1: 樽悶 ★ 2018/09/20(木) 04:35:39.80 ID:CAP_USER9
 九州の天領(幕領)を支配した西国筋郡代のお膝元である日田で、幕末期に行われた「絵踏(えぶみ)(踏み絵)」とキリシタン禁教令の実態が、広瀬資料館=日田市豆田町=に伝わる古文書の解読で明らかになった。その対象は庶民だけでなく、苗字帯刀を許された豪商や豪農にまで及んだ。6月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたのを機に、同資料館の園田大・学芸員(40)が調査し、展示した。11月末まで。【楢原義則】

 絵踏は、幕府がキリスト教徒弾圧のため、キリストやマリアの像を刻んだ木や金属板を足で踏ませたもの。踏むことができれば信者ではないとされた。島原・天草一揆(島原の乱、1637~38年)後、弾圧をより強化した。

 園田学芸員が、豪商の広瀬家に伝わる古文書の中から日記に絞って調べた結果、絵踏は毎年3~4月に実施されていたことが判明。第7代当主の源兵衛が政治、経済、社会情勢などを記した「広瀬本家日記」には、嘉永6(1853)年3月15日付で「宗門御改め絵踏は代官所役人が立ち会う。丸山町など陣屋周辺は代官所で、豆田町、中城町、淡窓町は長福寺で、田島町、庄手町、竹田町がこれに続いた」(現代語訳、田島町以下は場所不明)と記されている。

 第6代当主の「久兵衛日記」にも安政3(56)年3月16日付で、代官所、長福寺で「宗門御改め(絵踏)」が行われたことが書かれ、「この年からは苗字帯刀を許された者も絵踏した」と特記されている。園田学芸員は「該当する豪商、町役人、大庄屋などは当時19人。この年に長崎でキリシタン弾圧第3弾の浦上事件があったためでは」と推測する。

 明治になっても弾圧は続き、広瀬家のメモ「国事雑録」には、明治元(68)年3月に「不審なる者あらばその筋の役所へ申し出よ」と記した太政官布告の高札が豆田町に掲げられたのを伝えている。

 高札の撤去は明治6(73)年。郷土史に詳しい豆田町の伊藤豊明さん(69)は「絵踏の実態が具体的、身近に解き明かされ驚いた」と話す。

毎日新聞 2018年9月19日
https://mainichi.jp/articles/20180919/ddl/k44/040/265000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1537385739/
14: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 05:29:38.08 ID:QkKLmcON0
それより「踏み絵」は、いつから「絵踏」になった?

17: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 05:34:53.67 ID:BFVndqK10
>>14
江戸時代から

15: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 05:31:01.14 ID:9+K4Pttm0
明治でキリスト教解禁になってないの?

33: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 07:29:56.39 ID:nGOXhHNG0
昔の日記を読み解く研究って面白そうだな

34: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 07:36:38.74 ID:UHowAV4K0
禁教そのものの是非は別として、貧乏な庶民だけでなく
豪商・豪農みたいな地元の有力者まで対象にしてたなら
公平で正しい制度運用と言えるんじゃないの?

それに比べて…昔は良かった

44: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 09:14:55.13 ID:OZSzWX6A0
「外国の」キリスト教を流入させないことに成功していたということで評価が高まるな

48: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 12:29:12.28 ID:A7KJPdYo0
転んだって、転んだのナシ、で済むんでしょ
島原の乱も隠れキリシタンより立ち帰りの方がずっと多かったらしいし

53: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 16:15:45.08 ID:+YHdXw5f0
このおかげで変にキリスト教国にならずに済んだからな
先人に感謝やで

63: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 21:06:49.96 ID:llBAJiv00
一生懸命力説してる人いるけど、
キリスト教を利用したのはスペイン・ポルトガルなんだよね

後発のイギリス・フランス・オランダなんかは積極的に改宗なんかしてないよね

64: 名無しさん@1周年 2018/09/20(木) 21:29:28.73 ID:a4i71hjs0
ぶっちゃけ弾圧って言うほどのモンじゃない。