず、
この高橋是清一人に押し付けた形となった。
デビットキャメロン元英国首相の先祖と交渉し、公債の半分を片づけ、
少年時代に少しだけ働いていたユダヤコネクションの縁でなんとか全額を片づけた。
この公債は利回りが良かったことと、ロシア軍が及び腰だったことを理由に人気金融商品となった。
利回り7パーセントは確かに魅力である。
戦後、山本内閣で大蔵大臣を経験し、立憲政友会に入る。
原敬の片腕として政友会特有のバラマキ政策を行い、何度も日本を不況から救った。
昭和金融危機の片面紙幣大増刷や、震災手形の整理、昭和恐慌の対策、金輸出再禁止、とにかく明治末期から戦争直前までの
日本の財政問題のすべてに絡んでいると言っていい人物である。

24: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:15:42 ID:vH1
5(右) 鈴木貫太郎(鬼貫戦艦二隻撃沈)
『日本のいちばん長い日』という映画がある。1945年8月15日の終戦工作を成し遂げた男たちの話である。この日本が最も重要な決断を迫られた時に首相であったのがこの鈴木貫太郎である。
世代的には維新ゼロ年生まれの海軍軍人であり、坂の上の雲で有名な秋山真之と同年代である。
日清戦争で世界初の水雷(魚雷)戦闘が行われ、世界から多くの注目を集めた。
その中で鈴木は日露戦争当時は水雷の専門家であった。
そして敵艦に肉薄しての水雷攻撃を主張して少々煙たがられてもいた。
そもそも当時、水雷とは離れた場所にいる敵に対して砲撃よりも信頼性が高い攻撃手段として認識されていた。肉薄して水雷を放つ危険を冒すのであれば、砲撃のほうが信頼性が高いからである。
しかし当時の水雷は航続距離こそ数百メートルに達するものの、決して信頼性が高い武器ではなかった。このため鈴木は、「敵艦の明かりで新聞の文字が読めるようになるまで近づいてから打て」と兵員に指導していたのである。
実際に黄海開戦において帝国海軍は「臆病打ち」と揶揄されるほど遠い距離での水雷運用を行い、大失敗を犯していた。
これを正すために鈴木の説が見直されたのである。
※当時、技術運用は正規教育を受けた30代の若手に全てを担わせていた。すごい時代である。
日本海海戦においては駆逐隊司令として旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」、戦艦「ナヴァリン 」、「シソイ・ヴェリキィー」のすべてに水雷を命中させ、
うち2艦を撃沈した。あまりにも戦績が突出していることから、
秋山真之「戦果を1艦、別の隊に譲ってやってくれ」と頼まれるほどの大活躍であった、

26: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:16:37 ID:vH1
6(一) 森恪(バルチック艦隊妨害活動)
歴代総理大臣とは関係ないが、病死しなければ間違いなくそれに近い存在になり、
かつ日露戦争での功績が著しい人物がこの森恪(もりつとむ)である。
満州事変の支持し、鳩山を唆して日本を陸軍国主義の国に仕立て上げようとした帝国主義者であるが、
帝国主義時代の人間に対する「帝国主義的だ」という非難は的外れである。
それは戦国時代の人間に対して「軍国主義的である」と非難しても何ら意味がないのと同じだからである。
さて、この男の日露戦争時代の最大の功績は、「バルチック艦隊の妨害」である。
三井物産新入社員として上海に常駐中に、
本国から「上海の艀(はしけ)をすべてチャーターせよ」との指令を受けた。
艀とは船に物資を送るための軽船であり、言わずもがな、バルチック艦隊への物資補給の妨害任務である。
日露戦争は官民を挙げての大事業であり、
それに協力することは日本に本拠地を持つ企業として当たり前のことだったのである。
この妨害任務は紙一重の差で功を奏し、バルチック艦隊は上海での寄港が不可能になった。
結果としてバルチック艦隊は津軽海峡ルートや間宮海峡ルートの利用を制限され、
対馬沖での全面的海戦を許す羽目になってしまった。
森はこの打線の誰よりも、「日本海海戦」における民間最大の功績を得た人物と言える。

27: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:24:44 ID:vH1
7(左) 幣原喜重郎(ロシア電信妨害)
受験日本史では対中融和路線外交で有名な人物であるが、日本史全体で考えた場合、「日本国憲法制定」の功績のほうが圧倒的に重要な人物である。
敗戦直後という非常に難しい時期にGHQと渡りをつけ、米国に対して最低限の意地を見せつけたという点において、総理在任日数以上に評価されるべき人物である。
幣原外交は、中国政策について非常に消極的であり、撤退すらするべきだという考えを実現した外交である。
今日の感覚でいえば、「中国から撤退しておけばあれほどの酷い戦争にならなかった」というのが一つの考えとして成り立つのであるが、
当時の多くの日本人にとってそれは耐えられないことであった。
それは「日露戦争に散っていった10万の英霊に申し訳が立たない」からであり、
この理論はその後、太平洋戦争でも適用された。
日本軍人にとって死は最大の名誉であるのだが、その名誉を汚す真似は絶対にしてはならない、というのが条件であるがゆえに、非常にやっかいな思想を残しやすいのである。

さて、この幣原であるが、開戦時は釜山で外交官をやっていた。
日露開戦が決まった直後、幣原は一人の警官を呼び、「これから郵便局に行ってロシア側の電信送信を妨害してほしい。その後の生活は自分が面倒みる」と"お願い"をした。
この警官は職務を果たし、ロシア側は本国への電信手段を一時的に失った。
また後日、この警官に「電線を破壊」させ、ロシア側への妨害を行った。
これは現在の国際法でも、当時の国際法でも明らかにアウトである。
しかしこの時代の日本人は、全員が「自分の人生 < 日本」なのであった。
日本のためには自分の人生を賭しても構わないという人物が、この時代にはたくさんいたのである。

28: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:33:48 ID:vH1
8(三) 犬養毅(日比谷事件終息に向けた行動)
犬養毅は、根っからの野党政治家である。
戊辰戦争に従軍記者として参加して以来、彼は「日本を良くするための言論」に注力し、少数政党を率い続けた。
晩年は鳩山一郎と組んで統帥権干犯問題を引き起こし、結果的に日本の軍政を調子に乗らせる結果となった。
515事件で暗殺されるものの、殺した側の海軍軍人たちが非常に甘い裁定を受けたため、これも間接的に226事件というのクーデターを起こすきっかけになったであろう。

さて、この犬養であるが、戦時中はもちろん政府に協力し、挙国一致体制を作り上げるのであるが、この時代の政治家としては戦後、非常に珍しい行動をした。
日露戦争は講和後、国民からの大反感を招くこととなり、野党は条約を破棄せよという徹底的な攻撃を桂内閣に行った。その方が選挙で勝てるからである。
国民は新聞に踊らされていたのである。主に朝日新聞に。
だがこの時、犬養は政府批判こそしたものの、条約破棄はするべきではないという主張を行った。それが自らと政党にとってマイナスになることを知りながら。
おそらく彼は日露戦争における戦況を正しく理解していたのだろう。
犬養のこの行動が、日比谷事件以来の国民思想に直接の影響を与えたというわけではないものの、このように「まともな考えの野党議員」を持ったことは、この時代の日本にとっての幸運であったと言っていいだろう。

33: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)16:48:02 ID:vH1

9(投) 広田弘毅(学生時代のロシア横断諜報)

のちにA級戦犯として処刑された唯一の文官総理大臣である。
一時期は近衛の代わりに文官として処刑された広田弘毅に同情する声が大きかったが、
実際にはあまりにも軍部のいいなりであり、さすがにこれは擁護しきれないという論調も増えた。
特に軍部大臣現役武官制の復活と、高橋是清の手によって抑えられていた陸軍費を増大させることによるインフレは実に嘆かわしく、文官としての誇りはないのかと言いたくなる。
高橋是清さえ生きていれば、、、と思わせる最悪の総理大臣であった。

さて、その広田であるが、日露戦争時代は学生であった。
学生時代に「日英同盟と世界の興論」という同人誌を発行し、それが飛ぶように売れた。学生の素人出版物としては異例なほど売れたため、政府関係者にもこのうわさが広まっていた。
それが外務省の東大OBの先輩にとまったらしい。
彼は有能さを買われて、シベリア・満州を偵察旅行に行ったのである。
当時は既に日露戦争の機運が高まっており、軍人や官僚が行けば情報が筒抜けになってしまう。これを避けるために民間人で、しかも学生である広田に白羽の矢が立ったのだ。
学生とはいえ、目的がバレれば最悪、処刑される可能性すらあった危険な旅行だったのだが、広田は三か月の長旅でその役割を十分に果たした。
その広田の報告書は今も外務省に保管されているという。
戦時中は松山の捕虜終了所で通訳として派遣され、捕虜からロシア軍の情報を聞き出す仕事を与えられている。

53: 2018/01/21(日)20:37:01 ID:Vkz
東京湾要塞とかいう今もある跡地

54: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)20:37:55 ID:vH1
>>53
28サンチ榴弾砲って結局東京湾要塞のもどったんかな?

55: 2018/01/21(日)20:39:39 ID:Vkz
>>54
すまぬ知らないんだ
東京湾要塞見学できないんかね

56: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)20:41:46 ID:vH1
>>55
伊地知幸介が戦後に司令官やっててちょっと草

58: 名無しさん@おーぷん 2018/01/21(日)22:06:01 ID:IWY
坂の上読んでますわ今
正岡子規があんな魅力的な人物とはなあ

59: カバエル◆C042qdaDP6 2018/01/21(日)22:06:39 ID:vH1
>>58 人脈もすごいで。松山は本当に人材豊富やね

60: 名無しさん@おーぷん 2018/01/21(日)22:08:36 ID:IWY
明治の首脳陣って結構有能おるんやなあって感心するは
なお昭和