(遅報)歴史まとめ

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2018年11月

1: みつを ★ 2018/11/16(金) 02:01:07.41 ID:CAP_USER9
https://jp.sputniknews.com/life/201811145582484/

ロシアの議員、レーニン廟のレーニンの遺体を人形と交換するよう提案
社会
2018年11月14日 23:47

ロシア・レニングラード州議会のウラジーミル・ペトロフ議員は、モスクワのレーニン廟に安置されているウラジーミル・レーニンの遺体を、コピーと交換するようロシア政府に要請した。
スプートニク日本

ペトロフ議員は、ソ連政府初代議長レーニンの最後の意思を叶え、レーニンの没後100年を迎える2024年に、レーニンの遺体を埋葬するよう政府に呼びかけた。

ペトロフ氏は、レーニン廟にレーニンの遺体の正確なコピーを置くことで習慣や伝統を壊さずにすむほか、遺体を良い状態で保存するためには多額の資金がかかるため、大幅な予算削減にもなると考えている。

なおロシア共産党の下院議員らは、ペトロフ議員の提案を公に非難し、ペトロフ氏は「扇動者」であり、そのアイデアは「ばかげている」と指摘した。

共産党のジュガノフ党首は、共産党員はレーニン廟からレーニンの遺体を運びだすことを許可しないと述べ、レーニンの遺体埋葬をめぐる論争の再過熱は、国民の関心を焦眉の問題からそらす為に人工的につくられたものだと非難した。

全ロシア世論調査センターの2017年の情報によると、ロシア人の60%以上が、レーニンの遺体を埋葬するべきだと考えている。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542301267/続きを読む

1: ごまカンパチ ★ 2018/11/17(土) 04:43:30.22 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。
ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。
それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
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“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。

■上半身だけ特別に発達した弥生人!
今回人の骨が見つかったのは、長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡です。
発掘に立ち会った人類学者の海部陽介さんは、初めて見たとき、驚きを隠せなかったといいます。
人類学者 海部陽介さん
「これは太い。上半身が頑丈でマッチョな感じがありますね」
一般的な弥生人の骨と比べ、異常に太く、しかも、上腕骨や鎖骨など上半身の骨が特別に発達した不思議な体型です。

■九州西北部の島からも
海部さんは、一般的な弥生人との違いを詳しく調べました。
一般的な弥生人の男性の平均身長が推定162.6センチで、ヒョロッとしていたのに対し、高島の弥生人は、それより4センチほど低いものの、筋骨隆々で、胸や腕、首などが異常に発達していたことがわかりました。
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しかもその体重は、推定でなんと77.2キロ!身長170センチ体重59キロの私よりも、実に18キロ重いのです。
詳しく調べると、こうしたマッチョ体型の弥生人の人骨は、高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかりました。
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■CTスキャンで分析すると
どうしてそんなマッチョ体型になったのか。海部さんは、筑波大学でスポーツ科学を研究する足立和隆准教授に骨の詳細な分析を依頼しました。
足立准教授が活用したのが、CTスキャン。骨の断面図を分析することで、どの筋肉をどう使っていたかを推測します。
その結果が次の画像です。
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左側が、現代人の男性、右側が高島のマッチョな弥生人の上腕骨の断面図です。
現代人の上腕骨の断面が丸っぽいのに対し、高島の弥生人の骨には、三角にとがったところがあるのが分かります。
足立准教授は、この突起が、腕や肩を動かす三角筋によって、上腕骨が強く引っ張られていた証拠だといいます。
強い負荷がかかると三角筋が太くなり、それに耐えられるように骨と接続している部分も太く変形します。
こうした突起が周囲3方向にできていたことから、腕をあらゆる方向に回したり引っ張ったりする動作を激しく繰り返していたのではないか。
足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測しています。

■マッチョな弥生人が運んでいたのは?
「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)
“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。
ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。
銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。
「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。
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この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。
使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。
1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。
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※ 続く
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542397410/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/11/17(土) 10:42:50.12 ID:CAP_USER
米ハーバード大の考古学者らと中世史学者らが、人類史上最悪の年は紀元後536年だと決定した。全地球上で超大型火山が噴火したことが理由だ。人類がこの影響から完全に脱却するには100年を要した。科学ニュースサイト「ScienceAlert」が報じた。

「ScienceAlert」によると、考古学者で中世史学者のマイケル・マコーミック氏によると、536年は黒死病で欧州の人口3分の1が死んだ1347年や、大飢饉が起きた1918年、そして1945年よりひどい。536年には大規模な戦争はなく、

536年、イタリアと南極大陸、グリーンランドで大規模な火山の噴火が起きた。研究者らは、現在のイタリアとスイスの国境沿いにあるニフェッティ峰(Colle Gnifetti)の氷河を分析し、こうした結論に至った。噴火の影響で続く約100年間、大気中に大量の噴出物が漂った。気温を下げ、干ばつと不作、大飢饉を引き起こしただけでなく、中国で夏に雪が降った。

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https://sptnkne.ws/kaSx
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1542418970/続きを読む

1: みつを ★ 2018/11/14(水) 23:30:37.55 ID:CAP_USER9
https://www.bbc.com/japanese/46204022

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に
2018/11/14 6時間前

にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。

写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。

ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。

2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。
「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。
競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。
それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。
「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。
ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935~1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。
(リンク先に続きあり)

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542205837/続きを読む

1: みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018年11月16日 12時24分
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
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明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542339867/続きを読む

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