(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 幕末

1: ばーど ★ 2017/10/30(月) 16:12:01.70 ID:CAP_USER9
坂本龍馬が剣術大会で桂小五郎に敗れたことを記す史料(群馬県立文書館所蔵) 
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坂本龍馬と桂小五郎が対決――。幕末志士の両者が1857年(安政4年)3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていることが30日、分かった。歴史研究家、あさくらゆうさん(48)が存在を確認した。

 藩主、山内豊信(後の容堂)の上覧試合とされた大会を巡っては、これまでも複数の史料の存在が伝えられている。だが、開催された日が既に龍馬が江戸を去った後だったり、小五郎の名前が当時は使用していない「木戸準一」だったりするため、いずれも「偽書」というのが定説。山内家の日記などにも記録はなく、大会そのものが作り話とされている。

 文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務め、医院も営んだ「根井家」に伝わり、1994年に寄託された。

 折り畳んだ縦約16センチ、横約1メートルの和紙で、冒頭に「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷ニ而御覧」と記載。龍馬らに加え、著名な剣客だった斎藤弥九郎(2代目)や石山孫六、海保帆平ら計43人が、一対一で戦った22試合の結果を毛筆で縦書きに記している。

 あさくらさんによると、この時期の龍馬は江戸遊学中で、土佐藩上屋敷近くにあった北辰一刀流の千葉道場(玄武館)で修行。小五郎も、盛んに対外試合をした神道無念流の斎藤道場(練兵館)で腕を磨いた。

 史料は各剣士の出身や流派も正確に記し、一部は別の史料に残る後日の足取りとも矛盾がない。大会には上州出身者も出場したため、試合結果の書き付けが根井家に残された可能性があるとみている。

 龍馬は今年で没後150年。あさくらさんは「この史料だけで断定はできないが、実際に大会があったのか、もう一度議論するきっかけになる。近年は龍馬の剣術が特に優れていたとする傾向もあるが、小五郎には負けたとある。イメージではなく、本当の姿はどうだったのか考えていくことが大切だ」と話す。〔共同〕

配信2017/10/30 12:30
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22865490Q7A031C1CR0000/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1509347521/続きを読む
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1: 水星虫 ★ 2017/10/16(月) 09:18:25.84 ID:CAP_USER9
慶喜に仕えた火消し展

*ソース元にニュース画像あり*

http://www3.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004766731.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還から、ことしで150年になるのを記念して、最後の将軍、徳川慶喜に仕えた火消し、新門辰五郎ゆかりの品を集めた展示会が、京都市の二条城で開かれています。

江戸の町火消しの頭領、新門辰五郎は、1864年、のちに江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜が京都御所の警護を任されたのに伴って京都に入るなど、慶喜のもとに長く仕えたことで知られています。

その辰五郎ゆかりの資料7点が京都市中京区の二条城で展示されています。
このうち、消火活動で身にまとうはんてんは紺色の生地に灰色の格子柄があしらわれたシンプルなデザインで、襟元とずきんには慶喜の出身である一橋家の家紋が入っていて、慶喜が辰五郎を強く信頼していたことがうかがえます。

このほか、火事の延焼を防ぐために火元の周辺を破壊する道具や、京都に入る際、関所で見せたとされる手形などが展示されています。

元離宮二条城事務所の中野志保学芸員は「慶喜を陰から支えた町火消しが使った、江戸末期の粋で洗練されたデザインを楽しんでほしい」と話していました。

この展示会は、二条城の展示・収蔵館で11月12日まで開かれています。

10/16 06:32
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1508113105/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/10/14(土) 19:37:56.54 ID:CAP_USER9
「大政奉還」克明に記録-「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年

江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。

■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…

 文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。

 文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。

 江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。

■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…

教科書でおなじみの邨田丹陵の「大政奉還」(明治神宮外苑、聖徳記念絵画館蔵)
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 文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。

 文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。

 大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。

 青山教授は「3通の書付が渡されたことが新たに分かった。多くの各藩重臣がそろった大広間に慶喜が現れ大政奉還を表明したと誤解している人もいるかもしれないが、慶喜が大勢の前には出座していないことも明確になった」と話す。

配信2017.10.13 09:55更新
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130017-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1507977476/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/09/27(水) 18:41:46.33 ID:CAP_USER9
戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。

見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。

写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。

戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。

野口さんは「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。

配信2017/09/25 10:22
福島民報
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1506505306/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/09/14(木) 00:03:57.34 ID:CAP_USER9
 幕末の寺田屋事件で坂本龍馬が幕府側に襲撃された際、現場に残したとされる書面に薩摩、長州の両藩が協力して幕府側を京都から追い払う取り決めがあったと記した文書が鳥取県立博物館で見つかったことが13日、分かった。下関市立歴史博物館(山口県)の田中洋一学芸員が特別展に向けた調査で発見した。

 慶応2(1866)年の寺田屋事件で薩摩藩邸に逃げ込んで難を逃れた龍馬の荷物の中に残されていたとされる書面に関する文書。識者からは、薩長同盟は軍事同盟だったのかどうかや、龍馬の関与の度合いなどが議論になっているとして「新たな見方を提供する文書だ」と評価する声が出ている。

薩長同盟に関する記述が見つかった「京坂書通写」=13日(鳥取県立博物館所蔵)
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配信2017/9/13 22:37
共同通信
https://this.kiji.is/280678722576188922?c=39546741839462401
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1505315037/続きを読む
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1: 岩海苔ジョニー ★ 2017/09/10(日) 18:58:31.47 ID:CAP_USER9
 鹿児島県薩摩川内市内にある西郷隆盛の像が、相次いで姿を消すことになった。西郷ゆかりの湯として知られる同市の川内高城温泉で、長年PRに活躍してきた「西郷隆盛入浴像」の建て替え、撤去の計画が進んでいる。来年のNHK大河ドラマ「西郷どん」放送と明治維新150周年を前に、市が1600万円(県補助800万円)をかけてリニューアルを進める。

 川内高城温泉は、市内の山あいにある温泉地で、温泉好きの西郷が近くで狩りを楽しんだ後、疲れを癒やしたとされている。

 西郷像は温泉地の入り口にあり、1990年に放送された大河ドラマ「翔(と)ぶが如(ごと)く」にあわせて地元商工会が設置したものだという。

 がっしりしたイメージよりもスリムな西郷が岩風呂につかっている姿だが、ツルツルした肌は次第に青白くなり、「古井戸から現れた幽霊」のようになってきたため、新しい像に建て替えることになった。

 近くには西郷の愛犬「つん」の座像も置く予定で、デザインなどについては地元と協議したうえで、来年3月末までの完成をめざすという。

 また、同市西方町の国道3号沿いにも、川内高城温泉への案内板とともに西郷が入浴する像がある。市によると、傷みが激しいため、この像は撤去する予定だという。(城戸康秀)

http://www.asahi.com/articles/ASK8K4WTLK8KTLTB008.html
AS20170906002941_comm
AS20170906002945_comm
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1505037511/続きを読む
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1: 紅あずま ★ 2017/09/07(木) 18:12:21.01 ID:CAP_USER9
「伊藤博文の生誕地」PRするロゴマーク作成
読売新聞:2017年09月07日 17時37分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170906-OYT1T50044.html

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伊藤博文の生誕地をPRするロゴマーク


 来年の「明治維新150年」を前に、山口県光市は、初代内閣総理大臣・伊藤博文の生誕地をPRするロゴマークを作った。

 デザインを一般公募し、香川県東かがわ市のデザイナー、新田憲明さん(67)の作品を選んだ。

 伊藤が生まれた光市束荷(つかり)には、遺品などを展示する資料館や、伊藤自ら基本設計を手がけ、1910年に完成した旧邸、復元された茅ぶき屋根の生家がある。

 ロゴマークは生誕地としての知名度アップを図り、観光客を呼び込もうと企画。
4~5月にデザインを募ったところ、全国から155点の応募があった。

 ロゴマークは、伊藤の肖像と旧邸、光市をイメージしたオレンジ色の太陽がデザインされ、「光市」「伊藤博文公生誕の地」などの文字が入っている。
2日に資料館でロゴマークの発表と表彰式があり、新田さんは「非常に光栄。生誕地のPRに活用してもらいたい」と話した。

 市は早速、ロゴマーク入りのボールペンとマグネットクリップを作り、資料館で販売を始めた。
今後、ポスターや職員の名刺などにも活用していく予定。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1504775541/続きを読む
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1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2017/09/08(金) 20:09:53.77 ID:CAP_USER9
最近よく聞かれるようになった「薩長史観」という言葉がある。明治維新を成し遂げた薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということである。要は「勝者が歴史をつくる」ということであり、「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という単純な図式で色分けされた歴史観だといわれる。明治以来、政府の歴史教育はこの薩長史観に基づいて行われ、国民の「通史」を形作ってきた。

ところが、ここにきて、この薩長史観に異議を申し立て、旧幕府側にこそ正義があったとする書籍が相次いで刊行されている。原田伊織著『明治維新という過ち』を皮切りに、『三流の維新 一流の江戸』『明治維新という幻想』『明治維新という名の洗脳』『大西郷という虚像』『もう一つの幕末史』『明治維新の正体』といった書籍がさまざまな著者により刊行され、ベストセラーになっているものも多い。雑誌でも『SAPIO』(小学館)9月号が「明治維新 150年の過ち」という大特集を組んでいる。

来年の「明治維新150年」を前に、反「薩長史観」本がブームになっているわけだが、そもそもこの「薩長史観」とは何なのか。なぜここに来てブームになっているのか。このたび『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に解説していただいた。

■「薩長史観」により偽装された幕末維新史

薩長史観――明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の心を支配し続けてきた歴史観のことである。それは、薩摩と長州が中心となって成しとげた明治維新は、頑迷な徳川幕府を打ち破って文明開化をもたらし、富国強兵によって世界に伍する国家を創り上げた、とするものである。

だが、薩長史観は明治新政府がその成立を正当化するために創り上げた、偽装された歴史観であることは、意外に知られていない。

それは、薩摩や長州が幕末から明治維新にかけて行った策謀・謀反・暴虐・殺戮・強奪・強姦など、ありとあらゆる犯罪行為を隠蔽するために創られた欺瞞に満ちた歴史観である。

(続きは 東洋経済オンライン で)

https://news.nifty.com/article/magazine/12208-20170908-187322/
2017年09月08日 13時35分

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敗者となった会津藩をはじめとする「旧幕府側」からの、「もう一つの幕末維新史」とは?(写真は会津若松城:shira / PIXTA)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1504868993/続きを読む
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