1: まいどアリ ★ [TN] 2018/07/01(日) 13:12:19.33 ID:CAP_USER9
「近世報国赤心士鑑」という明治9(1877)年に京都で出た番付がある。
安政5年から慶応3年までの国事に殉じた273人のランキングだ。

この最上段に田中河内介(かわちのすけ)がいる。
坂本龍馬や高杉晋作は次の段。
幕末のスター志士より格上の田中河内介って、誰?

河内介は但馬国出石藩の香住(現豊岡市香住)出身で、京都で儒者となった。
公卿中山忠能(ただやす)に仕え、その娘の生んだ男の子の世話係となる。
この男児こそ、何を隠そう祐宮(さちのみや)、つまり後の明治天皇だ。

河内介は勤王の志士となり、西南雄藩の同志と交わりを深める。
そこで起きるのが寺田屋騒動。
河内介らによる討幕の挙兵計画は、薩摩藩の内紛で不発に終わる。
薩摩藩の生き残り組と鹿児島へ向かった河内介父子は、播磨灘で殺され、遺骸は小豆島に流れ着く。

寺田屋騒動で「おいごと突けぃ!」と壮絶な最期を遂げた薩摩藩士・有馬新七ら九烈士の番付は、さらに下の3段目。
NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の寺田屋騒動の回でも影も形もない、河内介の方が上だ。

この、現在とは逆の評価に驚いたのが、兵庫高校などで漢文を教えていた故田中稔さん。
史料の乏しい河内介について1980年頃から調べ、発表し始める。
「明治天皇に最も慕われた男」というのが小伝のタイトルだ。

たまたま、田中さんの話で河内介を知った小豆島の人が顕彰会を97年に結成。
毎年、命日の5月1日前後に法要を営み、浜にあった哀悼碑も、菩提(ぼだい)所の雲海寺に移転させる。

W田中、恐るべし。

さすが、寺田屋騒動後に薩摩藩の蒸気船が沈んだのも、西郷隆盛の自刃も、大久保利通の暗殺も、河内介のたたりといわれるだけのパワーだ。

ちなみに、番付で河内介の右に位置する中山忠光は、忠能の息子。
つまり明治天皇とともに河内介の教えを受け、長じて大和で決起した「天誅組の変」の首領にかつがれる。

戦後風に言えば、
「皇太子殿下の血のかよう叔父が共産党に参加して、争乱の首領に推されたというのと同じ」と作家の木村毅(き)は「明治天皇」に書く。

幕末・明治の激動ぶりがよく分かる。
確かに、河内介の存在は小さくない。
(田中真治)

写真:田中河内介父子を掲載する番付「近世報国赤心士鑑」
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以下ソース:神戸新聞 2018/7/1 12:30
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201807/0011405269.shtml
http://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/editorialplus/1530418339/
田中 河内介(たなか かわちのすけ、文化12年(1815年) - 文久2年5月2日(1862年5月29日))は、幕末の青侍で、尊王攘夷派志士である。儒学者および漢学者。名は綏猷(やすみち)、字は士徳。恭堂や臥竜と号した。幼名は賢次郎。

寺田屋騒動後という幕末の騒乱の早い段階で非業の死を遂げるが、明治天皇の4歳になるまでの教育係で、大変慕われていたことが明治時代になってから一般にも知られるようになって有名になった。
田中河内介 - Wikipedia
8: 名無しさん@お腹いっぱい。 [EU] 2018/07/01(日) 14:40:45.66 ID:4geCalVt0
まあ何かを成したとか後世の礎になったとかでは無かったよなぁ

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 [EU] 2018/07/01(日) 17:29:21.17 ID:shaCxDvo0
維新後、明治天皇が、臣下を前に、河内介を殺したのは誰か、分からない、と言った時、
ある人物が、やったのはここにいる大久保ですと、明言した。
そのご、その男は、何者かに暗殺された。
やったのは、大久保だろうな。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 [US] 2018/07/01(日) 17:41:51.01 ID:aHI7xpQ00
2022年大河ドラマ化決定!

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 [US] 2018/07/01(日) 23:09:18.80 ID:6LkAwx6T0
横綱が吉田松陰と藤田東湖なんだ
一番が思想家で、龍馬の評価も高いのを見ると昔から人脈を作れる人間の評価も高い。
人を動かせる人間がすごいという事だな

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 [US] 2018/07/02(月) 01:17:05.82 ID:I/VyJSRA0
この番付作ったの、調べたら西村兼文じゃねーかw
私情まみれの捏造したものを史実として記録して一所懸命新選組を貶めてた人
多数決ならともかくこんな奴の私選なんかに価値も真実味もねーよ
西村 兼文(にしむら かねふみ、天保3年7月22日(1832年8月17日) - 明治29年(1896年)11月1日)は、幕末の京都西本願寺侍臣。尊皇攘夷派。

西本願寺侍臣西村房義の次男として生まれ、父と同じく西本願寺に仕える。
西国にて勤皇の志士達と交流していたが、慶応元年(1865年)閏5月に京都へ帰ってきてみると、西本願寺は勤皇志士達の敵とも言える新選組の屯所とされてしまっていた。
新選組隊士達、特に尊皇攘夷思想の強い伊東甲子太郎らと交流を重ね、戊辰戦争後の明治22年(1889年)、『新撰組始末記』(壬生浪士始末記とも)を著し、数年後に公表した。
維新史に関する書をたびたび発表し、奈良県庁官吏として明治政府に出仕。
奈良にて死去。享年65。