(遅報)歴史まとめ

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2018年08月

1: しじみ ★ 2018/08/22(水) 16:21:59.50 ID:CAP_USER
ある程度の人間が寄り集まってコミュニティを作るようになると、コミュニティ内における貧富や能力の差によって社会階層が形成されるようになるもの。権力の有無や性別、年齢による格差は、紀元前の社会においても生み出されていました。大がかりな共同作業を行う上では一定のヒエラルキーが存在しているほうが有利かもしれませんが、東アフリカのケニアで見つかった5000年前の共同墓地からは、「社会階層を持たないものの大規模な共同作業を行うコミュニティ」が存在した痕跡が発見されています。

Kenya burial site shows community spirit of herders 5,000 years ago | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2018/aug/20/kenya-burial-site-shows-community-spirit-of-herders-5000-years-ago

ケニアの北西部に位置するトゥルカナ湖は、水鳥の大規模な生息地である上に数百万年前の人類の化石も発見される場所であり、トゥルカナ湖一帯を含むトゥルカナ湖国立公園群は世界遺産にも登録されています。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の准教授を務める人類学者のエリザベス・ヒルデブランド氏は、そんなトゥルカナ湖の近くにあるロサガム北柱遺跡で10年以上にわたって発掘調査を行っています。

ロサガム北柱遺跡には4000~5000年ほど昔の人々が建造した、巨石によって示された直径30mほどの広場が存在しています。広場の中央には空洞が作られており、その中には少なくとも580体以上の遺体が寄せ集まって埋葬されており、共同墓地として使用されていたと考えられているそうです。

農耕社会では共通の歴史や文化にもとづいて大きなモニュメントが建造され、家族を超えたコミュニティ全体の結束を強めていました。より大規模なコミュニティを作ることで、人々は技術や文化を大きく発展させることができますが、同時にコミュニティ内での格差が生まれやすくなるのも事実です。

ところが、ロサガム北柱遺跡で発見された広場を作ったのは農耕民族ではなく、移動しながら牧畜を行う遊牧民だったとのこと。農耕民族以外がコミュニティを作り、大規模なモニュメントを建造していること自体も珍しいそうですが、ヒルデブランド氏らは「埋葬された遺体の状況からして、このコミュニティには社会階層らしきものが存在していた痕跡がない」ことに注目しています。

遺体はいずれも密接に寄せ集められた状態で空洞の中に収められていて、権力者らしき遺体だけが隔離された場所に納められているということもないそうです。また、大人や子ども、男性も女性も等しく手の込んだ装身具に身を包まれており、特定の遺体だけが華美に飾られている痕跡もありませんでした。

トゥルカナ湖周辺を含む東アフリカでは、メソポタミアやエジプト、アジアで組織的な農業が行われるようになった時代でも、人々が十分な食料を得るためには牧畜が最も適していたため、農耕社会が発達しなかったとのこと。ヒルデブランド氏は、「農耕社会が発達するに従って社会階層が形成され、特定の人々が権力を握って富を増やし、貧富の差や健康状態にも差が現れるようになりました。一方で、遊牧民が形成した社会にも同様の変化が現れたのかどうかは、非常に大きな謎です」と述べており、ロサガム北柱遺跡はこの謎を解くヒントになるかもしれないとしています。

ロサガム北柱遺跡で発見された広場がどのような役割を果たしていたのか、詳しいところは判明していませんが、遊牧民が集合してお互いの持つ情報を交換する場として使われていたのではないかと考えられています。周辺地域の情報をコミュニティに属するほかの遊牧民から仕入れることは、自分自身が食べるものを探すためにも、家畜を養うためにもとても重要なことでした。

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GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180822-burial-shows-herders-community-spirit/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1534922519/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/08/20(月) 18:22:52.31 ID:CAP_USER
3000年以上前のものとみられる古代エジプトの墓の埋蔵品から、「世界最古のチーズ」が発見されました。チーズは劣化していて食べられる状態ではなかったとのことですが、「このチーズをぜひ食べたい」という人がTwitterで続々登場し、話題となっています。

Proteomic Analyses on an Ancient Egyptian Cheese and Biomolecular Evidence of Brucellosis - Analytical Chemistry (ACS Publications)
https://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/acs.analchem.8b02535

Archeologists find the world's oldest cheese in Egyptian tomb
https://mashable.com/2018/08/16/worlds-oldest-cheese-egypt/

チーズが発見された墓は、1885年にエジプト・カイロ南部のサッカラで発見された遺跡で、その後、砂嵐で埋まってしまったために場所がわからなくなったものの、2010年に再発見されました。この墓は、紀元前13世紀頃にラムセス2世に仕えた高官プタヒメスのものといわれています。

カターニャ大学の考古学者エンリコ・グレコ氏率いるチームがこの墓を調査したところ、布で覆われた甕(かめ)をいくつか発見。そのうちの1つには白い物質が詰められていることが判明しました。発掘された白い物質が以下の画像です。

グレコ氏がこの甕の中に入っていた白い物体を調査したところ、およそ3200~300年前のチーズであることがわかりました。あまりにも古いものであるため、このチーズが牛・ヤギ・羊のどの乳で作られたかは不明です。調査ではチーズがブルセラ症を引き起こす細菌「Brucella melitensis」で汚染されていることも判明しました。

一方、「世界最古のチーズ」が発見されたことを受けて、Twitterでは一口食べてみたいと懇願する人が続出しています。

「(四つんばいになって口から泡を吹いている犬のようにあえぎながら)世界最古のチーズを一口食べさせて!チーズの試食を合法化して!」
「私たちは既に呪われた棺を開けてしまいました。もはや、世界最古のチーズを食べても同じことです」
「エジプトの出土品を食べたい」と願う人が続出するのは今回が初めてではありません。2018年7月、エジプト・アレクサンドリアで工事中に発見された黒い石棺の中には赤い汚水の中で分解された3体のミイラが発見されましたが、なぜかこの赤い汚水を飲んでみたいという人が何人も現れました。さらに、オンライン署名サイトのchange.orgでは「呪われた石棺の赤い水を炭酸水で割って飲みたい」という署名が集められ、記事作成時点で既に3万2000人以上集まっています。

そして、「世界最古のチーズ」発見の報を受けて「赤い汚水で世界最古のチーズを楽しみたい」とツイートする人も登場しています。

ただし、調査ではチーズが生物兵器として培養されたこともあるブルセラ症を引き起こす細菌「Brucella melitensis」で汚染されていることが判明しており、呪いが本当にあるかどうかはさておき、食べると最悪の場合は死に至ります。

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GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180820-ancient-egyptian-cheese/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1534756972/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/08/19(日) 20:15:54.99 ID:CAP_USER9
 太平洋戦争で、連合国側から名将として評価される数少ない旧日本陸軍将官の一人に、今村均大将がいる。その没後50年の今年、桐生市の著述家、岡田幸夫さん(71)が、今村の功績のひとつ「ラバウル防衛戦」の様子を一冊の本にまとめた。戦争の記憶が薄れつつある中、岡田さんは「混乱の中、日本軍にも時勢に流されない正義感と先見の明を持った人物がいたことを知ってほしい」と話す。

 著書のタイトルは「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」(郁朋社刊)。対米開戦から1年、敗勢に転じ始めた時期に南太平洋戦線の拠点ラバウルに司令官として赴任し、大規模な餓死者や病死者を出すことなく終戦まで戦い抜いた今村の姿を詳細に記している。

 政府見解によると、太平洋戦争と、その前段となる日中戦争での旧陸海軍戦死者は約230万人。内訳は戦闘による死亡よりも補給欠乏による餓死や病死が多数といわれ、6割(約140万人)を占めるとする学説もある。

 今村は本国からの補給が全くない状況下で、終戦までの2年半余、自給自足による食糧確保と戦線維持を成功させて指揮下の陸軍将兵約7万人の「無駄死に」を防いだ。終戦後のラバウルからの生還者は、今村の赴任時とほぼ変わらず、海軍と合わせて約10万人に上る。

 今村は米軍撃退の命令を受けて赴任したが、補給も見込めない状況では将兵を餓死させないことが責務と判断。サツマイモなど食糧の組織的栽培・生産を実行した。岡田さんは「補給もせず精神論で戦闘を強要し、多くの犠牲者を出しながら責任を取ろうともしなかった将官が多かった中、今村の姿勢は際立っている」と指摘する。ラバウルの自給自足は食糧だけにとどまらず、火薬など兵器にまで及んだ。「代用品の域は出ないが、医薬品も自給したようです」。このため、米軍の激しい爆撃を受けながら、規律や士気は終戦まで維持されたという。

 岡田さんは桐生高卒業後、東北大に進学し、仙台市で今村の存在を知った。今村は仙台出身で、太平洋戦争序盤に宮城県出身の兵士を率いてオランダ領(当時)インドネシアを攻略したため、今村に特別な念を抱く人が多かった。「下宿先の寺の住職も、徴兵されて今村司令官の指揮下で戦った人で、私の前でも『今村閣下』と呼んで尊敬の念を隠そうとしなかった」。その後、少しずつ今村の事績を調べ、いつか本にまとめたいと考えてきたという。

 今村の優れた点を、岡田さんは「その人間性と良識」という。インドネシア攻略に成功して進駐した今村は、本国の干渉を無視し、降伏したオランダ人にもインドネシア人にも融和的な軍政を敷き、捕虜虐待などもなかった。このため、戦後、オランダから戦犯に指名された際も現地インドネシア人が法廷で擁護し、無罪となっている。

 また、オーストラリアから戦犯に指定されて巣鴨プリズンに収監されたが、「帰国することなく現地で収監されている部下がいる」として、マッカーサー連合国軍最高司令官に南太平洋ニューギニアの収容所への移送を陳情。マッカーサーは「初めて武士道の神髄に触れた」と感じ入り、許可したという。

 今村のような将官ばかりであれば、あんなばかげた戦争は起きなかったのではないか--岡田さんの思いだ。「戦後生まれの私だが、戦争の悲惨さを忘れないとともに、時代を超えて心にとめておかなければならない人物として今村を知ってほしい」

 「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」の問い合わせは、郁朋社(東京都千代田区三崎町2の20の4)。【高橋努】

 ■ことば

今村均

 1886年、仙台市で旧仙台藩士の家に生まれる。裁判官だった父の転勤に伴い、山梨、新潟で少年期を過ごす。父の急死で旧制高校進学をあきらめ陸軍士官学校入学。陸軍大学校を首席で卒業。太平洋戦争開戦後、オランダ領インドネシア攻略軍の司令官と占領後の軍政最高責任者を務める。1942年11月、ラバウルに赴任して終戦まで軍司令官として陸軍将兵約7万人を指揮した。戦後、オーストラリアから戦争指導者として戦犯に指名されて禁錮10年(オランダからの訴追は無罪)。釈放後は都内の自宅庭に建てた3畳一間の「謹慎小屋」で回顧録の執筆を続けた。68年、82歳で死去。

毎日新聞 2018年8月19日
https://mainichi.jp/articles/20180819/ddl/k10/040/099000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534677354/続きを読む

1: 砂漠のマスカレード ★ 2018/08/20(月) 08:27:07.36 ID:CAP_USER9
日本の運命を変えるような偉業を成し遂げてきた歴史上の偉人たちは、完全無欠な完璧人間のように見える。
しかし、私たちが知っている彼らの姿はあくまでも表の顔にすぎず、偉人たちにも人間味溢れる部分がある。
そう思わせてくれるのが『東大教授がおしえる やばい日本史』(本郷和人:監修、和田ラヂヲ:イラスト、横山了一:マンガ、滝乃みわこ:執筆/ダイヤモンド社)だ。
本書には卑弥呼や聖徳太子、織田信長などといった誰もが知っているような偉人たちのヤバいエピソードが取り上げられている。
偉人たちの本性や裏の顔を知れば、今までとは違った視点で歴史を楽しめるようにもなるはずだ。

■武田信玄は家臣にラブレターで猛アタック
「甲斐の虎」とも呼ばれた武田信玄は戦国時代最強の軍隊を作り、領土を広げていった有名な武将。
ライバルであった上杉謙信とは10回以上にわたり戦を交えたり、織田信長を止めるために「三方ヶ原の戦い」で徳川家康と対決したりした信玄は数多くの作品で男らしく描かれることが多い人物である。
しかし、そんな信玄には片思い相手に熱い想いを伝えるピュアさもあったのだ。

信玄が活躍した戦国時代は男性同士の恋愛がかっこいいとされており、織田信長や伊達政宗たちにも同性の恋人がいたのだそう。
そんな中、信玄は春日源助という家臣に恋をし、ラブレターで猛アタックをし続けた。
信玄は源助からつれない態度を取られ続けていたが、力で相手の気持ちをねじふせたり、恋を諦めたりすることはなかったという。
こうした信玄のエピソードからは、彼の人柄が伝わってくるようにも感じる。

なお、信玄は弥七郎という他の少年にもこっそりとアタックをしていたことが源助にバレそうになると愛をしたためた、いいわけの手紙を送ったりもしたのだそう。
偉業を成し遂げた信玄の意外な恋愛を知ると、“武田信玄”という人物がより身近に感じられてくる。
偉人だってひとりの人間。そう思わせてくれる魅力が本書にはあるのだ。

■うんこを漏らして戦から逃げ帰った徳川家康
源助へストレートな愛情表現を行っていた熱い男・武田信玄と戦う羽目になった徳川家康は天下統一を成し遂げた偉人である。
しかし、そんな彼にはうんこを漏らして戦から逃げ帰ったという、残念なエピソードもあったのだそう。

その戦いこそが、信玄が活躍した「三方ヶ原の戦い」だ。
家臣たちが自分の身代わりとなり目の前で次々と倒されていく光景を目の当たりにした家康はなんと、うんこを漏らしながら浜松城へ逃げ帰ってしまったのだそう。

そんな逃げっぷりと汚れたパンツを見て城にいた家臣は「なんと情けない」と憂いたそうだが、家康は「これはクソではなく、腰につけていたミソだ」と、驚きの反論をしたのだという。
苦し紛れの言い訳をする家康は「たぬきオヤジ」と呼ばれるほど心の底を見せない人物だったが、こうしたユニークな事実があったことを知ると、なぜだか憎めなくもなってしまう。

なお、家康はこの経験をバネにするため、うんこを漏らした状態の情けない姿と変なポーズをした肖像画をあえて残させたそう。
そして、その後は家臣たちに「ふんどしは白ではなく、黄色のほうが汚れが目立たない」というアドバイスも行っていったのだ。

恥ずかしい体験はあえて心の中にしまいこまず、人にさらすことで自分の糧にする。
そんな裏の顔があったからこそ、家康は歴史上にしっかりと名を残せるような偉人になれたのかもしれない。

教科書に載っているほどの偉人たちも私たちと同じようにひとりの人間であり、残念な一面やヤバいエピソードを持っている。
本書を読めば、自分の推し偉人も見つかるはず。「歴史は難しい…」と思い込んでいる方こそ、ぜひ爆笑しながら偉人達のありえない裏の顔に触れてみてほしい。

http://news.livedoor.com/article/detail/15180259/
2018年8月19日 18時0分 ダ・ヴィンチニュース

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534721227/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/08/20(月) 05:43:27.43 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180820/k10011582511000.html

今から150年余り前、幕末の将軍、徳川家茂と慶喜が西洋諸国との間に取り交わした外交文書に使用した印の実物が確認されました。
調査にあたった専門家は「江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

見つかったのは、「文武両道の政治を行う」という意味の「経文緯武」と彫られた縦・横9.2センチ、重さ2.7キロの銀印で、徳川家に伝わる資料などを管理する徳川記念財団が蔵を整理した際に、漆塗りの箱の中に残されていました。

東京大学史料編纂所の保谷徹所長などが調べたところ、幕末に西洋諸国との外交が始まったあと、14代将軍の徳川家茂と15代将軍の慶喜が国の代表として外交文書などに使用していた印の実物と確認されました。

この印は安政5年、西暦1858年に結ばれた日米修好通商条約の批准書などに将軍の署名とともに押されたことが、残された書面から確認できますが、実物がどこにあるのかわかっていませんでした。

保谷所長は「今回見つかった印は、将軍が当時の日本の主権者であることを明らかにするために使われた。江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

この印は、来月15日から新潟県立歴史博物館で開かれる「徳川の栄華」展で、来月30日までの期間限定で公開される予定です。


外交迫られ 正式な印を製作

東京大学史料編纂所の保谷徹所長によりますと、今回見つかった印は、安政4年、西暦1857年に幕府が製作を指示した記録が残されています。

その翌年の安政5年にアメリカやイギリスなど5か国との間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年に取り交わした批准書のうち、少なくとも日米、日英、日仏の書面には、将軍・家茂の署名とともにこの印が押されていることが確認できたということです。

また、文久遣欧使節を派遣した際の信任状にも使われているということです。次の慶喜の時期には、慶応3年(西暦1867年)にデンマークとの間に取り交わした条約の批准書や、同じ年に弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣した際の信任状などに使用されています。

この印が作られる3年前には、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれていますが、印は使用しておらず、当時の老中の署名があるだけでした。

しかし、その後、西洋諸国とのさらなる外交を迫られたことから、外交諮問役だった林復斎の進言により、文書に使う正式な印を製作することになったということです。

保谷所長は「幕末に和親条約を結び、外国とのつきあいが始まるということで、外国の書簡に一定の印を押したほうがいいだろうと幕府が諮問をして印章を作らせました。作られて以降は、将軍が相手国に送る国書にはこの印が押されていると思います」と話しています。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534711407/続きを読む

1: みつを ★ 2018/08/18(土) 20:50:53.71 ID:CAP_USER9
https://www.cnn.co.jp/style/architecture/35115470.html

密林に浮かび上がるマヤ文明の遺跡 レーザー技術で発見
2018.08.18 Sat posted at 19:00 JST
Oscar Holland, CNN

グアテマラ北部のジャングルの下に隠れていた6万以上の古代マヤ文明の建造物が新しいレーザー技術によって発見された。
隠れていた数十の都市で発見されたのは、民家、宮殿、高さ約27メートルのピラミッドなどだ。このピラミッドは以前は単なる丘と考えられていた。

上空からジャングルの密林の中を見通せる特殊なレーザーを搭載した飛行機が可能にしたこの画期的な調査が示唆しているのは、マヤの都市が従来考えられていたよりもはるかに巨大かつ複雑ということだ。

農業、かんがい、採石場、防御設備の跡が広範囲で確認された。また大規模な道路網は、コミュニティー同士がこれまで知られていた以上に密接につながっていたことを示している。

従来の考えを覆す発見

米誌「ナショナル・ジオグラフィック」が最初に報じたこの大発見は、メソアメリカ文明の営みに関するわれわれの理解を根本から変える可能性があると語るのはこの調査の共同ディレクターの1人、米テュレーン大学のマルチェロ・カヌート氏だ。

カヌート氏は「あらゆる物が予想よりも多く存在し、規模もはるかに大きいことが明らかになっている」とし、さらに「どの地域でも、予想を上回る数の建造物、建物、用水路、段々畑が発見された」と付け加えた。

研究者らは、この広さ2100平方キロの広大な遺跡のデータを分析し、その地域の推定人口も修正した。

現在、研究者らは、かつてマヤ低地(現在のグアテマラとメキシコにまたがる地域)には、以前の調査で示された数の「数倍」の1000万人が住んでいたと見ている。
マヤの考古学を30年以上研究してきたカヌート氏によると、「熱帯地方は文明の存続に適さず、(熱帯気候は)複雑な社会の維持に寄与しないというのが過去100年間の一般的な考え方だった」という。

「マヤの社会は人口が少なく、インフラは皆無で、各都市国家は小規模で独立しており、都市国家間の交流はほとんどなかったというのが従来の仮説だった」
「しかし、この仮説が誤りだということが明らかになりつつある。今回の調査で、この地域に多くの人々が住んでいただけでなく、彼らは地形の生産性を向上させるためにさまざまな方法で地形に修正を加えたことが分かる。今発見されつつある多くの防御構造も、かつてこの地域に多くの人と資源が存在し、それらが多くの競争を生んだ可能性があることを示唆している」(カヌート氏)

「画期的な」空中マッピング

中米のジャングルは非常に密生しているため、現地の史跡の大規模な調査は輸送面で困難なことが多かった。しかし、「光検出と測距」(LIDAR)と呼ばれる新技術により、考古学者らは上空から密林の中まで見通せるようになった。
空中写真図化(マッピング)は、底面にセンサーを装着した飛行機を使って実施される。この装置は、自動運転車に使用されているのと同じ技術を使い、パルス状のレーザー光を発射し、その光が戻ってくるまでの時間を測定することにより景観のマッピングを行う。

その結果得られたデータから、地表の等高線が表示され、研究者らはその等高線から林冠の下の人工建造物を発見する。
考古学者らはこの方法で極めて詳細かつ前例のない規模の調査が可能になる、とカヌート氏は言う。
カヌート氏は「これは熱帯地方における考古学者らの調査方法を根本から変える技術だ」と指摘。「太陽や星を肉眼で観察していた時に望遠鏡が発明されたようなもの」と付け加えた。

数万におよぶ古代マヤの建造物がレーザーを使った新技術によって発見された/PACUNAM/Canuto & Auld-Thomas
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今回の発見が示唆するのは、マヤの都市はこれまで考えられていたよりも、巨大で複雑だった可能性がある/PACUNAM/Canuto & Auld-Thomas
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関連サイト
写真特集:レーザー技術でマヤ文明を「発見」
https://www.cnn.co.jp/photo/35115471-9.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534593053/続きを読む

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