(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 世界史

1: チンしたモヤシ ★ 2019/01/04(金) 01:27:25.40 ID:CAP_USER9
スターリン時代の「粛清」、ナチスの空撮写真で埋葬地を特定 モスクワ
AFP 2019年1月3日 15:01 発信地:モスクワ/ロシア [ ロシア ロシア・CIS ドイツ ヨーロッパ ]
http://www.afpbb.com/articles/-/3194313

モスクワ郊外の「コムナルカ」地区の森に貼られた、行方不明者の写真。旧ソ連のスターリン政権下で秘密警察によって射殺されたと考えらえている(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
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旧ソ連のスターリン政権下で粛清された犠牲者が埋められていると考えられているモスクワ郊外「コムナルカ」地域の森(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
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旧ソ連のスターリン政権下で粛清された犠牲者が埋められていると考えられているモスクワ郊外「コムナルカ」地域の森(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
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モスクワ郊外「コムナルカ」地域の森に立つ、スターリン時代の粛正犠牲者の追悼モニュメント(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
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旧ソ連のスターリン政権下で粛清された犠牲者が埋められていると考えられているモスクワ郊外「コムナルカ」地域の森(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
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モスクワ郊外「コムナルカ」地域の森に立つ、スターリン時代の粛正犠牲者の追悼碑(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3194313?pid=20600077&page=2

【1月3日 AFP】ロシアの歴史学者と考古学者のチームが、ナチス・ドイツ(Nazi)の爆撃機パイロットが撮影した写真を手がかりに、旧ソ連時代に独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の秘密警察によって射殺された人々の遺体が大量に埋められた場所を特定した。

 モスクワ南西部コムナルカ(Kommunarka)地区にある遺体の大量埋葬地の存在が初めて公になったのは、旧ソ連崩壊の直前、ソ連国家保安委員会(KGB)が文書記録を公開したときだった。そこは、スターリンの秘密警察だった内務人民委員部(NKVD)が、1930年代にモスクワで使用していた3か所の処刑場の一つだった。

 歴史学者らは、1937~41年の間に少なくとも6609人が射殺され、コムナルカの集団埋葬地に遺体が埋められたと考えている。

 周囲から区切られたこの地域の森林はかつて、NKVD長官だったゲンリフ・ヤゴーダ(Genrikh Yagoda)氏が別荘地として使っていた。だがヤゴーダ氏自身もスターリン政権と衝突し、1936年に解任、38年に射殺された。その遺体もコムナルカに遺棄された可能性が高い。

 最近まで、遺体の大量埋葬地は、犠牲者の遺族が追悼碑を建てた森林内の一画にあると考えられていた。だが、歴史学者らは現在、埋葬場所は誤認されていたと考えている。

 グラグ(Gulag)と呼ばれる強制労働収容所の歴史を扱う「グラグ歴史博物館(Gulag History Museum)」の館長で、今回の調査を共同で指揮したロマン・ロマノフ(Roman Romanov)氏によると、コムナルカに関する本格的な考古学調査はこれまで全く行われたことがなかった。「(コムナルカには)何もなかった。みんながキノコ採りをするくらいだった」

 スターリン時代のさらに大きな処刑場だったモスクワのブトボ(Butovo)地区に比べると、コムナルカでの調査規模は小さい。だが、コムナルカに新たな追悼施設を設置するにあたり、歴史学者らは、遺体が埋められている正確な場所を突き止めたかったとしている。

■ナチスの写真が手掛かりに

 調査の鍵となったのは、ナチスの戦闘機パイロットによる1942年のモスクワの空撮写真だった。埋葬場所がまだ「出来立て」のころだ。この写真によって、当時の付近一帯の木の高さが確定できた。

 歴史学者は、これらの木の一部は、遺体が埋められたばかりの場所に植えられたと結論付けた。NKVDが処刑の痕跡を消すためによく使っていた手段だ。次は、犠牲者の遺体が実際に埋められた穴の特定に移った。

(続きはリンク先)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1546532845/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/12/15(土) 15:16:59.82 ID:CAP_USER
■25隻を破壊、200人を殺したバーソロミュー・シャープはなぜ刑を免れたのか

 1680年、イングランドの海賊バーソロミュー・シャープと300人の部下たちは、中米のパナマ地峡を横断してスペインの船トリニティ号を拿捕すると、この船を利用して中南米の太平洋岸を行き交うスペイン船を次々と襲撃した。

 シャープの行いはやがて広く知れ渡るようになる。それは主に、彼らが非常に教養の高いバッカニア(17〜18世紀にカリブ海でスペイン船を襲った海賊たち)だったためだ。彼らのうち、シャープを含む5人が、詳細な日誌を残している。

 こうした記録からは、彼らが手に入れた財宝のうち最も価値の高いものの一つに、スペイン製の海図集があったことがわかる。シャープは後に、この地図帳を元にカラフルな図入りの英語版を作らせ、それをイングランド王に献上している。そしてこの贈り物によって、彼は裁判で無罪を勝ち取った。

 大胆不敵なその略奪行為が行われた現場はエクアドル沖だった。1681年7月29日の朝、シャープの海賊団の一人が、スペイン船の帆を見つけた。彼らはその後を追い、一斉砲撃によってスペイン人の船長を殺害し、船を乗っ取った。

 ロサリオ号からは、大量の陶器詰めワインとブランデー、果物、いくらかの金銭が見つかった。彼らは戦利品をトリニティ号に持ち帰ってから、ロサリオ号のマストを切り倒し、40人の乗組員を乗せたまま海に置き去りにした。

 このときロサリオ号には、鈍い灰色をした金属板700枚も積まれていたが、シャープらはこれを錫であると判断して手を付けなかった。後に、実はこれらが精製前の銀であったことが判明すると、海賊たちは大いに悔しがった。あれは「自分たちがすべての航海で手に入れた中で最高に豪華な略奪品」となったはずだと、船員の一人は記している。

 彼らはしかし、ロサリオ号で見つけたもう一つのお宝の価値は十分に理解していた。シャープはこれについて、自身の日誌の中で「莫大な価値を持つスペインの文書」と表現しており、また海賊団の一人は、以下のように書いている。「海図と地図が満載のすばらしい本で、南海(South Sea)のあらゆる港、水深、入江、川、岬、海岸に関する非常に正確かつ的確な描写と、この海にいるスペイン人が普段から駆使している航海術のすべてが詰まっている」

続きはソースで

■スペインの地図帳を手に入れたイングランドの海賊は大いに喜び、その英語版を作らせてイングランド王ジェームズ二世に献上した。図はグアテマラの地図(太平洋岸から見える火山が描かれている)。
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ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/121100543/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1544854619/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2018/11/26(月)12:52:44 ID:UE3
やりようによってはスペインやイギリスを完全に撃退する事は可能だったの?
テクノロジーの差が痛いけど部族が内輪揉めせずに一致団結していたら勝利できたのか?

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1: ニライカナイφ ★ 2018/11/26(月) 14:07:53.78 ID:CAP_USER9
第二次世界大戦中、ドイツ・ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が利用していたローター式暗号機「エニグマ」内部の3Dモデルが公開された。

英マンチェスター大学の研究チームが、1500枚以上ものX線写真を撮影して作り上げたもので、世界初の試みとなった。

第二次世界大戦中、敵軍に指令が漏れることを防ぐためにドイツの陸海空軍で利用されたエニグマは、どこか大型のタイプライターのような見た目だ。

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その内部には複雑な作りのローターが内臓されており、これによって入力された伝言の文字を別の文字に変換し暗号化する。

しかも1文字変換するとローターが回転するので、同じ文字を入力しても、その前とは違う暗号が出来上がる。

いわゆる”エニグマ・コード”の解読がきわめて困難であるのはこのためだ。

その解読に成功したのが、コンピューター科学や人工知能の父と呼ばれる英国の数学者アラン・チューリングを筆頭とする解読チームである。

彼らの成功によって、戦争が2年は短くなったと言われている。

そのエニグマをX線CTスキャンで解析しようと試みたのが、英マンチェスター大学の研究チームだ。

彼らは1500枚以上ものX線写真を撮影し、そこから世界初となるエニグマ内部の3Dモデルを作り上げた

(動画)
https://youtu.be/bESFcMXB2Rw


https://youtu.be/JtIpk7jEMqg


解析されたエニグマは、1941年にベルリンで製造された後期モデルで、大戦で消失しなかった274台のうちの貴重な1台である。

オーストリア連邦内務省に配備されていたものだと考えられており、現在の所有者は暗号愛好家のデビッド・クリップス氏である。
 
エニグマのほとんどは、対戦末期に連合軍がナチスを圧倒するようになってから、ナチスによって破壊された。

さらに大戦終結後、大戦中に暗号解読学校が置かれたブレッチリー・パークの解読技術の流出を防ぐために、ウィンストン・チャーチルがすべてのエニグマを廃棄するよう指示を出した。

このため現存する実機は非常に少ない。

初期のエニグマは暗号化を行うローターが3基内蔵されていたが、さらに高度かつ複雑な暗号を作成できるよう、のちに4基に改良。このモデルはローターの数にちなんで「M4」と呼ばれている。

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これは大戦初期に連合軍に連敗し、どうにか戦況を打開したいと考えたドイツ海軍のカール・デーニッツ海軍総司令官の指示によって開発された。

デーニッツ海軍総司令官はその出来にかなり満足していたようで、ニュルンベルク裁判では、連合軍が暗号を解読できたはずがなく、敗戦はレーダーと方向探知機のせいだと証言している。

http://karapaia.com/archives/52267886.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1543208873/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/11/12(月) 18:30:24.26 ID:CAP_USER9
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 第1次世界大戦終結から100年目に当たる2018年11月11日、海外メディアでも大戦に関するさまざまな特集が組まれた。軍事面では、良くも悪くも近代戦の基礎が築かれた戦争として第1次世界大戦を捉える論調が多い。そのキーワードは、「空軍」「戦車」「化学兵器」などだ。

◆空軍や潜水艦が登場

 ブルームバーグのコラムニストで、元米海軍大将のジェームズ・スタブリディス氏は、空軍の誕生を第1次世界大戦最大の技術革新に挙げる。今日の米軍が取るピンポイント爆撃を軸とした軍事作戦の起源は、初めて航空機を爆撃・偵察・輸送に用いた第1次世界大戦に遡ることができると、同氏は指摘する。

 今日の日本も先進的な技術を有する潜水艦の軍事利用も、第1次世界大戦でドイツが導入したUボートに端を発する。駆逐艦や魚雷による対潜水艦戦闘も、当時のUボートと戦った連合軍によって生み出された。現在は、核兵器を搭載した原子力潜水艦が世界の支配に大きな影響を与えているが、これも第1次世界大戦の延長線上にある事態だと言えるだろう。スタブリディス氏は、ほかに、救急医療(輸血、消毒、形成手術など)、通信、材料工学なども第1次世界大戦で花開いた近代的な技術に挙げている。

 また、戦車や装甲車、現代では航空機やヘリコプターも用いた機動戦は、第1次世界大戦の教訓から生まれた。欧州の戦線では、ドイツ軍側、連合軍側とも鉄条網と機関銃・大砲で要塞化した長大な塹壕でにらみ合う膠着状態が続いた。スタブリディス氏は、そのフラストレーションが、20年後のナチス・ドイツによる電撃戦を生んだとしている。第2次世界大戦のドイツ軍は、ポーランド、フランス、ソ連侵攻にあたり、戦車や自動車化部隊の機動力を活用して敵の背後を取って包囲殲滅する作戦で緒戦の成功を収めた。近代戦でも、塹壕戦に見られるような引きこもり型の防御よりも、スピードや機動力がより重視される傾向にある。

◆騎兵に代わる陸の主役「戦車」

 電撃戦の主役となった戦車は、第1次世界大戦でイギリス軍が初めて用いた。機関銃弾に耐えられる装甲を備え、無限軌道(履帯・キャタピラ)によって塹壕を乗り越えることができる戦車は、膠着した戦線を破る秘密兵器として期待された。当初は故障の頻発や排気ガスや熱気による乗員への被害、大砲の攻撃には耐えられないなどの問題点が多かったが、両陣営が改良を加えた戦車を競うように導入した結果、しだいに実用的な兵器となっていった。

 カナダ誌マクリーンズは、戦車の登場は、それまでの機動戦の主役だった騎兵部隊を終焉させたという視点で、第1次世界大戦の戦車の登場を捉えている。同誌は、「至る所に敵の機関銃があった。しかし、我々にとって幸運だったのは、戦車部隊がそれらを間もなく沈黙させたことだ。戦車がなかったら、絶望的な任務になったことだろう」という、1918年8月8日のアミアンの戦いに参加したカナダ軍兵士の言葉を紹介している。この戦闘には、343両の英国製マークV戦車が参加した。

 翻って、お互いの領土に陸軍の大部隊を侵攻させる国家間の全面戦争が起きにくくなった現代では、戦車が大量に運用される機会は稀になっている。戦車は依然として各国の陸軍の主役ではあるが、第1次世界大戦の騎兵部隊を自らが駆逐したように、戦車を主役から引きずり下ろす新たな兵器が出てくる日は、そう遠くないかもしれない。

◆化学兵器の根絶はいまだ達成されず

 多くの識者が第1次世界大戦の最悪の負の遺産は、化学兵器だとしている。第1次世界大戦では、両陣営とも塩素ガスやマスタードガスといった毒ガスを使い、多くの死傷者を出した。その反省から、終戦後の1925年のジュネーブ議定書で毒ガスの使用は禁止され、現在の化学兵器禁止条約(CWC)に受け継がれている。

『第1次世界大戦の遺産』という著書があるポール・シュルテ・バーミンガム大学教授は、第1次世界大戦で毒ガス攻撃にさらされた兵士は100万人単位だとし、それによって直接死亡した者は比較的少なかったものの、約9万人が皮膚の小さな焼けただれや肺への悪影響により、「ゆっくりと進行する死」に恐怖することになったとしている。毒ガスによって失明などの深刻な身体障害を負った兵士は多い。後に第2次世界大戦を引き起こしたアドルフ・ヒトラーも、第1次世界大戦で英軍の毒ガス攻撃を受け、一時的に失明したことがある。シュルテ教授は、その恨みによる「精神病理学的影響」が、後のヒトラーの行動に結びついた可能性にも言及している。

(続きはソース)

NewSphere Nov 12 2018
https://newsphere.jp/world-report/20181112-2/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542015024/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/11/16(金) 20:53:00.35 ID:CAP_USER
11月12日、エジプトの考古省は、サッカラにおいて猫やスカラベの大量のミイラを発見したとFBで発表した。推測では、60000年ほど前の神への奉納物であったといわれている。

人間のミイラだけではなく、動物のミイラはこれまでも数多く発見されてきた。しかし、その存在が重要視されはじめたのは最近のことである。

エジプトから発見される大量の動物のミイラを調査分析し、古代の動物たちの毛の色、形、大きさを研究するプロジェクトも発足した。

■研究に従事するのは、古代繊維の専門家!

エジプトの考古学博物館に次ぐレベルを誇るトリノのエジプト博物館。

この博物館内に、動物のミイラの調査を公開するオープンスペースが設けられている。来館者の好奇心に満ちた視線を浴びながら動物のミイラを扱っているのは、古代の繊維の専門家である。

エジプト博物館には現在、およそ120に及ぶ動物のミイラが保管されている。猫、犬、牛、ワニ、ヒヒ、ジャッカル、馬、トキ、ハヤブサ、へび、ガゼル、ライオン、ロバ、そしてスカラベ。古代のエジプトでは、あらゆる動物がミイラにされていたのである。

それは、いったいどんな理由によるのであろうか。

■神への捧げものとして寺院で飼育されていた動物たち

動物たちのミイラは、寺院から大量に発掘されている。たまさかに、人間と一緒にミイラとして葬られている犬も発見されるが、これはペットとして愛されていた犬たちであろう。死してなお、愛する犬と共にいたいという愛犬家は古代にも存在したことを物語る。

一方、寺院で発見される動物のミイラは、その動物に関連する神への捧げものであった。たとえば、バステトの女神には猫、セベク神にはワニ、といった具合に。

こうした動物たちは、寺院内で飼育され殺されミイラにされて、信者たちに販売されていた。その証拠に、歯がすべて抜かれたヒヒのミイラや、頚椎が粉々になった猫のミイラも数多く発見されている。また、動物のミイラをかたどっていながら、中は空っぽであるものもある。その代わりに、豪華な装飾が施されているミイラは富裕層からの奉献と推測されている。こうした動物のミイラは、当時の人々にとってはかなり高価なものであったようだ。

■大量にヨーロッパに運ばれ燃料として使用されたミイラ

人間のミイラと同様、19世紀には大量の動物のミイラがヨーロッパに運ばれた。その数は、一説によれば19トン。多くはイギリスに持ち込まれ、肥料や燃料として使用されたという。

ちなみに、アビドスからは大量のトキが、コム・オンボからはワニが、トゥナ・エル・ゲベルではトキとヒヒが、サッカラとブバスティスからは数多くの猫のミイラが発掘されている。

■ミイラの形にも美的センスが

現代の動物愛護の精神で考えれば、これは動物の虐待以外のなにものでもない。

しかしそうした倫理観は別に考えると、ミイラにされた動物たちは非常に念入りに形を整えられていることがわかる。

例えば猫のミイラは、耳がぴんと立ち、脚が整えられ、後ろ足のあいだからしっぽを出して腹部をまわり首のところで止められている。猫の優雅さを損なわずに、ミイラ化されているのである。

続きはソースで

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https://www.discoverychannel.jp/0000040578/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1542369180/続きを読む
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1: みつを ★ 2018/11/16(金) 02:01:07.41 ID:CAP_USER9
https://jp.sputniknews.com/life/201811145582484/

ロシアの議員、レーニン廟のレーニンの遺体を人形と交換するよう提案
社会
2018年11月14日 23:47

ロシア・レニングラード州議会のウラジーミル・ペトロフ議員は、モスクワのレーニン廟に安置されているウラジーミル・レーニンの遺体を、コピーと交換するようロシア政府に要請した。
スプートニク日本

ペトロフ議員は、ソ連政府初代議長レーニンの最後の意思を叶え、レーニンの没後100年を迎える2024年に、レーニンの遺体を埋葬するよう政府に呼びかけた。

ペトロフ氏は、レーニン廟にレーニンの遺体の正確なコピーを置くことで習慣や伝統を壊さずにすむほか、遺体を良い状態で保存するためには多額の資金がかかるため、大幅な予算削減にもなると考えている。

なおロシア共産党の下院議員らは、ペトロフ議員の提案を公に非難し、ペトロフ氏は「扇動者」であり、そのアイデアは「ばかげている」と指摘した。

共産党のジュガノフ党首は、共産党員はレーニン廟からレーニンの遺体を運びだすことを許可しないと述べ、レーニンの遺体埋葬をめぐる論争の再過熱は、国民の関心を焦眉の問題からそらす為に人工的につくられたものだと非難した。

全ロシア世論調査センターの2017年の情報によると、ロシア人の60%以上が、レーニンの遺体を埋葬するべきだと考えている。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542301267/続きを読む
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1: みつを ★ 2018/11/14(水) 23:30:37.55 ID:CAP_USER9
https://www.bbc.com/japanese/46204022

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に
2018/11/14 6時間前

にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。

写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。

ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。

2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。
「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。
競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。
それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。
「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。
ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935~1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。
(リンク先に続きあり)

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542205837/続きを読む
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