(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 弥生時代

jyo (1)
1: 名無しさん@涙目です。 2018/05/18(金) 12:23:52.84 ID:jpl1IriJ0● BE:324064431-2BP(2000)
sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
日本人の由来には諸説あるが、一説には今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を探すため、若い男女を含む総勢3000人を連れて渡来した徐福(じょふく)が日本に残り、子孫を残したという説がある。中国メディアの今日頭条は13日、この説の信ぴょう性について分析する記事を掲載した。

 記事は、江戸時代の民間伝承に徐福に関わる伝説が加えられたと紹介。徐福は薬草や農耕技術も持って渡ってきたとされ、日本では農耕をつかさどる神とか、医薬の神様などの異名を付けられたほどで、日本の発展に寄与したことがうかがえるという。徐福に関しては、日本では和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山近辺など多くの場所で伝説や記念館があることから、日本に渡ってきたのは間違いないだろうとした。

 また、台湾の学者が徐福は神武天皇だという説を提出し、一定の賛同を得ていることも紹介。その真偽はともかく、徐福と同行した大勢の中国人が日本にたどり着き、彼らの子孫が日本にいるに違いないと結論づけた。

 この手の話は中国のネット上でよくでる話であり、史実であると信じている中国人も少なくない。確かに、日本各地に徐福に関する伝承が残っているが、その内容は地域によってさまざまであり、真偽は不明である。しかし、こうした話は中国人にとって歴史のロマンが感じれるので好まれるのであろう。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1659580?page=1
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1: しじみ ★ 2018/03/24(土) 14:06:29.90 ID:CAP_USER
 大阪府茨木市の弥生時代の集落遺跡の中河原(なかがわら)遺跡で、弥生時代中期(約2千年前)とみられる切り妻(づま)屋根の高床建物5棟が描かれた土器片がみつかった。
茨木市教育委員会が23日発表した。同じ構造と明瞭にわかる建物群が表現されている弥生絵画の発見は全国で初めて。
専門家は弥生時代の集落の姿や、当時の祭祀(さいし)のあり方を探る重要な資料として注目する。

 市教委によれば、2016年11月から約1年間にわたる調査で、建物が表現された土器片9点が出土した。
破片を接合すると縦21・5センチ、横25・5センチ。大小5棟の高床建物はいずれも切り妻屋根で、神社の屋根の上に突き出た「千木(ちぎ)」のような棟飾りを持ち、数本の長い柱が屋根を支える構造だ。
中央の建物は一回り小さく、その周りに両端が張り出した屋根を支える棟持(むなもち)柱を持つ建物や、はしごの架かった建物が並んでいる。

 5棟以上の建物が描かれた弥生絵画の土器は、奈良県橿原市の中曽司(なかぞし)遺跡と福岡県筑前町の大木(おおき)遺跡からの出土例があるが、建物の構造がはっきりとはわからない。
一方、今回のように切り妻屋根の高床建物と鮮明にわかる弥生絵画は他にないという。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「収穫した稲籾(もみ)を入れた土器を一番小さな建物に納め、来季の豊作を祈ったのでは」。

 黒崎直(ただし)・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「同じ弥生中期の大集落跡で知られる、大阪府の池上曽根(いけがみそね)遺跡でみつかった棟持柱の建物は神殿と推定され、この絵画も棟持柱の建物が中心的な建物ではないか。集落の日常の姿を詳細に描いたのだろう」とみる。

高床建物5棟が表現された土器片(絵を白線で示した。白線は合成処理)
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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q5T1TL3QPPTB00M.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1521867989/続きを読む

1: 孤高の旅人 ★ 2017/11/15(水) 11:00:15.00 ID:CAP_USER9
弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510711215/続きを読む

1: (^ェ^) ★ 2017/10/24(火) 18:23:21.37 ID:CAP_USER9
http://www.asahi.com/articles/ASK9Q55KYK9QTLZU001.html

 志賀島(しかのしま、福岡市)から見つかった国宝「金印」。はるか2千年ほど前、弥生時代の日本と中国の国際交流を裏付ける物証として有名だ。ところがこの金印、後世のニセモノでは、との声が後を絶たず、今も真贋(しんがん)論争が続行中なのだ。

 まばゆく光る金印は印面2センチ余り四方で、手のひらにすっぽり収まる小ささ。ヘビを模した鈕(ちゅう、つまみ)を持ち、「漢委奴国王」の5文字が刻まれる。

 江戸時代に志賀島で水田の溝の修理中に出土したとされ、福岡藩の碩学(せきがく)、亀井南冥(なんめい)が中国の古印だと断じて以来、これこそ『後漢書』が、建武中元2(紀元57)年にやって来た「倭奴国」の使いに皇帝が与えたと記録する金印だ、との見方が定着。中国出土の「広陵王璽(こうりょうおうじ)」印との類似が説かれ、国宝金印と同じヘビのつまみの「滇王之印(てんおうのいん)」が中国で見つかるに及んで、当時倭(わ)と呼ばれた日本の、福岡平野あたりにあったとされる奴国の王が入手した実物に違いない、との見解が定説となった。

 世界の中心を自負した古代中国は、周辺諸勢力に主従関係を結ぶ証しとして印章を与えた。ラクダやヘビなど動物をかたどったつまみの形は、各勢力や民族が住む風土を表すともいう。金印のヘビも温暖湿潤な日本列島にふさわしいというわけだ。

■はっきりしない出土状況

 ところがこの金印、謎が多い。通説の「漢の委(倭)の奴国」との読み方さえ、「奴国」でなく「委奴国」と続けるべきで別のクニだとの異論がある。

 弱点は出土状況がはっきりしな…
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1508837001/続きを読む

1: ののの ★ 2017/06/06(火) 21:02:43.96 ID:CAP_USER9
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/
2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496750563/続きを読む

1: ◆Hikaru.CGk Hikaru ★ 2016/06/17(金) 20:38:15.27 ID:CAP_USER9
 福岡県春日市教委は17日、同市の須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)墓(弥生中期前半=紀元前約150年)が見つかった、と発表した。
同遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地で、王や王族の集団墓地。
今回の甕棺墓は奴国のナンバー2、3クラスの有力者の墓の可能性が指摘されている。

 墓穴は縦5.2メートル、横3.9メートル。長さ約1メートルの甕を二つ合わせた甕棺から銅剣(約42センチ)1点と、被葬者の身分が高いことを示す青銅製の飾り「把頭飾(はとうしょく)」(高さ約4.5センチ、幅約5.5センチ)1点が見つかった。
遺物周囲の土の表面からは複数種類の布の痕跡が多数確認された。
遺物や遺体を布で何重にもくるんだ可能性があるとみている。

 奴国は、弥生時代の北部九州の中心的な国で、中国・後漢の光武帝から贈られた国宝の金印が有名。
須玖岡本遺跡一帯は「奴国」の中枢部で、弥生時代有数の青銅器生産遺跡としても知られる。
同遺跡では銅鏡30点以上を副葬した「王墓」とされる甕棺墓があり、今回の甕棺墓は
この王墓の時代よりやや古いが、位置は王墓から80メートルと近い。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)は「甕棺内で折り重なった多数の布類の存在が分かったのは初めて。広い墓穴で祭祀(さいし)が行われたのではないか」と話す。

毎日新聞 2016年6月17日 20時20分(最終更新 6月17日 20時20分)
http://mainichi.jp/articles/20160618/k00/00m/040/083000c
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1466163495/ 続きを読む

1: リサとギャスパール ★  2016/05/12(木) 20:00:31.35 ID:CAP_USER*.net
 奈良県橿原市で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。
奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。円形で一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツ」と指摘する。

 ポリテクセンター奈良(奈良職業能力開発促進センター)の建て替えに伴う発掘調査で確認された。
円の直径は約19メートルで、周囲を幅約6メートル、深さ約50センチの溝が巡る「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」。
周溝を含めた直径は最大約31メートルに及ぶ。奈文研は、当時の奈良盆地で最大規模とみている。
突出部は南側にあったとみられ、長さは約7メートル。墓への通路となる「陸橋」だったとみられる。

 今回の調査では、7世紀後半の藤原京の時代とみられる大型建物跡などの遺構も出土し、墓はその下層で見つかった。墳丘は削られ、埋葬施設などは残っていなかった。

 約7キロ北東の同県桜井市には、女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)がある。
遺跡内には最古の大型前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ~後半、墳長約280メートル)のほか、後円部に比べて前方部が小さい纒向石塚古墳(国史跡、3世紀前半ごろ)などの「纒向型前方後円墳」と呼ばれる古墳も点在する。

 前方後円墳は陸橋(突出部)が次第に大きくなって前方部に発展したとの説があり、今回見つかった墓は纒向石塚古墳を数十年さかのぼるとみられる。
石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)も「前方後円墳のルーツの可能性がある。この墓が『纒向型』につながり、前方後円墳に発展したのではないか」とみている。

 現地見学会は15日午前10時~午後3時。小雨決行。問い合わせは奈文研の都城発掘調査部(ソースに記載)。
AS20160512005090_commL
http://www.asahi.com/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html
2016年5月12日19時42分
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1463050831/
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