(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

1: 記憶たどり。 ★ 2018/10/18(木) 10:00:45.00 ID:CAP_USER9
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/458324/

旧日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六(1884~1943)の遺髪が、海軍兵学校時代の親友だった旧海軍中将堀悌吉(1883~1959)=大分県杵築市出身=の遺品の中から見つかった。
これまでに山本の遺書とされる「述志(じゅっし)」や手紙も確認されており、ともに戦争に反対していたとされる2人の絆を裏付ける資料という。大分県立先哲史料館(大分市)が17日、発表した。

遺髪は、堀が保管していた山本の遺影の写真と額縁の間に隠され、フランス語で「切った髪の毛」と記載された封筒に入っていた。堀のノートには、山本が戦死した後の1943年5月23日に軍を通じて受け取ったと記され、山本が生前に遺髪を堀に届けるよう軍に依頼した可能性が高い。

同史料館によると、堀は海軍大学校時代に執筆した論文「戦争善悪論」の中で「戦争は殺戮(さつりく)であり、殺人である」として戦争反対を説き、軍縮推進を唱えた。同級生だった山本に大きな影響を与えたとされる。
堀は海軍内で「非戦論者」とされて軍を追われたが、司令長官の山本とは手紙や面会で親交が続いた。

堀の遺品からは、反対していた戦争の指揮を執ることになった覚悟を山本が記した日米開戦当日(41年12月8日)付の「述志」や、開戦が避けられない状況について「現在の立場は誠に変なもの也、之も命といふものか」と苦悩を記した同年10月11日付の山本の手紙も見つかっている。

遺品6142点は堀の子孫から同史料館に寄贈された。堀の孫の渡辺壮嘉さん(75)=東京=によると、戦後も山本の遺族は堀の自宅を訪れ、家族ぐるみの親交が続いたという。同史料館の大津祐司館長は「山本五十六にとって堀は唯一本音を話せる親友だったことがよく分かる資料だ」と解説する。


堀悌吉が身近に飾っていたとみられる山本五十六の肖像写真。裏に遺髪が隠されていた(大分県立先哲史料館提供)
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堀悌吉
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1: ばーど ★ 2018/09/27(木) 12:13:10.77 ID:CAP_USER9
※たまたまスレで立てました

(CNN) 中国の文化遺産当局は、1894年の日清戦争で撃沈された海軍艦「経遠」が発見され、艦内から大量の遺留品が見つかったと発表した。

発表によると、考古学チームが数年がかりで捜索を行った結果、「経遠」の艦名を記したプレートを発見した。

同艦はドイツのブルカン造船所で建造され、1880年代に清の海軍艦体に編入。1894年9月、他の軍艦3隻とともに撃沈され、黄海に沈んだ。

考古学チームが海底を調査した結果、同艦が水深12メートルの海底に逆さまの状態で沈んでいることを確認。砂を除去して遺留品を発掘した。

艦内からは、陶磁器や革製品、ガラスなど500点以上の品目が見つかったほか、当時の兵器やリボルバーの銃弾なども発見された。

専門家はこれについて、世界の海軍史を研究する上で重要な発見と位置付けている。

2018.09.27 Thu posted at 11:01 JST
CNNニュース
https://www.cnn.co.jp/fringe/35126175.html
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1: みつを ★ 2018/09/16(日) 19:12:30.21 ID:CAP_USER9
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8T6W4WL8TUCLV005.html?ref=tw_asahi

発掘された「西郷どん」の新史実 最後の内戦、西南戦争
編集委員・宮代栄一
2018年9月16日18時59分

 元号が明治に変わって150年。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」など、その時代に注目が高まっている。近代日本を方向付け、日本最後の内戦となった西南戦争。熊本城炎上や田原坂(たばるざか)の戦いについて近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきている。

 事件は、1877年2月19日に起きた。官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失。薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという放火説のほか、官軍関係者による失火説などが従来は唱えられてきた。

 出火元とされる本丸御殿跡を、熊本市が1999~2006年に発掘。報告書を作る過程で新事実が判明する。御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定されたのだ。

 市文化振興課によると、小広間は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高い。小広間が位置するのは御殿の一番奥。そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理する。

 ではなぜ出火したのか。「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」。この説は昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで発表され、大きな反響を呼んだ。
 官軍による自焼説は、熊本博物…

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1: 樽悶 ★ 2018/09/12(水) 20:28:25.68 ID:CAP_USER9
柴犬の先祖にあたる石州犬の「石」
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 柴犬の先祖とされる石州犬の「石(いし)」が、島根県益田市で猟犬として飼われていた犬だったことを、石州犬研究室(島根県江津市)が突き止めた。研究室主宰の河部真弓さんと夫の安男さんは、石の存在を発信しようと歌をつくり、イベントなどで披露している。

 公益社団法人日本犬保存会(東京)によると、記録が残る中で一番古い柴犬の先祖が石という。石は1936年、東京都で歯科医をしていた故中村鶴吉さんが血統登録した石州犬の雄。ただ中村さんが石をどこで手に入れたかは不明だった。河部さんと日本犬保存会島根支部の柳尾敦男支部長が文献調査や聞き取りを進め、益田市の故下山信市さんが猟犬として飼っていたことが分かった。

 河部さんによると、明治維新以降、西洋犬が日本に入ってきた影響で純粋な日本犬が絶滅の危機に追い込まれた。日本犬保存会会員だった中村さんが、日本犬を保護しようと探す過程で石にたどり着いたという。

 河部さん夫妻は調査結果を広めたいと、歌「石州犬ISHI」をつくった。♪この世界に生きる 60万頭のSHIBA…そのルーツ探れば 石見の国のISHI―。8月31日に益田市の二川公民館で住民15人を前に力強く歌い上げた。

2018/9/12 15:29
https://this.kiji.is/412496816140878945
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1: 樽悶 ★ 2018/09/08(土) 16:16:35.60 ID:CAP_USER9
「特攻隊の生みの親」と言われる大西瀧治郎
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大西瀧治郎が旧制中学校2年生の時に書いた作文が収録されている雑誌=兵庫県丹波市柏原町柏原で
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 “特攻隊の生みの親”と言われる、兵庫県丹波市青垣町出身の大西瀧治郎が旧制中学校時代に書いた作文が収録されている雑誌が、母校の柏原高校(同県丹波市柏原町)に保管されている。

 大西は明治24年(1891)生まれ。作文を書いたのは旧制柏原中学校2年生の時で、14歳だったと思われる。作文のタイトルは「櫻を見る記」。のちに特攻隊をつくった大西が、少年期に大和魂の表象でもある桜を取り上げて作文を書いているのは印象的で、その後の歩みを暗示しているかのようだ。

 作文は次のとおり。

吉野の「桜」題材に

 日は、うらうらと、木々の若葉にてりそひ、風そよそよと、面をふきはらひ、人の心も自からうき立つ頃、母上につれられて、吉野の山に花見むとて行きたり。我れ等の外に見物人も、いと多く、茶店の縁も、腰うちかくる餘地もなし。時こそよけれ、櫻花は今を盛りと咲き揃ひ、遠くより望めば、霞萬山を立ちこめしかと思はれ、近く眺むれば又一しほ美しく、海外諸國の花の王も、之には及ばざるべく、古人の「これはこれはとばかり花の吉野山」と歌ひしも、げにとこそ覺えたれ。百鳥は梢に舞ひ歌ひて、我れ等を迎ふるか、はた蝶のまふをはやすなるか、花よ蝶よと思ふまに、此の日もいつか暮に近づき、日は西にかたむき、一陣の山嵐さつと吹き来るや、花はあはれや、木木の梢に散り落ちて、波かはた雪か、身邊なにとなく冬心地し、あたり寂たり。我れは五百年の其の昔、南北朝の戰のことなど聯想し、につくき足利尊氏かなと、思ふ居りしも、入相告ぐる鐘のひびきに忽ち起る花吹雪。

「破戒」大江礒吉発足の学友会の雑誌に収録

 この作文は、明治39年(1906)6月発行の「学友会雑誌」第7号に収録されている。学友会は、今でいう生徒会組織のようなもので、生徒らの原稿を収録した雑誌の発行もしていた。

 なお、学友会は明治35年7月の発足。柏原中学校の2代目校長、大江礒吉が心血を注いで発足させた。大江は、被差別部落出身の教師を主人公にした島崎藤村の小説『破戒』のモデルになったと言われる人物で、自由で平等を尊ぶ教育を推し進めた。

丹波新聞 2018年9月8日
http://tanba.jp/2018/09/%E3%8C%E7%B9%E6%BB%E9%9A%8A%E7%9F%E3%BF%E3%AE%E8%A6%AA%E3%8D%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%A7%E6%B2%BB%E9%8E%E3%8014%E6%AD%B3%E5%BD%E6%82%E3%AE%E4%BD%9C%E6%87%E4%BF%9D/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1536390995/続きを読む

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