(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

1: かばほ~るφ ★ 2017/05/25(木) 18:55:18.41 ID:CAP_USER9
旧日本軍の潜水艦24隻 音波探知機で捉える
5月25日 16時35分

長崎県の五島列島沖の水深200メートル付近で、海底に垂直に突き刺さった状態の潜水艦など、旧日本軍の潜水艦合わせて24隻の姿を、海底探査を専門とする民間の調査チームが音波探知機で捉えました。
調査にあたった専門家は「旧日本軍の潜水艦については詳しい図面がほとんど残されていないため、検証も進んでおらず、貴重な戦争遺産だ」と話しています。

調査を行ったのは、海底探査が専門の東京大学の浦環名誉教授などで作る民間のチームで、今月19日から21日にかけて、長崎県の五島列島沖の東シナ海で調査を行いました。
その結果、海底に垂直に突き刺さったり、海底に横たわったりしている24隻の潜水艦の姿を音波探知機で捉えたということです。

この海域では、太平洋戦争の終戦の翌年、1946年4月にGHQ=連合国軍総司令部によって、旧日本軍の潜水艦合わせて24隻を海に沈める処分が行われていて、調査チームは、今回確認された24隻の潜水艦は、GHQによって処分された潜水艦だとしています。

調査チームでは、このうち1隻について、「伊402」という名前の潜水艦だと特定し、残りの潜水艦については、これから順次名前の特定を進めたいとしています。

この海域では、2年前に海上保安庁が行った調査でも、潜水艦と見られる24の船の影が確認されていました。

調査チームの代表を務める、東京大学の浦名誉教授は記者会見で、
「旧日本軍の潜水艦をめぐっては、性能や機能がわかる図面がほとんど残っておらず、戦争の歴史を記録するという観点でも詳しい検証が行われていない。今回確認された24の潜水艦は、旧日本軍のありのままの姿を知ることができる貴重な戦争遺産だ」
と述べました。

調査チームでは、ことし8月にも探査機を沈めて、一部の潜水艦について、より詳しい調査を行いたいとしています。さらに調査チームでは、戦争の遺産として展示できるように、一部の潜水艦について引き上げが可能か検討したいとしています。

■2年前より近づけて調査

2年前に海上保安庁が調査した際には、船の底に取り付けた音波探知機で、水深200メートル付近を見下ろすような形で探査が行われました。
今回は、船から音波探知機を水深150メートル付近までつり下げ、より近くから、横から見るような形で探査が行われました。

■ほとんど残されていない潜水艦資料

調査チームによりますと、旧日本軍の潜水艦をめぐっては、建造当初の外観については設計図が残っているものの、内部の構造や機能に関する図面はほとんど残されていないということです。
また、旧日本軍の潜水艦では、戦時中、攻撃性能をより高める改造が行われたとされていますが、どのような改造が行われたのかを記録した図面はほとんど残されていないということです。

(後略、全文はソースで)
NHK NEWSWEB
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170525/k10010994701000.html

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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/04/28(金) 19:20:13.98 ID:CAP_USER9
国土地理院は28日、戦前に撮影した東京23区の航空写真519枚をつなぎあわせ、同院のウェブサイトで公開した。
この広さの戦前の航空写真が見られるのは、国内では例がないという。

公開を始めたのは、1936年ごろに撮影された世田谷区の一部を除く23区の航空写真。
これまでは1枚ずつ公開していたが、ずれがないようにつなぎ合わせ、広域的に見られるようにした。
現在の同じ場所の写真とも比較でき、JR東京駅東側の道路が当時は皇居の外堀として残っていたことが分かる。

同院情報サービス課によると、戦前の航空写真は、37年に東京の地図を更新するために撮影されたと考えられるという。
同課は「地域を知るための学習や、河川のあった場所や埋め立て地の確認などに活用してほしい」としている。

http://mainichi.jp/articles/20170429/k00/00m/040/057000c
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/johoservice20170428.html

【1936年頃の空中写真の表示方法】
PCまたはスマートフォンから地理院地図(http://maps.gsi.go.jp/)にアクセス
1. 「情報」→「トピック」タブの「空中写真・衛星画像」フォルダをクリック
2. 「1936年頃」を選択
3. 空中写真の透過率を変更させて、現在の地図と重ね合わせて表示
http://www.gsi.go.jp/common/000187374.pdf
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1493374813/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/04/23(日) 06:30:35.46 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170423-00010000-nishinpc-soci

八女(福岡県)が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない
冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。
「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき
「八女遷都論」について調べてみた。

「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。
内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」
で公開されている。

この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。

「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない ▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。

極秘文書は現八女市出身の県職員が発見

首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。
「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。

極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。
松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。
時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」

もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。

いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1492896635/ 続きを読む
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ダウンロード (38)
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/04/17(月) 03:38:10.79 ID:+dEaKw4Pa
世界の軍学校で扱われるわけやろ?
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1492367890/ 続きを読む
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nigaoe_komatsu_kiyokado_tatewaki
1: パイルドライバー(愛知県)@\(^o^)/ [US] 2017/03/20(月) 19:28:49.82 ID:SqkmtDXb0● BE:544270339-PLT(13000) ポイント特典
<幕末の動乱と明治維新>第8回~クーデターで政権樹立

倒幕の密勅

 徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た1867年11月9日、「倒幕の密勅」が出されていました。
これは公家の岩倉具視ともみらが画策した、「賊臣慶喜」を「殄戮てんりく 」(殺害)せよと命じる詔書です。
朝廷の会議も天皇の裁可も得ていない「偽勅」でした。

 天皇側近である議奏ぎそう(宮中の業務を統括する職務)の正親町おおぎまち三条さんじょう実愛さねなるから、
長州藩の広沢真臣さねおみと薩摩藩の大久保利通に手渡されました。
京都出兵をためらっていた薩摩藩主と重臣たちに出兵を促す狙いがあったとされます。

 朝廷は大政奉還を受けながら、これまで通り、慶喜に「庶政を一切委任」します。
慶喜は、19日には征夷大将軍の辞表も提出しました。
しかし、混乱をきたした朝廷は、諸侯が上京するまで待つよう指示するだけです。諸侯会議はなかなか開かれず、政権に空白が生じます。

 一方、幕府内では「政権返上」の取り消し要求が噴出し、会津・桑名など佐幕諸藩は、薩摩藩への反感を募らせます。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170309-OYT8T50042.html
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1490005729/ 続きを読む
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1: 新規スレッド作成依頼1065-435@チンしたモヤシ ★  2017/01/21(土) 07:56:15.46 ID:CAP_USER9
「広島か下関か」日清戦争講和会議の場所悩む、伊藤博文の書簡見つかる 島根大付属図書館で公開

日清戦争講和会議の場所選定の謎を解く手がかりの一つになる可能性がある伊藤博文の書簡
wst1701200038-p1
伊藤博文首相
wst1701200038-p2
産経WEST 2017.1.20 12:00
http://www.sankei.com/west/news/170120/wst1701200038-n1.html

 日清戦争の終盤に、当時首相だった伊藤博文が講和会議の開催場所を「広島にするか下関か決まっていない」などと記した書簡が見つかった。戦争を終結させた「下関講和会議」については、開催地の検討経緯や決定理由がよく分かっておらず、その一端に触れた貴重な資料とみられる。書簡は島根大付属図書館(松江市)で、22日まで公開されている。

 書簡は、戦前の主要紙の一つ「時事新報」の記者だった足立荘に宛てて伊藤が送ったもの。当時、大本営のあった広島にいた伊藤が、戦時取材をしていた足立に対し、外務省の役人だった井上勝之助が下関に赴いていること、陸奥宗光外相が広島に来ることを紹介。その上で講和会議の開催地について「本地(広島)ニスルカ馬関(下関)ニスルカ未定ナリ/両三日中ニハ略々決定スルニ至ルベシ」としている。

 同図書館が、足立らをテーマにした展示を準備していた昨年12月、親族から寄贈を受けた。額装された状態で保管され、封筒がなく投函(とうかん)時期は不明。下関講和会議は明治28年3月20日に始まり、4月17日に日清講和条約(下関条約)が締結されている。このため、書簡は3月20日の少し前に書かれたとみられる。

 同図書館によると、足立は当時、入社2年目だったが、その後、政治部長や編集局長を歴任し、退社後は実業家として成功したという。伊藤を初めて取材した頃、何度行っても会ってくれなかったため、名刺に英語で用件を記したところ、伊藤から英語で返事をもらい、知遇を得た-などの苦労話を後年に述懐している。

 下関講和会議に詳しい下関市立歴史博物館の松田和也学芸員によると、日清戦争の講和をめぐり同会議の開催までに、清の使節が27年11月に神戸、28年2月に広島を訪れたが、いずれも講和に至らず、3月19日に清の全権として李鴻章(りこうしょ)が下関を訪れ、翌20日から会議が始まったという。

 松田学芸員は「下関がなぜ開催地に選ばれたのか諸説あるが、明確なことは分かっていない」と指摘。「下関での開催に決まるまでの経緯の一端をうかがわせる貴重な資料といえる」と話している。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1484952975/ 続きを読む
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1: ニカワ ★  2017/01/20(金) 00:32:49.64 ID:CAP_USER9
士族復帰を願い出た復禄請願書と族籍訂正願。旧御家人の窮状が記されている
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明治初期に完成した北上市本通りの地図。住宅裏の畑の持ち主も明確に記載されている
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■明治初期の本通り地図も

 【北上】黒沢尻(現北上市)で旧盛岡藩の御家人が明治時代、士族復帰を政府に嘆願した「復禄請願書」「族籍訂正願」と、同じく明治時代初期に完成した同市本通りの詳細な地図が市内の民家から発見された。かつての御家人の窮状と明治時代の土地の状況を明確に示すもので、北上史談会の和賀篤子会長(84)はいずれも「貴重な史料」と評している。

 これらが見つかったのは、同市鍛冶町1丁目の城戸良公さん(54)宅。父良悦さんが2015年10月に死去した後、良悦さんの妻香公さん(76)が遺品を整理していて発見し、和賀会長に託した。

 明治維新後、盛岡藩主は減封、白石に転封となり、多くの御家人は身分を失った。廃藩置県後の戸籍編成で、城戸さんの先祖は1872(明治5)年に士族から平民となった。

 復禄請願書と族籍訂正願は1898(明治31)年のもの。城戸さんの先祖ら黒沢尻の御家人が5人一斉に、旧盛岡藩主の証明書と戸籍の写しを添え県知事を通じ大蔵省に願い出た。「祖先以来士籍(士族)できたが、今こうした境遇となり毎日悔悟、涕泣している」との趣旨がつづられている。

 平民となった後は禄はなく、26年間士族への復禄に向けて運動していたとみられる。和賀会長は「切に願い出ていたところを見ると、随分生活が大変だったのでは」と推察する。

 和賀会長は以前、別の黒沢尻の士族の子孫から同様の史料を預かっており、これで二つ目となる。「明治維新後は全国的にかつての藩士が不満を募らせ、生活も窮乏していた。それを証明する貴重な資料」と語る。

 一方、本通りの地図は江戸末期に着手し、約30年がかりで1872年に完成したもの。これまでの北上市史にも各住宅(屋敷)住人の名前は掲載されているが、今回発見された地図にはこれらのほか、住宅裏の畑の持ち主も明確に記されている。

 和賀会長は「これで誰の土地を借り受けていたか、当時の土地持ちが分かる。これまでになかった、本当に貴重な史料が出てきた」と発見の意義を強調する。

 北上市は2021年に3市町村合併、現市制から30周年を迎えるに当たり、新しい市史編纂(へんさん)作業に着手している。和賀会長も編纂委員を務めており、今回発見された史料を「市史編纂に役立てていきたい」と話している。

http://www.iwanichi.co.jp/kitakami/21006.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1484839969/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/01/16(月) 12:52:35.11 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170116-00010005-nishinpc-soci

長崎県雲仙市の雲仙・普賢岳(1359メートル)の山頂付近で、
地面の土中から空のビール瓶が相次いで見つかっている。
刻印などから1900年代前半に製造された瓶とみられる。
山頂付近には太平洋戦争中に陸軍の「電探(レーダー)基地」が
あったことから、当時の隊員が飲んだ形跡ではないか、などと
謎を呼んでいる。

出土する瓶には「DAINIPPON BREWERY」と刻印がある。日本では
1906年、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の3社の合併でシェア7割を
誇る「大日本麦酒」が発足し、49年に分割された。うち1社を引き継ぐ
サッポロビール(東京)に瓶の写真を送って確認を依頼したところ、
「大日本麦酒の瓶で間違いない」という。

雲仙お山の情報館(雲仙市)によると、普賢岳の山頂付近にあった
レーダー基地は極秘に設置され、当時は一般人の登山が禁じられたため、
関連資料があまり残っていないという。約100人が駐留していたという。

「一般の登山者がビール瓶を荷物に入れて登ることは考えにくい」
(情報館)こともあり、戦時中の基地隊員が飲んだ跡である可能性が
高まっている。九州大地震火山観測研究センター(島原市)の松島健
准教授は2012年4月以降、断続的に瓶の存在を確認しており、貴重な
資料として情報館で展示する構想もあるという。


普賢岳山頂付近で相次いで見つかったビール瓶。「DAINIPPON」の刻印がある
20170116-00010005-nishinpc-000-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1484538755/ 続きを読む
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