(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 戦国

1: 水星虫 ★ 2018/06/13(水) 12:22:52.55 ID:CAP_USER9
“三好長慶を大河ドラマに”

*ソース元にニュース画像あり*

http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20180612/8020002023.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

徳島県生まれの戦国武将で、一時は近畿地方や四国地方を広く勢力下に置いたとされる三好長慶を主人公にしたNHK大河ドラマの誘致を目指す協議会が、12日、徳島市内で設立されました。

三好長慶は戦国時代の武将で、現在の徳島県三好市で生まれ、一時は阿波や畿内など現在の四国から近畿地方を広く勢力下に置いたとされています。
三好長慶の生涯を多くの人に知ってもらおうと、徳島県出身者で作る団体や観光関連団体などが、三好長慶を主人公にしたNHK大河ドラマを誘致することを目指す協議会を設立することになりました。

12日に徳島市で40人余りが参加して設立総会が開かれ、役員の人事や今後の事業計画などを審議しました。
最後に、三好長慶の業績についての検証などを進めている「三好長慶会」の会員たちが、よろいかぶとに身を包んで威勢のいいかちどきを披露し、参加者たちが一緒に拳を上げ、誘致の成功を願っていました。

設立発起団体の代表を務めた徳島県観光協会の清重泰孝理事長は「協議会の活動を通じて、子どもたちも含め地元の人たちにも郷土の英雄である三好長慶を知ってほしい」と話していました。

06/12 20:28
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528860172/続きを読む

1: ニライカナイφ ★ 2018/06/12(火) 15:44:32.03 ID:CAP_USER9
◆信長、幻の城 評判海越える 小牧山城(愛知県小牧市)~おもてなし 魅せどころ

戦国武将ゆかりの城が多い愛知県。国宝の犬山城や天守閣を木造復元する計画の名古屋城がよく知られるが、名古屋市中心部から車で30分ほどの小牧山城(同県小牧市)が最近は注目されている。
近世城郭の先駆けと分かってきたからだ。周囲には航空宇宙関連の企業が集まり外国人労働者も多く、海外からの訪問者もじわり増えている。

小牧山は織田信長が岐阜に移る前に居城とし、1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康が陣を築いた。
歴史の舞台となったが、城跡としての知名度は決して高くはなかった。

その評価はこの十数年で大きく変わった。きっかけは2004年に始まった小牧山城の発掘調査だ。
近世城郭の特徴である石垣の存在が分かり、「とりでにすぎなかった」という見方を一変させた。
発掘調査の際に開く現地説明会には昨年、5百人が集まった。

「約450年前に信長が目にした空間を体験できることに魅力があるのではないか」。
発掘調査に携わる小牧市教育委員会小牧山課の小野友記子主査は話す。
城郭巡りが好きだという名古屋市の50代男性は「信長が築いた城をじっくり見たかった」と、2度目の訪問を楽しんだ。

小牧市観光協会によると、有料の観光ガイドを利用した人は17年度に千人を超え、前の年度に比べ5割ほど増えた。
海外からの観光客も増えており、「アジアの団体客や南米から来た人をよく見かけるようになった」(小野主査)。

「欧米からのビジネス客も目立つ」と話すのは通訳ガイドの佐伯和夫さん。
周囲には航空関連の工場で働く外国人居住者も多く、海外からの誘客の糸口となっている。

小牧市は来年度中にも小牧山城のふもとに「史跡センター(仮称)」を開設する。
発掘調査の成果を展示し、小牧山や周囲の案内など情報提供の場にする。
観光協会も4月、無料ガイドツアーを月2回から毎週土曜日に増やした。

「歴史好きだけのブームに終わらせず、小牧市内にできるだけ長くとどまってもらいたい」。
観光協会の名坂敏彦事務局長は強調する。

4月には30~40代の女性をターゲットにガイドブックを作成。
小牧山城だけでなく、周囲の飲食店やみやげ、パワースポットなどを掲載した。
小牧山への注目が高い今、幅広い層へと遡及できるかが人気持続へのカギとなりそうだ

■写真
小牧山城発掘調査には数多くの人が訪れた
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日本経済新聞 2018/6/10付
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO31557980Y8A600C1H91A00/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528785872/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/06/03(日) 17:44:44.33 ID:CAP_USER
三重大医学部の小森照久教授(精神医学)が、忍者が手を合わせて呪文を唱える「印」をした際の脳波や心拍数を調べた結果、ストレスが緩和され、落ち着いた状態になっていることが分かった。

 印とは「臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前」と、9つの言葉を唱えながら、
決められた形に指や手のひらを合わせること。
甲賀流忍術の継承者で、三重大特任教授を務める川上仁一さん(66)によると、敵地に赴くときや任務を完了した際に印を結ぶ習慣があったという。

 小森教授は昨年12月から3カ月間、忍術の修業を経験した5人と、経験したことがない10人に、それぞれ足し算を30分間繰り返させてストレスを与えた後に脳波などを測定した。

 印を結んだ経験者と印を結ばない未経験者を比較すると、経験者の方がリラックスした際に検出される脳波や副交感神経の働きが活性化。
経験者が印を結んだ場合と結ばなかった場合でも結んだ方がその傾向が表れた。

 小森教授は「一般的に言われるリラックスとは少し異なり、集中力も維持されている。闘いに適した状態」と分析した。

日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12H34_U6A310C1000000/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1528015484/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/05/19(土) 22:38:52.54 ID:CAP_USER
 白川村で四百年前の大地震で一夜で埋まったとされる「帰雲城(かえりくもじょう)」の位置は「同村保木脇の庄川の左岸」だったとする研究結果を、歴史愛好家でつくる白川郷埋没帰雲城調査会がまとめ、十九日、発表する。

 村史によると、帰雲城は一四六四(寛正五)年ごろ、白川郷一帯を治めた内ケ島為氏(うちがしまためうじ)が築城。
四代目城主・氏理の時代に起きた一五八六(天正十三)年の大地震で山崩れとともに全てが埋まったとされる。
城の位置は不明で、これまで庄川の東側である右岸説や左岸説などが唱えられてきた。

 調査会によると、飛騨の地役人が一七四六(延享三)年に書いたとされる地誌「飛騨国中案内」に、城のあった場所として「往昔は帰雲、其後(そのご)は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」との記述があった。
調査会ではこれまでに「氏理の居城のあった所を帰雲川原と言うようになった」と解釈してきた。

 新たに今回、白川村役場が所蔵し、地誌より十年以上前に描かれた同村の古地図「享保年度山林絵図面」を調べたところ、保木脇周辺の庄川の左岸部分に「帰雲川原」と記されていたという。
調査会事務局長の野田秀佳さん(56)は「長年追い求めていた場所が分かり、感無量。伝説にも一歩近づけた」と喜ぶ。

 調査会は一九八六年に発足して以降、文献による研究や村内の調査などを重ねてきた。
今後も現地調査などをして、幻の城の存在を裏付ける手がかりを探す。

画像:「帰雲川原」の地名が書かれた古地図
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中日新聞(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180519/CK2018051902000051.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1526737132/続きを読む

1: いちごパンツ ★ 2018/05/15(火) 10:37:43.94 ID:CAP_USER9
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL593HMZL59ULZU004.html

 天下人・豊臣秀吉の茶頭として「わび茶」の誕生に大きな役割を果たしたとされる千利休。秀吉の怒りに触れて切腹したと伝えられてきたが、実際には追放されただけだったとの説が近年注目を集めている。

 利休は1522年、現在の大阪府堺市で魚問屋や倉庫業を営む田中与兵衛の子として生まれた。武野紹鷗(じょうおう)に茶の湯を学び、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。85年には秀吉が開いた宮中の茶会で一条殿などの公家衆に献茶し、「利休」の号を勅賜された。

 しかし、京の大徳寺山門に置かれた自らの木像が、天皇や秀吉がその足下を通ることになって不敬だと秀吉の怒りを買い、切腹させられたといわれる。

 小説やドラマなどでは、この前段に、天下人として、茶の湯にも我を押し通そうとする秀吉と、それにこびずに、自らの美意識を貫こうとした芸術家・利休との間に確執があったように描かれるケースが多い。

 だが実は、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという説がある。文教大学の中村修也教授(日本茶道史)が2015年に著書で唱えた。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1526348263/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/05/10(木) 00:50:32.34 ID:CAP_USER9
岐阜城で新たに発見された石組み
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岐阜市は9日、戦国武将・織田信長の居城、岐阜城(同市)の一角「赤ケ洞」で、巨石を使った石組みが新たに見つかったと発表した。二つの文献に、赤ケ洞には信長の孫にあたる織田秀信の「遊山所」や「風呂」などがあったと記録されており、市教委は石組みのそばに秀信の別邸が存在した可能性があるとみている。

市教委によると、石組みは今年1~4月の調査で見つかった。2メートル以上の石で構成され、岐阜城がある金華山の谷筋に計約50メートルあった。金華山ではこれまでに、西麓の槻谷で信長の館跡が発見されている。

担当者は石組みについて、信長が岐阜城に入った1567年以降に造られたとみており、「秀信の別邸の庭の一部だったのではないか」と推測している。

(2018/05/09-22:04)
時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018050901473&g=soc
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1525881032/続きを読む

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