(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 弥生時代

1: ごまカンパチ ★ 2018/11/17(土) 04:43:30.22 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。
ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。
それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
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“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。

■上半身だけ特別に発達した弥生人!
今回人の骨が見つかったのは、長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡です。
発掘に立ち会った人類学者の海部陽介さんは、初めて見たとき、驚きを隠せなかったといいます。
人類学者 海部陽介さん
「これは太い。上半身が頑丈でマッチョな感じがありますね」
一般的な弥生人の骨と比べ、異常に太く、しかも、上腕骨や鎖骨など上半身の骨が特別に発達した不思議な体型です。

■九州西北部の島からも
海部さんは、一般的な弥生人との違いを詳しく調べました。
一般的な弥生人の男性の平均身長が推定162.6センチで、ヒョロッとしていたのに対し、高島の弥生人は、それより4センチほど低いものの、筋骨隆々で、胸や腕、首などが異常に発達していたことがわかりました。
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しかもその体重は、推定でなんと77.2キロ!身長170センチ体重59キロの私よりも、実に18キロ重いのです。
詳しく調べると、こうしたマッチョ体型の弥生人の人骨は、高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかりました。
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■CTスキャンで分析すると
どうしてそんなマッチョ体型になったのか。海部さんは、筑波大学でスポーツ科学を研究する足立和隆准教授に骨の詳細な分析を依頼しました。
足立准教授が活用したのが、CTスキャン。骨の断面図を分析することで、どの筋肉をどう使っていたかを推測します。
その結果が次の画像です。
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左側が、現代人の男性、右側が高島のマッチョな弥生人の上腕骨の断面図です。
現代人の上腕骨の断面が丸っぽいのに対し、高島の弥生人の骨には、三角にとがったところがあるのが分かります。
足立准教授は、この突起が、腕や肩を動かす三角筋によって、上腕骨が強く引っ張られていた証拠だといいます。
強い負荷がかかると三角筋が太くなり、それに耐えられるように骨と接続している部分も太く変形します。
こうした突起が周囲3方向にできていたことから、腕をあらゆる方向に回したり引っ張ったりする動作を激しく繰り返していたのではないか。
足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測しています。

■マッチョな弥生人が運んでいたのは?
「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)
“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。
ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。
銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。
「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。
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この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。
使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。
1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。
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※ 続く
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542397410/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/09/15(土) 19:16:58.69 ID:CAP_USER9
成果展で公開される出土品の歯
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 春日市教委は、市内の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の岡本地区から出土した甕棺(かめかん)から、「奴国(なこく)」の王族の歯を発見したと発表した。奴国は魏志倭人伝に記された、弥生時代の北部九州の中心的な国。同地区の王族墓から歯が見つかったのは初めてで、市教委は「弥生中期前半の奴国の様相を捉える貴重な成果」としている。15日~10月28日に「奴国の丘歴史資料館」(同市岡本)で開く「須玖遺跡群発掘調査成果展」で公開される。【桑原省爾】

 須玖遺跡群は市北部にあり、南北2キロ、東西1キロに広がる全国有数の弥生時代の大集落跡で「奴国の王都」と呼ばれる。須玖岡本遺跡はその中心的存在。この中の岡本地区での20次調査(2015年3月)で、紀元前約150年の国内最大級の王族墓とみられる甕棺墓が見つかった。

 周辺の土と一緒に甕棺を液体窒素で冷凍固化して取り出し、土を落とすと、絹織物に包まれた副葬品の銅剣や把頭飾(はとうしょく)(柄飾り)と共に14本の歯が確認された。第3大臼歯(親知らず)を含む歯のすり減り具合から、葬られたのは20代の成人とみられるという。

 成果展では、歯と甕棺をはじめ前漢鏡などの副葬品や鋳型など、初公開の約25点を含む考古遺物を中心に226点を展示する。

毎日新聞 2018年9月15日
https://mainichi.jp/articles/20180915/ddl/k40/040/428000c?inb=ra
西日本新聞 2018年09月15日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/449779/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1537006618/続きを読む
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1: ばーど ★ 2018/08/03(金) 16:37:54.96 ID:CAP_USER9
鳥取市にある弥生時代の遺跡で見つかったおよそ40点の人骨のDNAを最新の手法で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館などが始めました。まとまった数の弥生人のDNA分析を詳細に行うのは初めてで、研究グループは「調査を通じて日本人の起源に迫りたい」としています。

この分析は、鳥取市にある青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期のおよそ40点の人骨を対象に、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県などの研究グループが始めました。

調査では、保存状態のよい頭の骨や歯からわずかな量のサンプルを採取してDNAを抽出し、遺伝情報を分析したうえで、弥生人どうしの血縁や髪の毛や目の色といった身体的な特徴などを明らかにする予定です。

まとまった数の弥生人のDNA分析が詳細に行われるのは初めてで、研究グループは、稲作などの新たな文化を携えて大陸から渡来した人たちが日本列島でどのように広がり、今の日本人につながるのか、解明したいとしています。

国立科学博物館の篠田謙一副館長は「DNAの分析技術の進歩で、かなりの遺伝情報を得ることができると期待している。今回の調査を通じて日本人の起源に迫りたい」と話しています。

■“地下の弥生博物館”と呼ばれる遺跡

鳥取市の海沿いにある青谷上寺地遺跡は、およそ2300年前から1700年前の弥生時代の集落跡で、平成10年から発掘調査が続いています。

平成12年には国内で初めて当時のヒトの脳が見つかり、全国的にも大きな注目を集めました。

脳が残っていたのは、遺跡が粘土の層に覆われ地表の空気に触れることがないなど、保存状態がいいことの表れとされています。

また、発掘された100体以上の人骨の中には、矢じりが刺さったり鋭利な刃物で切りつけられたりして殺害されたとみられる痕跡も見つかりました。

弥生時代後期の2世紀ごろには、「魏志倭人伝」などの中国の歴史書に「倭国が乱れた」という記述が登場し、女王「卑弥呼」を立てることで争いはいったん収まったとされています。

青谷上寺地遺跡で見つかった人骨などの状況は、当時の日本列島で大きな争いがあったとされる魏志倭人伝の記述などをほうふつとさせることから、専門家の間からは「弥生時代の戦いの具体的な姿を示すものだ」として注目する声が上がりました。

ほかにも大陸との交流があったことを示す1世紀ごろの中国の貨幣や、朝鮮半島でも同じものが見つかっている占いに使われた動物の骨など、数十万点を超える資料が出土したことから、青谷上寺地遺跡は「地下の弥生博物館」とも呼ばれています。

■DNA分析で何がわかるのか

今回の青谷上寺地遺跡の調査では、分析が容易な一方で情報量は少なく、母親からのみ受け継がれる「ミトコンドリアDNA」と、両親から受け継がれ、膨大な情報量がある「核DNA」の分析が行われます。

このうちミトコンドリアDNAの分析は、1980年代から行われ、古代の人骨分析では主流となってきました。

ミトコンドリアDNAの配列の違いを調べれば、古代人がどの集団に近いのかを知ることができます。

例えば、青谷上寺地遺跡から出土した人骨は、現代の日本人に近いのか、東アジアの集団に近いのか、あるいは東南アジアの集団に近いのかなどを明らかにすることができるのです。

一方の核DNAの分析は、21世紀になってから急速に進歩しました。
核DNAからは、男女の別、目や髪の色といった体の特徴、それに病気のなりやすさまで知ることができるとされます。

また両親の情報を分析できるため、ミトコンドリアDNAよりも詳細に集団のルーツをたどることが可能です。

核DNAの分析は世界各国で進められ、さまざまな地域の人のDNA配列がデータベースとして公開されています。

青谷上寺地遺跡で出土した人骨と比較することにより、弥生人がどのような特徴を持つ人たちと近い関係にあるのかを明らかにできる可能性があります。

さらにこのところ研究が進んでいる縄文人との比較も可能で、日本人はどのようにして成立したのか、解明に向けて一歩、近づくことが期待されています。

以下見出しのみ 全文はソース先で

■詳しい年代も明らかに?

■日本人の起源解明に期待

2018年8月2日 11時49分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180802/k10011560171000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533281874/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/07/27(金) 08:26:43.92 ID:CAP_USER
京都市埋蔵文化財研究所は、下京区醒ケ井通松原下ルの元醒泉小で、弥生時代中期初頭(紀元前4~3世紀)の大規模な集落跡が見つかったと発表した。水田や建物の跡、石器や管玉などの出土品もまとまって発見され、近畿北部の弥生社会の変遷や実態を解明する手掛かりになるという。

 小学校整備に伴い弥生~飛鳥時代の「烏丸綾小路遺跡」の南西部約2900平方メートルを調べた。

 水田は、調査地東側にかつて流れた鴨川支流の汚泥がたまったところに東西5メートル、南北12メートルで見つかり、人の足跡のほか、土壌中に稲のもみ殻約200粒があった。京都大吉田南キャンパス(左京区)で見つかった弥生前期の水田に次いで市内で2番目に古い時期になる。近くに約10棟の竪穴建物跡もあった。

 稲作に使った石包丁や、武器に用いる石のやじりといった石器、千点以上の壷(つぼ)や甕(かめ)などの土器、管玉も出土した。

 市中心部では平安京建都以降、開発が繰り返されたため、古い遺構や遺物は壊れていることが多い。集落の人は北側の四条通周辺に移った後、ここを埋葬地に使うなど土地利用の変遷も分かるという。

 関西大大学院の森岡秀人非常勤講師(考古学)は「稲作を始めた弥生前期から中期にかけ、近畿では集落が農耕適地を求めて移動するケースが多く、調査により初期農耕集団が京都盆地でも定着していたことが鮮明になった。弥生中期初頭の出土品がまとまって得られた意義も大きく、近畿北部の弥生文化や社会の実態を研究する上で貴重な成果だ」とする。

 現地説明会は28日午前10時~11時半。当日の問い合わせは現地事務所090(6205)8330。


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出土した石庖丁(左上)や石戈(右上)、石鏃(下中央)
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https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180726000170
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1532703152/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1532647603/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/06/27(水) 22:55:47.00 ID:CAP_USER
兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸」7個(弥生時代前期-中期)の成分を分析した結果、含まれる鉛は、朝鮮半島産とみられることが分かり、兵庫県教育委員会などが27日発表した。
銅鐸の素材の流通や入手先を解明する手掛かりとなりそうだ。

 銅鐸は、古い順に菱環鈕、外縁付鈕、扁平鈕、突線鈕に分類される。
松帆銅鐸は菱環鈕1個、外縁付鈕の中でも古い「外縁付鈕1式」が6個。

 鉱山ごとに異なる鉛の特徴を比較する鉛同位体比分析による他研究者の成果では、菱環鈕と外縁付鈕1式は朝鮮半島の鉛、外縁付鈕2式以降は中国・華北地域の鉛を使用したと考えられており、今回の分析結果も一致した。
古い段階の銅鐸は朝鮮半島から入手した青銅器や地金で銅鐸を国内で製作した可能性があるという。

■兵庫県南あわじ市で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸」
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産経ニュース
https://www.sankei.com/photo/story/news/180627/sty1806270013-n1.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1530107747/続きを読む
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jyo (1)
1: 名無しさん@涙目です。 2018/05/18(金) 12:23:52.84 ID:jpl1IriJ0● BE:324064431-2BP(2000)
sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
日本人の由来には諸説あるが、一説には今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を探すため、若い男女を含む総勢3000人を連れて渡来した徐福(じょふく)が日本に残り、子孫を残したという説がある。中国メディアの今日頭条は13日、この説の信ぴょう性について分析する記事を掲載した。

 記事は、江戸時代の民間伝承に徐福に関わる伝説が加えられたと紹介。徐福は薬草や農耕技術も持って渡ってきたとされ、日本では農耕をつかさどる神とか、医薬の神様などの異名を付けられたほどで、日本の発展に寄与したことがうかがえるという。徐福に関しては、日本では和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山近辺など多くの場所で伝説や記念館があることから、日本に渡ってきたのは間違いないだろうとした。

 また、台湾の学者が徐福は神武天皇だという説を提出し、一定の賛同を得ていることも紹介。その真偽はともかく、徐福と同行した大勢の中国人が日本にたどり着き、彼らの子孫が日本にいるに違いないと結論づけた。

 この手の話は中国のネット上でよくでる話であり、史実であると信じている中国人も少なくない。確かに、日本各地に徐福に関する伝承が残っているが、その内容は地域によってさまざまであり、真偽は不明である。しかし、こうした話は中国人にとって歴史のロマンが感じれるので好まれるのであろう。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1659580?page=1
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1: しじみ ★ 2018/03/24(土) 14:06:29.90 ID:CAP_USER
 大阪府茨木市の弥生時代の集落遺跡の中河原(なかがわら)遺跡で、弥生時代中期(約2千年前)とみられる切り妻(づま)屋根の高床建物5棟が描かれた土器片がみつかった。
茨木市教育委員会が23日発表した。同じ構造と明瞭にわかる建物群が表現されている弥生絵画の発見は全国で初めて。
専門家は弥生時代の集落の姿や、当時の祭祀(さいし)のあり方を探る重要な資料として注目する。

 市教委によれば、2016年11月から約1年間にわたる調査で、建物が表現された土器片9点が出土した。
破片を接合すると縦21・5センチ、横25・5センチ。大小5棟の高床建物はいずれも切り妻屋根で、神社の屋根の上に突き出た「千木(ちぎ)」のような棟飾りを持ち、数本の長い柱が屋根を支える構造だ。
中央の建物は一回り小さく、その周りに両端が張り出した屋根を支える棟持(むなもち)柱を持つ建物や、はしごの架かった建物が並んでいる。

 5棟以上の建物が描かれた弥生絵画の土器は、奈良県橿原市の中曽司(なかぞし)遺跡と福岡県筑前町の大木(おおき)遺跡からの出土例があるが、建物の構造がはっきりとはわからない。
一方、今回のように切り妻屋根の高床建物と鮮明にわかる弥生絵画は他にないという。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「収穫した稲籾(もみ)を入れた土器を一番小さな建物に納め、来季の豊作を祈ったのでは」。

 黒崎直(ただし)・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「同じ弥生中期の大集落跡で知られる、大阪府の池上曽根(いけがみそね)遺跡でみつかった棟持柱の建物は神殿と推定され、この絵画も棟持柱の建物が中心的な建物ではないか。集落の日常の姿を詳細に描いたのだろう」とみる。

高床建物5棟が表現された土器片(絵を白線で示した。白線は合成処理)
AS20180323003784_comm
AS20180323004099_comm
AS20180323004121_comm
AS20180323004124_commL
AS20180324000405_commL
AS20180323004120_commL

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q5T1TL3QPPTB00M.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1521867989/続きを読む
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1: 孤高の旅人 ★ 2017/11/15(水) 11:00:15.00 ID:CAP_USER9
弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510711215/続きを読む
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