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\フォトギャラリー公開!/
第44回「#士族たちの動乱」を写真でプレイバック!
あのシーンの余韻、味わいもんそ。

#大河ドラマ #西郷どん
nhk.or.jp/segodon/story/… pic.twitter.com/jchE6BL9Hd
薩摩っこたちみんなせごさに付いてって大久保さん人望ゼロみたいに見えるけど、ちゃんと大久保さんについた薩摩っこもいたからね?この人とか #西郷どん pic.twitter.com/GwVLcf4uaf
木戸孝允の 前で組んだ手が美し過ぎやしませんか。 #西郷どん pic.twitter.com/B9J9b7yVXq
#岩倉具視 が襲われた喰違坂。
写真奥に行くと紀尾井坂があり、 #大久保利通 が暗殺された清水谷はすぐ近くです。
写真左手は上智大真田堀グラウンド、松代藩真田家が普請したという #真田濠 です。
岩倉は真田濠にダイブして九死に一生を得たのだとか。

#西郷どん pic.twitter.com/pvnQlvbNpp
薩摩に向かった #江藤新平 は、鰻温泉(指宿市)に滞在していた西郷の元を訪れ、ここで激論を交わしたといわれています。
明治7年にここを訪れた西郷は、昼は狩猟に行き、夜は温泉に浸かり過ごしていました。

鰻温泉は町のそこかしこで温泉が湧いていますよ😄
#西郷ど
#佐賀のpic.twitter.com/xOKKt4EK6L L
士族の反乱より、本妻とお妾さんの反乱のほうが心配な 大久保利通卿。

#西郷どん pic.twitter.com/fv8M2idUwP
#西郷どん 引退したアイドルを追って群がる古参ファンの面々
「自分がいなくなれば政府は困って泣きついてくる」という発想、西郷にあったとすればかつての仇敵・徳川慶喜と似てきてるって事よね(´・ω・`)
#西郷どん
江藤新平ちゃんが佐賀に帰ると言うのは反政府派に担がれるという未来がどう考えても予想されたので、留守政府仲間な土佐の板垣・後藤、大久保側についたものの郷里仲間な大隈・大木喬任は思い留まるよう説得し、さらに木戸さんも使いをやって止めようとしたらしいので、こんなに冷たかない #西郷どん
政府要人はこうやっめ命を狙われたりしていて危ないから護衛をつけろと言われているのにめんどくさいからそんなのいらねとほいほい旅行に行ってしまい、暗殺されたという噂がたって伊藤たちを大騒ぎさせてしまった人はそこに座っている木戸孝允さんです #西郷どん
あまり語られないが、長州藩山田顕義という大村益次郎に学んだ用兵の天才がいたから、新兵ばかりの新政府軍が佐賀の乱で勝利できたわけで、農民の兵が士族に勝てるという事がわかったなにげに重要な戦い。
#西郷どん
初代内務卿はおん自ら佐賀出張しますと言いだしてはるばる鎮圧に赴かれましたが、大砲がどかんどかん鳴る中を涼しい顔して歩き回ってたらしく

それをやれよ!!!それを!!!

#西郷どん
萩「佐賀がやられたようだな…」秋月「ふふふ…奴は士族反乱でも大したことない…」神風連「大河ごときにナレ死させられるとは士族反乱の面汚しよ…」西南「…多分お前ら佐賀より扱い悪いと思うぞ」 #西郷どん
【治部と江藤の共通点】
・頭がいい
・融通が利かない
・引退→挙兵→逃亡→斬首という流れ
・同志の名前が何方も島(島左近・島義勇)
・お互いに享年40(治部は数えで41)
・頭がいい
・頭がいい
・頭がいい
・頭がいい

#西郷どん
江藤新平が佐賀へ下野する際、同郷の大隈重信は「飛んで火に入る夏の蟲」と必死の説得を試みたが失敗に終わり、懸念した通り「佐賀の乱」が勃発、多くの同郷人を失う。江藤新平が無念の死を遂げた後は江藤の遺児である江藤新作を引き取って世話をしたという佐賀側からの裏史実好きです。#西郷どん
おまえ、学校って不平分子集めて、武器与えて組織化してどうすんだよwwwwwwww #西郷どん
「私学校」とはいうものの、費用は鹿児島県の予算から支出された。なお最初に建てられた賞典学校には、西郷や大山以外に大久保も費用を拠出している。
#西郷どん
賞典学校について、実は当初、大久保も協力していた。なお、学課では漢学や洋学も取り入れており、外国人教師も招聘され、明治8年度は3名、9年度は2名、成績優秀者をヨーロッパに留学させるなど、極めて進歩的であった。#西郷どん
このドラマは薩摩視点なので仕方ないんだけど、薩摩は政府が各県に課した法や制度を無視して相当好き勝手にやってた&やり始めるので、そりゃこのまま放置もできんかったろうなと思うし、雄藩以外から見るとおいおいって感じよ #西郷どん
ところで、鹿児島県は廃藩置県後も、それ以前と大差のない状況を作り出していた。西郷の盟友の一人、県令大山綱良は県の役人のすべてを旧薩摩藩士族から登用し、租税は中央に納めなかった。#西郷どん
このタイミングで剣術や砲術も鍛える「学校」を開くとか、誰がどう見ても西郷P主導の軍隊養成機関だから叛乱を疑うなという方が無理な時代の空気(´・ω・`)
#西郷どん
アクションが1人だけ実写版・るろうに剣心だった。
#西郷どん
ちがうねん。腕の立つ証拠としてのアクションが見たいんじゃないねん。半次郎が醸し出す恐怖が見たいねん #西郷どん
西郷と共に下野した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、明治7年(1874)1月、民撰議院設立建白書を提出し、大久保利通らの有司専制政治を批判し始めた。西郷も板垣から誘いを受け賛意を示しながらも、いざとなれば言論ではなく武力によって政府を動かし議会政治を実現すると答えたらしい。#西郷どん
明治7年(1874)1月に旧土佐藩士らによる赤坂喰違の変(岩倉具視暗殺未遂事件)が起こり、2月には江藤を盟主とする佐賀の乱が勃発した。いわゆる士族反乱のスタートである。反乱自体はあっけなく鎮圧され、江藤は佐賀を脱出して、3月1日には鰻温泉で保養中の西郷の許を訪れて挙兵を哀願した。#西郷どん
しかし、西郷はかつての盟友であった江藤の要望を謝絶した。西郷には、この時点で政府を倒す意思は毛頭なく、しかも、自らの兵を置き去りにして、ここまで来ている江藤を許すことはできなかった。江藤は目的を果たせず、西郷の許を去ったが、不屈の江藤は諦めずに高知に潜伏する。#西郷どん
しかし、江藤はここでも時期尚早であるとして、武力発動を否定的に捉える板垣に拒否され、万事休した。行き場を失った江藤は、高知で捕縛されて佐賀に送られ、大久保によって処刑されたのだ。明治6年政変で下野した中で、最も憎まれ、恐れられていた江藤の無残な最期であった。#西郷どん
西郷は佐賀の乱の際、当時左大臣であった島津久光が鹿児島に戻り、西郷に援軍派兵を要請したが、何のための徴兵であるかと正論を述べ、鹿児島士族の援兵派遣を拒否している。個人的には、久光公にも登場いただきたかった。#西郷どん
江藤新平は
高知県の最東の地・甲浦で
晒し首になりました😢

司法の整備に務めた江藤新平

江藤が尽力し
当時の日本が定めた法では
・政治犯への死刑禁止
・晒し首の禁止

江藤はその法に則らない最期を遂げました。
法が蔑ろにされる姿こそ
江藤が一番悔しかったのではないでしょうか。

#西郷ど