(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 幕末

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1: ばーど ★ 2018/12/07(金) 20:46:18.02 ID:CAP_USER9
西郷隆盛の2番目の妻の名が、広く知られている愛加那(あいかな)ではなく「アリカナ」だったと、京都市在住の歴史研究家、原田良子さん(51)が7日、鹿児島県で発表した。これまでも一部の研究者が指摘していたが、原田さんが初めて西郷家の戸籍で確認した。

 愛加那は西郷が江戸幕府による弾圧で鹿児島・奄美大島に流されていた時の妻。原田さんが11月に千葉県に住む西郷の親族から提供を受けた戸籍に「アリカナ」と書かれていた。西郷が「ありかな」と書いた書簡も残っていたが、公的資料で裏付けられた。

 原田さんや大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を手がけた原口泉・志学館大教授(71)によると、当時の薩摩言葉は「り」の発音が「い」になり「ありがとう」は「あいがとう」になるなどしていた。そのためアリカナも口伝えで「あいかな」として広まり、後に愛加那の字が当てられた可能性があるという。

 原田さんは「埋もれていた人名が近代の戸籍制度で明らかになったのは興味深い」と話した。【田中韻】

毎日新聞2018年12月7日 20時16分(最終更新 12月7日 20時24分)
https://mainichi.jp/articles/20181207/k00/00m/040/250000c

他ソース
西郷隆盛2番目の妻 愛加那の本名は・・・
https://news.goo.ne.jp/article/mbc/region/mbc-2018120700033477.html
s_mbc-2018120700033477
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1544183178/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/31(水) 19:18:49.59 ID:CAP_USER9
小栗上野介忠順
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妻道子の実家、林田藩ゆかりの三木家住宅(奥)を見学する顕彰会理事の村上泰賢・東善寺住職(右から2人目)ら=10月上旬、姫路市林田町中構
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小栗上野介の顕彰慰霊碑=群馬県高崎市倉渕町(東善寺提供)
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 日本で初めて蒸気機関動力の「横須賀製鉄所」(後の横須賀造船所)建設を進め、近代化に注力した幕末の勘定奉行で、作家の司馬遼太郎が「明治の父」と称した小栗(おぐり)上野介忠順(こうずけのすけただまさ)(1827~68年)が、いま再評価されている。江戸城の無血開城に反対し、後に斬首された悲運もあって歴史ファンが注目。「明治150年」の今年、菩提寺・東善寺がある群馬県高崎市の住民ら300人で構成する顕彰会が、小栗の妻・道子の実家があった兵庫県姫路市を訪れるなど交流を始めた。(井上太郎)

■姫路に妻の実家、群馬から顕彰会訪問

 「罪なくして此所(ここ)に斬らる」。高崎市倉渕町の田園地帯にそびえる石碑に、取り調べもなく殺されたと伝わる小栗の悲運がにじむ。

 小栗は旗本を継ぎ、34歳で遣米使節として渡米。ワシントン海軍造船所の技術力に刺激を受け、帰国後、横須賀製鉄所の建造を主導した。新政府軍が迫る江戸城で開かれた評定では、大鳥圭介=兵庫県上郡町出身=らと抗戦を主張。職を解かれ、領地の権田村(現高崎市倉渕町)に移り住んだ。

 小栗は新政府軍に追われ斬首。現在の姫路市林田町に陣屋を構えた林田藩藩主建部政醇(まさあつ)の娘だった道子は、会津まで逃げる道中、権田の村人たちに護衛されたといい、顕彰会の起源だと伝わる。

 近年、薩長中心の歴史評価から離れ、近代化に貢献した人物を公平に評価する流れの中で、小栗の功績に注目が集まる。横須賀市では小栗にまつわるパネルや遺品の展示が初めて開かれた。その生涯を紹介するテレビ番組も放送され、小栗を尊敬する歴史タレント「小栗さくら」も登場。顕彰会理事で東善寺の村上泰賢(たいけん)住職(77)は「節目で関心は高まっている」とする。

 国内外でゆかりの地を巡る顕彰会は10月上旬、姫路市の林田藩の藩校跡や陣屋跡地などを訪ねた。参加した豊原稔さん(63)は「小栗が追われ、建部家出身の家臣も命を落とした。いろんな側面から歴史を見つめ、発信したい」という。

 案内した姫路市はやしだ交流センター「ゆたりん」の三木清一理事長(75)は「小栗を介して地域がつながれることは貴重」と話した。

■神戸開港で日本初の株式会社

 小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)と兵庫のゆかりは深く、150年前の神戸港開港で、日本で初めての株式会社を大阪に設立した。

 当時、外国人が商社組合で大資本を操る一方、日本人は個人が小資本で貿易。日本人同士が安売り競争に陥り、外国商社に利益を搾取され続けた。

 小栗は「日本の国益を損なう」として、大阪商人の出資を募り「兵庫商社」を設立。利益をガス灯、郵便、電話といったインフラ整備に還元しようと考えた。同社は短命に終わったが、株式会社の手法で日本初の本格的ホテル「築地ホテル館」が建設されるなど、近代化に弾みをつけた。

 生野銀山(朝来市)の再建にも貢献した。明治政府に雇われたフランス人鉱山技師ジャン・フランソワ・コワニェは、小栗が建造した横須賀造船所から蒸気機関の設備を大量購入し、機械化に成功。江戸中期以降落ち込んでいた生産量はV字回復した。

神戸新聞NEXT 2018/10/31 15:00
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201810/0011778486.shtml
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540981129/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/10/09(火) 22:21:26.43 ID:CAP_USER9
戊辰戦争について語る(左から)宗像、稲川両館長、道迫学芸員
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 戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

 會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

 戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。

 また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。

 道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。

福島民友 2018年10月07日 12時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181007-313962.php
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539091286/続きを読む

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