(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

2017年05月

CysCf7jVEAEchxA
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/05/30(火) 07:54:31.073 ID:XDZZD4AA0
正史の劉玄徳
幽州涿郡涿県の人
前漢景帝の子、中山靖王劉勝の末裔を称す
若くして父を失い母を支えるために蓆を売って生業とした
学問を好まず任侠の徒と交友した

諸葛亮ら名士を迎えることで勢力を安定させると諸葛亮の隆中対に従い荊州、益州を得て三国鼎立の形成を築く

曹丕が漢より禅譲を受け魏を建国するとそれを認めず漢を継承して自ら皇帝に即位したが
関羽と荊州を失った報復のため孫呉に侵攻するも大敗し失意のうちに崩殂する

三国志演義ってほんと糞だよな
正史のヤクザで詐欺師な傭兵集団の親分してる劉備は三国志の魅力の一つなのに
http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1496098471/続きを読む
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20140301205725
1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 19:42:50.06 0
マジでやったらすぐ死ぬだろ
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/morningcoffee/1495968170/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/05/30(火) 20:56:05.55 ID:CAP_USER9
https://www.j-cast.com/2017/05/30299276.html?p=all

全国から多くの参拝客が集まる「出雲大社」(島根県出雲市)の正式な読み方は、 「いづもたいしゃ」ではなかった――。そんな指摘がツイッターに寄せられ、「全然知らなかった」などと反響を呼んでいる。

では、出雲大社の「正式な読み方」とは何なのか。J-CASTニュースが2017年5月30日、出雲大社の担当者に話を聞くと「正式には、『いづもおおやしろ』と読みます」と話した。

■「ずっと『いづもたいしゃ』だと...」

出雲大社の「読み方」が話題になったのは、あるツイッターユーザーが5月11日、

「出雲大社の読み方は『いずもたいしゃ』じゃなくて『いづもおおやしろ』だぞ」

と指摘したのがきっかけだ。この投稿が複数のネットメディアで紹介されると、ツイッターやネット掲示板には、

「全然知らなかった」
「ずっと『いづもたいしゃ』だと思っていました...」
「長年人間やってきて今初めて知った事実に衝撃」

などと「初めて知った」との反響が相次いで上がった。

確かに、出雲大社の公式ウェブサイトのアドレスは「izumooyashiro.or.jp」。
サイト上の「よくあるご質問」ページでも、「一般的には『いづもたいしゃ』と申しておりますが、正式には『いづもおおやしろ』です」と説明されている。

では、「いづもたいしゃ」と読むことは「間違い」なのだろうか。出雲大社の担当者は5月30日の取材に対し、

「正式な読み方ではありませんが、決して間違いではありません。実際、私たちも電話での応対などの場合では、呼びやすい『いづもたいしゃ』という読み方を使う場合もあります」

と話す。ただ、式典など正式な場では、必ず「いづもおおやしろ」と読んでいるという。

■「分社」の場合は「いづもたいしゃ」

だが、茨城県笠間市にある「常陸国 出雲大社」の正式な読み方は、
「ひたちのくに いづもたいしゃ」。この神社は1992年、島根県の出雲大社の「分社」として創建。
その後、2014年9月に本社から「独立」し、単独の宗教法人となった。

なぜ、こちらの場合は正式名称も「いづもたいしゃ」なのだろうか。「常陸国 出雲大社」の高橋正重(ただしげ)権宮司は取材に対し、

「そもそも、『大社(おおやしろ)』という言葉は、島根県(出雲市)の出雲大社だけを指すものです。なので、私どもだけではなく、島根県の出雲大社から『分社』した神社はすべて、『おおやしろ』ではなく『たいしゃ』と読むのです」

と説明した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496145365/続きを読む
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1: コモドドラゴン ★ 2017/05/30(火) 08:47:48.46 ID:CAP_USER9
 2009年の焼失後に再建され、今年4月から一般公開が始まった神奈川県大磯町の旧吉田茂邸の入館者が3万人を突破した。

 3万人は町の年間目標だったが、オープンから18日目に1万人を超えると、公開から2か月足らずの今月24日に3万人に到達した。

 町では、町郷土資料館の過去の入館者数から旧吉田茂邸についても同等の3万人と想定していた。ところが、予想外の人気を集めており、目標を大幅に上回る勢いだ。

 訪れる人の多くがシニア層といい、町は「戦後の日本を築いた吉田の歴史を思い出し、親しみを感じるのではないか」と分析。「吉田の思いや熱意、決断を多くの人に伝えていける場所にしたい」と意気込んでいる。

 再建の落成記念式典の際、吉田の孫の麻生副総理兼財務相から町に贈られた吉田ゆかりの置き時計について、中崎久雄町長は、麻生氏に祖父と時計にまつわる思い出の文章の執筆を依頼し、快諾を得ていることを明らかにした。

 時計は米陸軍から吉田に贈られたもので、麻生氏も祖父の思い出の品として大切に使っていた。2007年に故障してからも3回修理に出したという。中崎町長は「それだけ愛着のある時計ということで、文章をいただけたら時計の脇に展示したい」と話している。(鈴木英二)

2017年05月30日 07時51分 読売新聞
http://yomiuri.co.jp/national/20170529-OYT1T50109.html

20170529-OYT1I50045-1
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496101668/続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/05/29(月) 23:19:51.21 ID:CAP_USER9
旧日本軍の司令部に学徒動員され、広島市に原爆が投下された直後、「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と第一報を軍に伝えたとされる、岡ヨシエさんが、悪性リンパ腫のため亡くなりました。86歳でした。

岡ヨシエさんは昭和20年、高等女学校の3年生だった14歳のときに、広島城にあった旧日本軍の司令部に連絡係として学徒動員され、原爆が投下された直後に「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と電話で第一報を軍に伝えたとされます。

自身も原爆の後遺症に苦しみ、被爆した元教師などで作る会に所属して、当時の体験や平和への願いを訴える証言活動を長年にわたって続けてきました。

去年5月にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問する直前には、原爆の被害を語り継ぐ会に参加し、「罪のない市民がどんな苦しみを受けたのか、しっかり見てもらいたい」と発言していました。

親族によりますと、岡さんは悪性リンパ腫のため、ことし3月に入院して治療を受けていましたが、今月19日に亡くなったということです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170529/k10010999531000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496067591/続きを読む
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1: イセモル ★ 2017/05/30(火) 18:57:38.16 ID:CAP_USER9
幕末の1867(慶応3)年、佐賀藩祖・鍋島直茂の没後250年を記念して佐賀市の松原神社で催された祭りを撮影したとみられる4枚の写真が見つかった。三味線を演奏しながら参道を練り歩く行列や大きな屋根のついた山車(だし)、見物客など佐賀城下のにぎわいを捉えている。江戸時代に佐賀城下で撮られた屋外写真が確認されたのは初めて。写真を所蔵する公益財団法人鍋島報效会の富田絋次主任学芸員は「佐賀藩の科学技術力の先進性を裏付ける発見」と話す。

鍋島家が2000年、鍋島報效会に1万点近くの写真を寄贈していた。報效会が今回、佐賀市松原の徴古館で開く企画展の準備をする中で江戸時代の写真を発見した。250年祭の様子を描いた版画「直茂公二百五十年祭礼図」(佐賀県立図書館所蔵)などと照合した結果、描かれた建物や鳥居、のぼり旗などの特徴が一致したことから、二つは同じ祭りと判断した。

撮影者は不明。幕末期に西洋科学技術などを研究する佐賀藩精錬方で写真やカメラを研究していたことから、精錬方の技術者や鍋島家の周辺人物である可能性が高いという。佐賀藩の写真では藩士が藩主を写した鍋島直正の肖像写真(1859年)が知られている。

*****
引用ここまで
全文は下記よりお願いします
http://www.saga-s.co.jp/sp/news/saga/10101/433603
SAG2017053099000141_id1_20170530080044
今回初めて確認された江戸時代の佐賀城下を収めた写真。1867年の直茂公250年祭礼での松原神社参道の様子=公益財団法人鍋島報效会所蔵(画像を加工し鮮明にした)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496138258/続きを読む
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76: 名無しさん@おーぷん 2017/05/25(木)13:31:33 ID:cO8
歴史って強化自体最早要らなくね?
知る必要がある時にはネットとかで調べりゃいいだけだし、覚える必要ねぇんじゃねぇか?
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1495684868/#続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/05/29(月) 22:52:30.70 ID:CAP_USER9
■ハスの花上に仏の名 国道拡幅工事で

佐賀市大和町梅野で国道263号の拡幅工事のため道沿いにある岩壁の山林を伐採したところ、約340年前の磨崖碑が見つかった。
縦約5メートル、横約10メートルの花こう岩で「南無大悲觀世音菩薩」と彫られている。
台座に書かれた年号から江戸時代の1674(延宝2)年に作られたとみられる。佐賀市内で磨崖碑の確認は初めて。

工事前は樹木で覆われていたが、昨年9月に着工後の伐採で姿を現した。
同10月ごろ、佐賀市教委の文化振興課職員が現地を視察し、ハスの花の上に仏の名前が刻まれていることなどから磨崖碑と判断した。

磨崖碑は、信仰の対象として自然の岩壁に仏教に関する文字が直接彫られているものを表す。岩壁に仏の顔などが彫られている場合は磨崖仏とされる。

県文化財課などによると、磨崖仏は、県指定文化財の「鵜殿石仏群」(唐津市相知町)のほか、「如意輪観音彫像」(佐賀市久保泉町)、「立石観音磨崖仏」(唐津市相知町)などがある。

今回見つかった磨崖碑は拡幅工事の区間内にあるため、計画を見直して現地保存や移転して保存するか、取り壊して予定通り工事を進めるか検討が必要とされ、工事発注者の佐賀土木事務所は市教委の調査結果と意向を踏まえ判断するとしている。

■保存か取り壊しか 文化財価値市教委判断へ

保存か、取り壊しか。佐賀市大和町梅野で見つかった江戸時代の磨崖碑。
地元では1953年ころまで「羅漢さん」として信仰されていたという。

市教委は文化財調査をして「可能な限り保存したい」との意向だが、現計画で国道を改良するためには取り壊しが避けられず、工事発注者の佐賀土木事務所は工期もにらみながら市教委の判断を注視している。

国道263号の拡幅工事は約300メートルの区間。道幅(約7メートル)が狭く、見通しの悪い道路を約13メートルまで拡幅し、ドライバーの視界確保や歩道整備を目的に実施している。12月完了予定で、総事業費は約2億円。

佐賀土木事務所は当初、2013年度の事業着手時に工事区域に石碑があることは把握していた。
ただ、磨崖碑であることまでは確認できず、写真などによる記録保存の状態で取り壊す方針だったという。
現在、磨崖碑周辺を避けて可能な区域から優先的に工事を進めている。

市文化振興課によると、磨崖碑を取り壊して拡幅工事を進めるか、保存する場合は移設や工事計画の見直しが考えられる。
希少性や時代背景など文化財の価値を総合的に判断し、市の指定文化財登録の可能性もあるという。移設する場合、多額の費用も必要となる。

再び姿を見せた磨崖碑に、佐賀市大和町八反原地区の古賀伸義自治会長(66)は「保存か取り壊しか、二者択一の選択は難しい」と戸惑いを見せる。「過疎化が進む地区で観光資源の一つとして保存はしてもらいたい。
一方で道が狭く、ジョギングや歩行者は危ない側面もある。歩道だけでも確保するなど、さまざまな選択肢を検討してほしい」と要望する。

少年時代を近くで過ごしたという西据廣さん(74)=三養基郡基山町=は「私が小さい頃は羅漢さんと呼ばれていた」と言い、かつての佐賀郡松梅村下田から20所帯が集まる羅漢さん祭りも催されていたという。「磨崖碑はそのまま保存してほしい。なくなってしまうのはさびしく、代々守ってきた先祖に対して申し訳ない」と保存を切望する。

市文化振興課は「有識者の意見を聞いて、文化財としての価値を見極め、早めに結論を出したい」とする。
佐賀土木事務所は「市側の判断を待ちたい」としながらも「既に工事に多少の遅れが出始めている」と気をもんでいる。

http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/433347

国道263号の拡幅工事で確認された磨崖碑=佐賀市大和町梅野
SAG2017052999000099_id1_20170529074546
現場地図
SAG2017052999000099_id2_20170529074546
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496065950/続きを読む
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