1: 樽悶 ★ 2018/11/02(金) 01:18:04.54 ID:CAP_USER9
野村照一さん(右下の写真)の手記を手にする長女の中山征子さん(右)と夫の裕さん=京都府長岡京市で、国本ようこ撮影
■兵士の苦難、草原一面に馬の死骸…
第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】
「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。
野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。
37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。
手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。
野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。
また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。
その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。
■「父と再会した気持ち」
野村照一さんの手記を見つけた長女の中山征子さんは、1944年9月に旧満州(現中国東北部)の東安省で生まれた。母ハナエさん(97)によると、戦地の野村さんから「しばらく戻れない。先に日本に帰っておくように」と連絡があったため同年12月に帰国。征子さんは「後の情勢を考えると、私も母も(中国残留孤児を描いた小説)『大地の子』になるところだった」と振り返る。
もっとも、旧満州では戦況などの情報を得られる旧陸軍の将校や官僚、家族らは民間人を置き去りにして真っ先に逃げたとされる。ハナエさんが同じ旧陸軍の官舎に住んでいた家族たちに後に再会した際に聞いたところ、早期の引き揚げを促す具体的な情報はなかったが、「支給される物資が滞ったり、官舎にいた兵隊さんがいなくなったりと不穏な空気を感じたので帰ってきた」と言われたという。
野村さんは46年6月に上海から帰国した後、府警に定年まで勤めた。遺品は手記の他、軍に届けた婚姻願や戦時中の国債など、たくさんの書類がきちょうめんに保存されていた。夫の裕さん(79)と共に整理した征子さんは「亡くなった後にまた父の軌跡がわかる手記が見つかりうれしい。改めて父と再会した気持ちです」と話した。【国本ようこ】
■ノモンハン事件
1939年5~9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。
毎日新聞 2018年10月31日
https://mainichi.jp/articles/20181031/ddl/k26/040/391000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541089084/■兵士の苦難、草原一面に馬の死骸…
第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】
「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。
野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。
37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。
手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。
野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。
また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。
その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。
■「父と再会した気持ち」
野村照一さんの手記を見つけた長女の中山征子さんは、1944年9月に旧満州(現中国東北部)の東安省で生まれた。母ハナエさん(97)によると、戦地の野村さんから「しばらく戻れない。先に日本に帰っておくように」と連絡があったため同年12月に帰国。征子さんは「後の情勢を考えると、私も母も(中国残留孤児を描いた小説)『大地の子』になるところだった」と振り返る。
もっとも、旧満州では戦況などの情報を得られる旧陸軍の将校や官僚、家族らは民間人を置き去りにして真っ先に逃げたとされる。ハナエさんが同じ旧陸軍の官舎に住んでいた家族たちに後に再会した際に聞いたところ、早期の引き揚げを促す具体的な情報はなかったが、「支給される物資が滞ったり、官舎にいた兵隊さんがいなくなったりと不穏な空気を感じたので帰ってきた」と言われたという。
野村さんは46年6月に上海から帰国した後、府警に定年まで勤めた。遺品は手記の他、軍に届けた婚姻願や戦時中の国債など、たくさんの書類がきちょうめんに保存されていた。夫の裕さん(79)と共に整理した征子さんは「亡くなった後にまた父の軌跡がわかる手記が見つかりうれしい。改めて父と再会した気持ちです」と話した。【国本ようこ】
■ノモンハン事件
1939年5~9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。
毎日新聞 2018年10月31日
https://mainichi.jp/articles/20181031/ddl/k26/040/391000c?inb=ra
282: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 12:29:37.82 ID:Za3rVA+y0
>>1
永田や石原なんかの世代は総力戦の研究をしていたはずだけど、軍から消えた段階で受けつがれず、おかしな精神論が幅をきかすようになったのか
永田なんかは経済人とも交流して総力戦では財界の協力、というか指揮下に置くようなことも考えてたと読んだけど
一般の軍人はそういうのを嫌ったみたいだね
永田や石原なんかの世代は総力戦の研究をしていたはずだけど、軍から消えた段階で受けつがれず、おかしな精神論が幅をきかすようになったのか
永田なんかは経済人とも交流して総力戦では財界の協力、というか指揮下に置くようなことも考えてたと読んだけど
一般の軍人はそういうのを嫌ったみたいだね
304: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 12:45:49.90 ID:MCN6IB+D0
>>1
一方的な兵士の感想です。
全体像は見えてない。
一方的な兵士の感想です。
全体像は見えてない。
324: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 13:05:14.73 ID:dmjk7CkL0
>>304
軍の性質上、兵、下士官はおろか上級指揮官でない限り全体像は見えないね
しかし、だからと言ってこの手記に価値が無いとは言えない
軍の性質上、兵、下士官はおろか上級指揮官でない限り全体像は見えないね
しかし、だからと言ってこの手記に価値が無いとは言えない
6: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 01:25:23.70 ID:+gvzmMyp0
>ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。
たこ壺効いてたのか
たこ壺効いてたのか
22: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 01:58:02.57 ID:VYsueIEv0
>>6
当時のソ連戦車は造りガバガバだったからね
装甲は日本の短砲身戦車でもすぐ破壊できたし質の悪いエンジンは手榴弾くらいでも爆発しちゃう
むしろ日本のディーゼル機関が優秀で、爆発もせず貧弱な整備でも故障を殆どしなかったからかなり善戦できた
当時のソ連戦車は造りガバガバだったからね
装甲は日本の短砲身戦車でもすぐ破壊できたし質の悪いエンジンは手榴弾くらいでも爆発しちゃう
むしろ日本のディーゼル機関が優秀で、爆発もせず貧弱な整備でも故障を殆どしなかったからかなり善戦できた
34: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:21:11.63 ID:8MBHUx5Q0
>>22
当時ソ連戦車はガソリンエンジンだったから火炎瓶が有効だった
日本軍の戦車砲ではソ連戦車には有効ではなかったしエンジンが優秀だなんてことはない
当時ソ連戦車はガソリンエンジンだったから火炎瓶が有効だった
日本軍の戦車砲ではソ連戦車には有効ではなかったしエンジンが優秀だなんてことはない
172: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 07:17:54.71 ID:WHNqdv5T0
>>34
日本戦車のディーゼルは燃えないし整備が容易
特に点火装置がなくて日本の苦手な電子機器を排除できたのが大きい
中国大陸を日本の整備技術で遠征できたのもその堅牢さが発揮されてこそ
日本戦車のディーゼルは燃えないし整備が容易
特に点火装置がなくて日本の苦手な電子機器を排除できたのが大きい
中国大陸を日本の整備技術で遠征できたのもその堅牢さが発揮されてこそ
16: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 01:38:07.28 ID:CwptREov0
野砲を馬で牽くのはノモンハンどころか第二次世界大戦が終わるまで普通
車両で牽引してたのはアメリカ軍だけ。
ニュース映画でドイツ軍が半軌装車で野砲や高射砲を牽いてるのは
ほんの少数一部の装備が良い部隊だけで大半は馬が牽いてた。
当時自動車の大量生産を実現していたのがアメリカだけだったから
考えてみれば当然のこと。
車両で牽引してたのはアメリカ軍だけ。
ニュース映画でドイツ軍が半軌装車で野砲や高射砲を牽いてるのは
ほんの少数一部の装備が良い部隊だけで大半は馬が牽いてた。
当時自動車の大量生産を実現していたのがアメリカだけだったから
考えてみれば当然のこと。
18: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 01:43:58.45 ID:jlbAwl2R0
>>16
馬で運ぶことに文句を言ってたんじゃなくてろくな防御手段も考慮せずに運搬してむざむざ敵の餌食にしたことに文句を言ってるんじゃねこれ
馬で運ぶことに文句を言ってたんじゃなくてろくな防御手段も考慮せずに運搬してむざむざ敵の餌食にしたことに文句を言ってるんじゃねこれ
49: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:47:20.45 ID:mrzlXxez0
>>18
航空優勢を取れなかったことが問題なんだろうなあ
航空優勢を取れなかったことが問題なんだろうなあ
50: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:49:10.37 ID:xsd3u6HC0
>>49
航空優勢は取れていた。ソ連側の方がはるかに被害が大きい。
乱戦になれば中にはこういう不幸な目に遭う部隊も出てくる。
航空優勢は取れていた。ソ連側の方がはるかに被害が大きい。
乱戦になれば中にはこういう不幸な目に遭う部隊も出てくる。
152: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 06:37:05.41 ID:cl5Vexef0
154: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 06:42:13.66 ID:OmYS6EfS0
>>152
何だ、 ソ連軍は、日本軍の2倍いたのか。
これで、地上戦は互角だった。
航空決戦で圧勝、ソ連空軍が壊滅状態だったからな。
日本軍のほうが、本格補充していたらソ連軍を追って、
ロシア内地奥深く侵攻していたな
何だ、 ソ連軍は、日本軍の2倍いたのか。
これで、地上戦は互角だった。
航空決戦で圧勝、ソ連空軍が壊滅状態だったからな。
日本軍のほうが、本格補充していたらソ連軍を追って、
ロシア内地奥深く侵攻していたな
156: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 06:45:41.60 ID:OmYS6EfS0
>>152
あくまでもソ連軍のほうが奇襲攻撃側だからな、
ソ連軍のほうは最初から主力の精鋭軍を全投入。
日本側の陸軍は防戦側だから、まだ完全には
数が揃っていない。すぐに全軍が防戦状態に入れる
空の戦いでは日本軍圧勝だった
あくまでもソ連軍のほうが奇襲攻撃側だからな、
ソ連軍のほうは最初から主力の精鋭軍を全投入。
日本側の陸軍は防戦側だから、まだ完全には
数が揃っていない。すぐに全軍が防戦状態に入れる
空の戦いでは日本軍圧勝だった
17: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 01:41:09.84 ID:u8C+M5Ys0
でも地上戦での損耗率はほぼ互角
航空戦では日本の圧勝だったろ?
航空戦では日本の圧勝だったろ?
86: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 03:15:37.19 ID:Yo5FSCtd0
>>17
陸軍航空隊は壊滅一歩手前にまで損耗した
陸軍航空隊は壊滅一歩手前にまで損耗した
104: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 03:49:35.59 ID:mCP0z21S0
>>17
前半は日本優勢、後半はスペイン内戦から帰還したエースらが到着すると劣勢
中隊長やら貴重なベテラン戦闘機指揮官が多く戦死
ここでの教訓から陸軍航空隊は座席背後に防弾板を取り付けるようになる
海軍が取り付けるのはずっと後のこと
前半は日本優勢、後半はスペイン内戦から帰還したエースらが到着すると劣勢
中隊長やら貴重なベテラン戦闘機指揮官が多く戦死
ここでの教訓から陸軍航空隊は座席背後に防弾板を取り付けるようになる
海軍が取り付けるのはずっと後のこと
116: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 04:15:48.78 ID:/D77tcXN0
>>104
前半というか5月いっぱいだな優勢だったのは
ソ連空軍のベテラン勢は6月から参加し始めて機体も多数送られて日本側の倍以上の勢力になる
以後は戦闘ごとに数の差から制空権はソ連に移っていき日本も必死で戦力かき集めるがソ連の増勢に全く追い付かず劣勢になってく
前半というか5月いっぱいだな優勢だったのは
ソ連空軍のベテラン勢は6月から参加し始めて機体も多数送られて日本側の倍以上の勢力になる
以後は戦闘ごとに数の差から制空権はソ連に移っていき日本も必死で戦力かき集めるがソ連の増勢に全く追い付かず劣勢になってく
58: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:54:37.92 ID:AQnlqfB90
まあそうだわな、よくあの圧倒的な兵力差でソ連兵に被害を与えたと思うわ
66: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:57:25.35 ID:xsd3u6HC0
>>58
両軍とも、後退すべき損耗率の部隊を文字通り全員戦死するまで前線で戦わせたのがこのノモンハン。
ここから近代戦闘がどんなものかを将官がマトモに理解していれば、太平洋戦争はまったく違っていた。
両軍とも、後退すべき損耗率の部隊を文字通り全員戦死するまで前線で戦わせたのがこのノモンハン。
ここから近代戦闘がどんなものかを将官がマトモに理解していれば、太平洋戦争はまったく違っていた。
63: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 02:56:18.47 ID:r80lYyXF0
ソ連軍相手にキルレシオが同じくらいなので負けではなかったみたいな間抜けな話はない
83: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 03:13:51.12 ID:AQnlqfB90
塹壕戦で戦車の機動力を潰した作戦は頭が良かった
装備と兵力差で負けてる分持ち堪えて、後衛部隊が来るかと思ったら玉砕命令だから軍規違反で撤退しても何も言えない
ソ連は逆に援軍が来ると思ってビビって退却してるし、どっちもどっち
装備と兵力差で負けてる分持ち堪えて、後衛部隊が来るかと思ったら玉砕命令だから軍規違反で撤退しても何も言えない
ソ連は逆に援軍が来ると思ってビビって退却してるし、どっちもどっち
92: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 03:28:54.81 ID:QwfmDc1k0
いまだにノモンハンは日本側の惨敗って思ってる奴多いもんな
115: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 04:15:45.82 ID:2G3btxNW0
このような反省を踏まえて
のちに竹ヤリでB29と戦う近代戦になり訳ですな
のちに竹ヤリでB29と戦う近代戦になり訳ですな
71: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 03:00:25.54 ID:JrE43NYs0
戦争中に徐々に改善されていくのがソ連。
ドンドン劣化していくのがドイツ・日本ってイメージ。
ドンドン劣化していくのがドイツ・日本ってイメージ。
131: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 05:14:56.28 ID:jsO9bm5M0
無い袖はふれないだけだよ、軽視してたわけじゃ無い
155: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 06:42:29.07 ID:vA64cD090
実際には日本軍は国力の可能な限り火力主義をやってるがな
歩兵突撃は不足を補うための苦肉の策
国力が足りないんだからしょうがないだろう。ソ連は南下を待ってくれんのだ
歩兵突撃は不足を補うための苦肉の策
国力が足りないんだからしょうがないだろう。ソ連は南下を待ってくれんのだ
183: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 07:30:36.62 ID:r/bSsfi30
まずソ連はこの戦いのためにかなり前から準備をして、大量の戦力を整えていたんだよ
日本はそれを正しく評価していなくて備えを怠った
真珠湾攻撃みたいなものだね
ただその後の展開は違う 真珠湾のアメリカと違って一方的に嬲られたのではなく、準備不足の寡兵であった日本軍が凄まじい抵抗を見せ、記事にもあるように戦力面では圧倒的優位だったソ連軍の被害の方が大きかった
日本はそれを正しく評価していなくて備えを怠った
真珠湾攻撃みたいなものだね
ただその後の展開は違う 真珠湾のアメリカと違って一方的に嬲られたのではなく、準備不足の寡兵であった日本軍が凄まじい抵抗を見せ、記事にもあるように戦力面では圧倒的優位だったソ連軍の被害の方が大きかった
194: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 07:50:27.39 ID:ghaV8sQv0
ソ連の狙いは欧州での対独戦に備え、背後(極東シベリア)からの脅威を除いておく事であった。日本軍を圧倒的な戦力で
完膚なきまでに叩いた事で、これ以後日本軍はソ蒙軍に対し戦意を失い、ソ連は目的を達した。
そして背後の憂いのなくなったソ連はポーランドに侵攻する。
さらにはおめでたい日本は後日、ソ連にすり寄るかのごとく、日ソ不可侵条約をプレゼントする。そして大東亜戦争末期、
この飼い犬(日ソ不可侵条約)に噛まれ瀕死の重傷を負う。
完膚なきまでに叩いた事で、これ以後日本軍はソ蒙軍に対し戦意を失い、ソ連は目的を達した。
そして背後の憂いのなくなったソ連はポーランドに侵攻する。
さらにはおめでたい日本は後日、ソ連にすり寄るかのごとく、日ソ不可侵条約をプレゼントする。そして大東亜戦争末期、
この飼い犬(日ソ不可侵条約)に噛まれ瀕死の重傷を負う。
237: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 11:21:14.75 ID:+XOL4IfO0
>>194
ちがう。
日本は日本で、一戦して停戦合意を引き出して国境確定
条約締結、満州を承認させるってな思惑があったから、戦争目的つか
戦略目標は達成してる。
ソ連側の思惑は、そのレスの通りらしくて
被害が大きすぎたのは、日本側の読み違いてのは事実だろうけど。
ちがう。
日本は日本で、一戦して停戦合意を引き出して国境確定
条約締結、満州を承認させるってな思惑があったから、戦争目的つか
戦略目標は達成してる。
ソ連側の思惑は、そのレスの通りらしくて
被害が大きすぎたのは、日本側の読み違いてのは事実だろうけど。
220: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 09:14:49.53 ID:4svr0dwy0
単純に車を作る資材がなかっただけです。
銃剣突撃が主流なのも、大砲や弾を作る余裕がなかったから
仕方なく突撃戦法を取るしかなかったのです。
つまり貧乏が悪い
銃剣突撃が主流なのも、大砲や弾を作る余裕がなかったから
仕方なく突撃戦法を取るしかなかったのです。
つまり貧乏が悪い
225: 名無しさん@1周年 2018/11/02(金) 10:09:44.83 ID:lzV/rWHEO
輜重兵が機械化されてるとか意外と進んでてびっくりした。
全部馬かと思ってた。
爆撃機の攻撃に耐える陸上兵器なんかないんじゃないか?
逃げる・避ける一択だろ。
全部馬かと思ってた。
爆撃機の攻撃に耐える陸上兵器なんかないんじゃないか?
逃げる・避ける一択だろ。
コメント
コメント一覧
キルレシオ同等とはいえ、そもそも国境線はソ連側の主張で決定したわ独ソ不可侵条約寝耳に水で慌てるわで軍事、外交的に失策続きで非常にお粗末だぞノモンハンの日本。
第一、戦場の一歩兵の手記に「全体像がない」からって、それは価値を滅却するものじゃないでしょ。これまで傍流視や等閑視されてきた社会史や思想史、また社会を成り立たせる個人史的な側面を掘り下げる事は今の歴史学の大きな課題なんだし。
第一、政治的軍事的外交的な過程やら全体像やらの大枠はおおよそ研究成果がもう発表されてる。
>国境線はソ連側の主張で決定
>お粗末だぞノモンハンの日本
これはまあ判る。
>独ソ不可侵条約寝耳に水で慌てる
これは松岡の独断専行でノモンハンの日本「部隊」が悪い訳ではないかと。
終戦間際、日本政府や陸軍の中央はソ連の仲介を期待していた。しかしソ連侵攻
吉田茂は日本軍の若手の中に共産主義へのシンパシーを持った者多数と警告
また、戦前、女優岡田嘉子の連れがソ連で殺された話もあるのに、スターリン下の
ソ連戦時共産主義の実態情報を陸海軍とも十分に得られていなかったのは悲劇だった
前線に輸送用の馬をまとめて置いておく間抜けを手記で批判してるんだろうに
どうしてこう読み違える奴が多いのか
あと毎度出るが「激しく抵抗した」はその状態になった時点で褒められた話ではないんだよなぁ
当時の日本軍にしては珍しく野砲重砲を集めて編成した
当時の日本軍にしては珍しい有力な砲兵団を投入・・・なお弾薬量と彼我の地形
まあ、日中戦争の泥沼に嵌っていた当時の日本軍にしては努力した方だとは思うよ
貴重なチハ車までをも装備していた安岡戦車団の投入とかも含めて
まあ片や徹底的に決着を付ける気満々のソ連&モンゴル軍と火遊び感覚の関東軍の認識の差だと思われ・・・
永田も石原も9ヶ国条約ガン無視の近代以前の軍人だ
さらに言えば辻が更迭されなかったのは
永田鉄山が作った一夕会メンバーに
愛されてたからだぞ
機械化戦争に全くついていけてないのがわかる
粛清でボロボロのソ連軍相手にこの惨敗ぶりは酷い
近代化したソビエト軍が圧倒されたと思われていたけど
近年の研究で現地の日本軍は陣地塹壕等を構築し
ソビエト軍の予想をはるかに超える抵抗を見せた
独ソ戦のソビエト軍の戦術にも影響を与えた
かもしれない
普段は畑で取ってくるとか馬鹿にしてるくせに都合いいなあ
数々の戦訓を経ていたソ連に対して初めての正規軍同士の近代戦・戦車戦・航空戦をやったにしては
関東軍は十二分に善戦したと言えるんじゃない?
それと九四式三十七粍はBT戦車に対して十分な攻撃力を持っていたし 700mで確実、最長1500mで有効っていう戦車第四連隊の報告にも書いてあるからな?
日本は隠蔽して学ばなかったというのを見るけど
逆なんだよなあ。