(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 中華史

1: みつを ★ 2018/06/14(木) 23:47:50.86 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180614/k10011477901000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_062

唐の時代の「花の石敷き」 中央アジアで発見
2018年6月14日 23時00分

唐の都、長安からおよそ3000キロ離れた中央アジア・キルギスの遺跡で、花の文様を描き出した当時の石敷きが見つかり、帝京大学などの調査団は、唐の文化がそのまま持ち込まれたことを示す発見だとしています。


キルギスにあるアク・ベシム遺跡は、中国の王朝、唐が7世紀後半に勢力範囲の最も西に築いた「砕葉鎮城」(さいようちんじょう)という軍事・行政拠点の跡と見られ、帝京大学文化財研究所などの調査団がおととしから発掘調査を進めています。

ことし4月から行われた調査では、建物の外側にあたる場所に、直径1.8メートルほどの井戸とみられる穴と、その周りに広がる石敷きが見つかりました。

石敷きには、赤や白などの石を組み合わせて描き出した直径50センチから80センチほどの花の文様が合わせて12か所で確認されました。

このような文様が中央アジアで確認されたのは初めてだということで、調査団は、都の長安からおよそ3000キロ離れた拠点に唐の文化がそのまま持ち込まれたことを示す発見だとしています。

調査団長を務める帝京大学の山内和也教授は「とてもきれいで、こんなものが出てくるのかと驚きました。この場所は東と西の接点にあたり、今後の発掘で、町全体がどういう構造だったのか、地元の人たちとどう接していたのかが明らかになると思う」と話しています。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528987670/続きを読む

1: じっぷら卒 ★ 2018/06/11(月) 09:24:42.37 ID:CAP_USER9
中国の18世紀の皇帝、乾隆帝が所有していたとされる「抱月瓶」と呼ばれる希少な磁器がフランスで競売にかけられ、激しい入札競争の末、410万ユーロ(約5億2900万円)で落札された。

200年以上前に作られた青と白のこの磁器を、約10分間続いた入札で中国人の買い手17人を抑えて競り落としたのはフランス人女性。これについて競売業者は、「歴史に残り、語り継がれる」落札と形容している。

諸経費を含めた総額は、入札開始価格50万ユーロ(約6450万円)の10倍の500万ユーロ(約6億4500万円)を上回った。

乾隆帝は在位期間が最も長い中国皇帝の一人で、その治世は18世紀の大半にわたり、芸術作品の熱心な収集家でもあった。

この抱月瓶には、ハスの花弁に8つの仏教のシンボルがあしらわれ、皇帝の印が付されている。今年4月、フランスのある城で骨董(こっとう)品の鑑定中に偶然発見されたという。

*画像はソース元にあります
http://www.afpbb.com/articles/-/3177981
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528676682/続きを読む

1: 名無しさん@涙目です。 2018/06/07(木) 22:50:30.36 ID:B5i99PTP0● BE:324064431-2BP(2000)
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日本の学校で使用する歴史の教科書には、中国の歴史についても多くの記述があり、中国の歴史について概略だけでも知っているという日本人は少なくないだろう。また、日本には中国の歴史を研究する専門家も数多くいるが、中国は自国の歴史に誇りを持ちすぎているためか、他国の歴史に無関心なところがあるようだ。

 中国メディアの網易は2日、日本には中国の歴史に対して強い関心を示す人は多いと指摘する一方、中国では日本の歴史に無関心な人ばかりなのはなぜなのかと疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、中国人が日本人ほど相手国の歴史に関心を抱かない背景について、「日中両国の縁の深さ」を挙げ、日本と中国の交流は古くからあり、近代から現代にかけては様々な領域で衝突を続けていると紹介。それゆえ、中国人にとって日本は身近な存在でもあり、その歴史に対して強い興味を抱きにくいのではないかと主張した。

 続けて、多くの中国人は歴史問題を理由に、日本に対して「民族的感情」や「政治的感情」が先立ってしまうため、理性的な思考能力を失ってしまい、公正な判断ができなくなってしまうと主張。それゆえ、日本の歴史を公正に理解しようという気持ちも芽生えにくいのだと伝えた。

 また記事は、封建制度のもとでの戦や戦争を日中で比べてみると、日本は土地を収めていた武士同士の争いが戦であり、農民は戦に参加して功を挙げる権利すらなかったが、中国の場合は往々にして「土地を失った農民」たちが蜂起し、戦争となったケースが多くあると指摘。日本の歴史を学ぶことでこうした違いも見えてくるほか、中国人が自国を日本より良い国にしたいならば、日本がどのようにして強大な国になったのかを知るのが一番良いはずだと主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1660896?page=1
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1528379430/続きを読む

1: みつを ★ 2018/06/05(火) 18:35:56.86 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3177338?cx_position=1

「兵馬俑」の命名者、趙康民氏が死去 発掘・修復の草分け
2018年6月5日 18:26 発信地:東京

【6月5日 東方新報】中国考古学者の趙康民(Zhao Kangmin)先生がこの世を去って、約2週間が過ぎた。この間も、中国を代表する遺跡である兵馬俑(へいばよう、Terracotta Warriers)には毎日、多くの観光客が訪れている。しかし、これらを命名し、修復活動などを進めてきた草分けである趙氏がこうした光景を見ることは、もうない。

 5月16日午後9時半、82歳でこの世を去った趙氏は、その一生を文化財保護事業に捧げた。趙氏が館長として長らく勤めた中国臨潼博物館(Lintong Museum China)には厚さ10センチもある本人の手記が保存されている。手記には、趙氏と兵馬俑との縁が語られている。

「一介の考古学者が、運よく兵馬俑遺跡1号坑の発見、鑑定、修復、命名などに携わることができた。この巨大な秦王朝の地下軍営の秘密を公開できたことは、この上ない幸せなことだ」

 現在、臨潼博物館で、4体の兵馬俑が展示されている場所がある。うち3体の軽武装した兵士俑は、井戸の中から発掘された破片を、趙氏自らが修復作業を手がけた最初の兵馬俑だ。秦始皇帝陵博物院から距離的にもそう遠くない臨潼博物館で陳列された兵馬俑が、一番最初の出土品であることを知っている人は少ない。

■最初に見つけた兵馬俑、「かかし」だった

 初めて兵馬俑を見た時の状況について、趙氏の手記には次ように記されている。

「井戸の掘削を担当していた農民が、出土した秦時代のレンガを私に見せた。その足で、井戸のある場所まで向かう。しかし現場は荒廃していて、周囲では破片がバラバラに見つかった。頭部の一部が木の上にかけられていたり、麦畑には胴体部分が立てかけられていたり。農民の帽子を頭部にかぶったその姿は、まさに『かかし』そのものだった」

 趙氏は現場を片付けた後、3台のリヤカーで破片を回収し、作業場所まで運んだ。その日の夜のうちに発掘したすべての破片を分類して並べ、破片の断面を水で洗浄し、エポキシ樹脂の接着剤でくっつけ、破損か所は石こうで補った。3日かけて2体を修復し、その最初の「兵士」を「秦代武士俑」と初めて命名した。

 李美侠(Li Meixia)さんは、趙氏が臨潼博物館館長時代に陳列部主任を務め、2000年ごろに定年退職した。趙氏とは20年以上、仕事を共にしてきた。趙氏の訃報を聞いたとき、とても辛かったと話す。

「私は今でも趙館長が一人文化財倉庫の中でしゃがみ込み、数千個の破片とにらめっこしたり、修復してたりしている姿が思い浮かぶ。館長は一度しゃがみ込むと、半日ほども座り込んだままになる。イスを差し出しても座ろうともせず、文化財に夢中になっていて、我を忘れているようだった」

 敬慕する趙氏について語り始めると、李さんの目には涙があふれた。「趙康民は、本当にその一生を考古学に捧げた人だ」と言った。

 臨潼博物館職員の携帯電話には趙氏の写真が多く残っているのを、取材を通して知った。趙氏は40年もの間、考古学一筋に尽くし、博物館をわが家のように思い、考古学を大事な事業としてみていた、というのが職員らの印象だ。晩年にも臨潼博物館の発展のことを考え、努力をたゆまず、研究や書籍などの執筆を続けていた。(c)東方新報/AFPBB News
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528191356/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/05/29(火) 20:12:33.64 ID:CAP_USER
【新華社河北】中国河北省南宮市の文化財部門がこのほど行った調査で、
市内紫塚鎮の一般家庭から中国明代、成化年間(1456-1487年)の聖旨(皇帝の命令書)が見つかった。
500年以上経っているが、保存状態は良好だという。(c)新華社

画像:23日、河北省南宮市で見つかった明成化年間の七彩聖旨の一部
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http://www.afpbb.com/articles/-/3176287
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1527592353/続きを読む

jyo (1)
1: 名無しさん@涙目です。 2018/05/18(金) 12:23:52.84 ID:jpl1IriJ0● BE:324064431-2BP(2000)
sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
日本人の由来には諸説あるが、一説には今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を探すため、若い男女を含む総勢3000人を連れて渡来した徐福(じょふく)が日本に残り、子孫を残したという説がある。中国メディアの今日頭条は13日、この説の信ぴょう性について分析する記事を掲載した。

 記事は、江戸時代の民間伝承に徐福に関わる伝説が加えられたと紹介。徐福は薬草や農耕技術も持って渡ってきたとされ、日本では農耕をつかさどる神とか、医薬の神様などの異名を付けられたほどで、日本の発展に寄与したことがうかがえるという。徐福に関しては、日本では和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山近辺など多くの場所で伝説や記念館があることから、日本に渡ってきたのは間違いないだろうとした。

 また、台湾の学者が徐福は神武天皇だという説を提出し、一定の賛同を得ていることも紹介。その真偽はともかく、徐福と同行した大勢の中国人が日本にたどり着き、彼らの子孫が日本にいるに違いないと結論づけた。

 この手の話は中国のネット上でよくでる話であり、史実であると信じている中国人も少なくない。確かに、日本各地に徐福に関する伝承が残っているが、その内容は地域によってさまざまであり、真偽は不明である。しかし、こうした話は中国人にとって歴史のロマンが感じれるので好まれるのであろう。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1659580?page=1
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