(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:世界史 > イスラーム世界通史スレ

716: 名無しの司馬遷 2014/09/14(日)15:18:12 ID:bmZDXsNYj
2011年9月11日の同時多発テロ後、数日のうちにアメリカ政府はテロの首謀者をアルカーイダの首領、オサマ・ビンラディンであると見極めた。
そこでアメリカは、ビンラディンが潜伏するアフガニスタンのタリバン政権に対して、ビンラディン引き渡しを要求。
タリバンは当然これを拒否する。
で、大正義アメリカは力づくでもビンラディンを逮捕すべく、アフガニスタン侵攻を決定した。
国連もアフガニスタン以外のイスラーム諸国も、ほぼ全員一致でこれを支持した。

アメリカは全速力で開戦準備を進め、アフガニスタン空爆のため、中央アジア諸国に駐留を要求した。
そして10月、アメリカはマスード亡きあともタリバンへの抗戦を続ける北部同盟と手を組み、
タリバン支配地域への空爆を開始。
タリバン政権はあっさりカブールを捨てて敗走した。

マスードの10年間もの戦いはなんだったのか。さすが大正義アメリカである。

首都を回復し、名実ともにアフガニスタンの正統政府となった北部同盟だが、北部同盟は所詮
モヒカン的な軍閥の寄せ集めなので、誰が政権首班となるのかが問題になった。
そこでアメリカは、どこからともなく中立的な「ハミド・カルザイ」なる人物を担ぎ出し、
いまだに生きていた元国王のザヒル・シャーを使ってカルザイを権威づけした。

「野郎ども、ゴチャゴチャ言ってないでカルザイに従え!」
「USA! USA! USA!」

だが、アメリカはこれから嫌というほど思い知る。
アフガニスタンが「帝国の墓場」といわれる所以を。

南部に撤退したタリバンはしつこく抵抗し、山の部族たちも政権内部も内輪揉めだらけで纏まらない。
なにより肝心のビンラディンと、タリバン指導者ムハンマド・オマルの行方がまったく分からない。

「考えてみれば戦争目的達成できてないじゃん」
「帰れないじゃん」

これより何年ものあいだ、アメリカはアフガニスタンに大軍を貼りつけ続ける羽目になる。
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690: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:41:17 ID:jJBkNqp3v
イランとイラクの動向に話を戻してみる。

ホメイニ率いるイラン・イスラーム共和国は、当初は東西冷戦のどちらの陣営にも与せず、
イラン国内で「法学者の統治」を貫徹していくことだけを目指していたらしい。
ホメイニによれば「アメリカ逝ってよし、ソ連も逝ってよし」とのこと。

しかし、アメリカ大使館占拠事件やイラン・イラク戦争など、激動する政治状況のなかで
イランはむしろ、積極的にイスラーム革命の理念を「輸出」していくことにした。

ホメイニによれば、そもそもナショナリズムなんていうのは西欧の異教徒どもが
イスラーム世界を分断するために捏ね上げたもので、ムスリムは国境なんぞにとらわれず、
全イスラーム世界でイスラーム法が施行される理想の社会を実現すべきだというのである。

要するに「万国のムスリムよ、団結せよ!」ということか。

イラン政府は「革命委員会」なるものを組織して各国のイスラーム復興運動を煽り立てたり、
諸外国の大使館を拠点にイスラーム革命の宣伝を行ったりした。

その結果として、イラン革命から1年も経たないうちにサウジアラビアでアル・ハラム・モスク占拠事件が起こり、カディーフの町ではシーア派の大暴動が発生した。

イラクでは第二次世界大戦以来、スンナ派に抑圧されてきたシーア派信徒がナジャフの最高位法学者バーキル・サドルのもとで「ダアワ党」として纏まりはじめていたが、ダアワ党とイランの結びつきを恐れたイラク大統領サダム・フセインは、バーキル・サドルを処刑し、ダアワ党を弾圧した。
聖地ナジャフの最高位法学者が処刑されたことはイスラーム世界に激甚な衝撃を与えた。
ダアワ党の残党はテヘランに逃れ、イラン政府に協力してイラク軍と戦うことになる。

1981年にはペルシア湾岸の小国バーレーンでシーア派組織による政府転覆計画が発覚。
1983年にはクウェートでダアワ党の煽動による爆破テロが頻発。
さらに、レバノンでイスラエルの侵入に対抗して生まれたシーア派民兵組織、ヒズブラもイランの影響下に入る。

そんな風にイランはスンナ派諸国に揺さぶりをかけるとともに、イスラーム革命を連鎖発生させようと頑張ったのだが、
当然ながら周辺のスンナ派諸国、そして欧米諸国もイランを重大な脅威と見なして袋叩きにした。
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658: 名無しの司馬遷 2014/09/04(木)22:15:48 ID:NvraU2rV4
イラン革命をきっかけとして、にわかに始まった「第二次イスラーム復興運動」。
これにもっとも脅えたのは意外にもソビエト連邦だった。

なぜかというと、おおむねロマノフ朝ロシア帝国の版図を引き継いだソビエト連邦は、
実は世界で最も多くのムスリムを擁する国家のひとつだったのだ。

ロシアが19世紀に征服した中央アジア、カフカス、クリミア半島、そしてモスクワからも遠くないヴォルガ中流域。
ロシア革命後、「宗教は人民の阿片なり」とのスローガンのもと、イスラームは徹底して貶められ抑圧され、スターリンの独裁時代にはクリミア・タタール人などの不穏分子が東方へ強制移住を強いられた。

だが、そんな抑え込みをすればするほどに、南部や東部のムスリムたちのあいだにソビエト支配への反感が募っていることは想像に難くない。
あるいは、あまりにイスラームを抑圧しすぎたがゆえに、かえってイスラームという宗教がソビエトに支配されるアジア系諸民族のあいだで独立の旗印として利用される恐れすらも芽生える。

だからイラクのサダム・フセインがイランに侵攻すると、ソビエト連邦はどこよりも熱心にイラクを支援した。
しかし、それでもまだ不安だ。
西側だけではない。東側からもイランを封じ込めなければ。

そこでソ連はアフガニスタンに目を向けた。
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631: 名無しの司馬遷 2014/09/02(火)23:26:29 ID:NM7Gn0UA0
第二次世界大戦の終結から1970年代まで、イスラーム世界中央部の歴史は、
エジプトを盟主とするアラブ諸国とイスラエルとの抗争を軸に動いていたといえる。
まあ、それ以外にも北アフリカから東南アジアまで広大な地域にムスリムたちは存在するのだけど。

が、エジプトとイスラエルの講和によってこの構造が解体するのと同じ頃、
東のかたイランで新たな炎が上がる。

その前史として、イランの20世紀をもういちど振り返ってみる。
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584: 名無しの司馬遷 2014/08/24(日)22:30:45 ID:YzYH5XegZ
二度目の世界大戦が決着し、大英帝国は衰退する。
帝国は世界各地のいくつもの駐屯地を相次いで放棄し、元の小さな島国へと帰っていく。
インド撤退と同じ1947年、大英帝国は第一次大戦以来信託統治を続けていた地中海東岸、パレスチナからも撤退した。

地中海東岸。
その沿岸部全体を広い意味で「シリア」と呼ぶ。現在のシリア国家と混同しないために「歴史的シリア」と呼ぶこともある。
そのおよそ南半分、ヨルダン川と死海の西側に、三千年前に古代イスラエル王国が成立した。
伝承によればちょうど紀元前1000年、半ば遊牧の民だったユダヤ人を若き戦士ダヴィデが統合し、エルサレムに都して、唯一なる世界の主神ヤハウェを崇拝する神殿を建設したという。

イスラエルの王国はほどなく南北に分裂。北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国もバビロニアに滅ぼされ、民はバビロンへ連行された。

『エレミヤの哀歌』はうたう。

「ああ悲しいかな、昔は人の満ちみちたりしこの都、今は凄しき様にて坐し、寡婦のごとくなれり」
「ユダは艱難の故にまた大いなる苦役のゆえに囚われゆき、もろもろの国に住まいて安息を得ず」
「エルサレムは甚だしく罪を犯したれば汚れた者のごとくなれり」

バビロンに連れ去られたヘブライ人は異教の地にあって切にヤハウェに祈りを捧げ、いつの日か救済と故国への帰還を希った。

やがてアケメネス朝ペルシアが勃興。バビロンに入城したペルシア王キュロスは囚われのユダヤ人にイスラエルへの帰還を許す。
イスラエル人はキュロスを救世主と讃え、主神ヤハウェの偉大さと、自らが聖なる民であることを確信した。

しかし、再興されたイスラエル王国もやがてセレウコス朝シリアに滅ぼされ、のちにローマ帝国の属国となる。
ローマの支配を嫌ったユダヤ人は幾度も反乱を起こす。
紀元131年。救世主にしてユダヤの大公、星の子を名乗る「シモン・バル・コクバ」がローマ帝国からの独立を宣言。
4年後、反乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、すべてのユダヤ人をイスラエルの地より放逐し、この地を「パレスチナ」と改名した。
こうして再び故国を喪失したユダヤ人は世界中に離散する。

故国なき民は何処にあっても少数派であり、しばしば偏見や迫害に苦しんだ。
しかし不思議なことにこの民族は歴史の闇に溶け去ることなく、二千年の歳月を乗り越えた。
彼らは苦しみに遇うたびに、「ハティクヴァ」、すなわち「希望」という歌を歌って互いを慰め支えあった。

「ユダヤの民の望みは、はるか古よりシオンの地へと帰ること。いざ東へ向かわん。希望は未だ尽きず・・・」

かつて、神ヤハウェの恩寵により失われた故国はひとたび取り戻された。であれば、此度の苦しみも永遠ではない・・・

いま、二千年にわたる「ハティクヴァ」が現実となる時が近づこうとしていた。
しかしながら、ユダヤ人がシオンの地を留守にした二千年の間に、この地に新たに住まうようになった民もおり、これが甚だ厄介な問題を引き起こす。
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560: 名無しの司馬遷 2014/08/21(木)23:35:13 ID:aI6YnPYhZ
1857年に、モーブー反対ブリテン反対を叫ぶ兵士たちによってインド大反乱が発生したことを機に
英国は、形の上でだけ続いていたムガル帝国を完全に滅ぼした。
ムガル帝国最後の皇帝はビルマに流刑となり、代わって英国女王ヴィクトリアが「インド女帝」を称す。
ヴィクトリア女王自身がインドに来れるわけはないから、実際にはインド総督兼副王が名代として即位式の主人公となる。
いわゆる「英領インド帝国」の誕生である。
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533: 名無しの司馬遷 2014/08/18(月)22:18:14 ID:fDAWdE8bk
第一次世界大戦後、肥沃三日月地帯の束の間の平穏とは裏腹に、南のアラビア砂漠は風雲急を告げていた。
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サウード王家の当主、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは天性の覇王である。
ガートルード・ベルは彼を「政略家にして治平の人、そして略奪者。歴史的典型を例証」とレポートした。
つまり、20世紀に生きながら古代中世のあまたの英雄たちと同じ気質、同じ素質を持つ男。
砂漠の豹をいつまでも鎖に繋いでおくことなど、所詮無理な相談だった。

大戦終了後、いや増すサウード家の力を警戒した英国は、その仇敵たるラシード家に乗り換えた。
だが、ラシード家の都ハーイルには陰謀が渦巻き、当主イブン・ラシードは兇刃に倒れる。
宿敵倒るの報を受けたイブン・サウードは直ちに北進し、1921年11月にハーイルは陥落。

イブン・サウードの次なる標的はヒジャーズ王国。
両聖都の守護者という栄誉、巡礼者が落とす莫大な収入。いずれも豹の食欲をそそる。
1924年4月、イブン・サウードはヒジャーズに侵攻開始。
太守フサインは国を捨てて逃れ、サウード軍は聖都メッカに無血入城を果たした。
そして1925年にはメディナとジェッダも陥落し、ヒジャーズ王国はあっけなく滅亡した。

イブン・サウードは、ペルシア湾岸に点在するいくつかの英国保護領を除き、アラビア半島全土の平定を達成した。
しかし彼の進撃はここで停止する。
イブン・サウードはあくまでも砂漠の王であり、アラビアの外には何ら興味はなかったらしい。
生涯を通じて彼が砂漠の外に出たのは、ほんの数回に過ぎない。
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510: 名無しの司馬遷 2014/08/17(日)22:17:14 ID:UZZseBJP0
さて、旧オスマントルコ帝国領の南半分、シリアとメソポタミアはどのような運命をたどったのだろうか。

世界大戦さなかの1915年、大英帝国エジプト高等弁務官アーサー・マクマホンはメッカの太守ハーシム家のフサインと「フサイン・マクマホン協定」を結び、肥沃三日月地帯のほぼ全域にわたるアラブ国家建設を約束することでハーシム家を対トルコ反乱に立ち上がらせた。

ところが、1917年に連合国の一角、ロシアで革命が勃発したことがきっかけとなり、衝撃の事実が明るみに出た。
ロシアの政権を掌握したボリシェヴィキ(共産主義者)たちは「資本家どもの戦争なんぞやめちまえ!」と訴えかけるべくロシア帝国外務省に保管されていたあらゆる外交文書の暴露祭りを敢行。

当時の外交交渉というのは基本的に秘密主義だったので、ウィキリークスどころではない大騒動になる。

ここで暴露された文書のなかに、極めて不穏な秘密協定が存在した。「サイクス・ピコ協定」である。
これによれば戦後に肥沃三日月地帯を英仏で山分けすることになっている。
三日月地帯の西半分であるシリアをフランス、東半分であるメソポタミアをイギリスが押さえるというのだ。
どう考えてもフサイン・マクマホン協定と矛盾する。
ちなみにこの協定の英国側代表マーク・サイクスは、アラブの反乱を煽り立てた当のアラブ局の一員であるという怪。

それだけではない。
1916年には英国外相アーサー・バルフォアがシオニスト会長のロスチャイルド卿に「バルフォア宣言」なるものを出している。
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