(遅報)歴史まとめ

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2018年10月

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1: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:54:47 ID:XQS
1 中 銀行口座を開設できない
2 遊 パスポートを取得できない
3 左 一夫多妻制
4 二 親族以外の男性と直接話してはいけない
5 三 夫が3回「離婚」と言えば離婚成立
6 右 人前では目以外は黒い布で隠さなければならない
7 一 スタジアムでスポーツを観てはいけない(2018年に撤廃)
8 捕 自転車を運転してはいけない
9 投 自動車を運転してはいけない(2018年に撤廃)

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1: しじみ ★ 2018/10/19(金) 16:09:02.79 ID:CAP_USER
■今年は日本に戦車が現れて100周年!

 2018年10月17日、日本に初めて戦車がやってきてちょうど100周年を迎えました。100年前のこの日、イギリスより輸入されたマークIV戦車が、神戸に到着したのです。

初めて登場したのは1916(大正5)年9月15日、第一次世界大戦におけるイギリス、フランスの連合国軍とドイツ軍による「ソンムの戦い」でのことでした。

 この新兵器は各国に衝撃を与えましたが、当然、日本陸軍(当時)も注目し、わずか1年後の1917(大正6)年には早くも戦車の購入に動き出します。そして調査委員として技術仕官を派遣したのですが、この時はまだヨーロッパでは第一次世界大戦が続いており、継戦状態のイギリスで新兵器「TANK」の調査を始めたのです(第一次世界大戦の休戦は1918年11月11日)。

 そして早い段階でイギリス側に対して購入を打診しました。当初、日本は最新のマークV戦車を購入しようとしましたが、戦争中だったこともあり最新型は自国軍で必要とされたため譲ってもらえず、日本に対しては一つ前のタイプであるマークIV戦車が引き渡されました。

 それでも日本にとってはようやく手に入れた最新兵器であり、教官役のイギリス人将兵5名(少佐1名、兵士4名)と共に貨物船で日本に向けて運ばれたのです。

 こうして長い船旅を経てイギリスから日本に運ばれたマークIV戦車は、前述のように1918(大正7)年10月17日に神戸へ到着、ここで内航船に積み替えられて1週間後の10月24日に横浜へ届けられました。そして横浜港で陸揚げされると、鉄道に載せられて新橋(汐留)まで運ばれ、汐留からは信濃町までイギリス人将兵の操縦で夜間に自走して移動し、青山練兵場などで皇族や高級軍人たちにお披露目となったのです。

■自動車も普及していないのに戦車開発を決断

 当時、日本はまだ自動車ですら黎明期でした。日本には1890年代末に自動車が入ってきたものの、当時は超贅沢品で1915(大正4)年の国内の自動車保有台数はわずか897台(日本帝国統計年鑑より)でした。

 自動車工場も1907(明治40)年に東京で初めてできたものの、技術的には欧米の模倣がほとんどで、軍用自動車としても大阪砲兵工廠(当時)が細々と作っていただけだったのです。そのため日本陸軍が当初、導入/配備すると決めた戦車を輸入で賄おうと考えたのは致し方なかったといえるでしょう。

 そこで陸軍は欧米の戦車メーカーと交渉を進めたのですが、本格的に戦車を開発生産していたのはイギリスとフランスしかなく、前者は自国軍向けの戦車供給で手一杯で日本向けのぶんまで生産する余力はないと断られ、後者は大戦中に生産した中古の戦車が大量に残っているので新規に生産する雰囲気ではありませんでした。なおフランスからは大戦型戦車(ルノーFT)であれば喜んで引き渡すといわれたそうですが、技術革新すなわち性能向上が著しい新兵器である戦車の場合、大戦型戦車(この場合、第一次世界大戦期の戦車のこと)では日本で運用を始めた途端に陳腐化し旧式化することは間違いなく、これらを鑑みて陸軍は戦車の国産開発を決断したのです。

こうして日本で国産戦車の開発がスタートしました。とはいえ、軍用自動車を製作していたのは前述した大阪砲兵工廠のみだったため、おのずと戦車開発もそこになりました。それでも初めてながら1925(大正14)年6月に設計に着手し、1927(昭和2)年2月にほぼ完成という、設計着手より完成までわずか1年9ヶ月という短期間で独自に戦車を作り上げたのですから凄いといえるでしょう。

 完成した本車は「試製一号戦車」と名付けられ、3か月後の6月下旬に富士山の麓の御殿場で走行試験を行いましたが、問題なく動き、走行、射撃ともに陸軍の要求を満たしました。

 この成功で、本格的に国産戦車にゴーサインが出たことにより、その後八九式軽戦車(後に中戦車に区分変更)や九七式中戦車などにステップアップしていったのです。

■100年前、日本に初めて登場したマークIV戦車。日本が導入したのは機関銃装備型の「雌型」で、大砲は積んでいなかった
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https://trafficnews.jp/post/81764
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1539932942/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/10/18(木) 10:00:45.00 ID:CAP_USER9
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/458324/

旧日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六(1884~1943)の遺髪が、海軍兵学校時代の親友だった旧海軍中将堀悌吉(1883~1959)=大分県杵築市出身=の遺品の中から見つかった。
これまでに山本の遺書とされる「述志(じゅっし)」や手紙も確認されており、ともに戦争に反対していたとされる2人の絆を裏付ける資料という。大分県立先哲史料館(大分市)が17日、発表した。

遺髪は、堀が保管していた山本の遺影の写真と額縁の間に隠され、フランス語で「切った髪の毛」と記載された封筒に入っていた。堀のノートには、山本が戦死した後の1943年5月23日に軍を通じて受け取ったと記され、山本が生前に遺髪を堀に届けるよう軍に依頼した可能性が高い。

同史料館によると、堀は海軍大学校時代に執筆した論文「戦争善悪論」の中で「戦争は殺戮(さつりく)であり、殺人である」として戦争反対を説き、軍縮推進を唱えた。同級生だった山本に大きな影響を与えたとされる。
堀は海軍内で「非戦論者」とされて軍を追われたが、司令長官の山本とは手紙や面会で親交が続いた。

堀の遺品からは、反対していた戦争の指揮を執ることになった覚悟を山本が記した日米開戦当日(41年12月8日)付の「述志」や、開戦が避けられない状況について「現在の立場は誠に変なもの也、之も命といふものか」と苦悩を記した同年10月11日付の山本の手紙も見つかっている。

遺品6142点は堀の子孫から同史料館に寄贈された。堀の孫の渡辺壮嘉さん(75)=東京=によると、戦後も山本の遺族は堀の自宅を訪れ、家族ぐるみの親交が続いたという。同史料館の大津祐司館長は「山本五十六にとって堀は唯一本音を話せる親友だったことがよく分かる資料だ」と解説する。


堀悌吉が身近に飾っていたとみられる山本五十六の肖像写真。裏に遺髪が隠されていた(大分県立先哲史料館提供)
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堀悌吉
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539824445/続きを読む

1: プティフランスパン ★ 2018/10/17(水) 10:50:14.52 ID:CAP_USER9
10/17(水) 10:46配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181017-00000013-jij_afp-sctch
20181017-00000013-jij_afp-000-1-view
養殖池の魚(2018年8月29日撮影、資料写真)。【翻訳編集】 AFPBB News

【AFP=時事】3500年以上前のエジプトで水産養殖が行われていたとする研究結果が16日、発表された。同類の活動の証拠としては世界最古だという。

 ドイツとイスラエルの共同研究チームは、現在のイスラエルにあたる地域の考古学的遺跡複数から出土した魚の歯100個を調査し、それらが数千年前にエジプト・シナイ(Sinai)半島の潟湖で養殖された魚であるとの結論を下した。

 今回の研究に参加したイスラエル・ハイファ大学(University of Haifa)が発表した声明によると「歯の標本の年代は、新石器時代から初期イスラム時代に至るまでの約1万年に及ぶ年代区分にわたっていた」という。研究対象となった標本の一部が、約3500年前のものだった。

 研究結果をまとめた論文の執筆者の一人で、ハイファ大のガイ・バーオズ(Guy Bar-Oz)教授(考古学)は、当時の手法では、魚が入ってくる潟湖を見つけて、数か月間封鎖していたことが考えられるとした。また、この手法については、シナイ半島の潟湖で現在も用いられていることを説明している。

 研究には、ハイファ大とドイツのマインツ大学(Mainz University)およびゲオルグ・アウグスト大学ゲッティンゲン(Georg-August-Universitat Gottingen)の研究者らが参加した。対象となったヨーロッパヘダイの歯に含まれる異なる種類の酸素同位体を調べ、これらの魚が「閉鎖された潟湖の中で4か月間以上過ごしていた」ことを推定した。バーオズ教授がAFPの取材に語った。

 論文の共同執筆者で、ハイファ大のイリット・ゾーハル(Irit Zohar)氏は、約3500年前に魚のサイズの規格化が行われており、エジプトから輸入された魚はすべて「皿(に合う)サイズ」だったと指摘。「現代の水産養殖で育てられた魚にみられることと全く同じだ」と述べた。このことから、研究チームが発見したヨーロッパヘダイの大半は、地元の漁ではなく、養殖によってもたらされたものだったことが推測できる。

 当時のエジプトについてバーオズ教授は、「水産養殖の超大国」だったことも考えられるとしている。世界最古の魚の養殖については、約4000年前に中国で行われていたとの考えがある。ただバーオズ教授によると、この説を立証するための証拠は一つも提示されていないという。【翻訳編集】 AFPBB News
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539741014/続きを読む

1: みつを ★ 2018/10/17(水) 22:21:15.19 ID:CAP_USER9
https://www.cnn.co.jp/style/architecture/35127121.html

ポンペイ遺跡で日付の落書き発見、噴火発生日の論争に決着か
2018.10.17 Wed posted at 15:00 JST

Gianluca Mezzofiore, CNN
2000年前のベスビオ火山噴火で壊滅したイタリアの古代都市ポンペイの遺跡でこのほど、特定の日付を意味するとみられる壁の落書きが新たに発見された。古代史を代表する大規模災害として知られる火山噴火をめぐっては発生を8月とする説と10月とする説があり、今回の発見が後者を裏付けるものとして注目を集めている。

木炭で書かれたこの落書きは、「レッジョV」と呼ばれる発掘現場にある家屋の壁で見つかった。書かれているのは「XVI K Nov」という文字で、「11月の16日前」を意味する。現在の日付で10月17日に当たるという。

噴火が起きた時期、当該の家屋では改修作業が行われていた。落書きの書かれた壁には、この後漆喰(しっくい)が塗られる予定だったとみられる。木炭で書かれた文字が長期にわたって消えずに残るのは考えにくいため、落書きは噴火と同じ紀元79年に書かれた可能性が高い。

発掘に携わる考古学者のチームは声明を出し、「落書きは紀元79年10月のものである公算が極めて大きい。より正確には、10月24日とされる火山噴火の1週間前の日付になる」と述べた。

従来、ベスビオ火山噴火の日付は8月24日が定説とされてきた。これは帝政ローマ時代の文人、小プリニウスによる噴火から25年後の記述に基づく。噴火当時、17歳の小プリニウスはナポリ湾の対岸から火山の様子を観測したという。

しかし考古学者らが遺跡で見つかった食物や衣服を分析したところ、実際の噴火の日付が繰り下がる可能性が浮上していた。

火山噴火の1週間前に書かれたとみられる落書き
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539782475/続きを読む

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