(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

1: 記憶たどり。 ★ 2018/08/14(火) 11:58:26.36 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180814-00010000-nishinp-soci

平成最後となる「終戦の日」を前に、西日本新聞に掲載された過去の記事を紹介するシリーズ。
これは、国民が一方向に走ってしまう危うさを示す事例だろう。

戦時中、福岡県久留米市にあった旧陸軍の工兵隊に所属していた無名の若者たちが
「肉弾三勇士(爆弾三勇士)」として軍神とあがめられ、熱狂的なブームとなって国威発揚に利用された。
本紙の前身である福岡日日新聞も、プロパガンダに一役買った。市内に残る三勇士の跡をたどった。

三勇士とは、いずれも1等兵の江下武二(佐賀県出身)、北川丞(長崎県出身)、作江伊之助(同)の3人。
1932年、日中両軍が衝突した上海事変で、導火線に火がついたままの破壊筒(爆弾)を持って敵陣の鉄条網に突入して自爆、突撃路を開いたとされる。

最初に訪れたのは、久留米市山川町の神社「山川招魂社」だ。西南戦争や太平洋戦争の戦没者の慰霊碑と並んで「爆弾三勇士之碑」がひっそりと立っていた。裏に碑文が刻まれているが、容易に判読できない。
かろうじて、碑の建立時期が「昭和58年」と読める。

■「肉弾三勇士」戦時中、熱狂的なブームに 軍神になった若者たち

どれほどの人気だったのか。市史にその一端が記してある。福岡日日新聞には「壮烈三勇士の戦死 爆弾を身につけて、敵の鉄条網に躍り込んで爆死」との大見出しが躍り、他の新聞社も競って一大キャンペーンを展開し、歌を募集したり、小学生の感想文を掲載したりした。NHKは特別番組を放送。「美談」は映画や舞台、浪曲となり、「爆弾三勇士の名は全国に響き渡り、異常な興奮を巻き起こした」という。

次は市文化財保護課の学芸員、小沢太郎さん(48)に同行してもらい、同市御井町の久留米大御井キャンパス横の九州沖縄農業研究センター久留米研究拠点を訪ねた。センターやキャンパスはかつて工兵隊の敷地。
三勇士の記念碑跡は、人目を避けるように敷地内の茂みにたたずんでいた。「耕心園」とある中央部には三勇士の銅製レリーフがはめ込んであったが、戦時中の金属回収で供出されたという。

今は存在しないが、ほかにも記念の像や建物があった。市中心部の公会堂(旧市民会館)には等身大の銅像。
御井キャンパスには、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の寄贈で記念館が建てられ、坂本繁二郎が三勇士を描いた油絵が飾ってあったという。「坂本は一大スポンサーである正二郎の依頼を断れなかったんでしょう」と小沢さんは推測する。
一部の作品は今も行方が分からないという。

■絵はがきなど三勇士のグッズも

最後に訪れたのは、同市六ツ門町の六ツ門図書館で開催中の「平和資料展 軍都久留米の風景とくらし」(9月24日まで)。
正二郎が陸軍大臣に宛てた記念館の「献納書」や、三勇士の活躍を伝える福岡日日新聞の号外などが並ぶ。
三勇士が突破した鉄条網のかけらは、三勇士の上司の遺族から市に寄贈されたという。文鎮や湯飲み、子ども用の読本、絵はがきなど三勇士のグッズもあり、戦争が庶民の日常に溶け込んでいた当時の時代の空気を感じることができる。

小沢さんは「(日露戦争で神格化された)広瀬中佐のように三勇士も祭り上げられてしまい、国民的な機運の中で日中戦争から太平洋戦争へ突き進んだ。その歴史を振り返り、教訓を学んでほしい」と話した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534215506/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/08/14(火) 23:54:02.85 ID:CAP_USER9
※総踊りスレ
海軍主流の永野修身は、対米開戦派の中核となった
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 1945年の太平洋戦争終結から、平成最後の夏となるこの8月で、73年を経た。現在でも残る疑問のひとつは、明らかな国力差にも関わらず、なぜ当時の指導者層が日米戦に踏み切ったかだ。陸軍の暴走に政府、海軍、宮中、さらに世論までが引きずられていったかのようにも映る。しかし早期開戦を主張し続けたのは、実は海軍主流派だった。

大臣・総長・司令長官を歴任したエリート

 森山優・静岡県立大教授は「昭和史講義 軍人編」(ちくま新書)の中で、海軍主流派の行動は「それなりに論理的整合性が高い」と分析する。それがなぜ「全海軍を失う結果」(森山教授)に終わったのか。海軍の挫折は、急変する経営環境に対応していかなければならない現代企業にも、多くの教訓を与えてくれそうだ。

 真珠湾攻撃の山本五十六・連合艦隊司令長官や終戦時の米内光政海相に比べ知名度は劣るものの、海軍で主流派中の主流といえば永野修身(1880~1947)軍令部総長の右に出る軍人はいない。海軍における最高ポストは軍令部総長(統帥)、海軍大臣(軍政)、連合艦隊司令長官(艦隊)の3つ。森山教授は「70年を越える海軍の歴史で3ポストを歴任したのは永野だけ」と指摘する。昭和期に皇族を除いて唯一、生前に元帥にまで昇進したエリート中のエリートだ。

 屈託がなくて侠気があり、秀才型官僚軍人とは一線を画していたという。頭脳明晰(めいせき)で「自称天才居士」と言われるほどの自信家でもあった。海軍兵学校長時代には改革派として「従来の一方通行の暗記型から自学自習を旨とする米国流のダルトン・プランを導入した」(森山教授)。その永野が41年4月に軍令部総長に就任すると、海軍中堅層とともに対米開戦派の中核となった。

 当時の第2次近衛文麿内閣は37年から始まった日中戦争が長期化し、中国に同情的な米国との関係も悪化していた。41年6月には独ソ戦が開始。7月には第3次近衛内閣を発足させて対米関係の改善に取り組むが、同月の仏領インドシナ南部進駐が米国の反発を呼び、8月の全面禁輸を招いてしまった。森山氏は「「米国の大きな反発はないと思って進駐を進めた陸海軍の軍人のほとんどが、米国の強硬姿勢に驚愕(きょうがく)した」と指摘する。

「戦機は今、3年後は不明」

永野は昭和天皇に対米早期開戦を進言した。これは及川古志郎海相ら他の海軍首脳部にとって予想外のハプニングだった。それまで陸軍がソ連(当時)を、海軍は米国を仮想敵国として軍需予算を獲得してきたが「対米戦、とくに長期戦を戦う実力がないことは海軍首脳部や戦備の実態を把握している現場の将官たちの共通認識だった」と森山教授。さらに日米交渉における一番のポイントは中国本土からの撤兵問題だ。森山教授は「撤兵問題で日米が戦うのは愚かなことだという考えで海軍は一致していた」と言う。

 永野はなぜ早期開戦を主張したのか。米国から石油の供給が止まれば平和時2年、戦時1年半しか貯蔵がないため「日米間の軍事力の差が広がる前の有利なうちに、戦争した方がよいという考えだった」(森山教授)。

 昭和天皇から日本海海戦のような大勝利は難しいであろうと尋ねられると、永野は「勝ち得るや否やもおぼつかなし」と答えて天皇を驚かせたという。天皇側近の木戸幸一内大臣らは「あまりに単純」「捨てばちの戦い」と冷淡に批評した。多くの指導者層が木戸と同じく永野の主張を聞き流した。

 当時の日本は宮中、内閣、陸海軍らがそれぞれに組織利害を主張する分権的な政治体制だった。対米戦までの約1年半で、実に10回もの「国策要綱」が策定されている。激動する国際情勢に臨機応変に対応しようとしていたとみることもできるが「両論併記と決定を先送りする『非決定』が行われていた」と森山教授は分析する。

 日米首脳会談での解決に望みをかけていた近衛首相は米国側の会談拒否にあい、10月に退陣。代わった東条英機内閣は、昭和天皇の意をくんで外交と戦争準備を並行させる方針をいったんは白紙還元したが、結局は外交を打ち切って戦争へ向かっていった。

 永野は重要な会議で「戦機は今、3年後は不明」「英米を屈服させる手段は無い。結局は国際情勢の変化と国民の精神力による」などと繰り返した。海軍自体も艦隊がすぐに戦争できるように「出師準備」を8月に開始した。

全くブレなかった永野の早期開戦論

(続きはソース)

8/13(月) 12:31配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010000-nkbizgate-bus_all
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534258442/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/08/10(金) 12:26:29.86 ID:CAP_USER9
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 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。

 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。

 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定めた43年8月の「ケベック協定」に基づく。

 英政府内で検討を重ねた結果、チャーチルは容認を決断し、45年7月1日、「オペレーショナル ユース オブ チューブ・アロイズ」(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名した。英首相官邸はこの最終判断を同2日付で公式覚書とした。

 同4日、米ワシントンで開かれた原爆開発の相互協力を協議する「合同政策委員会」の席上、ウィルソンが英政府として公式に「日本への原爆使用に同意する」と表明したことが分かっている。同ファイルによると、ウィルソンは米側に、チャーチルがトルーマン米大統領と近く直接協議を望んでいるとも伝えた。

 また別のファイル(PREM3/139/9)によると、7月24日のポツダム会談でチャーチルは、44年9月にトルーマンの前任のフランクリン・ルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

 トルーマンは翌25日、原爆投下指令を承認、投下命令が出された。その結果8月6日、人類史上初のウラン原爆が広島に、9日にはプルトニウム原爆が長崎にそれぞれ投下された。

 チャーチルが最終容認した背景には、英国が米国に先行し原爆開発に積極的に関与してきたことがある。

 30年代から亡命ユダヤ人科学者によって核分裂や核融合反応で放出されるエネルギーを利用した新兵器研究が進められ、40年にウラン235単独で爆弾が製造可能という理論をまとめた。41年10月、英独自の原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が始動。米国に開発推進を訴え、42年8月、「マンハッタン計画」が始まった経緯がある。

 さらにファイル(PREM3/139/9)によると、チャーチルが44年9月、米国内のルーズベルトの別荘を訪れた際に結んだハイドパーク協定で、2人は「原爆が完成すれば、熟慮後、おそらく日本に使用される」などと合意した。原爆完成後はドイツではなく日本へ投下することが米英で密約され、翌10月、米国は原爆投下の最終準備に入った。

     ◇

 ■ケベック協定 1943年8月、ルーズベルト、チャーチルの米英首脳はカナダ・ケベック州で原爆の共同開発を密約。(1)兵器(原爆)を互いに対し攻撃するため使用しない(2)第三国に使用する場合、互いの同意が必要(3)両国の同意がない限り、英原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さない-などと結んだ。(2)は英側の事実上の拒否権となった。

2018.8.9 22:49
産経ニュース
http://www.sankei.com/world/news/180809/wor1808090046-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533871589/続きを読む

1: 名無しさん@涙目です。 2018/08/09(木) 00:09:19.72 ID:RobMZodB0● BE:692976702-2BP(2000)
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2018年8月1日、鳳凰網は、なぜ旧日本軍の戦車は豆戦車と呼ばれたかについて分析する記事を掲載した。

記事は、「第2次世界大戦初期の日本の目標が戦闘力で当時の米軍の70%に達する海軍を建設することだった」と紹介。「島国である日本は制海権がないとすべてが終わってしまうためで、この目標のために637隻の軍艦と多くの輸送船、7万機以上の戦闘機を造った」と伝えた。

そして、「軍事力が海軍に偏ったため、陸軍の装備はお粗末になった」と分析。「旧日本軍の陸軍は、歩兵銃と性能の劣った少量の機関銃で中国軍と戦う羽目になった」とした。

記事は「こうした現状のため、九四式と九七式という2種類の『豆』戦車が中国での戦闘専用に設計開発された」と紹介しており、これは九四式軽装甲車と九七式軽装甲車のことを指しているようだ。記事は「九四豆戦車と九七豆戦車の主な目標は戦場での偵察としての使用で、対戦車の任務を担う戦車ではなかった。その主な攻撃対象は、機関銃と通常の軽装歩兵の小隊で、装甲強度を落としており、多くのピストルポートを設けて中国の対戦車決死隊に対応した」と分析した。

また、「一種の軽戦車として、装甲は10~12ミリの厚さで、これは通常の中国部隊が使用する武器には十分に耐えることができた。しかも、機関銃と37ミリ砲を装備し、榴弾を使用することで、中国のトーチカと機関銃の火点にとっては大きな脅威となった」と紹介。
「軽量な車体ゆえに輸送も簡単で、中国のさまざまな地形にも容易に対応できた」とした。

記事は「しかし、装甲戦闘車両の攻撃を受けると、すぐに破壊されてしまう程度の防御力しかなかった」と指摘し、「そのため、日本の九四式と九七式は、本当の意味で『豆』戦車となった」と結んでいる。(翻訳・編集/山中)
https://www.recordchina.co.jp/b630438-s0-c10-d0062.html
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1533740959/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/08/08(水) 18:50:38.68 ID:CAP_USER9
京都のお盆の伝統行事、「京都五山送り火」について、かつて行われていたとされるもののその後途絶えて正確な場所が特定されていないひらがなの「い」の文字の送り火の痕跡を発見したと京都大学の研究者が発表しました。

これは、京都大学霊長類研究所の正高信男教授が記者会見を開いて発表しました。
「京都五山送り火」は、300年以上の歴史があるとされ、8月16日の夜に「大」や「船形」など京都市を囲む5つの山の文字や形の火床に火をともします。

明治の半ばごろまではひらがなの「い」の文字の送り火も行われていたとされていますが、その後途絶えて正確な場所が特定されておらず、正高教授は江戸時代の文献などを手がかりに実地調査を繰り返しました。
その結果、京都市左京区の鞍馬二ノ瀬町にある、地元で「安養寺山」と呼ばれる山の高さ100メートルほどの山肌に高さ5メートル、幅15メートルほどのL字型に削った跡が3か所、見つかったということです。

この跡は現在も残る火床の周辺に形状が似ているということで、正高教授はここで「い」の送り火が行われたとみられるとしています。
京都の送り火は、江戸時代には「い」の文字のほかにも京都の各地で行われていたとされていますが詳しいことは分かっておらず、今回の発見が伝統行事の歴史をひもとく鍵となるのか注目されます。

08月08日 17時40分
NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20180808/2010001222.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533721838/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/07/29(日) 18:42:06.28 ID:CAP_USER9
家族から寄贈された阿南惟幾の刀=竹田市竹田町
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 竹田市ゆかりの陸軍大将、阿南惟幾(あなみ・これちか)(1887~1945年)の刀が、家族から阿南惟幾顕彰会(会長・首藤勝次市長)に寄贈された。8月7~17日に広瀬神社(竹田町)境内の記念館で一般公開。市総合文化ホールのオープニング企画展「竹田で出会う美しい日本」(10月7~14日)でも展示する。

 阿南は竹田市玉来出身。内務官吏の父・尚の転勤で東京などを転々としたが、本籍は竹田市に置いた。鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務め、太平洋戦争末期に戦争継続を主張。ポツダム宣言受諾が決定し、8月15日に自決した。

 刀は長さ83センチ。白さやには「濃州関住人奈良太郎藤原兼永以大華耐錆鋼作之」と彫刻している。市教委文化財課の工藤心平学芸員(36)は「日本初のステンレス鋼製の刀を手掛けた藤原兼永が作った。強靱(きょうじん)さと鋭利さが特徴で、歴史的価値が高い」と評価する。

 今年1月、東京に住む娘が「古里に刀が納まれば父が喜ぶ」と打診。首藤会長と受け取りに行った白井幸光事務局長(71)は「命を懸けて陸軍内部の戦争続行論を沈静化させたとされる人物で、広瀬神社に顕彰碑もある。ゆかりの品で、歴史に目を向ける人が増えたら」と話した。

大分合同新聞 2018/07/29 03:01
https://oita-press.co.jp/1010000000/2018/07/29/JD0057154540
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1532857326/続きを読む

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