(遅報)歴史まとめ

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2017年10月

1: 名無しさん@涙目です。 2017/10/30(月) 22:53:13.65 ID:4c52+E0m0 BE:123322212-PLT(13121) ポイント特典
何が食文化の衰退を招いたのか?
その背景には社会と経済の変化があった

◆◆◆

 イギリスの料理はまずいとしばしば言われる。まずい理由として、美食を欲しない国民性である、ピューリタンの影響で食の楽しみが罪悪視された、あるいは、気候が冷涼で食が単調になるなどの俗説はあるが、いずれも、学問的には支持しがたい怪しげな説である。

19世紀から「まずく」なる

 うまい/まずいは直接的には個人の好みであって、食の属性ではない。うまい/まずいといった主観的な印象評価を離れて、食を客観的に分析するために、筆者は、食材の多様性、食材の在地性・季節性、調理方法の多様性という3つの指標を設定した(小野塚[2004]、[2010])。この3つの指標だけで食を論じ尽くせるわけではない。食文化史の本来的関心からは、実際に食べられた料理や食べる場・状況が重要なのだが、料理や宴席は史料として残りにくいため考察の対象とするのが難しい。それに比べると食材や調理方法は、残されたレシピを用いてかなり正確に再現できるので、客観的な検証にたえる。

 中世末から現代(ほぼ20世紀)までのイギリス料理にいかなる食材が用いられてきたか調べてみよう。中世末から近代までの間にもイギリスの食のあり方は変化しているが、食材という点では、近世(ほぼ16~18世紀)に急増する熱帯産香辛料とジャガイモを除けば、19世紀初頭までその種類は安定している。表1と表2はそうした食材を示す。

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 このうち表1は19世紀中葉には用いられなくなった食材を、表2はこの時期から現代まで用いられ続けた食材を表す。19世紀中葉以降は表3の食材が新たに登場する。ここから明らかなように、19世紀前半の数十年間に食材多様性が著しく低下し、在地食材が(それゆえ食材の季節性も)ほぼ消滅した。19世紀中葉以降のイギリスの食は大量生産可能な農業牧畜産品、トロール漁業産品と、工業製品で占められるようになる。食糧輸入は増加した時期だが、香辛料の役割はむしろ決定的に低下した。こうして、香りと味の華やかさを欠いた、近現代のイギリスの食が登場することになる。

続きはソースで
http://bunshun.jp/articles/-/4351
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1509371593/続きを読む

1: 納豆スパ ★ 2017/10/28(土) 10:49:04.78 ID:CAP_USER9
【考古学】イースター島の古代住民は、DNAに「南米の痕跡」が一切なかった:研究結果から判明



イースター島の古代住民は、DNAに「南米の痕跡」が一切なかった:研究結果から判明

イースター島の新たな謎だ。古代の住民の遺骨の遺伝子を分析したところ、南アメリカの住民との接触の痕跡は見つからなかった。これらの人々は、いったいどこからやってきたのだろうか?

WIRED 2017.10.26 THU 08:00
TEXT BY VIOLA RITA
TRANSLATION BY TAKESHI OTOSHI PHOTO: Gabor Kovacs/123RF
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https://wired.jp/2017/10/26/new-mystery-of-easter/


陰謀、魔法、魅惑──。これらはチリ領のイースター島を特徴づける要素である。イースター島は、現地語でラパ・ヌイという。南太平洋の小さな孤島で、その巨大なモアイ像で有名だ。

その神秘のオーラに、もう一つ謎のデータが加わろうとしている。ラパ・ヌイの古代の人々のDNAを分析したところ、島に最も近い大陸である南アメリカの住民たちとの繋がりが、少なくとも古い時代においては何も見られなかったのだ。今回の研究の結果は「Current Biology」に掲載されている。

カリフォルニア大学サンタクルーズ校の主導による研究は、同じ雑誌に掲載された過去の証明を否定している。これは反対に、アメリカの住民とイースター島の住民との間に遺伝的接触があったと指摘していた。しかし、この接触の仮説は科学者の間で長く議論の的となっていて、論争はいまも行われている。

ラパ・ヌイの人口は約5,700人で、76パーセントがポリネシア系、16パーセントがヨーロッパ系、8パーセントがネイティヴ・アメリカン系で構成されている。しかし、アメリカ系はいつイースター島にやって来たのだろうか? 接触は、ヨーロッパ人がラパ・ヌイを発見してやって来たより前にあったのだろうか? これが、研究者たちの立てた問いだ。

そこで研究者たちは、ラパ・ヌイの住民たちの遺跡の骨のサンプル、特に肋骨の分析を行った。調査では、ヨーロッパ人の島への上陸に先立つ時期にさかのぼる遺物やこの年代の後の遺物が対象となった。

全ての断片の分析からは、アメリカ系との遺伝的繋がりは見つからなかった。少なくとも文化的レヴェルでいくらかの交流があったことを排除することはできない一方で、こうした接触が短く表面的だったかもしれないことを研究者たちは示した。遺伝的痕跡を何も残していないためだ。

実際、オランダ人のヤーコプ・ロッフェヘーンによる島の発見と最初の上陸は1722年のことだった。しかし、研究の著者たちが説明したように、南アメリカの住民との重要な接触は、何年もあとになってようやく生じた。実際、研究者たちによると、両住民間の本当の交流は、ネイティヴ・アメリカンのグループが現在島にいることを基にすると、19世紀頃に生じたとされる。

いま、研究者たちは調査をオセアニアの古代の住民たちや、イースター島により近い南アメリカ西側のその他の個体に属する遺物のサンプルへと広げることにより、研究を深めようとしている。すべては、いつ住民たちが相互交流し、互いに混じり合ったかをよりよく解明するためだ。

ラパ・ヌイと南アメリカの住人たちの移動が解明されるまでは、900以上の荘厳な巨大像によって有名なイースター島の神秘は、さらに深まることだろう。



関連
「モアイは歩いて移動した」を証明:動画
https://wired.jp/2012/11/12/easter-island-moai/
イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/022400064
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1509155344/続きを読む

naotora550

1: あちゃこ ★ 2017/10/30(月) 10:51:37.22 ID:CAP_USER9
 29日に放送された柴咲コウ(35)主演のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」(日曜・後8時)第43話の平均視聴率が12・9%だったことが30日、分かった。前回の11・9%から1・0ポイントのアップとなった。

 初回16・9%でスタートした同作品。第2話15・5%、第3話14・3%と2放送回続けてダウンしていたが、第4話で16・0%の大幅アップ。第5話も16・0%だったが第6話で14・5%とダウン。第7話12・9%、第8話13・4%、第9話14・0%、第10話12・5%、第11話13・7%、第12話12・9%、第13話13・1%、第14話12・9%、第15話14・4%、第16話13・7%、第17話11・0%、第18話14・3%、第19話13・9%、第20話14・5%、第21話13・2%、第22話12・1%、第23話12・3%、第24話12・4%、第25話12・3%、第26話12・4%、第27話12・4%、第28話12・0%、第29話11・9%、第30話11・3%、第31話10・6%、第32話12・0%、第33話12・4%、第34話11・2%、第35話11・3%、第36話12・1%、第37話13・3%、第38話11・7%、第39話11・7%、第40話11・6%、第41話11・8%、第42話11・9%、そして今回と推移している。

 「おんな城主―」は戦国時代から徳川家を支えた名門・井伊家の戦いを描く物語。幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)の先祖に当たる柴咲演じる直虎(柴咲)は出家して尼(次郎法師)になっていたが、お家断絶の危機に直面すると、直虎を名乗って城主に。乱世に立ち向かっていくというストーリーだ。(数字は関東地区、
ビデオリサーチ調べ)。

スポーツ報知
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171030-00000070-sph-ent
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1509328297/続きを読む

1: ばーど ★ 2017/10/30(月) 00:52:22.94 ID:CAP_USER9
石田秀雄さん(左)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(右)と固い握手
 

「関ケ原の戦い」で西軍を率いた石田三成と、東軍に寝返ったとされる小早川秀秋の子孫が29日、三成ゆかりの観音寺(滋賀県米原市)で会談した。

 映画「関ヶ原」の公開を記念し、同市が開いた座談会で実現。両家の伝承や、秀秋は当初から東軍だったとの学説も紹介され、ファンが聞き入った。

 石田秀雄さん(67)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(76)と固い握手。約400年越しに“和解”した。

配信2017.10.29 21:40更新
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/171029/wst1710290058-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1509292342/続きを読む

1: ばーど ★ 2017/10/30(月) 16:12:01.70 ID:CAP_USER9
坂本龍馬が剣術大会で桂小五郎に敗れたことを記す史料(群馬県立文書館所蔵) 
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坂本龍馬と桂小五郎が対決――。幕末志士の両者が1857年(安政4年)3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていることが30日、分かった。歴史研究家、あさくらゆうさん(48)が存在を確認した。

 藩主、山内豊信(後の容堂)の上覧試合とされた大会を巡っては、これまでも複数の史料の存在が伝えられている。だが、開催された日が既に龍馬が江戸を去った後だったり、小五郎の名前が当時は使用していない「木戸準一」だったりするため、いずれも「偽書」というのが定説。山内家の日記などにも記録はなく、大会そのものが作り話とされている。

 文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務め、医院も営んだ「根井家」に伝わり、1994年に寄託された。

 折り畳んだ縦約16センチ、横約1メートルの和紙で、冒頭に「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷ニ而御覧」と記載。龍馬らに加え、著名な剣客だった斎藤弥九郎(2代目)や石山孫六、海保帆平ら計43人が、一対一で戦った22試合の結果を毛筆で縦書きに記している。

 あさくらさんによると、この時期の龍馬は江戸遊学中で、土佐藩上屋敷近くにあった北辰一刀流の千葉道場(玄武館)で修行。小五郎も、盛んに対外試合をした神道無念流の斎藤道場(練兵館)で腕を磨いた。

 史料は各剣士の出身や流派も正確に記し、一部は別の史料に残る後日の足取りとも矛盾がない。大会には上州出身者も出場したため、試合結果の書き付けが根井家に残された可能性があるとみている。

 龍馬は今年で没後150年。あさくらさんは「この史料だけで断定はできないが、実際に大会があったのか、もう一度議論するきっかけになる。近年は龍馬の剣術が特に優れていたとする傾向もあるが、小五郎には負けたとある。イメージではなく、本当の姿はどうだったのか考えていくことが大切だ」と話す。〔共同〕

配信2017/10/30 12:30
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22865490Q7A031C1CR0000/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1509347521/続きを読む

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