1: 樽悶 ★ 2018/11/22(木) 17:36:55.61 ID:CAP_USER9
仁徳天皇陵として宮内庁が管理する日本最大の前方後円墳・大山古墳=堺市(共同通信社ヘリから)
国内最大の前方後円墳で百舌鳥(もず)・古市古墳群の一つ、仁徳天皇陵(大山(だいせん)古墳、堺市堺区)を調査している宮内庁と堺市は22日、墳丘を囲む堤(つつみ)で1列に並んだ円筒埴輪(はにわ)や石敷きが見つかったと発表した。同古墳で円筒埴輪列が確認されたのは初めて。日本書紀などから仁徳天皇は4世紀末に死去したともいわれるが、埴輪は5世紀前半~中頃の特徴を持ち、数十年のずれがあるとの指摘もある。仁徳天皇陵では以前も同時代の埴輪が見つかっており、築造された時期や被葬者をめぐる議論が熱を帯びそうだ。
古代の天皇や皇族の墓とされる「陵墓」を同庁が外部機関と共同発掘するのは初めて。
墳丘を囲む2つの堤のうち、内側の第1堤の南側に調査区(幅2メートル、長さ30メートル)を3カ所設置。地表から20~40センチ掘り下げると、各調査区で直径約35センチの円筒埴輪4~5本が接するように並んでいた。いずれも基底部だけで、上部は割れて失われていた。
今回の調査地の約100メートル西では昭和48年に同時代とみられる円筒埴輪1本が出土していた。このことを合わせて考えると、埴輪列が堤を1周するように約2.6キロにわたって7千本以上が立てられたと推定できるという。
ただし、埴輪列があったのは堤の外縁部だけで、墳丘寄りの内縁部では確認されなかった。大型古墳では堤の両側に埴輪を並べるのが一般的。仁徳天皇陵では当初から内縁部に埴輪列がなかったか、墳丘を囲む周濠(しゅうごう)の水による浸食で埴輪列や堤の一部が崩落した可能性もあるという。
一方、堤にはこぶし大の石が敷き詰められていた。堤で石敷きが確認されたのは、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群では初めて。堤を荘厳に見せるためだったともみられる。
同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。
産経新聞 2018.11.22 17:21
https://www.sankei.com/west/news/181122/wst1811220028-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542875815/国内最大の前方後円墳で百舌鳥(もず)・古市古墳群の一つ、仁徳天皇陵(大山(だいせん)古墳、堺市堺区)を調査している宮内庁と堺市は22日、墳丘を囲む堤(つつみ)で1列に並んだ円筒埴輪(はにわ)や石敷きが見つかったと発表した。同古墳で円筒埴輪列が確認されたのは初めて。日本書紀などから仁徳天皇は4世紀末に死去したともいわれるが、埴輪は5世紀前半~中頃の特徴を持ち、数十年のずれがあるとの指摘もある。仁徳天皇陵では以前も同時代の埴輪が見つかっており、築造された時期や被葬者をめぐる議論が熱を帯びそうだ。
古代の天皇や皇族の墓とされる「陵墓」を同庁が外部機関と共同発掘するのは初めて。
墳丘を囲む2つの堤のうち、内側の第1堤の南側に調査区(幅2メートル、長さ30メートル)を3カ所設置。地表から20~40センチ掘り下げると、各調査区で直径約35センチの円筒埴輪4~5本が接するように並んでいた。いずれも基底部だけで、上部は割れて失われていた。
今回の調査地の約100メートル西では昭和48年に同時代とみられる円筒埴輪1本が出土していた。このことを合わせて考えると、埴輪列が堤を1周するように約2.6キロにわたって7千本以上が立てられたと推定できるという。
ただし、埴輪列があったのは堤の外縁部だけで、墳丘寄りの内縁部では確認されなかった。大型古墳では堤の両側に埴輪を並べるのが一般的。仁徳天皇陵では当初から内縁部に埴輪列がなかったか、墳丘を囲む周濠(しゅうごう)の水による浸食で埴輪列や堤の一部が崩落した可能性もあるという。
一方、堤にはこぶし大の石が敷き詰められていた。堤で石敷きが確認されたのは、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群では初めて。堤を荘厳に見せるためだったともみられる。
同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。
産経新聞 2018.11.22 17:21
https://www.sankei.com/west/news/181122/wst1811220028-n1.html
18: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:49:38.74 ID:g5mrTZxu0
>>1
5世紀前半でも矛盾なくないか?
記紀の年代なんか適当だし
5世紀前半でも矛盾なくないか?
記紀の年代なんか適当だし
22: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:51:34.94 ID:rzXiMKCd0
>>18
継体天皇くらいから実在の年代がはっきりしてくるからね
継体天皇くらいから実在の年代がはっきりしてくるからね
115: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 19:01:08.59 ID:A+dPiD100
>>1
数十年後に置いたかもしれないやん
数十年後に置いたかもしれないやん
4: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:40:26.63 ID:I+Q7SKOj0
世界最大のお墓
時代が仁徳天皇と合わないにしても相当な権力者であったことは間違いない
時代が仁徳天皇と合わないにしても相当な権力者であったことは間違いない
7: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:41:35.40 ID:C38Xk5mI0
だからなんなのか?
「埴輪があれば天皇陵!」とでも言うのか?
> 同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。
堤を調べたら天皇陵だと言い切れる証拠でも出てくるのか?
「埴輪があれば天皇陵!」とでも言うのか?
> 同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。
堤を調べたら天皇陵だと言い切れる証拠でも出てくるのか?
185: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 21:26:09.61 ID:HNRHKmOg0
>>7
でも正直、何らかの天皇陵(大王陵)だと思う
だってこれよりデカい古墳がないからな
でも正直、何らかの天皇陵(大王陵)だと思う
だってこれよりデカい古墳がないからな
9: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:44:46.14 ID:anT8vDgB0
仁徳天皇陵なのか大山古墳なのか大仙陵古墳なのか、名前統一してほしい
133: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 19:23:03.23 ID:Lt9S/XKi0
>>9
宮内庁的には仁徳陵だけど
ここにも書いてある通り年代的に本当に仁徳天皇の墓かどうかも怪しいから大山古墳または大仙陵古墳って呼び方が今は一般的
宮内庁的には仁徳陵だけど
ここにも書いてある通り年代的に本当に仁徳天皇の墓かどうかも怪しいから大山古墳または大仙陵古墳って呼び方が今は一般的
135: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 19:31:41.69 ID:BMfCtwaJ0
>>133
現在の天皇家とは関係ない古墳だけど大仙古墳や大山古墳とかの名称はないわ
しかもここ数年で大仙→大山に変更とかw
現在の天皇家とは関係ない古墳だけど大仙古墳や大山古墳とかの名称はないわ
しかもここ数年で大仙→大山に変更とかw
324: 名無しさん@1周年 2018/11/23(金) 10:50:16.42 ID:Znh36Wgc0
>>9
考古学的な古墳の名称としては大山古墳(大仙古墳という表記も)が正式
昔の歴史的な経緯で、主に観光スポット的な文脈としてはいまだに「仁徳天皇陵」とも呼ばれるというだけ
地元で「仁徳さん」「御陵さん」と呼ばれてきた伝承に沿って仁徳天皇陵と呼ばれてきた
↓
よく考えてみると仁徳天皇の墓という証拠はないわ
じゃあ地元で仁徳天皇陵と伝承されている古墳という意味で「仁徳陵古墳」と呼ぼう
↓
待て、その伝承自体が証明されたわけではないからまずいんじゃねという疑問が出た
だったら古墳の命名規則に沿って、地元の地名を取って「大山古墳」「大仙古墳」と呼ぶべしとなった
↓
しかし地元で定着した名称はなかなか変えられなくて、
考古学や小中高の社会科教科書以外の文脈では仁徳天皇陵と呼ぶ人もいる
考古学的な古墳の名称としては大山古墳(大仙古墳という表記も)が正式
昔の歴史的な経緯で、主に観光スポット的な文脈としてはいまだに「仁徳天皇陵」とも呼ばれるというだけ
地元で「仁徳さん」「御陵さん」と呼ばれてきた伝承に沿って仁徳天皇陵と呼ばれてきた
↓
よく考えてみると仁徳天皇の墓という証拠はないわ
じゃあ地元で仁徳天皇陵と伝承されている古墳という意味で「仁徳陵古墳」と呼ぼう
↓
待て、その伝承自体が証明されたわけではないからまずいんじゃねという疑問が出た
だったら古墳の命名規則に沿って、地元の地名を取って「大山古墳」「大仙古墳」と呼ぶべしとなった
↓
しかし地元で定着した名称はなかなか変えられなくて、
考古学や小中高の社会科教科書以外の文脈では仁徳天皇陵と呼ぶ人もいる
10: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:45:56.51 ID:/k9nAss40
へー、長い期間をかけて造ったってことかな?
15: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:48:22.72 ID:AGmrd/5a0
>>10
規模的に存命中から作り始めないと無理だし
規模的に存命中から作り始めないと無理だし
16: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:48:52.21 ID:KUDc4Ti20
良かったじゃん
盗掘されてなくて
盗掘されてなくて
20: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:50:33.17 ID:rzXiMKCd0
>>16
つうか戦国時代とかに城にならなかったのが不思議
どっかの古墳は城になってたよな
つうか戦国時代とかに城にならなかったのが不思議
どっかの古墳は城になってたよな
76: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:35:04.58 ID:LUU2PX1t0
>>20
大坂城も古墳があった場所に建てられてるって説もあるよな。
大坂城が立つ前にあったのは石山本願寺だが、
その石山って地名が、葺石で覆われた山(古墳)だったかもしれんってことで。
墓の後ちゅういわく付き物件に、建てるから、開城や落城するんだ(;´・ω・)
大坂城も古墳があった場所に建てられてるって説もあるよな。
大坂城が立つ前にあったのは石山本願寺だが、
その石山って地名が、葺石で覆われた山(古墳)だったかもしれんってことで。
墓の後ちゅういわく付き物件に、建てるから、開城や落城するんだ(;´・ω・)
83: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:42:17.89 ID:H7Adj11K0
>>76
今の大坂城は家康が建てた大坂城で、今の大坂城の下に秀吉大坂城の石垣があって、更にその下に何らかの古墳があるってこと?
今の大坂城は家康が建てた大坂城で、今の大坂城の下に秀吉大坂城の石垣があって、更にその下に何らかの古墳があるってこと?
93: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:50:03.97 ID:rzXiMKCd0
>>83
秀吉の大坂城の下からは石山本願寺の遺構が出てくる
古墳があるとしたらそのさらに下だな
秀吉の大坂城の下からは石山本願寺の遺構が出てくる
古墳があるとしたらそのさらに下だな
99: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:53:08.64 ID:H7Adj11K0
>>93
あの場所どんだけ盛られてるんだよ!
あの場所どんだけ盛られてるんだよ!
371: 名無しさん@1周年 2018/11/23(金) 14:06:14.34 ID:Uufc8tRQ0
>>76
前期後期の難波宮が今の大阪城のところにあって、通称石山の由来が難波宮の遺跡だったのでは?て説もあるね
仁徳天皇の高津宮も同じ場所に存在したといわれ、高津宮神社も元々今の大阪城内にあったけど豊臣秀吉が築城時に移動させたんだよ
そんな難波の宮殿があった場所に古墳なんて作るんだろうか
前期後期の難波宮が今の大阪城のところにあって、通称石山の由来が難波宮の遺跡だったのでは?て説もあるね
仁徳天皇の高津宮も同じ場所に存在したといわれ、高津宮神社も元々今の大阪城内にあったけど豊臣秀吉が築城時に移動させたんだよ
そんな難波の宮殿があった場所に古墳なんて作るんだろうか
32: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:00:30.40 ID:Ra3X+eUf0
死後功績を称えるために作ったのかもな。
それにあのデカさ、普通に数十年かかるやろ。当時の技術じゃ。
中に行くほど4世紀末の遺物が出てくるんじゃね?
それにあのデカさ、普通に数十年かかるやろ。当時の技術じゃ。
中に行くほど4世紀末の遺物が出てくるんじゃね?
35: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:01:18.07 ID:GJrpvMeb0
他の(天皇の陵墓に比定されていない)古墳の調査から既に分かっていることが
仁徳陵でもそうだったって言うだけか
仁徳陵でもそうだったって言うだけか
52: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 18:12:21.67 ID:pMynLsJ30
現継体天皇陵も年代に100年程ずれがあって
真の継体天皇陵は近くにある今城塚古墳とされているんだよなw
宮内庁の陵墓参考地に指定されていないから発掘調査はやりたい放題になってるよw
真の継体天皇陵は近くにある今城塚古墳とされているんだよなw
宮内庁の陵墓参考地に指定されていないから発掘調査はやりたい放題になってるよw
24: 名無しさん@1周年 2018/11/22(木) 17:54:40.91 ID:486h570n0
今回丸いとこ掘らないんだよね
ってことになってるけど掘っちゃえ
ってことになってるけど掘っちゃえ
コメント
コメント一覧
・それに死んだときに完成してたはずという根拠はどこにあるのか
・掘ったところで「おれ〇〇です」と書かれてるものが出るわけもないのに意味ある?
・一貫してずっと仁徳天皇陵って記録されてるのに必死こいて否定する意味あんのか?他のことでは「記録」を有難がるくせに
むしろこの発掘で大仙陵古墳=仁徳天皇の御陵の正しさが増した
しかも、白市太一郎の研究では行燈山古墳は定式化前方後円墳が出現してからの第5代倭王墓に相当するとされていて、先行する定式化前方後円墳の倭王墓4基に、さらにそれに先行する纏向遺跡の纏向型前方後円墳5基を加えると、記紀の崇神天皇より前の「欠史八代」+「神武天皇」に相当する9代分の天皇陵が数の上ではそろってしまうことになるんだ。
この作業をする前には、大仙古墳が仁徳天皇陵かどうかは怪しいと思い込んでいて、どうせ1世代ぐらいずれているだろうと思っていたし、「欠史八代」や「神武天皇」の史実性も怪しいと思っていたんだが、今では大仙陵古墳は仁徳天皇陵で誉田御廟山古墳は応神天皇陵、「欠史八代」「神武天皇」「神功皇后」の史実性もかなり高いんじゃないかと思うようになった。
訂正
白市太一郎>白石太一郎
果たして上部構造物が築造当時のままで残ってるかね?
古墳として保存されるようになった後から適当な埴輪を乗っけた可能性もあるでしょ。
欠史八代は俺も存在自体は疑ってはいないんだが、神武天皇って100歳も生きた人間が一人なのだろうか?同じ墓に「先祖代々」の墓みたいな形として「神武」でまとめた?
また、纏向型前方後円墳って大王墓なの?纏向はヒミコなんて話もあるし大王クラスでない身分の高い人が入っている可能性もあるが・・・。
※6だが、やっぱり古墳時代の古い天皇(倭国王)たちは、より古い時代から日本を統治していたことにするために在位年を引き延ばしていると思う。
それと、纏向遺跡の纏向型前方後円墳と初期定型化前方後円墳の中の倭王墓系列の代数が記紀の天皇代数と一致しながらも、古墳時代の天皇(倭国王)相当者に女性として第15代倭国王と考えられるオキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)しか入れていないのは、ヒミコとトヨの治世を成務の実務を担当した男性(ヒミコの治世における弟)と記述を挿げ替えているからなんだと思う。
つまり、欠史八代のうち2代は事実上ヒミコとトヨの治世で、その記憶が「ヤマトトトビモモソヒメ」の記録に反映されているんじゃなかろうか。