(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

カテゴリ: 本・ゲーム・テレビ・漫画等

1: ばーど ★ 2018/12/20(木) 11:54:10.10 ID:CAP_USER9
徳川家光「兎図」(部分)。ゆるい絵ではあるが殿様が描いた作品のため、重厚な箱に納められ大事に受け継がれていた
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徳川家光「木兎図」(部分)

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 徳川幕府の礎を築いた3代将軍家光の水墨画2点の実物が来年3月、東京・府中市美術館の「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」展で初めて公開される。家光の作品はこれまで10点弱しか見つかっていないが、いずれも素朴な画風だといい、金子信久学芸員は「意図して下手に描いたのかはわからないが、これが家光のスタイルだった」と話す。

 東京都文京区の養源寺に保管されていた「木兎(みみずく)図」はとぼけた表情を向け、数年前に京都で見つかった「兎(うさぎ)図」は、大きな黒目で切り株の上にちょこんとたたずむ。兎図が表装された掛け軸には、葵(あおい)の紋があしらわれている。美術館によると、家光は政務の傍ら絵をたしなみ、家臣に作品を与えることもあった。

 本展は3月16日から5月12日まで。長沢芦雪(ろせつ)や伊藤若冲、仙厓(せんがい)義梵(ぎぼん)らの作品も含め44点が初公開という。(森本未紀)

2018年12月20日11時16分
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASLDM3V5YLDMUCLV007.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1545274450/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2018/09/18(火)01:00:25 ID:1O2
特定は勘弁な

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1: ガーディス ★ 2018/09/04(火) 10:52:43.84 ID:CAP_USER9
【ロンドン時事】ギリシャ神話で牛頭人身の怪物ミノタウロスが閉じ込められたとされる迷宮は、実在しない―。

 米大研究者が最新調査でこう結論付け、米考古学専門誌に論文が掲載された。英紙タイムズがこのほど報じた。

 ギリシャ神話では、クレタ島のミノス王が自らの王妃と雄牛の間に生まれた凶暴なミノタウロスを迷宮に閉じ込めたとされる。古代ミノア文明の存在を明らかにした英考古学者アーサー・エバンズが1900年、クレタ島で複雑な構造を持つクノッソス宮殿遺跡を発掘し、「おそらく実在した迷宮の跡地だ」と推定して以来、考古学者や歴史ファンの間で実在するかどうかをめぐり論争を呼んできた。

 同島の古代都市遺跡「ゴルティス」の近くの迷宮のような洞窟を有力候補に挙げる声もあった。

 しかし、米シンシナティ大学の考古学者アントニス・コツォナス氏は論文で、いずれの遺跡でも文献学上も考古学上も迷宮の跡地とする根拠が見当たらず、「神話は特定の場所や記念碑とは結び付いていないようだ」と結論付けた。特にクノッソスでは、古代ギリシャ人が「迷宮」と信じていた場合には見つかるはずの儀式芸術の痕跡がなかったという。 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180904-00000002-jij-eurp
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1536025963/続きを読む
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1: しじみ ★ 2018/08/30(木) 18:41:20.24 ID:CAP_USER
 今回の記事では、「英語」という言語が生まれた歴史に着目。ヨーロッパにおける「征服」と「勢力拡大」の歴史の中でくり広げられた英語の発生と変遷を、図版と共にわかりやすく説明しよう。

■ゲルマン民族大移動の余波

 そもそも「English(英語)」という言葉の語源は何なのでしょうか?

 英語が誕生する前にブリテン島(イギリスの島)にいたのは、古代ブリトン人(ancient Britons)でした。彼らはインド・ヨーロッパ語族に属し、今のウェールズ語やコーンウォール語、アイルランド語が、彼らの話していたケルト語の子孫です。

 その後、ブリテン島に攻め寄せてきたのがローマ人(Romans)です。彼らローマ人たちは、ブリトン人(Britons)の名から、この地を「ブリタニア(Britannia)」と呼びました。ユリウス・カエサルは西暦前55年と54年の2度、ブリタニアに上陸しましたが、抵抗にあって征服できませんでした。

 そして西暦43年、皇帝クラウディウスが軍隊を派遣してブリタニアを属州に。その拠点が、ロンドニウム(現在のロンドン)でした。当時の遺跡としては、ハドリアヌス皇帝が、北方ケルト人に対する防衛のために築いたハドリアヌスの長城が有名。やがて409年に、ローマ本国の衰退のため、属州のブリタニアからローマ人は撤退しました。ローマ人の話したラテン語の影響は、地名などに今なお残っています。

 4~5世紀には、北アジアの遊牧民族のフン族に追われてゲルマン民族が大移動しました。その一部であるアングロ・サクソン族(アングル人とサクソン人の総称)がブリテン島に移住したときから「English」が始まりました。この「English」という言葉自体が「Angles(アングル人)」に由来し、彼らが元々住んでいた場所は「アンゲルン半島」と呼ばれています。

 彼らが話した西ゲルマン語に属する言葉は、現在における英語のベースとなっており、アングロ・サクソン時代の英語を「古英語」といいます。

 9世紀頃、次にブリテン島に攻め寄せてきたのが、ヴァイキングのデーン人です。一時期は、イギリスの約1/3の領土を占領しました。このデーン人はブリテン島を侵略していきましたが、アングロ・サクソン族のアルフレッド大王が、デーン人による完全制覇を阻止しました。

 次にイギリスに攻めてきたのが、フランスのノルマン人ギョーム2世でした。ノルマン人は、バイキングがフランスのノルマンディー地方に住み着き、生活や言語がフランス化した人々でした。

 ギョーム2世は1066年にイギリスを占領し(ノルマン・コンクエスト)、ウィリアム1世(征服王)と名乗ります。これがノルマン朝の始まりです。さらに、イギリスの宮廷の公用語や上流階級の日常語がフランス語(厳密にはノルマン・フランス語)となりました。

 一方、英語は庶民の言葉として引き続き使われました。このノルマン・コンクエスト以降の英語のことを、中世の英語という意味で「中英語」といいます。そして、やがて大母音推移が進行し、1476年にイギリスで印刷が始まる頃から「初期近代英語」の時代となります。

 このように、イギリスは次々と大陸からの侵略者に攻め込まれてきたために、さまざまな言語の単語が英語に入り込んできました。とはいえ、ローマ人やアングロ・サクソン人、バイキングのデーン人、そしてノルマン人たちは、みなインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話しました。

 特に、アングロ・サクソン語の古英語とバイキングの古ノルド語は、ゲルマン語同士で近い言語でしたが、一番違ったのは動詞や名詞の語尾変化。語尾さえ「適当に」発音すれば案外会話が通じたことも想像できます。英語の動詞の活用や名詞の格変化が、これほど簡略化したのはこうした理由のためでした。

 ノルマン・コンクエスト以降、古フランス語がたくさん英語に入り込み、ゲルマン語とは違う意味で用いられました。たとえば、英語で「豚」は「pig(ピッグ)」ですが、「豚肉」は「pork(ポーク)」。「牛」は「cow(カウ)」で、「牛肉」は「beef(ビーフ)」、「羊」は「sheep(シープ)」で、羊肉は「mutton(マトン)」です。

ハドリアヌスの長城
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■ノルマン人の勝利を決めたヘイスティングズの戦いの場「バトル修道院」
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https://ddnavi.com/review/482840/a/
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1535622080/続きを読む
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1: みつを ★ 2018/08/28(火) 03:23:10.27 ID:CAP_USER9
https://s.kyoto-np.jp/sightseeing/article/20180827000176

平等院に封じられた日本三大妖怪
都への要衝、怪異と関係

 妖怪と京都・宇治をテーマにした講演会「妖怪の文化~宇治にまつわる怪異」がこのほど、京都府宇治市宇治の市生涯学習センターで開かれ、京都学園大人文学部の佐々木高弘教授(59)が妖怪の生まれる背景や宇治との結びつきについて語った。

 佐々木教授は「日本三大妖怪」とされる玉藻前(たまものまえ)、大嶽(おおたけ)丸、酒呑童子を紹介し、いずれも古代の関所が関わっていることを指摘。国家にとって関所の先は未知の世界で、妖怪がいると考えられていたと説明した。

 さらに、いずれの妖怪も、宇治の平等院の宝蔵に封じ込められたとの伝承があることを紹介した。背景として、平等院が都に通じる交通の要衝である宇治橋のたもとにあり、侵入を防ぐ機能があったことや、妖怪退治に携わった渡辺綱の祖である源融の別荘が平等院になったことなどに触れ、「(物語が作られた)中世、近世に宇治は重要な場所として認識されてきたと推測される」と語った。

2018年08月28日 03時00分配信
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535394190/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/08/19(日) 20:15:54.99 ID:CAP_USER9
 太平洋戦争で、連合国側から名将として評価される数少ない旧日本陸軍将官の一人に、今村均大将がいる。その没後50年の今年、桐生市の著述家、岡田幸夫さん(71)が、今村の功績のひとつ「ラバウル防衛戦」の様子を一冊の本にまとめた。戦争の記憶が薄れつつある中、岡田さんは「混乱の中、日本軍にも時勢に流されない正義感と先見の明を持った人物がいたことを知ってほしい」と話す。

 著書のタイトルは「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」(郁朋社刊)。対米開戦から1年、敗勢に転じ始めた時期に南太平洋戦線の拠点ラバウルに司令官として赴任し、大規模な餓死者や病死者を出すことなく終戦まで戦い抜いた今村の姿を詳細に記している。

 政府見解によると、太平洋戦争と、その前段となる日中戦争での旧陸海軍戦死者は約230万人。内訳は戦闘による死亡よりも補給欠乏による餓死や病死が多数といわれ、6割(約140万人)を占めるとする学説もある。

 今村は本国からの補給が全くない状況下で、終戦までの2年半余、自給自足による食糧確保と戦線維持を成功させて指揮下の陸軍将兵約7万人の「無駄死に」を防いだ。終戦後のラバウルからの生還者は、今村の赴任時とほぼ変わらず、海軍と合わせて約10万人に上る。

 今村は米軍撃退の命令を受けて赴任したが、補給も見込めない状況では将兵を餓死させないことが責務と判断。サツマイモなど食糧の組織的栽培・生産を実行した。岡田さんは「補給もせず精神論で戦闘を強要し、多くの犠牲者を出しながら責任を取ろうともしなかった将官が多かった中、今村の姿勢は際立っている」と指摘する。ラバウルの自給自足は食糧だけにとどまらず、火薬など兵器にまで及んだ。「代用品の域は出ないが、医薬品も自給したようです」。このため、米軍の激しい爆撃を受けながら、規律や士気は終戦まで維持されたという。

 岡田さんは桐生高卒業後、東北大に進学し、仙台市で今村の存在を知った。今村は仙台出身で、太平洋戦争序盤に宮城県出身の兵士を率いてオランダ領(当時)インドネシアを攻略したため、今村に特別な念を抱く人が多かった。「下宿先の寺の住職も、徴兵されて今村司令官の指揮下で戦った人で、私の前でも『今村閣下』と呼んで尊敬の念を隠そうとしなかった」。その後、少しずつ今村の事績を調べ、いつか本にまとめたいと考えてきたという。

 今村の優れた点を、岡田さんは「その人間性と良識」という。インドネシア攻略に成功して進駐した今村は、本国の干渉を無視し、降伏したオランダ人にもインドネシア人にも融和的な軍政を敷き、捕虜虐待などもなかった。このため、戦後、オランダから戦犯に指名された際も現地インドネシア人が法廷で擁護し、無罪となっている。

 また、オーストラリアから戦犯に指定されて巣鴨プリズンに収監されたが、「帰国することなく現地で収監されている部下がいる」として、マッカーサー連合国軍最高司令官に南太平洋ニューギニアの収容所への移送を陳情。マッカーサーは「初めて武士道の神髄に触れた」と感じ入り、許可したという。

 今村のような将官ばかりであれば、あんなばかげた戦争は起きなかったのではないか--岡田さんの思いだ。「戦後生まれの私だが、戦争の悲惨さを忘れないとともに、時代を超えて心にとめておかなければならない人物として今村を知ってほしい」

 「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」の問い合わせは、郁朋社(東京都千代田区三崎町2の20の4)。【高橋努】

 ■ことば

今村均

 1886年、仙台市で旧仙台藩士の家に生まれる。裁判官だった父の転勤に伴い、山梨、新潟で少年期を過ごす。父の急死で旧制高校進学をあきらめ陸軍士官学校入学。陸軍大学校を首席で卒業。太平洋戦争開戦後、オランダ領インドネシア攻略軍の司令官と占領後の軍政最高責任者を務める。1942年11月、ラバウルに赴任して終戦まで軍司令官として陸軍将兵約7万人を指揮した。戦後、オーストラリアから戦争指導者として戦犯に指名されて禁錮10年(オランダからの訴追は無罪)。釈放後は都内の自宅庭に建てた3畳一間の「謹慎小屋」で回顧録の執筆を続けた。68年、82歳で死去。

毎日新聞 2018年8月19日
https://mainichi.jp/articles/20180819/ddl/k10/040/099000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534677354/続きを読む
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1: 風吹けば名無し 2018/08/16(木) 07:05:51.42 ID:EHwS7PCod
 日本はかつて、古代中国から多くを学んだが、それには「妖怪文化」も含まれるという。中国メディアの快資訊は10日、日本の妖怪を中国の「パクリ」としたうえで、中国の妖怪はどうして日本のパクリに遠く及ばないのかと疑問を投げかける記事を掲載した。

 日本では、遊園地にお化け屋敷があるのが定番で、夏になると怪談をテーマにした番組が多くみられる。日本は「妖怪で有名」だと記事が述べているのも納得である。記事は具体的には記していないが、古代において日本の怪談の量は中国ほど多くなかったようだ。しかも、暗くて悲惨な話が多く、農民の厳しい生活を反映していたのだろうと推測している。また、日本の妖怪の多くは中国の怪談の影響を受けていて「中国出身」、つまり日本の妖怪は中国の「パクリ」であると主張した。

 しかし、現在では中国の妖怪は有名ではないという。西遊記や白蛇伝など昔の話が多少残っている程度である。それに対して、日本ではアニメやドラマで次々と新たな妖怪ものの作品が出て人気を博している。有名なところでは、ドラマにもなった漫画「百鬼夜行抄」(ひゃっきやこうしょう)や、「夏目友人帳」があると指摘。さらには日本の妖怪を一躍有名にした水木しげる氏の作品や、「鬼灯の冷徹」(ほおずきのれいてつ)、京極夏彦氏の「百鬼夜行シリーズ」など、日本には多くの有名な作品があると紹介した。

 こうした作品は中国人にも有名だ。では、日本のように妖怪を題材にした作品が中国では少ないのはなぜだろうか。記事はその理由について、建国後の中国の方針と関係していると指摘した。科学を重視するようになった中国では、唯物論によって信仰のみならず「昔からの伝説も大々的に抹殺」したと残念そうに伝えた。筆者に言わせると、妖怪も伝統文化の重要な部分であり、再び脚光を浴びるのを希望しているようだ。

 日本の妖怪が中国のパクリかどうかはさておき、中国では日本の怪談が人気なのは間違いないようだ。テレビで放送されていないとしても、動画共有サイトでは日本の妖怪ものの作品が非常に多く出ており、多くの人がこの題材に興味を持っていると言えるだろう。
逆を返せば、日本にとっては商機があるとも言えるかもしれない。(編集担当
:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1665254?page=1
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1534370751/続きを読む
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1: 名無しさん@涙目です。 2018/07/28(土) 12:26:10.33 ID:2Fvj9Sze0● BE:324064431-2BP(2000)
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日本のサムライゲームは世界で人気なのに、なぜ中国の武侠ゲームはダメなのか=中国

ゲームユーザー1人あたりの支出額で世界トップの日本。世界のゲーム市場規模で見ても、今年は中国と米国に次ぐ世界3位になると見込まれているといわれ、日本は大のゲーム好きな国と言えるだろう。そんな日本ではゲームメーカーも存在感を示している。

6月12日―14日に米国で開催された世界最大級のゲームイベントE3 2018では、日本企業の出展したゲームが非常に注目を集めていたという。
中国メディアの快資訊は24日、なぜ日本のサムライゲームは世界で認められているのに、中国の武侠ゲームはアジアの域を出ないのかとする記事を掲載した。

記事は、日本のサムライを題材にしたゲームと中国の武侠ゲームは、東洋の格闘ゲームという意味では同じはずだと主張。
題材としては似ているはずなのに、中国のカンフーゲームが欧米市場から同じ反応を引き出せないのはなぜだろうか。記事は3つの問題点を分析している。
まず、「武侠は複雑」で分かりづらいこと、「国内の商業化」、そして、「中国の文化発信力」不足が考えられるという。

商業化についてはありがちな話である。抗日神劇と揶揄される抗日ドラマをほうふつとさせるが、中国人は儲けになりそうな話があると大挙して乗りかかる傾向がある。
武侠を題材にしたゲームも、儲かりそうだとふんだ多くの中国メーカーが「ごみ」レベルの製品を大量に生産したため評判を落とし、中国人プレーヤーからも避けられているほどだと指摘。
確かにこれでは欧米のプレーヤーを引き付けるのはより難しいだろう。また、中国文化には日本の「クールジャパン」のような影響力がなく、
日本のように欧米に認められるには時間がかかると分析した。

http://news.searchina.net/id/1664169?page=1
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1532748370/続きを読む
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