(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 弥生時代

1: 孤高の旅人 ★ 2017/11/15(水) 11:00:15.00 ID:CAP_USER9
弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510711215/続きを読む
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1: (^ェ^) ★ 2017/10/24(火) 18:23:21.37 ID:CAP_USER9
http://www.asahi.com/articles/ASK9Q55KYK9QTLZU001.html

 志賀島(しかのしま、福岡市)から見つかった国宝「金印」。はるか2千年ほど前、弥生時代の日本と中国の国際交流を裏付ける物証として有名だ。ところがこの金印、後世のニセモノでは、との声が後を絶たず、今も真贋(しんがん)論争が続行中なのだ。

 まばゆく光る金印は印面2センチ余り四方で、手のひらにすっぽり収まる小ささ。ヘビを模した鈕(ちゅう、つまみ)を持ち、「漢委奴国王」の5文字が刻まれる。

 江戸時代に志賀島で水田の溝の修理中に出土したとされ、福岡藩の碩学(せきがく)、亀井南冥(なんめい)が中国の古印だと断じて以来、これこそ『後漢書』が、建武中元2(紀元57)年にやって来た「倭奴国」の使いに皇帝が与えたと記録する金印だ、との見方が定着。中国出土の「広陵王璽(こうりょうおうじ)」印との類似が説かれ、国宝金印と同じヘビのつまみの「滇王之印(てんおうのいん)」が中国で見つかるに及んで、当時倭(わ)と呼ばれた日本の、福岡平野あたりにあったとされる奴国の王が入手した実物に違いない、との見解が定説となった。

 世界の中心を自負した古代中国は、周辺諸勢力に主従関係を結ぶ証しとして印章を与えた。ラクダやヘビなど動物をかたどったつまみの形は、各勢力や民族が住む風土を表すともいう。金印のヘビも温暖湿潤な日本列島にふさわしいというわけだ。

■はっきりしない出土状況

 ところがこの金印、謎が多い。通説の「漢の委(倭)の奴国」との読み方さえ、「奴国」でなく「委奴国」と続けるべきで別のクニだとの異論がある。

 弱点は出土状況がはっきりしな…
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1508837001/続きを読む
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1: ののの ★ 2017/06/06(火) 21:02:43.96 ID:CAP_USER9
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/
2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496750563/続きを読む
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1: ◆Hikaru.CGk Hikaru ★ 2016/06/17(金) 20:38:15.27 ID:CAP_USER9
 福岡県春日市教委は17日、同市の須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)墓(弥生中期前半=紀元前約150年)が見つかった、と発表した。
同遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地で、王や王族の集団墓地。
今回の甕棺墓は奴国のナンバー2、3クラスの有力者の墓の可能性が指摘されている。

 墓穴は縦5.2メートル、横3.9メートル。長さ約1メートルの甕を二つ合わせた甕棺から銅剣(約42センチ)1点と、被葬者の身分が高いことを示す青銅製の飾り「把頭飾(はとうしょく)」(高さ約4.5センチ、幅約5.5センチ)1点が見つかった。
遺物周囲の土の表面からは複数種類の布の痕跡が多数確認された。
遺物や遺体を布で何重にもくるんだ可能性があるとみている。

 奴国は、弥生時代の北部九州の中心的な国で、中国・後漢の光武帝から贈られた国宝の金印が有名。
須玖岡本遺跡一帯は「奴国」の中枢部で、弥生時代有数の青銅器生産遺跡としても知られる。
同遺跡では銅鏡30点以上を副葬した「王墓」とされる甕棺墓があり、今回の甕棺墓は
この王墓の時代よりやや古いが、位置は王墓から80メートルと近い。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)は「甕棺内で折り重なった多数の布類の存在が分かったのは初めて。広い墓穴で祭祀(さいし)が行われたのではないか」と話す。

毎日新聞 2016年6月17日 20時20分(最終更新 6月17日 20時20分)
http://mainichi.jp/articles/20160618/k00/00m/040/083000c
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1466163495/ 続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2016/05/07(土)00:30:44 ID:GOA
(o'ω'n)なにがどう違うおん
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1: リサとギャスパール ★  2016/05/12(木) 20:00:31.35 ID:CAP_USER*.net
 奈良県橿原市で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。
奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。円形で一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツ」と指摘する。

 ポリテクセンター奈良(奈良職業能力開発促進センター)の建て替えに伴う発掘調査で確認された。
円の直径は約19メートルで、周囲を幅約6メートル、深さ約50センチの溝が巡る「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」。
周溝を含めた直径は最大約31メートルに及ぶ。奈文研は、当時の奈良盆地で最大規模とみている。
突出部は南側にあったとみられ、長さは約7メートル。墓への通路となる「陸橋」だったとみられる。

 今回の調査では、7世紀後半の藤原京の時代とみられる大型建物跡などの遺構も出土し、墓はその下層で見つかった。墳丘は削られ、埋葬施設などは残っていなかった。

 約7キロ北東の同県桜井市には、女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)がある。
遺跡内には最古の大型前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ~後半、墳長約280メートル)のほか、後円部に比べて前方部が小さい纒向石塚古墳(国史跡、3世紀前半ごろ)などの「纒向型前方後円墳」と呼ばれる古墳も点在する。

 前方後円墳は陸橋(突出部)が次第に大きくなって前方部に発展したとの説があり、今回見つかった墓は纒向石塚古墳を数十年さかのぼるとみられる。
石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)も「前方後円墳のルーツの可能性がある。この墓が『纒向型』につながり、前方後円墳に発展したのではないか」とみている。

 現地見学会は15日午前10時~午後3時。小雨決行。問い合わせは奈文研の都城発掘調査部(ソースに記載)。
AS20160512005090_commL
http://www.asahi.com/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html
2016年5月12日19時42分
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1463050831/
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1: 名無しのしばせん 2016/03/28(月) 00:06:53.24 ID:CAP_USER*.net
『失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎』(ムー・スーパーミステリー・ブックス)
no title


大和朝廷が開かれる以前、この日本には邪馬台国という“クニ”があったとされる。中国の史書『魏志倭人伝』によれば、紀元3世紀ごろ、当時、倭国と呼ばれた日本を統治していたのは卑弥呼という名の女王だったという。

邪馬台国の所在地をめぐっては畿内説と九州説をはじめ、四国説や沖縄説、さらには海外のスマトラ説、エジプト説などが知られているが、今、大きな転換期を迎えようとしている。考古学的な発見により、ほぼ畿内説で固まりつつあるのだ。最近もまた、これを裏づける発見があった。

『魏志倭人伝』によると、倭国は大きくふたつに分かれていた。卑弥呼に従うクニと敵対する“卑弥弓呼(ひみここ)”を支持するクニがあったのだ。

後者を束ねていたのは狗奴国だった。狗奴国は邪馬台国の南にあったとされるため、方位が正しいとする九州説なら鹿児島あたりに比定され、距離が正しいとする畿内説であれば、東海地方から関東地方にあったと考えられてきた。

実は、この卑弥弓呼のものと思われる墓が見つかったのだ。場所は静岡の沼津市で、高尾山遺跡として知られている。問題の古墳は前方後方墳で、長は約62メートルと、当時としては東日本で最大級だ。築造は3世紀前半と見られており、卑弥呼の時代と重なる。規模から考えて、東海地方を治めていた大王の墓だと推測されている。畿内説からすれば、まさしく卑弥弓呼の墓の可能性が高い。

きわめて重要な遺跡が注目されるきっかけは、なんとも皮肉なことに、人域的な破壊の危機に直面したからだ。地元の要請によって計画した国道建設のルートに高尾山古墳が重なってしまったのだ。道路を作るためには、古墳を一度破壊して、移設する必要が出てきた。これに対して、地元の有識者が協会を立ち上げ、移設反対を強く訴えた結果、幸いにして道路のルートを変更することが議会で決定され、古墳は保存されることとなった。

だが、かなり工事は進んでおり、すでに古墳の上にあった神社は取り壊され、古墳はむき出しの状態。調査発掘も行われていたが、昔の面影はない。聞くところによれば、この工事に関連して、ふたりの方が亡くなっており、地元では祟りではないかとも噂されている。

いずれにせよ、全国的に注目されることとなった高尾山古墳だが、改めて被葬者が卑弥弓呼だったと確認されることとなれば、邪馬台国論争は一気に加速、畿内説で、ほぼ決まったと認識されることになるだろう。

だが、もしそうなった場合、最後に問題となるのは方位である。『魏志倭人伝』は狗奴国を邪馬台国の南に位置づける。邪馬台国を畿内とすれば、東海地方は東。約90度の違いがある。これは確定している九州の対馬、壱岐、松浦から見た邪馬台国や投馬国などの方位も同様で、畿内説が抱える大きな課題のひとつだ。方位の読み替えに関しては、太陽運行の季節変化などがあがられているが、定説にはいたっていない。

これに関して、もっとも大胆な仮説を提示しているのがサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄氏だ。飛鳥説によれば、『魏志倭人伝』の方位は正しく、かつ邪馬台国は畿内にあった。間違っているのは、昔の地形と今の地形が同じだという認識にあるとし、かつて日本列島は約90度、時計回りに回転していたと考える。逆転列島倭地理観に立てば、邪馬台国は畿内であり、狗奴国は東海地方になると主張する。

高速プレートテクトニクスという激変論に立った邪馬台国=畿内説は、他に類を見ないほど突拍子もない説にも思えるが、これを支持する人々もいる。日本の歴史を裏から支えてきた秘密組織、八咫烏である。彼らは飛鳥説を認めながら、そのしるしとして、なんと卑弥呼が魏の皇帝から送られた「親魏倭王」の金印の写真を見せられたという。

詳しくは本書に譲るが、高尾山古墳が卑弥弓呼の墓として注目される今、いよいよ邪馬台国論争も大詰めを迎えつつあるのかもしれない。

●三上丈晴(みかみ・たけはる)
1968年、青森県生まれ。学研「ムー」の5代目編集長。筑波大学を卒業後、学習研究社(現・学研)に入社。「歴史群像」編集部を経て、入社1年目より「ムー」編集部に所属。

http://tocana.jp/2016/03/post_9187_entry.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1459091213/
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1: 名無しのしばせん 2016/03/01(火) 19:37:25.06 ID:3qHM4XEU0●.net BE:601381941-PLT(13121) ポイント特典
sssp://img.2ch.sc/ico/anime_kuma01.gif
九州北部で最古級すずり片 文字文化、伊都国からか

古代中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都だったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)のものとみられる国内最古級のすずりの破片1個が出土した。同市教育委員会が1日、発表した。

弥生時代のすずり発掘は国内2例目。市教委は「魏志倭人伝は伊都国で文書が取り扱われていたと記しており、裏付けにつながる」として、日本の文字文化が伊都国から始まった可能性を示す史料と位置付けている。

破片は長さ6センチ、幅4.3センチ、厚さ6ミリ。実際に使用されたようなすり減りがあり、市教委は墨が使われた跡がないか詳しく調べる。当時のすずりは板状で、水と粉末や粒状の墨を乗せ、取っ手を付けた薄い正方形状の「研石」ですりつぶしていたという。

昨年12月、弥生~古墳時代の人々が不要になった土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。
ここでは中国・前漢が朝鮮半島支配のために設けた「楽浪郡」製の弥生後期とみられる土器が多数見つかっているため、市教委はすずりも同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。

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福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で出土した国内最古級のすずりの破片

http://www.sankei.com/photo/story/news/160301/sty1603010010-n1.html
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1456828645/
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