(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

2018年08月

1: 風吹けば名無し 2018/08/22(水) 15:24:12.71 ID:6UA9EaUUd
ええんか…
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http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1534919052/

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1: しじみ ★ 2018/08/25(土) 12:39:10.17 ID:CAP_USER
(CNN) 欧州各地に分布する古代ローマの墓地で子どもの遺骨を分析した研究チームによると、当時の子どもたちの20人に1人はビタミンDの欠乏による「くる病」にかかっていたことが分かった。

カナダのマクマスター大学と、英イングランドの歴史的建造物などを守っている政府外郭団体「ヒストリック・イングランド」「イングリッシュ・ヘリテージ・トラスト」の共同チームが、イングランド北部からスペイン南部にかけての各地に残る1~6世紀の墓地18カ所を回り、計2787体の遺骨を分析した。

遺骨には成人も含まれていたが、大半が3歳未満の幼児だった。

ビタミンDは食事から摂取されるほか、日光を浴びると体内でつくられる。チームは当初、18~19世紀の産業革命による大気汚染や住環境の変化で、都市部の子どもたちにビタミンD欠乏性のくる病が増えたとの仮説を立て、この時代と古代ローマの遺骨を比較した。

すると、古代ローマの子どもたちもビタミンDが欠乏していたことが分かったという。産業革命の時代ほどではないが、子どもの5.7%、成人の3.2%にくる病が見つかった。

この結果は米自然人類学会の専門誌AJPAの最新号に掲載された。

チームの研究者は、「ビタミンD不足は近代以降の問題とは到底いえないことが分かった。2000年も前から、特に幼い子どもで不足していた」と指摘。子どもを日光に当てず、室内で育てる親が多かったことが主な原因との見方を示した。

古代ローマ帝国には日照時間の長い地中海沿岸部も含まれていたが、くる病は北の地域に住む子どもたちにより多くみられた。

地中海沿岸でも、この時代に港町として栄えたローマ近郊のオスティア付近だけは、くる病の子どもが多かったようだ。

オスティアでは当時、人口が急増し、アパートのような共同住宅がひしめき合うように建てられた。部屋の窓も小さく、子どもたちが十分な日光を浴びられなかったのかもしれないと、研究者は話している。

002-ancient-finds-vitamin-d-deficiency
https://www.cnn.co.jp/fringe/35124478.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1535168350/続きを読む
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1: アーモンドクッキー ★ 2018/08/24(金) 08:32:43.07 ID:CAP_USER9
太平洋戦争末期、軍の命令でマラリアの島に送られ、住民の3分の1が亡くなった波照間島の話を知っていますか? 
先月末ミニシアターで公開されたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」が立ち見が出るほどの反響だ。長期にわたる綿密な取材で貴重な証言を掘り起こし、
封印されてきた沖縄「秘密戦」の実態を明らかにしていく。

【写真】陸軍中野学校が作成した文書
2018082200061_2

監督したのは三上智恵、大矢英代の女性ふたり。
スパイの養成機関だった「陸軍中野学校」出身者が米軍上陸を想定し、離島も含めた沖縄の各地に配置された。映画は、彼らが及ぼした戦争の痕跡を追うものだ。
1944年秋、本土決戦をも視野に入れた「大本営」は、沖縄で徴兵年齢の17歳に達しない、14~16歳の少年約千人を召集し「護郷隊」と名づけた。割り当てられた銃は170センチ。
「銃が(身長より)高い」と16歳で入隊した瑞慶山良光さんが映画の中で語る。ある日学校に行くと「志願」を求められた。
短期育成に当たったのは、陸軍中野学校を出たばかりの若い将校たちだ。少年をも兵員としなければならないほど日本軍は追い込まれていたとともに、「こんな子供たちが」と敵の油断を誘う効果もあった。
闇に紛れての攻撃や爆弾を背負い戦車隊に突っ込むなど、その存在は米軍を驚愕させたといわれる。約160人が戦死した。
撤退戦の中、足手まといとなった傷病兵が軍医や同郷の仲間によって「射殺される現場を見た」など、戦後70余年を経て得られた元少年兵の証言から、表に出てこなかった戦争の現実が浮き彫りになってくる。
当時15歳だった玉城秀昭さんは、一度米軍の捕虜になってから家族を捜しに来た男性がスパイだとののしられ、殺されかけた現場にいたという。

大矢さんが言う。
「聞き手は三上さんですが、読谷村で目撃者を探していくうちに、たまたま訪ねていった家で、質問がスパイの話になったとたん、顔つきが変わった」
三上さんが「今考えればスパイじゃないという彼の言い分は正しいわけですよね」と尋ねると、玉城さんは「あの時代、敵と通じたら大変」「感覚が全然違う。
僕も(スパイは)殺しに行くよ、当たり前」と体を震わせた。

長い間「住民虐殺」が明るみに出ることがなかったのは、スパイ摘発に住民が関与し、戦後もそこで暮らさねばならなかった事情が絡みあっているのだろう。
ある「スパイリスト」には、軍の施設で勤労奉仕していた少女の名前まで挙がっていたという。
「施設の配置を敵に知られることを恐れた口封じのためだったみたいですが、軍隊は誰を守ろうとしていたのか」(大矢さん)
ふたりの監督の丁寧な聞き取りの積み重ねから、戦後も沈黙を強いてきたものの正体があぶりだされていく。後半では、さらに驚くべき出来事が伝えられる。
地上戦のなかった八重山諸島で3600人余りの命が、日本軍の強制移住によって失われた。島の住民たちは「戦争マラリア」と呼ぶ。

「わたしが『戦争マラリア』のことを知ったのは学生だった9年前」と大矢さん。
最も被害が大きかった波照間島では、住民の3分の1にあたる約500人が亡くなった。当時マラリアの発生地帯だった西表島に、軍が強制移住を命じた。
食糧難と医療も不十分なままに次々と発病。遺体の埋葬も追いつかず「浜一面が遺体だらけ」になったという。
当時13歳、カメラの前で語る浦仲孝子さんは、家族11人のうち妹と彼女だけが生き残った。父親をみとるくだりは衝撃的だ。
「なんでそんなことになったのか。誰でも知りたいと思いますよね」と大矢さん。

米軍は平坦(へいたん)な土地が多い波照間島を占領、飛行場を造るだろう。戦闘が起きれば、住民は足手まといとなるだけでなく、機密情報が漏れる恐れがある。
強制移住は「住民保護」と称し、軍の監視下に置こうとしたのだと考えられている。
同時に、島には2千頭余りの牛馬や豚がいた。米軍に渡れば食料となると食肉処理を命じ、肉は島のカツオ工場で薫製にされ、日本軍が持ち出したという。
映画にも登場する川満彰さん(沖縄県名護市教育委員会文化課市史編さん係嘱託職員)は、著書『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)の中で、強制疎開は「住民の証言を見ると、
石垣島に駐屯していた約一万人の日本兵の食糧を確保するため、黒島と波照間島の豊富な食糧を奪うことが目的だった、という真相が見え隠れする」として、
「米軍上陸の可能性」をも疑問視する兵隊の証言も挙げている。

もちろん何の反対もなく住民が移住したわけではない・・・

続きはリンク先にて

2018.8.24 07:00 週刊朝日
https://dot.asahi.com/wa/2018082200061.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535067163/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/08/23(木) 16:22:17.66 ID:CAP_USER9
 国立インジオ保護財団(FUNAI)が21日、アマゾナス州内に住む未確認の先住民部族に関する映像を公開した。

 無人探査機で撮影された映像は、アマゾナス州西部のジャヴァリ渓谷に住む、総勢16人とされる部族に関するものだ。ジャヴァリ渓谷では、これまでに八つの部族が発見、確認されているが、今回公開された映像は、どの部族に属すのかすらわからない、未接触の部族のものだという。

 新しく発見された部族の活動域はコロンビアやペルーとの国境に近く、リオ州の約2倍にあたる8万5千平方キロの土地に広がっている。撮影された集落は、ジュタイ川のほとりに建てられており、斧や煙草と思しき所持品や、何かを栽培している畑の映像も残されている。

 FUNAIは既に31年間、新しい部族を発見しても、直接接触しない方針をとっており、今回公表された映像も、昨年行った調査のおりに撮影されたものだった。

 FUNAIが公開した映像の一部が映ったビデオはhttps://globoplay.globo.com/v/6963067/programa/で閲覧できる。(22日付グローボ局ニュース、ボン・ジア・ブラジルより)

ニッケイ新聞 2018年8月23日
https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/180823-02topics.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535008937/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/08/23(木) 17:45:29.06 ID:CAP_USER9
フランコ総統
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大聖堂内にある独裁者フランコ総統の墓には今も花がささげられている=マドリード郊外で7月、AP
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 【パリ賀有勇】スペインの中道左派サンチェス政権は、36年間にわたり独裁体制を敷いたフランコ総統(1892~1975年)の墓を移設する政令を24日にも閣議決定する。北東部カタルーニャ自治州を弾圧した独裁者の墓を移すことで、カタルーニャ独立派の反発を和らげる狙いもあるとみられる。移設先は明らかにされていない。墓の移設について世論の賛否は分かれている。

 墓は、マドリード北西40キロの慰霊施設「戦没者の谷」の大聖堂にある。スペイン内戦(1936~39年)の戦死者を悼む場としてフランコ総統が建設を命じ、59年に完成した。内戦で犠牲になった約3万3000人が眠る。フランコ将軍が率いる反乱軍と戦った人民戦線の兵士も埋葬されている。身元不明の遺体も多い。

 政治犯として捕らえられた左派が墓の建設に従事させられた歴史があるほか、「ファシストの聖地」化している面もあり、サンチェス首相が書記長を務める社会労働党など左派陣営にとって墓の移設は「悲願」だった。

 6月に首相に就任したサンチェス氏は「国民分断の象徴を放置できない」としてフランコ総統の遺体を掘り起こすことを明言。政令を閣議決定し、議会下院の承認を得る方針だ。

 フランコ体制の流れをくむ最大野党の国民党(中道右派)は採決を棄権するとみられている。国民党内には墓移転への反対意見も根強いが、反対することでファシズムを肯定する印象を与えかねないからだ。国民党のカサド党首の祖父は、フランコ政権によって政治犯として投獄されており、心情的に反対に回れない党員もいるという。

 一方、世論は二分されている。有力紙エルムンドが7月に実施した世論調査によると、墓の移設賛成は約41%。「歴史の一部として残すべきだ」との考えもあり、反対は約39%で拮抗(きっこう)している。

 サンチェス政権が墓を移す方針を示した背景には、「カタルーニャ自治州の独立派の注意をそらす狙いがある」との指摘もある。フランコ独裁政権は、カタルーニャの民族主義を徹底的に弾圧して自治権を廃止、カタルーニャ語も禁止した。現在のカタルーニャ独立運動の背景の一つには、こうした歴史的経緯がある。

 カタルーニャは昨年10月、スペインからの独立を問う住民投票を実施。独立派は、カタルーニャの自治権を停止した当時のラホイ首相を、フランコ総統になぞらえて非難した。

ことば「スペイン内戦」

 1936年に誕生した左派の人民戦線政権に対し、フランコ将軍率いる反乱軍が蜂起。独伊軍の支援を得た反乱軍が勝利し、フランコ独裁体制が確立された。39年までの内戦で50万人が犠牲となった。独空軍がゲルニカを爆撃し、2000人以上が死亡した悲劇はピカソの大作「ゲルニカ」に描かれた。国際義勇軍として、米作家ヘミングウェーや英作家オーウェルらが人民戦線に参加して戦った。

毎日新聞 2018年8月22日 17時47分(最終更新 8月22日 23時16分)
https://mainichi.jp/articles/20180823/k00/00m/030/018000c
https://mainichi.jp/articles/20180823/ddm/007/030/138000c
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535013929/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/08/23(木) 18:48:40.59 ID:CAP_USER9
「デニソワ11」の骨片(2015年6月14日撮影、2018年8月22日入手)
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【8月23日 AFP】デニー(Denny)は、初期人類の異種交配で生まれた「婚外子」だった。

 22日の英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された研究論文によると、デニーの母親は初期人類ネアンデルタール(Neanderthal)人で、父親はデニソワ(Denisova)人だったという。デニソワ人は5万年前にユーラシア(Eurasia)大陸に生息していた、ネアンデルタール人とは別種の初期人類だ。

 英オックスフォード大学(Oxford University)の科学者らが名付けた愛称で呼ばれているこの少女は、正式名が「デニソワ11(Denisova 11)」で、死亡時の年齢が少なくとも13歳、死因は不明とされている。

 論文の筆頭執筆者で、独マックス・プランク進化人類学研究所(Max Planck Institute for Evolutionary Anthropology)の研究者のビビアン・スロン(Vivian Slon)氏は「異なるヒト族、初期人類のグループ間での異種交配を示す証拠は、これまでにも存在した」と説明する。「だが、直接の第1世代の子孫を発見したのは、今回の研究が初めてだ」

 デニーの驚くべき血筋は、ロシアの考古学者チームが2012年に露シベリア(Siberia)のアルタイ山脈(Altai Mountains)にあるデニソワ洞穴(Denisova Cave)で発掘した骨片によって明らかになった。

 この骨のDNA分析結果は疑う余地がなかった。染色体がネアンデルタール人とデニソワ人の半分ずつの組み合わせになっていたからだ。これら初期人類の異なる2種は40万年前から50万年前までの間に分岐した。

 論文の主執筆者で、マックス・プランク研究所のスバンテ・ペーボ(Svante Paabo)教授は「分析に不手際があったに違いないと当初は考えた」と話す。同教授は10年前、今回と同じ洞穴遺跡でデニソワ人を初めて発見した。

 4万年前以前のネアンデルタール人、デニソワ人、現生人類ホモ・サピエンス (Homo sapiens)などの初期のヒト属のゲノム(全遺伝情報)については、解析が完了したものは全世界で二十数例に満たず、異種交配の第1世代の個体に巡り合う確率はゼロに近いほど低いように思われた。

 あるいは、そうではないのかもしれない。

■異種間の交わり

「ネアンデルタール人とデニソワ人の混血個体を発見したというこの事実は、これまで考えられていたよりはるかに頻繁に異種交配が行われていたことを示唆している」と、スロン氏は指摘した。

 後期更新世のユーラシア大陸において異種間の交わりがそれほど珍しいことではなかった可能性があることの最も有力な証拠は、現生人類の遺伝子の中にある。

 全世界のアフリカ系以外の現世人類は現在、ネアンデルタール人に由来するDNAを約2%保有していることが、過去の研究で明らかになっている。

 デニソワ人の名残もまた広範囲に及んでいるが、分布はネアンデルタール人ほど均一ではない。

「デニソワ人のDNAの痕跡は、アジア全域とアメリカ先住民の間では全体の1%弱含まれていることが明らかになっている」と、ペーボ教授は話す。また、オーストラリアの先住民アボリジニと南太平洋のパプアニューギニアの人々は約5%保有しているという。

 欧州の中部および西部にわたって広く分布し繁栄していたネアンデルタール人がなぜ約4万年前に姿を消したかという疑問をめぐっては、白熱した議論が繰り広げられている。総合的に見ると、今回明らかになった事実はこの疑問に対する斬新な答えを裏付けるものになっている。

 これまで、ネアンデルタール人の謎の絶滅をめぐっては、病気、気候変動、現生人類ホモ・サピエンスによる集団虐殺やこれらのいずれかの組み合わせなどが原因として挙げられてきた。

 だが、アフリカから集団移動でやって来た現生人類が、ネアンデルタール人とおそらくデニソワ人もを、攻撃でなく愛情で制圧したとすればどうだろうか。

「これらの初期人類集団に関しては、単に現生人類集団に吸収されたにすぎない可能性があるという説明もできる」と、ペーボ教授は述べた。「現生人類は数で勝っていたため、他のヒト種が合併吸収されたのかもしれない」

 ネアンデルタール人は主に欧州に、デニソワ人はアジア中部と東部にそれぞれ定住していたが、もしそうでなかったら2種間でさらに多くの混血が起きていたかもしれないと、研究チームは推測している。

2018年8月23日 15:15
http://www.afpbb.com/articles/-/3186981
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535017720/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/08/22(水) 15:31:41.28 ID:CAP_USER
10年近くにおよぶ法廷闘争を経て、2億円相当とも言われる古代ローマ彫刻が初めて一般に公開された。紀元1年に作られた実物大の馬の頭部像だ。

 黄金で覆われた、重さ13キロのブロンズ像は、貴重な古代ローマの芸術作品であるだけではない。
この像は、現在のドイツ、フランクフルトに近い古代ローマ人居住地「ヴァルトギルメス」で発掘されたことから、2000年前のローマとゲルマニアの物語に新たな展開をもたらそうとしている。

 何世紀もの間、歴史家たちの見解は以下のような内容で一致していた。
すなわち、ローマ人は、ライン川の北と東にいたゲルマン諸部族を武力で制圧して新たな属州を作ろうとしていた。
しかしローマ軍は紀元9年、トイトブルクの森の戦いで1万5000人の犠牲を出し、ゲルマニア征服をあきらめた。
この敗北で傷を負ったローマ人は、やがて要塞のネットワークを構築するようになり、これがほぼ300年にわたってローマ世界の北端になった。

 ところが、1994年から2009年の間にドイツ考古学研究所ローマ・ゲルマン研究部がヴァルトギルメスで発掘した馬頭像やその他の遺物は、古代ローマが辺境地を軍備のみで治めたわけではないことを示している。

 約8ヘクタールに及ぶ居住地には防御壁はあったが、軍事施設は一切なかった。
これはローマ人がトイトブルクでの敗北の直前まで、何年も「蛮族」ゲルマン人と隣り合って平和に暮らし、交易を行っていたことを示していると、ドイツ考古学研究所の研究主任ガブリエレ・ラスバッハ氏は言う。

 居住地の建物の大半は木造で、そのデータから、この町は紀元前4年以降に造られたものと考えられる。
高さ3メートルの木材の壁に囲まれたヴァルトギルメスには、陶芸や木工の工場、ローマ式の住居、さらには水道設備の形跡まであった。

 町の中心には行政機関となった建物があり、中庭または広場には実物大の騎馬像4体の台座があったことがわかった。
黄金の馬頭像はその1体で、ローマ皇帝の像の一部だったと見られている。

 これは考古学者にとっても歴史家にとっても大きな発見だった。

「文民の建物があったとは、大変な驚きでした」と、ドイツ、ミュンヘンにあるバイエルン州記念物保護局の考古学者、ゼバスティアン・ゾマー氏は言う。氏はこの発掘には関与していない。
「ヴァルトギルメスの遺跡はもっぱら文民的なアプローチがなされていたことを示しており、ローマはここに植民するのは容易だと誤解していたのかもしれません」

次ページ:像が生贄の代わりに?

■金の馬頭像は、現在ドイツで展示中。紀元1年に作られた等身大のローマ皇帝像の一部とみられている。
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ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/082100219/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1534919501/続きを読む
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