(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:世界史 > イスラーム世界通史スレ

493: 名無しの司馬遷 2014/08/16(土)15:14:49 ID:HGw3rtp5e
オスマントルコ帝国の降伏後ほどなくオーストリアとドイツも連合国に屈服し、第一次世界大戦は終結した。

エンヴェル・パシャの出奔と前後して連合国軍が帝国各地に進駐し、分割占領を開始。
これに呼応してギリシア人やアルメニア人の独立運動も始まり、アナトリア半島は混乱を極めた。

首都イスタンブルでは、エンヴェル・パシャに置いて行かれた統一進歩団の政治家たちが失脚し、
三頭政治時代には傀儡化されていた皇帝メフメト6世や、非主流派の政治家たちが実権を取り戻した。

「あの阿呆のエンヴェルどものせいで大変なことになりおった!」

彼らは統一進歩団の残党を大量投獄する一方で、帝国に進駐した連合国軍に対しては絶対服従に徹する。
変な動きをすれば帝国滅亡はもちろん、トルコ人による独立国家の維持すら怪しくなってしまうではないか。

統一進歩団の残党は連合国と皇帝政府の存在感が高まるイスタンブルを離れ、アナトリア半島各地に潜伏して政権復活と国土を占領する連合国軍に対する抵抗運動を組織し始めた。
しかし、バラバラの抵抗運動をまとめ上げるべき指導者がいない。
そこで彼らは一人の軍人に、その役目を果たしてもらえないかと打診した。

ガリポリの英雄、ムスタファ・ケマル。
青年トルコ革命に参加し、統一進歩団政府のもと、数々の戦場で活躍しながら、
この時点で彼は政治的に中立の立場に見えた。

ケマルは当座、この依頼を謝絶した。

一方、皇帝政府の側からもムスタファ・ケマルに命令が下る。
これは統一進歩団の残党とは正反対。
連合国軍の機嫌を損なわないように、アナトリア各地で蠢動する反乱分子どもを鎮圧しろというのだ。

結局のところ、どちらの陣営にしても大事を託すに足るほどの能力と実績、信望を兼ね備えた人物はイスタンブルにはムスタファ・ケマル以外に残っていなかったということ。

一介の軍人だったはずのケマルは、ここに来て政局を左右するキーパーソンに浮上した。

1919年5月、ムスタファ・ケマルは皇帝政府の命を奉じて、海路、東部アナトリアのサムスンに出発した。
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462: 名無しの司馬遷 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、
セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。
前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。
それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。
「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」

「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。
しかし、根本的な理由はシンプルだ。

ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。
しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。

各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。
ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた
各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。

サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。
するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。
オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。
ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。
攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。
かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。

結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。

「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国
「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国
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425  名無しの司馬遷 2kxjvoO5i
19世紀後半に台頭し始めた新たな列強諸国。

そのなかでとりわけ予想外だったのは、ヨーロッパから地理的に遠く離れた極東の日本だった。

イスラーム世界では中世より、世界の東の果てに「シーン」という大帝国が存在することはよく知られていた。
また若干の地理書や世界図によれば、シーンの東には「シーラー」という半島があり、その沖合に「ワークワーク」という島国が存在していた。
しかし「ワークワーク」がいかなる国なのかについてはほとんど知られておらず、関心も持たれていなかった。

イスラーム世界はモンゴル帝国以降に一段と東方に拡大した。
しかしその前線は中国沿岸で停止し、それより先に進むことはなかった。
だから19世紀半ばに日本という国が国際政治上に姿を見せた時点では、イスラーム世界の知識人たちもこの国についてほとんど知らなかっただろうし、興味を持つ理由もなかっただろう。

ところがこの新興国家はアジアの数多の国々の中でも並ぶものがないほど急速に近代化を進め、東方世界の覇者であった大清帝国を破り、東ユーラシアの動向に大きな影響を与える存在となる。

そして1904年。
英国と結んだ日本は、かねて朝鮮半島と中国東北をめぐって対立していたロシア帝国と開戦する。
いかに新興の強国といえども所詮アジアの小国。さすがにロシアの勝利は動かないと世界中が予想した。

ところが日本軍は次々にロシア軍を破り、ついにロシアをシベリアに追いやることに成功する。

日本の勝利は、長らく欧州列強の圧迫に苦しむイスラーム世界に大きな驚きを与える。
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         no title
376: 名無しの司馬遷 2014/08/07(木)23:56:39 ID:YpHpOAzgC
ジャマールディーン・アフガーニー。
19世紀末のイスラーム世界全土を遍歴し、いたるところでムスリムの団結を呼びかけ、革命の火を点けた怪人。
この稀代の思想家の生涯、とくに前半生は謎に包まれている。

その名の通りアフガニスタン出身かと思えば、実はイランの出自であるともいう。

彼の足跡が明確になり始めるのは1860年代。
このとき彼はインドに留学し、インド大反乱の決起と敗北をつぶさに見つめ、西欧列強の力と脅威に慄いた。

これ以後、アフガーニーは世界各地をめぐり、列強からの独立を説いた。
そのために不可欠なのはイスラーム世界の団結と復興、そして列強と結んで保身に走る専制君主たちの打倒!

アフガーニーの説くイスラーム復興とは何か。
彼はそれを「ジハード」、つまり「聖戦」という言葉で表現する。
彼の語るジハードとは単に異教徒との戦争だけを指すのではない。
それ以上に大切なことは「内なるジハード」、つまり全イスラーム世界が一致団結して
知識を発展させ思想を深め、公正な社会を築くことだという。

アフガーニーの胸は熱く燃えていた。
「いかなる危機の時代にあっても、真のイスラームは断じてオワコンではないのだ!」と。
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364: 名無しの司馬遷 2014/08/06(水)22:57:25 ID:kwtYBggtr
19世紀後半、中央アジアで熾烈なグレートゲームが展開されている頃。
イスラーム世界中央部ではオスマン帝国・エジプト・ペルシアが揃って借金地獄に落ちつつあった。

オスマン帝国がクリミア戦争とタンジマート改革の経費がかさんで外債を乱発したことは既に軽く触れたけど、マクロな経済のレベルで見れば、産業革命を達成した西洋諸国の生産力に太刀打ちできなかったことが経済危機の根本原因。
これはオスマン帝国に限らない。

近代まで周知のようにトルコやイランは華麗な絨毯をはじめ毛織物生産が盛んだったし、
インドは世界一の木綿産地で、インド洋交易でもっとも盛んに取引されたのはインド産綿布だった。

ところがそこに蒸気仕掛けの自動織機で大量生産されるイギリス産の布だの糸だのが、
丁寧に梱包されて安値で流入してくれば、西南アジアの何百万もの人々は飯の食い上げに追い込まれる。

各国で近代化政策が進められ、港が整備され、鉄道が敷設されれば、その傾向はますます強まる。
イスラーム世界の大部分の人々にとって近代化は財布と胃袋を擦り減らすものだった。

税収も減るけど一度始まった近代化政策は止めるわけにはいかないし、何より軍を整備しなければ列強にいつ滅ぼされるか分からない。この危機感。
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331: 名無しの司馬遷 2014/08/03(日)21:56:10 ID:GIzkFpnK8
英露両国の覇権角逐の舞台が中央アジアとなることは地政学上の必然だったが、
実のところ両国ともこの地域の地理や政治情勢がほとんど分かっていなかった。
というわけで幾度となく両国の冒険的な密偵が中央アジア一帯を探索し、現地王侯の懐柔を試みる。
その動きは実際に両国の勢力圏が接近するよりもずっと以前から始まっていた。
そんななかで、ひとつの珍事が起こった。


ガージャール朝ペルシアがロシアの軍事圧力に屈するのと同時期、大英帝国もこの国に士官を派遣して軍の訓練を施したり、
不平等条約を押し付けて各地に領事館を開いたり、支援も干渉も取り混ぜた手段でペルシアを影響下に置こうと画策していた。

1837年秋のこと。
ヘンリー・ローリンソンという、後に古代ペルシア文字を解読して世界史の教科書に名前が載ることになる
27歳になる英軍士官がペルシア東部を旅していたとき、まったくの偶然から、
一団のコサック騎兵を引き連れたロシアの将校と遭遇した。
いろいろと探りを入れた結果、このロシア人たちはアフガニスタンの新王ドースト・ムハンマドに誼を通じるべく遣わされた密使であるらしいと判明した。

なんとしてもロシアより先にアフガニスタンを影響下に収めなければ。
英国側に焦りが広がった。
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316: 名無しの司馬遷 2014/08/03(日)00:59:27 ID:bhCxUjweB
一方、サファヴィー朝の成立以来イランはシーア派に染まっている。

シーア派は第4代正統カリフ、アリーの子孫だけがイスラーム世界を正しく導く力を持つ「イマーム」だと信じているのだが残念ながら歴代イマームはウマイヤ朝やアッバース朝から迫害されまくった挙句、第12代にして行方不明となった。

というか、後期のイマームは迫害を避けたり幽閉されたりほとんど世間に姿を現さず、
12代目なんて父親の葬式で半日姿を現した以外は一切消息不明なんで、
そもそも実在したのかどうかすら(以下検閲により削除)

ま、いずれにせよイマームが行方不明という遺憾な事態により、シーア派(の大多数)は、
イマーム再臨までのあいだ、最も有能なイスラーム法学者がイマーム代行として信徒を指導するという妥協案でもって合意した。

まあ何が言いたいかというと。

1.イスラーム法学者がやたら偉そうである
2.民衆は「いつか真のイマームが再臨して世直ししてくれんかのう」と常に期待している。

そういうわけで、ガージャール朝ペルシアでは誰もが明後日の方向を向いてる状態だった。

国王は少数の同族で国民を支配するために圧制に走る。
法学者はことあるごとに政治に首を突っ込んで騒ぎ立てる。
民衆は「どっかの小瓶の中に老人が閉じ込められていて、そのうち救世主になって飛び出すらしい」とかどこのアラビアンナイトだと言いたいくなるような噂を語り合っている。

そしてもうひとつ軍隊。

これがまた使えない集団で、戦果報告書ひとつ取っても、
「戦死者少数とか報告すると王の威厳に関わるから、とりあえず景気よくしとこう」などと余計な気を回し、
「大地は流れる鮮血もて洪水となり、全アジアの奴隷市場は夥しい捕虜によって価格暴落したり」などと誰が見ても嘘だろうというレベルで内容を膨らましまくる始末。


舐められるのも無理はないわけで、ロシアはナポレオン戦争の真っ只中も含めて何度もイランに攻め込み、そのたびに勝利。
1828年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方をまるごともぎ取り、治外法権を押し付けることに成功した。

要するに、ガージャール朝はとことんヘタレであった。
この一言に尽きる。
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269: 名無しの司馬遷 2014/07/29(火)22:40:50 ID:OFl5C8ll0
マムルークたちが姿を消したので、イェニチェリたちにもそろそろご退場願おう。

少し時代を巻き戻す。

アレムダール・パシャに擁立されたオスマン帝国皇帝マフムト2世は、アレムダールが倒れた直後
実の兄である廃帝ムスタファの命を絶った。
非情で非道な措置だったが、これによってオスマン家の帝位継承権者は皇帝マフムトただ一人となる。
オスマン帝国の存続を前提とする限り、誰もマフムトを殺せない。
この手を打ったうえで、彼はひたすら雌伏した。
no title
マフムト2世は聡明だった。
セリム3世は正しい。帝国は衰えつつあり、否応なしに西方の異教徒たちの流儀を取り入れる以外、もはやこの帝国を守る方法はない。

巧妙に巧妙に、マフムトは一人思案をめぐらし人事を操り、宮廷の要職を徐々に改革派で固めていった。
目立たないところから少しずつ、軍の近代化を進め始めた。
そしてアーヤーンたちを討伐。地方で気ままに振る舞う領主たちの土地を没収し、再び国庫に組み込む。
こうして機は次第に熟していく。
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