(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 戦国

1: ばーど ★ 2019/01/02(水) 10:15:48.82 ID:CAP_USER9
戦国時代に織田信長が築き、豪壮華麗な天主を誇ったとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の復元に向け、滋賀県が新年度から本格的な検討に乗り出す。全容の分かる資料がない「幻の城」で、海外の資料も調査してきたが実を結んでこなかった。近年の「城ブーム」などを追い風に民間団体の再建熱も高まり、県は調査団の再派遣も視野に、名城復活への道を探る。

安土城は築城から3年後の1582(天正10)年、天主が焼失した。長年復元を望む声がある一方、城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには建造当時の設計図や絵図などをそろえる必要があった。
 
そのため県と旧安土町は1984年、信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探す調査団をバチカンに派遣。その後も調査は続けられたが、発見には至っていない。
 
一方で全国的に城巡り観光が注目され、信長を討った武将明智光秀が主人公のNHK大河ドラマの2020年放映が決定。国も文化財の保護から活用へかじを切る中、県は経済効果が大きいとみて、復元の糸口を探ることにした。
 
ただ、仮に屏風絵が見つかっても、耐震性の観点などから木造での復元は難しいとの見方が優勢だ。そのため県庁内には、城跡に近く、かつ史跡指定外の場所に、信頼性が高いとされる復元図面で再建するのが最も現実的とする意見もある。いずれにせよ巨額を要するため、民間と連携して可能性を探る方針だ。
 
昨年、県に再建を提言した滋賀経済産業協会はコンクリート造りの場合、工費は300億円程度と試算。商業施設の併設も構想し「長期的に考えれば費用面はクリアできる」とする。
 
NPO法人「安土城再建を夢見る会」(近江八幡市)は今年からシンポジウムなどを通じ、全国的に再建の機運を高める方針という。尾﨑信一郎理事長は「安土城は普通の城ではなく、天下統一を目指した信長の思想が込められている。観光資源としてだけでなく日本の宝になる」と再建の意義を訴えている。

1/1(火) 12:10
京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20190101000037/print
20190101-00000004-kyt-000-1-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1546391748/続きを読む

小田氏治2

1: 替刃 ★ 2019/01/07(月) 07:49:23.01 ID:5BN1+sXU9
つくば市ゆかりの戦国武将で、近年「常陸の不死鳥」の異名とともに人気が高まっている小田氏治(おだうじはる)(一五三一~一六〇一年)をテーマにした講演会が六日、市役所であった。小田氏研究で知られる常磐大の糸賀茂男名誉教授が登壇し、氏治は「戦国最弱」とも言われるが、低い評価を見直されるべきなどと解説した。

氏治は何度も戦いに敗れながらも、居城を奪い返したり、合戦を生き抜いたことで知られる。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201901/CK2019010702000133.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1546814963/続きを読む

1: みんと ★ 2018/12/27(木) 11:22:05.88 ID:CAP_USER9
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織田信長と激しく対立した浄土真宗の僧侶、顕如が、信長の死後、羽柴秀吉に接近しようと書いた書状が2通見つかりました。秀吉宛ての書状はほとんど残っていないということで、調査にあたった専門家は「この段階で、秀吉を権力のある人物と認識していたことがはっきりと分かる貴重な史料だ」と指摘しています。

この2通の書状は、東京大学史料編纂所がインターネットオークションで購入し、内容や紙の質などからいずれも浄土真宗の僧侶、顕如の書状と判断しました。

顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。

調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「本能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。

もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられるということです。

顕如はそれぞれの書状を送ったあとに、大坂の中心部に近づくように拠点を移していることから、村井准教授は、大坂に戻るために秀吉に接近しようとしていたことがうかがえるとしています。

秀吉宛ての書状は、その後、豊臣家が滅亡したことからほとんど残っていないということで、村井准教授は「秀吉が完全に天下を取っていない段階で権力のある人物だと認識して、政治的な運動をしていることがはっきりと分かる。当時の政治状況が分かる貴重な史料だ」と指摘しています。

村井准教授によりますと、天下統一を成し遂げた秀吉には、家臣などから多くの書状が送られていたと考えられますが、秀吉宛ての書状はこれまでに数点しか見つかっていません。

その理由について村井准教授は、「大坂の陣」で豊臣家が滅亡した際に、城にあった書状もなくなってしまったと考えられるとしています。

今回の書状は、捨てるために集められていた書状の中から持ち出されたり、秀吉に仕えていた人が記念にもらったりして、今に伝わったと考えられるということです。

また、書状はいずれも、花押と呼ばれる顕如の署名があった部分が切り取られていました。その理由について村井准教授は、
▽江戸時代に流行した武将などの花押を集めた本に貼り付けるために切り取った、
▽顕如の花押を別の本などに貼り付けて文書を偽造しようと考えた、
▽門徒が信仰心から切り取った、
という3つの可能性を挙げています。

村井准教授は「秀吉が受け取った書状は、基本的には残すものではないうえ、家も滅びているので数は圧倒的に少ない。花押がないことからもいろいろなことが考えられ、大変おもしろい史料だと思います」と話しています。

NHKニュース 2018年12月27日 4時20分
https://www.youtube.com/watch?v=1M5ELHw24g0
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1545877325/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/12/20(木) 19:59:20.38 ID:CAP_USER9
江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。書状からは、当時、江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。

この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。

その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。

藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。

徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。

この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。

そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。

■書状の内容は

書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。

相手の藤堂高虎は今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。

大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやり取りから始まっています。

このあと、自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。

このほか、秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。

跡部さんは「幕府の中枢にいる人物の間でのやり取りの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。

■「”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性」

跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。

跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。

以下ソース先で

2018年12月20日 18時18分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html
K10011754471_1812201822_1812201823_01_03
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1545303560/続きを読む

1: みんと ★ 2018/11/16(金) 12:44:27.73 ID:CAP_USER9
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018年11月16日 12時24分
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
K10011712961_1811161218_1811161224_01_02
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542339867/続きを読む

shibata

1: 風吹けば名無し 2018/11/02(金) 11:36:40.05 ID:JQ7yNf2T0
どうすれば秀吉に勝てたの?一番信頼してた前田利家が裏切っちゃ勝てなくない?
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1541126200/

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1: 樽悶 ★ 2018/11/05(月) 17:33:00.44 ID:CAP_USER9
明智光秀の出生地とされる県内5つの地点
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恵那市内にある「明智光秀産湯の井戸」=2018年10月17日午後4時59分、岐阜県恵那市明智町、室田賢撮影
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山県市内にある明智光秀の「うぶ湯の井」=2018年10月18日午後1時34分、岐阜県山県市中洞、室田賢撮影
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明智光秀が生まれたとされる明智城の跡を示す石碑=2018年10月17日午後3時45分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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明智光秀が生まれ育ったとされる明智城の跡地=2018年10月17日午後3時44分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
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 2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

 「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

 「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。

 出生地に名乗りを上げているのは両市だけではない。山県市中洞の白山神社には光秀の「うぶ湯の井」がある。地元の豪族の娘から生まれ、のちに明知城主・明智光綱の養子になったのが光秀との言い伝えがある。瑞浪市土岐町一日市場にある八幡神社には、かつて美濃源氏の土岐氏の居館があり、ここにも産湯の井戸があったと伝わる。このほか大垣市上石津町多良にあった「多羅城」で生まれたとする文書もある。

 これほどまで「出生地」が点在…

(残り:735文字/全文:1393文字)

朝日新聞デジタル 2018年11月5日08時53分
https://www.asahi.com/articles/ASLBL420JLBLOHGB00L.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541406780/続きを読む

1: ガーディス ★ 2018/10/25(木) 11:04:50.19 ID:CAP_USER9
2018 10/25 10:00
黒装束を着て屋敷に忍び込み、手裏剣を放ってドロンと退散-。江戸時代に幕府や大名の下で諜報活動を担った伊賀・甲賀の忍者が元になったイメージだが、「彼らは忍者の歴史の不本意な最終形態」とする論文が、国際忍者学会の会誌「忍者研究」創刊号に掲載された。著者は戦国時代の歴史研究で知られる三重大学の藤田達生教授。忍者の実像を、かたくなに地域の自治を守った中世の足軽隊に見いだす。

 ■「悪党」の流れ

 国際忍者学会は、これまで学術研究の対象にされてこなかった「忍者」の実態解明を目的に、三重大国際忍者研究センター(伊賀市)などが今年2月に設立。「忍者研究」創刊号は9月に第2回総会が佐賀県で開催されたのに合わせて刊行された。

忍者とは何者か。諸説あるが、一般的に、南北朝から室町時代に活躍した「悪党」の流れが色濃いとされる。悪党とは荘園領主などの禁圧の対象となった、権威や秩序にとらわれない武装集団。こうした「悪党」の流れに、戦国大名を支えた最下層の兵士「足軽」もいるとされる。

 ■「伊賀の城取」

 論文では、永禄12(1569)年の「伊賀惣国一揆掟書(いがそうこくいっきおきてがき)」を取り上げ、この「足軽」に注目した。入洛を果たし、天下統一に突き進む織田信長が、伊賀に接する伊勢国を平定し、緊張が一気に高まった直後に制定された掟書だ。

 「惣国一揆」とは代官や守護などの圧政に抵抗する百姓一揆ではなく、土豪や地侍による一国規模の統治共同体のこと。掟書には主に攻められた際の行動規範が11条あるが、藤田教授が注目するのは次の条文だ。

 〈国境に他国の勢力が陣城を築城した場合、足軽として城を取るという忠節を尽くした百姓がいたならば、惣国一揆から多くの褒美をつかわし、本人は侍に取り立てられるだろう〉

 「郷土防衛のため、惣国一揆が足軽衆を徴発する体制が成立している。足軽衆は独自に強力な軍事力を発揮し、他国にまで出陣して攻城戦をおこない、地域を制圧することさえあった」と藤田教授。こうした兵農未分離の足軽隊に、他国で戦働きをすることを得意とする「忍者」が存在したという。

 「城を取る」とあるのは、「伊賀の城取」を指す。畿内一円に大勢力を築いた三好氏の家臣、内藤宗勝が、永禄4(1561)年に発した指令にもこう登場する。〈伊賀の城取の者どもが、摂津国、丹波国、播磨国にやってくるので油断するな…〉

 藤田氏は「攻城戦における彼らの働きはとりわけ目覚ましく、大名や天下人にも恐れられる存在だった」と話す。

 ■高度な自治能力

 「自治」を守る存在だったか否か-。中世の「本来的な忍者」と江戸時代の忍者の決定的な違いはそこにあるという。

 藤田氏が注目するもう一つの中世文書が、天正元(1573)年の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」。平成28年12月、郷土資料収集家でもある岡本栄・伊賀市長が京都の古書店から送られてきた目録から発見。市費で購入し、今年3月に市文化財に指定された。伊賀衆と甲賀衆の自治組織である「伊賀惣国一揆」と「甲賀郡中惣(こうがぐんちゅうそう)」の代表者が各10人集まり、入会地(いりあいち)の利用権を共同裁定した際の誓約書だ。

 「中世の伊賀や甲賀は、一揆による自治がうまく機能した国内の代表事例ですが、起請文はその証左となる誇るべき史料。高い自治能力が、忍者が他国で働くことを可能とし、その働きは集団安全保障の役割を果たしたと考えられる。地域自治と忍者は実は深い関係にあったのです」

 ■“衆”から“者”へ

 起請文が書かれた翌年の天正2(1574)年、近江国で最後の反信長勢力となった甲賀衆が信長に臣従する。伊賀衆も同9年の天正伊賀の乱で信長に制圧された。同10年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されるが、その後天下人となる豊臣秀吉は同13年を画期として兵農分離政策を断行する。

 「伊賀衆・甲賀衆は、兵として他国で仕官するか、農として在国するかの選択を強く迫られ、『~衆』と呼ばれる兵農未分離の戦闘集団が解体された」

 こうして他国で仕官した伊賀者・甲賀者には、幕府に諜報能力を評価されて重用された服部半蔵正成のような人物もでてくるが、自分たちの手で自治を守る本来の忍者ではなくなった、というわけだ。藤田教授は、「忍者はキワモノ扱いされがちだが、住民自治の歴史を考える時、重要な存在として位置づけねばならない」と話している。

https://www.sankei.com/smp/premium/news/181025/prm1810250009-s1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540433090/続きを読む

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