(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

カテゴリ: 世界史

1: みつを ★ 2018/08/16(木) 05:23:26.60 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3186136?cx_part=latest

「ユリ・ゲラー博物館」の建設中に大規模な地下遺構発見 イスラエル
2018年8月15日 18:38 
発信地:ヤッファ/イスラエル [ イスラエル 中東・北アフリカ ]

【8月15日 AFP】イスラエル・テルアビブ(Tel Aviv)郊外ヤッファ(Jaffa)で、「超能力者」を名乗り、テレビのパーソナリティーも務めるユリ・ゲラー(Uri Geller)氏の博物館の建設作業中、19世紀のオスマン帝国時代にさかのぼるせっけん工場の跡など、複数の大規模な地下遺構が偶然発見された。(c)AFP
historischer_fund_be_58368107
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534364606/続きを読む

Moai_Rano_raraku

1: みつを ★ 2018/08/15(水) 04:14:18.07 ID:CAP_USER9
https://www.cnn.co.jp/fringe/35124008.html

モアイ像が物語るイースター島の知られざる歴史、新説発表
2018.08.14 Tue posted at 12:26 JST


(CNN) 巨大石像「モアイ像」で知られる最果ての島、イースター島。かつてこの島に住んでいた先住民は、内部の抗争や天然資源の枯渇によって自らの社会を自滅させたというのが長年の定説だった。

しかしその定説とは全く異なる説が、13日の学術誌に発表された。石像の製作に使われた石器を調べた結果、同島の先住民は高度かつ協調的な社会を形成していたことが分かったとしている。

論文の筆頭筆者でオーストラリア・クインズランド大学の研究者デール・シンプソン氏は、「イースター島の競争と崩壊に関する説は誇張だった可能性がある」と述べ、「石像彫刻産業は、家庭や工芸団体の間の協力関係を裏付ける確固たる証拠」だと指摘する。

イースター島は南米のチリから約3700キロの距離にある。ポリネシア系の先住民は、900年ほど前に現地の言葉でラパ・ヌイと呼ばれるこの島にたどり着いた。

やがて島の人口は数千人に膨れ上がり、ラパ・ヌイの重要な祖先を表すモアイ像を建造した。像は1000体近く存在していたが、多くは時の経過とともに地中に埋まった。像の高さは最も大きいもので20メートルを超す。

その大きさや数の多さは、複雑で高度な社会が形成されていた証しだとシンプソン氏は解説。「古代のラパ・ヌイには首長や聖職者、漁業や農業、モアイ製造のギルドがあった。1000体近い像をつくるためには一定レベルの高度な組織が必要だった」と指摘する。

研究チームは近年発掘された像4体と、像の製作に使われた火山岩の玄武岩石器について詳しく調べた。発掘作業では1600個ほどの石器が見つかり、このうち17個の断片については化学分析や質量分析を行った。

その結果、ほとんどの石器が1カ所の採石場から採取した石でつくられていたことが分かった。「誰もが1種類のみの石を使うためには協力しなければならない。これほど大きな成功の理由は、彼らが協力して働いたことにあった」とシンプソン氏は語る。

この説は、住民が天然資源を使い果たし、互いの抗争によって滅びたというこれまでの説とは矛盾する。
「遠く離れたイースター島は、多くの謎に満ちている。しかし島には昔も今も、多大な交流が存在する」「ラパ・ヌイには今も数千人の人たちがいる。その社会は滅びていない」とシンプソン氏は話している。

イースター島に並ぶモアイ像/Dale Simpson Jr/University of Queensland
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534274058/続きを読む

194

1: みつを ★ 2018/08/08(水) 01:27:55.89 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3184862?act=all

忘れられた医学の「天才」、病院衛生と消毒の父ゼンメルワイス
2018年8月7日 10:55 
発信地:ウィーン/オーストリア [ オーストリア ハンガリー ヨーロッパ ]

【8月7日 AFP】時代を先取りした科学者が、存命中には認められずに無名のまま生涯を終えることは珍しくない。だが、人命を救うことに貢献したあるハンガリー人産科医の功績がようやく日の目を見ることになったのは、生誕200年を迎えた今年だった。

 イグナーツ・ゼンメルワイス(Ignac Semmelweis)は、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)による病気の細菌説が広く受け入れられる数十年前も前に、医師は徹底的に手の消毒をしてから患者を扱うべきだと主張していた。だが今日では医療の常識であるこの処置を、当時の医師らは簡単には受け入れなかった。

 1818年7月1日生まれのゼンメルワイスは、1846年にオーストリア・ウィーンの総合病院の産科に勤務し始めた。そこで、医学生の臨床実習を行う病棟の産婦死亡率が10%以上、時には約40%と極端に高いことにすぐに気が付いた。それとは対照的に助産婦の訓練を行う隣接病棟の産婦死亡率は、当時の平均値である3%以下にとどまっていた。

 ウィーンのゼンメルワイス財団(Semmelweis Foundation)理事長のベルンハルト・キューエンブルク(Bernhard Kuenburg)氏はAFPに、「ゼンメルワイスはこの差に大いに困惑し、疫学の徹底的な研究を始めた」と語る。

 1847年にゼンメルワイスの同僚の医師が検視を行った後に敗血症で死亡したとき、疑問は氷解した。遺体には目に見えないが致死的な「微粒子」があるに違いないとゼンメルワイスは考えたのだ。

「当時の医学生は検視を終えると、手を消毒しないで真っすぐ分娩(ぶんべん)の介助に駆け付けていた」とキューエンブルク氏。

 ゼンメルワイスは、せっけんの使用だけでは不十分だと考え、高度さらし粉(塩素化石灰)水溶液による5分間の手洗いを義務付けるという厳しい体制を取った。キューエンブルク氏によると、この「非常に簡単な方法」で、ゼンメルワイスは産婦死亡率を「ほぼゼロまで」下げることに成功した。

■医師会の怒りを買い、不遇の死

 しかし、ゼンメルワイスは称賛を受ける代わりに、ウィーン医師会の重鎮らの怒りを買い、1849年に病院勤務の契約を打ち切られた。キューエンブルク氏は、「当時、医師らの自己評価は非常に高かった。彼らは当然、ひどい産婦死亡率の原因が自分たちにあったという考えを受け入れられず、憤激したのだ」と語る。

 パスツールが「細菌」の存在をついに証明できるようになるまで、まだ四半世紀が必要だった。

 キューエンブルク氏によると、他の医師は証拠を示せと要求した。彼らは「ゼンメルワイスが正しいはずがない。病原体を示すことができないのだから、彼の説はうさんくさい」と退けた。

 同僚の医師らを「人殺し」とまで呼んだゼンメルワイスの激しい気性と立ち回りのまずさも、不利に働いた。晩年、ゼンメルワイスの精神状態は悪化し、1865年に47歳で精神病院で死亡した。

■EUでは院内感染で1日に100人死亡

 ゼンメルワイスの名誉が回復し始めたのは、19世紀末に彼の説がパスツールやドイツ人細菌学者のロベルト・コッホ(Robert Koch)、スイス生まれのフランス人アレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)らの発見により証明されてからだ。

 1924年、フランス人の医師で作家のルイフェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Celine)は医学論文をゼンメルワイスにささげ、彼を「天才」と称賛した。

 今日、ゼンメルワイスは病院衛生と消毒の現代的理論の父と見なされている。

 だが、世界保健機関(WHO)の感染予防専門家、ディディエ・ピテ(Didier Pittet)教授はAFPの取材に対し、手の消毒は医療関係者に常識として受け入れられているものの、実践は、いまだに体系立てられていないと語った。同教授によると、手の消毒によって世界中の「院内感染の50~70%を予防できるにもかかわらず」、順守率は「平均して50%」だという。
(リンク先に続きあり)
(c)AFP/Philippe SCHWAB
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533659275/続きを読む

1: みつを ★ 2018/08/08(水) 18:41:43.00 ID:CAP_USER9
https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/world-war-2-soldiers-manned-13048757

要約
第二次世界大戦中の1940年、兵士達が余興の笑劇を開催中にスクランブル発生し、女装したまま任務に就く様子を写真に撮ったが、英政府は英軍の「ダメージ」になるとして80年間封印してきた。ついに公開!


World War 2 soldiers manned anti-aircraft guns in full DRAG after they were scrambled during panto photo shoot

The wartime government had the lighthearted photographs banned so as not to 'damage' the image of British servicemen

ByLaura Forsyth
10:22, 8 AUG 2018

Recently unearthed photos reveal one of the lighter hearted moments of World War Two , as British soldiers are seen manning anti-aircraft guns in full panto drag.

However 80 years ago the wartime government had the pictures banned so as not to 'damage' the image of the British soldier .

Taken in 1940, pictures show the gunners going about their business in dresses, complete with their usual helmets.

Others show the men applying makeup to each other, running up steps as their dresses blow in the wind and showing off their undergarments on stage.

This set of photographs, taken by John Topham while working in RAF intelligence, was censored by the British Ministry of Information when they were taken during the Second World War.

But now the photographs can be seen for the first time after the originals were found in the archive of the veteran Fleet Street photographer.
(リンク先に続きあり)

Wartime government banned the pictures so as not to damage the image of the British soldier (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
5_PAY-Gunners-in-Drag
The unit wearing their dresses are seen running up a grass embankment, in response to the air raid sirens (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
0_PAY-Gunners-in-Drag
British soldiers are seen performing on stage in full panto-drag (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
0_PAY-Gunners-in-Drag (1)
The images were taken by photographer John Topham while working in RAF intelligence (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
0_PAY-Gunners-in-Drag (2)
The photographs were found in the archive of the veteran Fleet Street photographer John Topham (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
3_PAY-Gunners-in-Drag
With no time to change back into their uniforms, soldiers had no choice but to return to their battle stations in drag (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
0_PAY-Gunners-in-Drag (3)
Men were seen performing on stage in bonnets, dresses and black stockings (Image: TopFoto / Retronaut / mediadrumw)
0_PAY-Gunners-in-Drag (4)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533721303/続きを読む

1: 名無しさん@涙目です。 2018/08/06(月) 21:58:52.53 ID:ziSUXk5R0● BE:324064431-2BP(2000)
sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
「本能寺の変」や「関ケ原の戦い」などを巡り、世にはびこる様々な陰謀論や俗説を、専門家の視点から“ガチ検証”した『陰謀の日本中世史』(角川新書)が11万部のベストセラーになっている。
著者で日本史学者の呉座勇一さんは「歴史『を』ではなく、歴史『に』学ぶのは危険」と訴えます。
「『物語』が欲しいなら、ワンピースやスラムダンクを読んで」とも。呉座さんが恐れる歴史の学び方とは?(朝日新聞文化くらし報道部記者・高久潤)

https://withnews.jp/article/f0180806000qq000000000000000W02k10101qq000017768A
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1533560332/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/08/06(月) 14:10:33.86 ID:CAP_USER
英ケンブリッジ大学と米フロリダ大学の学者らは、メキシコで栄えたマヤ文明が滅亡した原因を明らかにした。Discover Magazineが伝えた。

「マヤ先住民の文化を滅ぼしたのは、長期にわたる干ばつで、この干ばつにより地域の平均降水量は50〜70%減少し、湿度は7%下がった。最も深刻な干ばつは950年頃に始まり、マヤ文明滅亡の時期と一致している」という。

学者らは、ユカタン半島中央部に位置するチチャンカナブ湖の堆積岩の水を分析した。水が蒸発する際に同位体組成は少し変化するため、堆積した石膏に関連する水の同位体レベルを変化させたり、
「堆積された」湖の水の同位体レベルを比較することによって、8世紀から9世紀初期に発生した気候変動の様相を復元することができた。

ちょうどこの時期、ユカタン半島を恐ろしい干ばつが襲い、先住民は自らの土地から離れなければならなかった。

Discover Magazineは「食べるために主に穀物を育てていた民族にとって、気候変動は(死刑)判決となった。この時期、人口はほぼ90%減少した」と伝えている。

都市の貯水池や運河の複雑なシステムでさえ、マヤを救うことはできなかったという。

学者らによると、これまでの発掘調査で、マヤ文明の滅亡が内紛と関連していたことが示された。これは貯水池をめぐる争いだった可能性もある。

マヤ文明は250年から800年まで存在した。石の建造物やピラミッド、寺院などがつくられ、世界中で知られている今もメキシコや中米の別の国に、マヤ族の子孫が暮らしている。

5195950
https://sptnkne.ws/jndM
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1533532233/続きを読む

1200px-Stonehenge2007_07_30

1: みつを ★ 2018/08/04(土) 02:56:51.40 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3184831?cx_part=latest

誰がストーンヘンジを造ったか、火葬の灰が手がかりに 研究
2018年8月3日 17:15 
発信地:パリ/フランス [ フランス 英国 ヨーロッパ ]

【8月3日 AFP】英イングランド(England)南部にある5000年前の新石器時代遺跡「ストーンヘンジ(Stonehenge)」の環状に立ち並ぶ巨石群に囲まれて埋葬された人々に関する謎は、100年に及ぶ詳細な科学的調査にもかかわらずほとんど解明されていない。

 大半の遺体は火葬されており、遺灰と数えるほどの骨片しか残されていないため、考古学的調査が行き詰まっているからだ。

 だが、研究初期は英オックスフォード大学(University of Oxford)の大学院生だったクリストフ・スノーク(Christophe Snoeck)氏による発見により、埋葬された人々の多くが英西部ウェールズ(Wales)からはるばるこの地にやって来た可能性が高いことが明らかになった。ストーンヘンジの謎に満ちた魅惑的な巨石建造物群を造るのに使われているブルーストーンは、ウェールズから運ばれてきたとみられている。

 スノーク氏と研究チームが英オンライン科学誌「サイエンティフィック・リポーツ(Scientific Reports)」に発表した論文によると、巨石の輸送を助けた可能性のあるこれら先史時代の徒歩旅行者たちの一部は、火葬に付された後の遺灰が埋葬されていたという。

 中には作業中に亡くなった者や、ストーンヘンジの近くに定住して一生を終えた者もいたかもしれない。

 スノーク氏が実験室で発見したのは、骨に含まれる重元素ストロンチウムが、1000度超に達する可能性のある火葬用のまきの山の高温にも耐えられることだ。

 実際に、極度の高熱によってストロンチウムに固有の痕跡が封印され、周囲の土壌による汚染から、数千年にわたってさえも、隔絶された状態にある。

 焼かれた人間の遺体から情報を引き出すことを試みていた科学者らにとって、このストロンチウムが情報の金脈となった。

 火葬はDNAを含む有機物のすべてを破壊する。「だが、無機物質はすべて残存しており、この人間の遺体の無機質部分には大量の情報が含まれている」と、スノーク氏は説明した。

 ストロンチウムの痕跡を測定することで「人間が摂取する食物、特に植物の原産地がどこかを判断することが可能になる」と、スノーク氏はAFPの取材に語った。

■ウェールズの森から
(リンク先に続きあり)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533319011/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/08/02(木) 15:10:31.99 ID:CAP_USER
世紀半ばに建設された巨大な公共図書館の遺跡がドイツのケルンで発見されました。この図書館には2万巻の巻物が所蔵されていたと考えられています。

'Spectacular' ancient public library discovered in Germany | Books | The Guardian
https://www.theguardian.com/books/2018/jul/31/spectacular-ancient-public-library-discovered-in-germany

この図書館の遺跡は、2017年にケルンの中心部にある教会の敷地内において「遺跡の壁の一部」が発見されたことをきっかけに発掘されることになりました。
考古学者は「この建物は古代ローマ時代に建てられたもの」と語っており、西暦50年に古代ローマ人によって設立されたドイツ最古の都市「コロニア」にあった建物の1つであるとしています。

ローマ・ゲルマン博物館のディルク・シュミッツ氏によると、「発見された壁には小さな隙間がありました。
しかし、彫像を収められる大きさでもなかったので、何の隙間なのか悩んでいました」と述べていて、当初は何の目的で建てられた建物かわからなかったとのこと。
その後、調査を進めていく中で、その隙間が巻物を置くための棚だったことがわかり、後に2万巻の巻物を保管できる巨大図書館であったことが明らかになりました。

シュミッツ氏は「今回発見された図書館は、2世紀半ばに建設されたドイツ最古の図書館で間違いないでしょう」と語り、古代ローマの属州時代に建てられた図書館であった可能性が高いとしています。
また、同氏は「このような図書館は他にもあるはずですが、おそらくまだ発見されていません」として、ヨーロッパの各地にも同様の図書館が存在する可能性も指摘しています。
なお、今回発見された図書館は非常に巨大なものですが、トルコにあるエフェソスのケルスス図書館と比較するとわずかに小さいとのことです。

シュミッツ氏はこの建物は公共図書館として利用されていた可能性を示唆しており、「ケルンの中心部にあるということは、コロニアの中心部にあることを意味します。
古代ローマ時代の都市中心部は公共広場として利用されていたことから、その場所にある建物は全て公共の建物であったはずです」と語っています。

01_m (4)
00_m (4)
02_m (1)

GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180802-spectacular-ancient-library-discovered/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1533190231/続きを読む

↑このページのトップヘ