1: ばーど ★ 2018/12/20(木) 19:59:20.38 ID:CAP_USER9
江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。書状からは、当時、江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。
この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。
■書状の内容は
書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。
相手の藤堂高虎は今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。
大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやり取りから始まっています。
このあと、自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。
このほか、秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。
跡部さんは「幕府の中枢にいる人物の間でのやり取りの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。
■「”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性」
跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。
跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。
以下ソース先で
2018年12月20日 18時18分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1545303560/この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。
■書状の内容は
書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。
相手の藤堂高虎は今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。
大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやり取りから始まっています。
このあと、自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。
このほか、秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。
跡部さんは「幕府の中枢にいる人物の間でのやり取りの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。
■「”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性」
跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。
跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。
以下ソース先で
2018年12月20日 18時18分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html
4: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:01:55.22 ID:rQzv2z4b0
>>1
「御居城」と「御」の字が書かれていたから大坂幕府構想、というのは
ちょっと飛躍が過ぎるのではw
「御居城」と「御」の字が書かれていたから大坂幕府構想、というのは
ちょっと飛躍が過ぎるのではw
20: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:09:36.10 ID:LYrZT+Ze0
>>4
京の二条城と同じく将軍や大御所が大坂に滞在した時の居城になるってだけの意味な気がする。
京の二条城と同じく将軍や大御所が大坂に滞在した時の居城になるってだけの意味な気がする。
25: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:11:01.38 ID:NLgY605AO
>>4
江戸城や大坂城の他にも、
駿府城や二条城など将軍の持ち城は全て「御」がつくのにね
江戸城や大坂城の他にも、
駿府城や二条城など将軍の持ち城は全て「御」がつくのにね
277: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 22:55:15.46 ID:u/B9/Egy0
>>4
庭師の庭石注文で歴史ミステリーなんて
法隆寺中門怨霊封じ込め説級のトンデモ話
庭師の庭石注文で歴史ミステリーなんて
法隆寺中門怨霊封じ込め説級のトンデモ話
327: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 23:40:33.98 ID:5xClHVQC0
>>1
拡大解釈しすぎwww
拡大解釈しすぎwww
329: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 23:43:34.66 ID:nDpbw32V0
>>327
構想どころか事実だよ
常に予備地
大阪城主 = 将軍 = 大阪城代
だから
構想どころか事実だよ
常に予備地
大阪城主 = 将軍 = 大阪城代
だから
98: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:43:13.52 ID:jmt82i1e0
小堀遠州のこの形の花押初めて見た
徳川判に近いと言うかもろ徳川判だな
まあ遠州も思いっきり徳川方だから当たり前か
徳川判に近いと言うかもろ徳川判だな
まあ遠州も思いっきり徳川方だから当たり前か
103: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:45:29.52 ID:3xWG75/t0
>>98
有能であるが故に幕府にこき使われた点でなにかと気の毒な
人という印象だわ。桓武天皇に対する佐伯今毛人みたいな。
有能であるが故に幕府にこき使われた点でなにかと気の毒な
人という印象だわ。桓武天皇に対する佐伯今毛人みたいな。
111: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:48:41.03 ID:jmt82i1e0
>>103
確かに
徳川の普請や作事、作庭に酷使され過ぎだよな
確かに
徳川の普請や作事、作庭に酷使され過ぎだよな
2: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 19:59:55.37 ID:eTLprW8R0
大阪弁が標準語になってたのか。
21: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:10:22.41 ID:O6lfuWlz0
大阪が居城だったら薩長に敗北しなかった
だろうな
結局、京と江戸の遠さが幕府崩壊の遠因に
なった訳だ
だろうな
結局、京と江戸の遠さが幕府崩壊の遠因に
なった訳だ
28: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:12:14.12 ID:2kvVYVqB0
>>21
室町幕府が弱体なのになかなか消えなかったのは京都押さえてたからだしな
室町幕府が弱体なのになかなか消えなかったのは京都押さえてたからだしな
56: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:20:50.55 ID:ZFAhISku0
もし仮に大阪幕府だったら短命だったろ
幕末まで続いたと思えないが
開国、尊王攘夷、公武合体、倒幕とかどうなったんだろう
幕末まで続いたと思えないが
開国、尊王攘夷、公武合体、倒幕とかどうなったんだろう
23: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:10:52.95 ID:OIdQHieI0
やっぱ富士山の噴火を不安におもっていたのか?
24: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:10:59.30 ID:KEWYUpix0
なぜ大阪市に決めなかったんだろう
30: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:12:31.26 ID:FEPWEiC60
これ、昔から言われてただろ。
家康が将軍になったころ、家康は家臣と一緒に「どこに幕府政庁を置くべきか?」という討論をやってる。
その時の案が、「江戸案」と「畿内案」の2つだった。(家康自身の居城駿府が入っていないことに注意)
上方案の具体的場所は、豊臣政権の遺産を引き継いで伏見という説が有力だったが、
「秀頼を追い出して大坂にする」という話じゃないか?という説もあった。
どうやら後者だったということ。家康たちは、江戸と大坂を比較してどっちがいいか検討していたでFAだろう。
家康が将軍になったころ、家康は家臣と一緒に「どこに幕府政庁を置くべきか?」という討論をやってる。
その時の案が、「江戸案」と「畿内案」の2つだった。(家康自身の居城駿府が入っていないことに注意)
上方案の具体的場所は、豊臣政権の遺産を引き継いで伏見という説が有力だったが、
「秀頼を追い出して大坂にする」という話じゃないか?という説もあった。
どうやら後者だったということ。家康たちは、江戸と大坂を比較してどっちがいいか検討していたでFAだろう。
35: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:13:50.62 ID:x6CZ1EYD0
家康の江戸開拓構想から見てこれは有り得ないな。
家康は秀忠にも伝えてるだろうし
家康は秀忠にも伝えてるだろうし
37: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:14:26.09 ID:JR6J85dp0
京都にしておかはったら1番良かったん
違いますか
違いますか
55: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:20:21.82 ID:NLgY605AO
>>37
京都に居ると足利将軍みたいに半ば公家化して弱体政権になったら、
264年も徳川幕府維持出来なかったかも
京都に居ると足利将軍みたいに半ば公家化して弱体政権になったら、
264年も徳川幕府維持出来なかったかも
47: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:16:22.03 ID:ZFAhISku0
大阪を更地にしても江戸みたいな規模は無理ですわ
どう考えても江戸幕府が正解です
天海あたりがグッジョブ
どう考えても江戸幕府が正解です
天海あたりがグッジョブ
49: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:16:57.00 ID:KLx+JBx80
ほー。これは面白いな。経済のこと優先すれば大阪に置く選択肢が普通にあったものな。
57: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:22:27.29 ID:KLx+JBx80
そうそう。江戸に居城が定まったのはじっさいは3代家光以降だものな。
そもそも酒も醤油も調達できない不毛の地に幕府の本拠据えると
決めたのこそ大勇断だったわけで、勇断というより初代二代が決めたことを
墨守してるうちに自然とそうなったということのほうが大きいんだろうけど。
そもそも酒も醤油も調達できない不毛の地に幕府の本拠据えると
決めたのこそ大勇断だったわけで、勇断というより初代二代が決めたことを
墨守してるうちに自然とそうなったということのほうが大きいんだろうけど。
63: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:24:51.29 ID:FEPWEiC60
他スレにも書いたけど、家康にとって江戸というのは、自分の趣味に合致する都市じゃないんだよね。
家康の趣味からすれば、ほとんど奇形に近い。
秀吉に不本意にも飛ばされ、それも小田原ではなく江戸を指定され。
この、平らな土地がほとんどない場所で、
苦心惨憺の末、なんとか形にもっていた奇形都市。
いくつもの城下町の縄張り指揮をしているが、江戸と同じ構造のところは1つもない。
家康の趣味通りの城下町の形は、ずばりいえば名古屋。
北端に四角形の巨大な城を築き、その南側に碁盤の目の城下町を作る。
系統としては、豊臣秀次に始まる当時のアバンギャルド。
そう考えると、松平忠明と藤堂高虎に普請させた徳川大坂城下町のマスタープランは、この変形であることが分かる。
名古屋型(駿府型)の南北軸を東西軸に90度回転させたのが、徳川大坂城下町。
家康の趣味からすれば、ほとんど奇形に近い。
秀吉に不本意にも飛ばされ、それも小田原ではなく江戸を指定され。
この、平らな土地がほとんどない場所で、
苦心惨憺の末、なんとか形にもっていた奇形都市。
いくつもの城下町の縄張り指揮をしているが、江戸と同じ構造のところは1つもない。
家康の趣味通りの城下町の形は、ずばりいえば名古屋。
北端に四角形の巨大な城を築き、その南側に碁盤の目の城下町を作る。
系統としては、豊臣秀次に始まる当時のアバンギャルド。
そう考えると、松平忠明と藤堂高虎に普請させた徳川大坂城下町のマスタープランは、この変形であることが分かる。
名古屋型(駿府型)の南北軸を東西軸に90度回転させたのが、徳川大坂城下町。
77: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:32:52.48 ID:oD3cNZtT0
それで大阪が不採用になった理由は何?
92: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:40:53.22 ID:KLx+JBx80
>>77 家康=駿府、秀忠=江戸がそのまま固定されたものと思われる。一連の大名取り潰の
粛清と島原の乱が終わって、由井正雪事件以降は浪人問題にも決着がついて、終ぞそのままと
いうのが実際じゃないのか。
粛清と島原の乱が終わって、由井正雪事件以降は浪人問題にも決着がついて、終ぞそのままと
いうのが実際じゃないのか。
104: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:45:46.89 ID:FEPWEiC60
>>92に俺は同意したい。すでに書いたように、家康は大坂案との間で揺れていた。
その間、駿府にいたり伏見にいたりした。秀頼淀殿コンビはなかなか屈強で折れなかった。
15年かけて、ようやく大坂を手に入れることになる。
ところが、秀忠が政治家としては大変に有能だったこともあって、
関ヶ原後15年で、諸大名が江戸に集結するようになってしまった。
これが既成事実になり、家光はその遺産の上に乗って政治を行った。これで確定。
その間、駿府にいたり伏見にいたりした。秀頼淀殿コンビはなかなか屈強で折れなかった。
15年かけて、ようやく大坂を手に入れることになる。
ところが、秀忠が政治家としては大変に有能だったこともあって、
関ヶ原後15年で、諸大名が江戸に集結するようになってしまった。
これが既成事実になり、家光はその遺産の上に乗って政治を行った。これで確定。
116: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:53:09.65 ID:LYrZT+Ze0
>>92
関が原後、豊臣家が滅びるまでは、徳川家が大名として生き残るために上方から関東を守る形で
越前尾張近江に親藩譜代を配置してるしな
関が原後、豊臣家が滅びるまでは、徳川家が大名として生き残るために上方から関東を守る形で
越前尾張近江に親藩譜代を配置してるしな
78: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:32:56.33 ID:ZFAhISku0
グラウンドプラン的には畿内は爆薬庫だろ
朝廷ウザいし反徳川勢力も拠点持っている
江戸に中央移して畿内から経済以外の勢力低下を図った
普通に歴史知っていれば正解だったと分かる
朝廷ウザいし反徳川勢力も拠点持っている
江戸に中央移して畿内から経済以外の勢力低下を図った
普通に歴史知っていれば正解だったと分かる
90: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 20:40:34.14 ID:O6lfuWlz0
>>78
しかしその結果朝廷を抑えられなくて
幕府崩壊した訳で、もし大阪が徳川
の本拠地なら薩長は手も足も出ないから
大政奉還なんかも無かっただろう
しかしその結果朝廷を抑えられなくて
幕府崩壊した訳で、もし大阪が徳川
の本拠地なら薩長は手も足も出ないから
大政奉還なんかも無かっただろう
149: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 21:11:00.11 ID:LZNTB3TK0
大坂幕府だったら、江戸公方がしだいに自立化して
日本が東西分裂してただろうな
日本が東西分裂してただろうな
173: 名無しさん@1周年 2018/12/20(木) 21:25:30.18 ID:g/xLs7J90
>>149
室町幕府の再来やね
足利が京で将軍になったのは、南朝の勢力に対抗した事が理由で
関東にも尊氏は自分の息子を関東管領として置いて統治させたが
次第に対抗意識が芽生え、関東管領から関東公方と名乗るようになり何度か京将軍と戦った
幕末の徳川でも、慶喜中心に京で一会桑が江戸とは独立したような存在となり
徳川が2分化されたような形となった
室町幕府の再来やね
足利が京で将軍になったのは、南朝の勢力に対抗した事が理由で
関東にも尊氏は自分の息子を関東管領として置いて統治させたが
次第に対抗意識が芽生え、関東管領から関東公方と名乗るようになり何度か京将軍と戦った
幕末の徳川でも、慶喜中心に京で一会桑が江戸とは独立したような存在となり
徳川が2分化されたような形となった
コメント
コメント一覧
この年に秀忠が上洛してるから、それに合わせた話だと思うが。
家康は子どものころから「吾妻鏡」を愛読してたり勉強家だったから、大坂とか上方に幕府を開いたら室町期の将軍義則と関東公方の対立の再現がありうることは知ってただろうし、朝廷とは距離を置く必要があるのもわかってただろうな 天海らと過去の例を精査検討して江戸に幕府を開くことを決定したんだと思う 江戸は荒野だが面積などは首府を置くには問題ないし、不自由なところは天下人の実力で開拓していったし