1: 樽悶 ★ 2018/08/19(日) 20:15:54.99 ID:CAP_USER9
 太平洋戦争で、連合国側から名将として評価される数少ない旧日本陸軍将官の一人に、今村均大将がいる。その没後50年の今年、桐生市の著述家、岡田幸夫さん(71)が、今村の功績のひとつ「ラバウル防衛戦」の様子を一冊の本にまとめた。戦争の記憶が薄れつつある中、岡田さんは「混乱の中、日本軍にも時勢に流されない正義感と先見の明を持った人物がいたことを知ってほしい」と話す。

 著書のタイトルは「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」(郁朋社刊)。対米開戦から1年、敗勢に転じ始めた時期に南太平洋戦線の拠点ラバウルに司令官として赴任し、大規模な餓死者や病死者を出すことなく終戦まで戦い抜いた今村の姿を詳細に記している。

 政府見解によると、太平洋戦争と、その前段となる日中戦争での旧陸海軍戦死者は約230万人。内訳は戦闘による死亡よりも補給欠乏による餓死や病死が多数といわれ、6割(約140万人)を占めるとする学説もある。

 今村は本国からの補給が全くない状況下で、終戦までの2年半余、自給自足による食糧確保と戦線維持を成功させて指揮下の陸軍将兵約7万人の「無駄死に」を防いだ。終戦後のラバウルからの生還者は、今村の赴任時とほぼ変わらず、海軍と合わせて約10万人に上る。

 今村は米軍撃退の命令を受けて赴任したが、補給も見込めない状況では将兵を餓死させないことが責務と判断。サツマイモなど食糧の組織的栽培・生産を実行した。岡田さんは「補給もせず精神論で戦闘を強要し、多くの犠牲者を出しながら責任を取ろうともしなかった将官が多かった中、今村の姿勢は際立っている」と指摘する。ラバウルの自給自足は食糧だけにとどまらず、火薬など兵器にまで及んだ。「代用品の域は出ないが、医薬品も自給したようです」。このため、米軍の激しい爆撃を受けながら、規律や士気は終戦まで維持されたという。

 岡田さんは桐生高卒業後、東北大に進学し、仙台市で今村の存在を知った。今村は仙台出身で、太平洋戦争序盤に宮城県出身の兵士を率いてオランダ領(当時)インドネシアを攻略したため、今村に特別な念を抱く人が多かった。「下宿先の寺の住職も、徴兵されて今村司令官の指揮下で戦った人で、私の前でも『今村閣下』と呼んで尊敬の念を隠そうとしなかった」。その後、少しずつ今村の事績を調べ、いつか本にまとめたいと考えてきたという。

 今村の優れた点を、岡田さんは「その人間性と良識」という。インドネシア攻略に成功して進駐した今村は、本国の干渉を無視し、降伏したオランダ人にもインドネシア人にも融和的な軍政を敷き、捕虜虐待などもなかった。このため、戦後、オランダから戦犯に指名された際も現地インドネシア人が法廷で擁護し、無罪となっている。

 また、オーストラリアから戦犯に指定されて巣鴨プリズンに収監されたが、「帰国することなく現地で収監されている部下がいる」として、マッカーサー連合国軍最高司令官に南太平洋ニューギニアの収容所への移送を陳情。マッカーサーは「初めて武士道の神髄に触れた」と感じ入り、許可したという。

 今村のような将官ばかりであれば、あんなばかげた戦争は起きなかったのではないか--岡田さんの思いだ。「戦後生まれの私だが、戦争の悲惨さを忘れないとともに、時代を超えて心にとめておかなければならない人物として今村を知ってほしい」

 「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」の問い合わせは、郁朋社(東京都千代田区三崎町2の20の4)。【高橋努】

 ■ことば

今村均

 1886年、仙台市で旧仙台藩士の家に生まれる。裁判官だった父の転勤に伴い、山梨、新潟で少年期を過ごす。父の急死で旧制高校進学をあきらめ陸軍士官学校入学。陸軍大学校を首席で卒業。太平洋戦争開戦後、オランダ領インドネシア攻略軍の司令官と占領後の軍政最高責任者を務める。1942年11月、ラバウルに赴任して終戦まで軍司令官として陸軍将兵約7万人を指揮した。戦後、オーストラリアから戦争指導者として戦犯に指名されて禁錮10年(オランダからの訴追は無罪)。釈放後は都内の自宅庭に建てた3畳一間の「謹慎小屋」で回顧録の執筆を続けた。68年、82歳で死去。

毎日新聞 2018年8月19日
https://mainichi.jp/articles/20180819/ddl/k10/040/099000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534677354/
31: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 20:40:14.54 ID:0ExvMFVu0
>>1
はあ?
パワハラ男ですけど?

6: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 20:19:11.58 ID:v+tOmvBG0
親鸞の歎異抄を持ち歩いてた将軍だっけ

11: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 20:22:38.54 ID:lmgtPXqZ0
インドネシアで善政敷いてたら 
もっと物資徴発して送ってこいやヴォケ! 
と中央の怒りを買って太平洋に飛ばされた悲劇の人

13: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 20:24:50.51 ID:lmKreb5Y0
ここはアメリカからスルーされたこともあって生還率マジで高かったらしいな 
水木しげるも会ったとか

47: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 21:11:07.86 ID:4zv5cxTz0
水木しげるも、すごく好意的に描いてたな

46: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 21:10:47.04 ID:/PXbyjXU0
回顧録読んだけど、この人の優しさが伝わってくる、確かに名将だ。

56: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 21:23:44.56 ID:T9k/zgRB0
フィリピンを占領した本間雅晴 
マレー、シンガポールを攻略した山下奉文 
ともに戦犯として死刑 
しかしインドネシアを攻略した今村は善政をしいて戦犯にはならなかった 
ろそれどころか独立したインドネシアの初代大統領のスカルノからも 
インドネシアが独立できたのは今村のおかげと感謝された

67: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 21:37:02.83 ID:bhqZ/KEc0
>>56 
辻参謀が来なかっただけかもしれん

10: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 20:22:22.17 ID:+2XAGLu+0
ラバウル航空隊っていうのも結構優秀な集団だったんだよな
いつからこんなになっちまったんだよ

255: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:11:37.52 ID:0AQxESRX0
>>10
当時ラバウルに居た搭乗員の手記なんかだと
朝~昼→ソロモン諸島へ長距離出撃。ラバウル周辺に襲来した敵機も迎撃する
夜→米軍の嫌がらせ爆撃で宿舎と防空壕を行ったり来たりで寝不足

こんなのを毎日やってるから搭乗員の疲労も溜まる→集中力も落ちる→殺られる→搭乗員が減る→一人あたりの任務が増える→ループ

あとソロモン方面に出撃した時に「敵機や高射砲の攻撃を受けてないし機体から煙や火が出てるわけでもないのにスッと落ちていく友軍機が何機もあった」
って記述が散見されるが、これも過労で飛行中に意識を失ったりして墜落したんじゃないかと思う

256: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:30:26.71 ID:NWc0ad+K0
>>255
ラバウル-ガダルカナル間が片道3時間
ブイン--ガダルカナル間が片道1時間半

途中で居眠りしたら終わり
居眠りして墜落未帰還は相当数あるんじゃないかな

257: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:40:09.08 ID:0AQxESRX0
>>256
奇襲を受けたら死ぬから常時索敵をしながら飛行
労働環境?で言えば現代の長距離トラック以上の疲労度だろうな

259: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:45:45.72 ID:NWc0ad+K0
>>257
トラックなら疲れたらどこかで停めてひと眠りも出来るかも知れんが
飛行機だとそうはいかないしな
2人乗り3人乗りの小型機だと常に会話し合ってたという。
パイロットが居眠りしたら終わりだから

長時間の飛行は搭乗員に致命的な疲労を与えて戦力に影響する。
これ、ソロモン戦の貴重な教訓なんだが、マリアナ沖海戦では
小沢艦隊上層部に全く伝わっていないのがお粗末

262: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:55:18.73 ID:6x0Ovx8B0
>>259
小沢の構想していたアウトレンジ戦法はもともと水雷戦、砲戦で行うものだった
そこから魚雷や砲弾よりも射程距離が格段に長い航空機が出てきたからそっちを主体にしたもの
つまり、小沢にとって航空機は射程距離の長い魚雷や砲弾という認識でしかなかった
未熟な搭乗員が乗った航空機なんて不発弾だと同じだということに気付かなかった時点で失敗は約束されていた
小沢は航空の司令官として評価が高いが、航空機を本当の意味で理解できていなかったのではないかと疑問視する人間は航空機関係からも結構多かったりする

59: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 21:27:22.31 ID:1WfS/Ryc0
ラバウルは事実上何度かの大規模な空爆で航空基地としての能力を失い。放置された。 

航空戦には良いところはなかったし、陸上戦は発生していないのだから、ラバウル防衛戦と言われてもね。

106: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 22:10:55.52 ID:6+MfyXgt0
今村均はイギリスに派遣されたので、主流派のドイツ派ではなかったのと、
陸軍士官学校の卒業年度の関係で、永田鉄山や東条英機らの
一夕会メンバーに入れて貰えなかった、陸軍の非主流派だったことが、
色々と影響しているのだろうね。

118: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 22:16:26.16 ID:iv4n5mEl0
最上位司令官として、戦闘力最大化のために兵士の腹を満たすことを優先せざるを得ない、という悲しい日本の国力の話であって、将軍の慧眼ということじゃない。
(司令官としてその判断は正しくかつ標準的なもの)
士気を高めて組織的行動を取ることで、もはや補給されることがない数少ない武器の能力を最大化しようとした。
いっぽう米英独は兵士の腹は満たせるのは当たり前、工業力で武器生産、日本の補給線の破壊により戦力を最大化することができた。(ドイツは第一次大戦後の飢餓状態の反省から末期まで食料は比較的配給されていた)
全然話にならんのだよ。
ただしソ連は例外で、国民を餓死させてまで兵器増産して、狂ったような数の戦車を前線に送りこんだけどねw

139: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 22:28:35.94 ID:JQKb0hI50
いくらニューギニア、ソロモン方面の戦略拠点とはいえ、10万も駐留させてた意味がわからんな

沖縄戦ですら現地応召含めても将兵10万もいなかったのに

169: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 23:00:51.26 ID:xbIC2U6f0
今村 栗林は数少ない日本陸軍の良心

174: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 23:04:25.47 ID:lmgtPXqZ0
>>169
栗林はなぜか保守から批判的評価がちらほらと出てくるようになってるな
一時期映画化されて持ち上げられた反動なんだろうけど

186: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 23:12:36.52 ID:7q9rNsbm0
>>174
栗林に批判されて早々に硫黄島から叩き出された参謀がいて
こいつが戦後に見てきた様に栗林の悪口触れ回ったのが原因
精神異常で指揮執れてなかったとかな
ドイツは負けた。海軍の壊滅したもう終わりだって参謀なのに
作戦立案全くせず、二言目にはこれしか言わないから、戦闘前に栗林に本土に突き返された
なのに何でか現地の戦闘開始後の栗林の様子に異常に詳しいんだよねw

196: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 23:29:46.89 ID:6+MfyXgt0
>>186
栗林は防衛作戦方針で参謀連中とあまりしっくり行っていなくて、
栗林自身が直接、兵に指示を出さなければならなかった状態。
「報連相」が大好きな日本人には嫌われるタイプのリーダー。
だから陸上自衛隊でも栗林批判は行われているよ。

193: 名無しさん@1周年 2018/08/19(日) 23:26:56.11 ID:lhhTZaUiO
Wikipedia読めば解るけど、この人は本物の人格者
敵軍の裁判官をも唸らせた人物
こう言う人も旧軍に居たんだと驚く

229: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 03:04:18.36 ID:DuI99FWt0
ラバウルは連合軍が放っておいて攻めてこなかったから生き残りが多いだけじゃね?

231: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 04:13:33.97 ID:Tgb71mZI0
>>229
食料等を自活しているから兵糧攻めしても効果無いから攻めても自軍の被害大きいだけって判定されたから攻められなかったんやで

241: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 10:21:33.26 ID:c4lVYKc90
今村閣下、素晴らしいんだけど、戦陣訓作った1人なのは中々触れられないよね

251: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 20:30:10.61 ID:VAhtb3jH0
水木先生もラバウルでは食うに困ることはなかったようだからな

258: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:44:16.21 ID:pQ/VBa3w0
こんな立派な人も居たんだな

この人が日本を率いていたら、
敗戦してももっと評価維持できたかもな

261: 名無しさん@1周年 2018/08/20(月) 21:55:11.01 ID:0AQxESRX0
>>258
今村均は日本が占領したジャワで軍政指導を行ったが
・地元住民の文化や伝統を尊重し伝統芸能や民謡などを禁止しなかった
・当時現地に住んでいたオランダ民間人に対しては住居などを接収せずそのまま住まわせて行動も自由にした
・オランダ軍から接収した金品を使って学校などの公共施設を建設
・部下たちにオランダ軍捕虜への虐待や住民への暴行、略奪などを禁止する厳命を出した
・ジャワから日本へ送られる綿花の出荷量を抑制し地元の経済を保護した
など当時の日本軍にしてはかなり緩い統治を行っていた

そのため中央から「生温いことやってんじゃねーよ」と文句が来てラバウルに飛ばされた
戦後今村は戦犯指定されるがジャワの住民たちの証言が「今村さんは悪くない」と言ったものばかりだったので禁固刑で済んだ