(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 戦国

1: みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018年11月16日 12時24分
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
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明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542339867/続きを読む

shibata

1: 風吹けば名無し 2018/11/02(金) 11:36:40.05 ID:JQ7yNf2T0
どうすれば秀吉に勝てたの?一番信頼してた前田利家が裏切っちゃ勝てなくない?
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1541126200/

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1: 樽悶 ★ 2018/11/05(月) 17:33:00.44 ID:CAP_USER9
明智光秀の出生地とされる県内5つの地点
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恵那市内にある「明智光秀産湯の井戸」=2018年10月17日午後4時59分、岐阜県恵那市明智町、室田賢撮影
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山県市内にある明智光秀の「うぶ湯の井」=2018年10月18日午後1時34分、岐阜県山県市中洞、室田賢撮影
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明智光秀が生まれたとされる明智城の跡を示す石碑=2018年10月17日午後3時45分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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明智光秀が生まれ育ったとされる明智城の跡地=2018年10月17日午後3時44分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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 2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

 「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

 「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。

 出生地に名乗りを上げているのは両市だけではない。山県市中洞の白山神社には光秀の「うぶ湯の井」がある。地元の豪族の娘から生まれ、のちに明知城主・明智光綱の養子になったのが光秀との言い伝えがある。瑞浪市土岐町一日市場にある八幡神社には、かつて美濃源氏の土岐氏の居館があり、ここにも産湯の井戸があったと伝わる。このほか大垣市上石津町多良にあった「多羅城」で生まれたとする文書もある。

 これほどまで「出生地」が点在…

(残り:735文字/全文:1393文字)

朝日新聞デジタル 2018年11月5日08時53分
https://www.asahi.com/articles/ASLBL420JLBLOHGB00L.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541406780/続きを読む

1: ガーディス ★ 2018/10/25(木) 11:04:50.19 ID:CAP_USER9
2018 10/25 10:00
黒装束を着て屋敷に忍び込み、手裏剣を放ってドロンと退散-。江戸時代に幕府や大名の下で諜報活動を担った伊賀・甲賀の忍者が元になったイメージだが、「彼らは忍者の歴史の不本意な最終形態」とする論文が、国際忍者学会の会誌「忍者研究」創刊号に掲載された。著者は戦国時代の歴史研究で知られる三重大学の藤田達生教授。忍者の実像を、かたくなに地域の自治を守った中世の足軽隊に見いだす。

 ■「悪党」の流れ

 国際忍者学会は、これまで学術研究の対象にされてこなかった「忍者」の実態解明を目的に、三重大国際忍者研究センター(伊賀市)などが今年2月に設立。「忍者研究」創刊号は9月に第2回総会が佐賀県で開催されたのに合わせて刊行された。

忍者とは何者か。諸説あるが、一般的に、南北朝から室町時代に活躍した「悪党」の流れが色濃いとされる。悪党とは荘園領主などの禁圧の対象となった、権威や秩序にとらわれない武装集団。こうした「悪党」の流れに、戦国大名を支えた最下層の兵士「足軽」もいるとされる。

 ■「伊賀の城取」

 論文では、永禄12(1569)年の「伊賀惣国一揆掟書(いがそうこくいっきおきてがき)」を取り上げ、この「足軽」に注目した。入洛を果たし、天下統一に突き進む織田信長が、伊賀に接する伊勢国を平定し、緊張が一気に高まった直後に制定された掟書だ。

 「惣国一揆」とは代官や守護などの圧政に抵抗する百姓一揆ではなく、土豪や地侍による一国規模の統治共同体のこと。掟書には主に攻められた際の行動規範が11条あるが、藤田教授が注目するのは次の条文だ。

 〈国境に他国の勢力が陣城を築城した場合、足軽として城を取るという忠節を尽くした百姓がいたならば、惣国一揆から多くの褒美をつかわし、本人は侍に取り立てられるだろう〉

 「郷土防衛のため、惣国一揆が足軽衆を徴発する体制が成立している。足軽衆は独自に強力な軍事力を発揮し、他国にまで出陣して攻城戦をおこない、地域を制圧することさえあった」と藤田教授。こうした兵農未分離の足軽隊に、他国で戦働きをすることを得意とする「忍者」が存在したという。

 「城を取る」とあるのは、「伊賀の城取」を指す。畿内一円に大勢力を築いた三好氏の家臣、内藤宗勝が、永禄4(1561)年に発した指令にもこう登場する。〈伊賀の城取の者どもが、摂津国、丹波国、播磨国にやってくるので油断するな…〉

 藤田氏は「攻城戦における彼らの働きはとりわけ目覚ましく、大名や天下人にも恐れられる存在だった」と話す。

 ■高度な自治能力

 「自治」を守る存在だったか否か-。中世の「本来的な忍者」と江戸時代の忍者の決定的な違いはそこにあるという。

 藤田氏が注目するもう一つの中世文書が、天正元(1573)年の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」。平成28年12月、郷土資料収集家でもある岡本栄・伊賀市長が京都の古書店から送られてきた目録から発見。市費で購入し、今年3月に市文化財に指定された。伊賀衆と甲賀衆の自治組織である「伊賀惣国一揆」と「甲賀郡中惣(こうがぐんちゅうそう)」の代表者が各10人集まり、入会地(いりあいち)の利用権を共同裁定した際の誓約書だ。

 「中世の伊賀や甲賀は、一揆による自治がうまく機能した国内の代表事例ですが、起請文はその証左となる誇るべき史料。高い自治能力が、忍者が他国で働くことを可能とし、その働きは集団安全保障の役割を果たしたと考えられる。地域自治と忍者は実は深い関係にあったのです」

 ■“衆”から“者”へ

 起請文が書かれた翌年の天正2(1574)年、近江国で最後の反信長勢力となった甲賀衆が信長に臣従する。伊賀衆も同9年の天正伊賀の乱で信長に制圧された。同10年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されるが、その後天下人となる豊臣秀吉は同13年を画期として兵農分離政策を断行する。

 「伊賀衆・甲賀衆は、兵として他国で仕官するか、農として在国するかの選択を強く迫られ、『~衆』と呼ばれる兵農未分離の戦闘集団が解体された」

 こうして他国で仕官した伊賀者・甲賀者には、幕府に諜報能力を評価されて重用された服部半蔵正成のような人物もでてくるが、自分たちの手で自治を守る本来の忍者ではなくなった、というわけだ。藤田教授は、「忍者はキワモノ扱いされがちだが、住民自治の歴史を考える時、重要な存在として位置づけねばならない」と話している。

https://www.sankei.com/smp/premium/news/181025/prm1810250009-s1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540433090/続きを読む

1: プティフランスパン ★ 2018/10/16(火) 15:30:30.11 ID:CAP_USER9
10/16(火) 14:32配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181016-00000044-asahi-soci
20181016-00000044-asahi-000-3-view
新たに見つかった天守台石垣。豊臣秀吉の城に特徴的な自然石の「野面積み」という(静岡市提供)

 徳川家康(1542~1616)が築いた駿府城(静岡市葵区)に、豊臣秀吉(1536~98)が配下に築かせた城跡が見つかったと、発掘調査を進めていた静岡市が16日、発表した。約330点の金箔(きんぱく)瓦や野面積みの天守台の石垣から、豊臣期の城の特徴に間違いないという。

 市によると、6~7月、現在の駿府城趾(じょうし)の天守台付近から、金箔(きんぱく)で装飾された大量の瓦が出土。さらに8月ごろには、天守台の南東角に重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣(南北約37メートル×東西約33メートル)が見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みの技術を用いており、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。

 駿府城は、1585~88年に家康が築城。90年の関東移封で家康が江戸に移った後、豊臣方の武将中村一氏(なかむらかずうじ)が入城した。秀吉の死去後、関ケ原の合戦を経て、再び家康が駿府城に入り、1607年から大改修を行ったとされる。戦国時代は城を攻め取った後、我流の城に建て替えるのが一般的だったが、中村一氏が建てた駿府城については詳細が明らかでなく、「幻の城」とされていた。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539671430/続きを読む

smile (1)

1: 水星虫 ★ 2018/10/08(月) 12:34:07.14 ID:CAP_USER9
武田信虎像 甲府駅前に設置へ

*ソース元にニュース画像あり*

http://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/20181008/1040004509.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

戦国武将・武田信玄の父、信虎が甲府に館を築いてから来年で500年を迎えるのを前に、信虎の銅像がJR甲府駅前に設置されることになりました。

武田信玄の父、信虎が甲府に館を築いて来年でちょうど500年を迎えます。
この「開府500年」を前に、甲府商工会議所は信虎の功績も知ってもらおうと、
信虎の銅像をJR甲府駅の北口広場に設置することになりました。
銅像は、信虎の菩提寺である甲府市の大泉寺に所蔵されている重要文化財の肖像画をもとにデザインされ、高さ2メートル余りの、けさをまとった出家姿となる予定です。

南アルプス市の造形作家、河野和泉さんが制作を進めていて、ことし12月に除幕式が行われ、南口の信玄と合わせて甲府駅の南北に武田親子の銅像がそろうことになります。

甲府商工会議所は
「武田信虎は信玄に追放されるなどいいイメージを持っていない人もいるが、甲斐統一を成し遂げた偉大な人物。信虎の功績を多くの人に知ってもらいたい」
としています。

10/08 12:29
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1538969647/続きを読む

1: WATeR ★ 2018/09/01(土) 02:46:01.64 ID:CAP_USER9
 戦国武将の上杉謙信が愛用したとされ、岡山県瀬戸内市が購入を目指している国宝の備前刀「太刀 無銘一文字(山鳥毛=さんちょうもう)」の特別観覧が30日、岡山市北区の県立博物館であり、刀匠らがじっくりと見入った。

 山鳥毛は刃長約80センチ。
県内に住む個人が所有しているが、1997年から県立博物館に預けられ、通常は公開していない。
市によると、所有者から5億円での売却を打診され、交渉を進めている。
市は、インターネットを通じて資金を募るクラウドファンディング型のふるさと納税で資金を調達する方針。
その返礼品として山鳥毛を再現した刀を贈る予定で、制作を担当する地元の刀匠に実物を見てもらうため特別観覧が実現した。

特別観覧が実現された国宝の備前刀「山鳥毛」を手にする刀匠=岡山市北区後楽園で2018年8月30日午前10時29分、高橋祐貴撮影
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続きはリンク先で
https://mainichi.jp/articles/20180831/k00/00e/040/225000c
8月31日 10時07分
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535737561/続きを読む

1: アーモンドクッキー ★ 2018/08/30(木) 17:03:01.33 ID:CAP_USER9
京都市中京区元法然寺町(錦小路烏丸東入ル)の平安京跡から、豊臣秀吉が16世紀末に京都で行った土地区画整理事業「天正の地割り」で埋められたとみられる濠(ほり)跡が出土し
29日、民間調査団体「関西文化財調査会」が発表した。濠は「へ」の字に折れ曲がる特殊な形。調査地の町名から法然寺にかかわる遺構の可能性もあるという。現地説明会は9月1日午前11時から。

駐車場建設に伴い、平安京左京四条三坊十四町の約250平方メートルを調査。濠跡は幅が約4メートル、深さは最深部で約1・7メートルの逆台形。東西から北西に約120度屈曲していた。
濠の底の両端からは橋脚の礎石のような石も出た。濠に水が流れていたが底に泥はなく、常に清掃されていたらしい。完成時期は不明だが、出土した土器から16世紀末に一気に埋められたことが判明。
このため同調査会は秀吉が天正18(1590)年に始めた地割りに伴い埋められた可能性が高いとみている。また濠の正確な用途は不明としながら、今に残る町名から法然寺の関連遺構の可能性も指摘している。

法然寺は鎌倉時代の武士で、のちに僧に転じた熊谷直実が建てたとされるが、秀吉が天正19年、南東約800メートルの寺町に移転させている。
同調査会の吉川義彦代表は「京内の濠跡は条坊にのっとり直線で出るのが一般だけに、曲がった形で出るのは珍しい。
法然寺につながる遺物がなく性格付けは難しいが、中世から近世にかけての町の変遷を知る貴重な遺構」と話している。

2018.8.30 08:32 産経デジタル
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/180830/lif18083008320003-n1.html

ビルに囲まれた調査地の一角から出土した巨大な濠跡。秀吉が地割りで埋めた可能性が高い=京都市中京区
lif18083008320003-p1
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535616181/続きを読む

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