(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

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1: 名無しさん@涙目です。 2018/06/15(金) 09:33:46.10 ID:yJRu5/JC0● BE:324064431-2BP(2000)
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中国のテレビで繰り返し放送されている抗日ドラマ。旧日本軍を象徴するものの1つが帽垂布(ぼうたれぬの)という布の付いた戦闘帽である。
台湾以南地域では、酷暑下での熱中症などの防止の為に採用されたと言われる。中国メディアの快資訊網は12日、この戦闘帽に関する記事を掲載し、この帽垂布のおかげで10万人が無駄死せずにすんだと紹介した。

 記事は、この見た目が「ダサくて奇抜」な戦闘帽について、第2次世界大戦時の旧日本軍の特徴となったと紹介した。この形は戦前から旧日本軍に採用されていたが、もとは北アフリカに駐屯していたフランス軍が使っていたものだと言われている。砂漠地帯で兵士の日焼けや虫よけに効果を発揮したようだ。また、布は数枚に分かれていたために隙間から風が通り、快適なうえに皮膚病も防ぎ、布が動くので蚊などの虫を追い払うのにも適していたとされる。

 中国ではすっかり旧日本軍のイメージがついているこの形だが、実際には日本はフランスを真似て導入したということのようだ。いずれにしても、南方での戦争では非常に役立ったようで、記事によると、この布垂帽のおかげで、旧日本軍はアジア地区で病気などによる犠牲者の数を10万人ほど減らすことができたと言われているという。

 強い日差しなどから首を守るこの形は非常に実用的であるため、その構造は帽子に広く利用されている。抗日ドラマの影響で、このデザインの帽子は中国では悪いイメージしかないようだが、その効果は実際のところは抜群なのだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

http://news.searchina.net/id/1661371?page=1
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1529022826/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/13(水) 14:41:07.85 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180613-00000027-dal-ent

NHK大河ドラマ「西郷どん」で俳優・松田翔太演じる“ラスト将軍”徳川慶喜が脚光を浴びる中、唯一存命する慶喜の孫・井手久美子の自叙伝「徳川おてんば姫」(東京キララ社)が13日、発売された。
大政奉還から150年となる昨年に書き上げた波乱万丈の人生が明治150年の今年、書籍化され、95歳にして作家デビューを果たした。千葉県内の自宅で筆者の思いを聞いた。(文中敬称略)

1922(大正11)年9月22日に当時の東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日)にあった徳川家の屋敷で生まれた。「祖父が亡くなって9年後に生まれたので『お写真様』と呼ばれる部屋に飾られた写真を『おじじ様』と教えられました。“おかか”がおじじ様の好物だったそうです」。公爵で従一位だったことから“一位様”とも呼ばれた祖父は、日常会話の中で生きていた。

その住所から「第六天」と称され、慶喜が生涯を閉じた屋敷は3400坪で約50人が生活。幼少期から姉たちと庭で遊び、女子学習院には車の通学を嫌って市電で通った。外で遊べなかったが、学友と敷地内のテニスコートでボールを追った。
乗馬など運動好きで、いつも日焼け。「楽しくて夢のようでした。木に登ったり、おてんばでしたね」と笑う。

18歳で侯爵家の長男・松平康愛と結婚。久美子は「結婚式で十二単(ひとえ)を着たのですが、はかまの丈が短く、その中に蚊が入ってきて、かゆくてたまりませんでした」と裏話も。夫は海軍少尉として出征。自身は空襲時、疎開先の八王子で火の粉が飛ぶ中、バケツを持って屋根に上がった。「戦争中は大変でした」。敗戦の玉音放送を聞きながら、「ほっとしました」と実感したが、翌年、夫の戦死が確認された。

戦後、華族制度は廃止され、戦火を免れた「第六天」は国に物納された。47年、亡夫と成城高校アイスホッケー部で仲間だった医師の井手次郎と再婚。徳川家のお姫様は病院の仕事で多忙となる。

「泌尿器科の患者さんも多く、包茎だ、パイプカットだという言葉も平気になったのですから、人は変わるものです」-。
50年生まれの長男・井手純は「特殊な所に生まれても、庶民の生活に飛び込んで慣れも早かったところが、おふくろの気性というか、今でもこうして生きていられるということなんじゃないかと思いますね」と順応性を指摘する。

次姉・喜久子は高松宮妃殿下。「実の家族のようにかわいがってくださった」という高松宮親王を通して兄・昭和天皇とも接した。
第六天の屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地。久美子は車いすで現地に赴き、今も残るイチョウの下で万感の思いに浸った。

昨年、39度の高熱を出すなど健康面の不安を抱えながら、13年前に着手して中断していた原稿を一念発起で完成させた。
長男と暮らす自宅には慶喜の写真と葵(あおい)の紋が額縁に入って掲げられ、その下で「鬼平犯科帳」など時代劇のDVDを楽しむ。
今年96歳。新刊本を手に「本当にありがたいことです」と実感を込めた。


初の自叙伝を手に、感無量の心境を語る徳川慶喜の孫・井手久美子さん=千葉県内の自宅
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528868467/続きを読む

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1: 名無しさん@おーぷん 2018/06/08(金)19:38:44 ID:RzK
1 中 独ソ戦
2 二 ロシア革命
3 遊 独ソ不可侵条約
4 左 南部仏印進駐に伴う対日全面禁輸
5 一 両洋艦隊法
6 三 汪兆銘工作の失敗
7 捕 西安事件
8 右 ソ連の対日参戦
9 投 国際連盟脱退

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1: みつを ★ 2018/06/05(火) 01:27:53.35 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/20180604/4020000423.html

西南戦争の新史料が久米南町に
06月04日 12時21分

西南戦争で西郷軍と戦った政府軍の兵士が、終戦直後に当時の戦況などを家族に伝えた手紙が久米南町で見つかりました。
専門家は「戦争の最前線にいた一兵士の視点から当時の状況が詳細に記された第一級の資料だ」と話しています。

この手紙は明治10年の西南戦争で政府軍として西郷隆盛率いる薩摩軍などと戦った兵士が戦地から岡山県に住んでいた父親に宛てたもので、父親のやしゃごにあたる久米南町の榊原東一さん(77)が保管していました。
手紙には政府軍が戦いを優位に進めていることや、警視隊や屯田兵など、当時の政府軍の構成、それに、戦っている相手の軍を率いた「西郷隆盛」の名前も記されています。
また、西南戦争最後の激戦地となった鹿児島市城山では、午前3時に政府軍が整列を始めたことや『砲声城山ヲクダクルカ如し』など相手軍に攻め入る際の様子が細かく描写されています。

近代史が専門で志學館大学の原口泉教授は、「一兵士の従軍手記として、西南戦争の全容が分かる第一級の資料だ。西郷が自決した日の翌日に書いた手紙であるため、脚色する余地がないのは明らかで、客観性が高い」と話しています。
手紙を所有していた榊原さんは「西南戦争のことが書いてある手紙があることは父から聞いていた。大河ドラマの『西郷どん』を見ていて、思い出した。研究の役に立つのなら、ぜひ使ってほしい」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1528129673/続きを読む

1: ガーディス ★ 2018/06/02(土) 10:53:40.42 ID:CAP_USER9
フィリピンで「財宝探し」のため違法に地中を掘り起こしたとして、現地の警察は先月31日、15歳の少年を含む日本人4人とフィリピン人のあわせて17人を逮捕しました。

 違法採掘などの疑いで逮捕されたのは40代から60代の日本人の男女3人と日本人の少年(15)、それにフィリピン人の、あわせて17人です。

 警察によりますと、このグループは海洋保護区に指定されているフィリピン北部サンバレス州のカポネス島で、5メートル四方の穴をおよそ5メートルの深さまで違法に掘った疑いが持たれています。警察は逮捕された17人は「財宝探し」のグループで、少年は通訳を担当していたとみています。

 フィリピンには「山下財宝」と呼ばれる旧日本軍の埋蔵金が眠っているという説があり、たびたび「財宝探し」をめぐるトラブルが起きています。(02日01:49)

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180602-00000030-jnn-int
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1527904420/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/05/27(日) 21:24:49.38 ID:CAP_USER9
鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機(ゼロ戦)で出撃した特攻隊員の西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。

 西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」と見入った。

 遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見。遺族が持っていた旧海軍の出撃に関する記録と照合し、一致した。
調査した同塾の織田祐輔さん(31)は「旧日本軍の記録は処分されたものも多く、日米双方の記録から特攻隊員の最期を特定できた珍しい事例だ」としている。

 映像はモノクロで、救難するため駆け付けた米艦船から従軍カメラマンが撮影したとみられる。
攻撃を受けたヘイゼルウッドが煙と炎を上げ漂流する様子や、消火活動に当たる場面を記録。
艦橋部分は大破し、甲板上で走り回る乗組員の姿も捉えていた。西口中尉のゼロ戦の残骸は確認できなかった。

ヘイゼルウッドの戦闘報告書によると、45年4月29日午後5時30分、敵戦闘機が接近し、機銃掃射しながら同艦に命中した。搭載された爆弾が爆発し、火災が発生。
少なくとも艦長を含む46人が死亡した。

 一方、遺族が鹿屋航空基地史料館から入手した記録では、西口中尉は同日午後2時42分に発進。
同5時34分に「我敵艦に必中突入中」と打電し、消息が途絶えた。
記録された時刻がほぼ一致している上、西口中尉が機銃掃射が可能だった機体に搭乗していたことが、特定の決め手となった。

 西口中尉は大阪市出身で、43年9月に13期海軍飛行予備学生。
神雷特攻隊第9建武隊として出撃、戦死し少佐となった。

■「どんな気持ちやったろか」兄の最期に思い

 これまで知っていたのは、兄が沖縄近海で特攻を試みたという事実のみ。
3人の妹は、西口徳次中尉の特攻で炎を上げる米艦船の映像を固唾をのんで見守った。
「ぶつかったとき、どんな気持ちやったろか」。兄の最期に思いをはせ、涙があふれ出た。

9人きょうだいの長男だった西口中尉は、勉強熱心できちょうめんな青年だった。
親に内緒で海軍に志願し「僕が死んでも、良くやったと褒めてください」と家を出た。
帰ってきたのは、名前の書かれた紙が入った箱だけだった。

 幼かった一番下の妹杉山智恵子さん(75)=大阪府寝屋川市=は、兄の記憶がほとんどない。
ただ、亡くなった母が「厳しく育てすぎた。かわいそうなことをした」と泣いていたのが、忘れられなかった。

 兄のことを知りたいと考え、数年前、厚生労働省や鹿屋航空基地史料館に問い合わせ、特攻時に打ったモールス信号の記録などが見つかった。
今回、米側の資料と結び付き、突入した艦の映像が特定できた。

 強くハンカチを握りしめながら映像を見た三女西口さよ子さん(78)=同=は
「いつも兄を思い出して『負けたらあかん』と自分を奮い立たせていた。最期が見られて良かった」としみじみと話した。

画像:戦闘機と共に写る西口徳次さん
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産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180527/wst1805270043-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1527423889/続きを読む

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