(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 弥生時代

1: ばーど ★ 2018/08/03(金) 16:37:54.96 ID:CAP_USER9
鳥取市にある弥生時代の遺跡で見つかったおよそ40点の人骨のDNAを最新の手法で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館などが始めました。まとまった数の弥生人のDNA分析を詳細に行うのは初めてで、研究グループは「調査を通じて日本人の起源に迫りたい」としています。

この分析は、鳥取市にある青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期のおよそ40点の人骨を対象に、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県などの研究グループが始めました。

調査では、保存状態のよい頭の骨や歯からわずかな量のサンプルを採取してDNAを抽出し、遺伝情報を分析したうえで、弥生人どうしの血縁や髪の毛や目の色といった身体的な特徴などを明らかにする予定です。

まとまった数の弥生人のDNA分析が詳細に行われるのは初めてで、研究グループは、稲作などの新たな文化を携えて大陸から渡来した人たちが日本列島でどのように広がり、今の日本人につながるのか、解明したいとしています。

国立科学博物館の篠田謙一副館長は「DNAの分析技術の進歩で、かなりの遺伝情報を得ることができると期待している。今回の調査を通じて日本人の起源に迫りたい」と話しています。

■“地下の弥生博物館”と呼ばれる遺跡

鳥取市の海沿いにある青谷上寺地遺跡は、およそ2300年前から1700年前の弥生時代の集落跡で、平成10年から発掘調査が続いています。

平成12年には国内で初めて当時のヒトの脳が見つかり、全国的にも大きな注目を集めました。

脳が残っていたのは、遺跡が粘土の層に覆われ地表の空気に触れることがないなど、保存状態がいいことの表れとされています。

また、発掘された100体以上の人骨の中には、矢じりが刺さったり鋭利な刃物で切りつけられたりして殺害されたとみられる痕跡も見つかりました。

弥生時代後期の2世紀ごろには、「魏志倭人伝」などの中国の歴史書に「倭国が乱れた」という記述が登場し、女王「卑弥呼」を立てることで争いはいったん収まったとされています。

青谷上寺地遺跡で見つかった人骨などの状況は、当時の日本列島で大きな争いがあったとされる魏志倭人伝の記述などをほうふつとさせることから、専門家の間からは「弥生時代の戦いの具体的な姿を示すものだ」として注目する声が上がりました。

ほかにも大陸との交流があったことを示す1世紀ごろの中国の貨幣や、朝鮮半島でも同じものが見つかっている占いに使われた動物の骨など、数十万点を超える資料が出土したことから、青谷上寺地遺跡は「地下の弥生博物館」とも呼ばれています。

■DNA分析で何がわかるのか

今回の青谷上寺地遺跡の調査では、分析が容易な一方で情報量は少なく、母親からのみ受け継がれる「ミトコンドリアDNA」と、両親から受け継がれ、膨大な情報量がある「核DNA」の分析が行われます。

このうちミトコンドリアDNAの分析は、1980年代から行われ、古代の人骨分析では主流となってきました。

ミトコンドリアDNAの配列の違いを調べれば、古代人がどの集団に近いのかを知ることができます。

例えば、青谷上寺地遺跡から出土した人骨は、現代の日本人に近いのか、東アジアの集団に近いのか、あるいは東南アジアの集団に近いのかなどを明らかにすることができるのです。

一方の核DNAの分析は、21世紀になってから急速に進歩しました。
核DNAからは、男女の別、目や髪の色といった体の特徴、それに病気のなりやすさまで知ることができるとされます。

また両親の情報を分析できるため、ミトコンドリアDNAよりも詳細に集団のルーツをたどることが可能です。

核DNAの分析は世界各国で進められ、さまざまな地域の人のDNA配列がデータベースとして公開されています。

青谷上寺地遺跡で出土した人骨と比較することにより、弥生人がどのような特徴を持つ人たちと近い関係にあるのかを明らかにできる可能性があります。

さらにこのところ研究が進んでいる縄文人との比較も可能で、日本人はどのようにして成立したのか、解明に向けて一歩、近づくことが期待されています。

以下見出しのみ 全文はソース先で

■詳しい年代も明らかに?

■日本人の起源解明に期待

2018年8月2日 11時49分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180802/k10011560171000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533281874/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/07/27(金) 08:26:43.92 ID:CAP_USER
京都市埋蔵文化財研究所は、下京区醒ケ井通松原下ルの元醒泉小で、弥生時代中期初頭(紀元前4~3世紀)の大規模な集落跡が見つかったと発表した。水田や建物の跡、石器や管玉などの出土品もまとまって発見され、近畿北部の弥生社会の変遷や実態を解明する手掛かりになるという。

 小学校整備に伴い弥生~飛鳥時代の「烏丸綾小路遺跡」の南西部約2900平方メートルを調べた。

 水田は、調査地東側にかつて流れた鴨川支流の汚泥がたまったところに東西5メートル、南北12メートルで見つかり、人の足跡のほか、土壌中に稲のもみ殻約200粒があった。京都大吉田南キャンパス(左京区)で見つかった弥生前期の水田に次いで市内で2番目に古い時期になる。近くに約10棟の竪穴建物跡もあった。

 稲作に使った石包丁や、武器に用いる石のやじりといった石器、千点以上の壷(つぼ)や甕(かめ)などの土器、管玉も出土した。

 市中心部では平安京建都以降、開発が繰り返されたため、古い遺構や遺物は壊れていることが多い。集落の人は北側の四条通周辺に移った後、ここを埋葬地に使うなど土地利用の変遷も分かるという。

 関西大大学院の森岡秀人非常勤講師(考古学)は「稲作を始めた弥生前期から中期にかけ、近畿では集落が農耕適地を求めて移動するケースが多く、調査により初期農耕集団が京都盆地でも定着していたことが鮮明になった。弥生中期初頭の出土品がまとまって得られた意義も大きく、近畿北部の弥生文化や社会の実態を研究する上で貴重な成果だ」とする。

 現地説明会は28日午前10時~11時半。当日の問い合わせは現地事務所090(6205)8330。


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出土した石庖丁(左上)や石戈(右上)、石鏃(下中央)
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https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180726000170
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1532703152/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1532647603/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/06/27(水) 22:55:47.00 ID:CAP_USER
兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸」7個(弥生時代前期-中期)の成分を分析した結果、含まれる鉛は、朝鮮半島産とみられることが分かり、兵庫県教育委員会などが27日発表した。
銅鐸の素材の流通や入手先を解明する手掛かりとなりそうだ。

 銅鐸は、古い順に菱環鈕、外縁付鈕、扁平鈕、突線鈕に分類される。
松帆銅鐸は菱環鈕1個、外縁付鈕の中でも古い「外縁付鈕1式」が6個。

 鉱山ごとに異なる鉛の特徴を比較する鉛同位体比分析による他研究者の成果では、菱環鈕と外縁付鈕1式は朝鮮半島の鉛、外縁付鈕2式以降は中国・華北地域の鉛を使用したと考えられており、今回の分析結果も一致した。
古い段階の銅鐸は朝鮮半島から入手した青銅器や地金で銅鐸を国内で製作した可能性があるという。

■兵庫県南あわじ市で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸」
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産経ニュース
https://www.sankei.com/photo/story/news/180627/sty1806270013-n1.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1530107747/続きを読む

jyo (1)
1: 名無しさん@涙目です。 2018/05/18(金) 12:23:52.84 ID:jpl1IriJ0● BE:324064431-2BP(2000)
sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
日本人の由来には諸説あるが、一説には今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を探すため、若い男女を含む総勢3000人を連れて渡来した徐福(じょふく)が日本に残り、子孫を残したという説がある。中国メディアの今日頭条は13日、この説の信ぴょう性について分析する記事を掲載した。

 記事は、江戸時代の民間伝承に徐福に関わる伝説が加えられたと紹介。徐福は薬草や農耕技術も持って渡ってきたとされ、日本では農耕をつかさどる神とか、医薬の神様などの異名を付けられたほどで、日本の発展に寄与したことがうかがえるという。徐福に関しては、日本では和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山近辺など多くの場所で伝説や記念館があることから、日本に渡ってきたのは間違いないだろうとした。

 また、台湾の学者が徐福は神武天皇だという説を提出し、一定の賛同を得ていることも紹介。その真偽はともかく、徐福と同行した大勢の中国人が日本にたどり着き、彼らの子孫が日本にいるに違いないと結論づけた。

 この手の話は中国のネット上でよくでる話であり、史実であると信じている中国人も少なくない。確かに、日本各地に徐福に関する伝承が残っているが、その内容は地域によってさまざまであり、真偽は不明である。しかし、こうした話は中国人にとって歴史のロマンが感じれるので好まれるのであろう。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1659580?page=1
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1: しじみ ★ 2018/03/24(土) 14:06:29.90 ID:CAP_USER
 大阪府茨木市の弥生時代の集落遺跡の中河原(なかがわら)遺跡で、弥生時代中期(約2千年前)とみられる切り妻(づま)屋根の高床建物5棟が描かれた土器片がみつかった。
茨木市教育委員会が23日発表した。同じ構造と明瞭にわかる建物群が表現されている弥生絵画の発見は全国で初めて。
専門家は弥生時代の集落の姿や、当時の祭祀(さいし)のあり方を探る重要な資料として注目する。

 市教委によれば、2016年11月から約1年間にわたる調査で、建物が表現された土器片9点が出土した。
破片を接合すると縦21・5センチ、横25・5センチ。大小5棟の高床建物はいずれも切り妻屋根で、神社の屋根の上に突き出た「千木(ちぎ)」のような棟飾りを持ち、数本の長い柱が屋根を支える構造だ。
中央の建物は一回り小さく、その周りに両端が張り出した屋根を支える棟持(むなもち)柱を持つ建物や、はしごの架かった建物が並んでいる。

 5棟以上の建物が描かれた弥生絵画の土器は、奈良県橿原市の中曽司(なかぞし)遺跡と福岡県筑前町の大木(おおき)遺跡からの出土例があるが、建物の構造がはっきりとはわからない。
一方、今回のように切り妻屋根の高床建物と鮮明にわかる弥生絵画は他にないという。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「収穫した稲籾(もみ)を入れた土器を一番小さな建物に納め、来季の豊作を祈ったのでは」。

 黒崎直(ただし)・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「同じ弥生中期の大集落跡で知られる、大阪府の池上曽根(いけがみそね)遺跡でみつかった棟持柱の建物は神殿と推定され、この絵画も棟持柱の建物が中心的な建物ではないか。集落の日常の姿を詳細に描いたのだろう」とみる。

高床建物5棟が表現された土器片(絵を白線で示した。白線は合成処理)
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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q5T1TL3QPPTB00M.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1521867989/続きを読む

1: 孤高の旅人 ★ 2017/11/15(水) 11:00:15.00 ID:CAP_USER9
弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510711215/続きを読む

1: (^ェ^) ★ 2017/10/24(火) 18:23:21.37 ID:CAP_USER9
http://www.asahi.com/articles/ASK9Q55KYK9QTLZU001.html

 志賀島(しかのしま、福岡市)から見つかった国宝「金印」。はるか2千年ほど前、弥生時代の日本と中国の国際交流を裏付ける物証として有名だ。ところがこの金印、後世のニセモノでは、との声が後を絶たず、今も真贋(しんがん)論争が続行中なのだ。

 まばゆく光る金印は印面2センチ余り四方で、手のひらにすっぽり収まる小ささ。ヘビを模した鈕(ちゅう、つまみ)を持ち、「漢委奴国王」の5文字が刻まれる。

 江戸時代に志賀島で水田の溝の修理中に出土したとされ、福岡藩の碩学(せきがく)、亀井南冥(なんめい)が中国の古印だと断じて以来、これこそ『後漢書』が、建武中元2(紀元57)年にやって来た「倭奴国」の使いに皇帝が与えたと記録する金印だ、との見方が定着。中国出土の「広陵王璽(こうりょうおうじ)」印との類似が説かれ、国宝金印と同じヘビのつまみの「滇王之印(てんおうのいん)」が中国で見つかるに及んで、当時倭(わ)と呼ばれた日本の、福岡平野あたりにあったとされる奴国の王が入手した実物に違いない、との見解が定説となった。

 世界の中心を自負した古代中国は、周辺諸勢力に主従関係を結ぶ証しとして印章を与えた。ラクダやヘビなど動物をかたどったつまみの形は、各勢力や民族が住む風土を表すともいう。金印のヘビも温暖湿潤な日本列島にふさわしいというわけだ。

■はっきりしない出土状況

 ところがこの金印、謎が多い。通説の「漢の委(倭)の奴国」との読み方さえ、「奴国」でなく「委奴国」と続けるべきで別のクニだとの異論がある。

 弱点は出土状況がはっきりしな…
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1508837001/続きを読む

1: ののの ★ 2017/06/06(火) 21:02:43.96 ID:CAP_USER9
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/
2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496750563/続きを読む

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