(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

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1: 樽悶 ★ 2018/11/02(金) 01:18:04.54 ID:CAP_USER9
野村照一さん(右下の写真)の手記を手にする長女の中山征子さん(右)と夫の裕さん=京都府長岡京市で、国本ようこ撮影
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■兵士の苦難、草原一面に馬の死骸…

 第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】

 「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。

 野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。

 37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。

 手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。

 野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。

 また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。

 その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。

■「父と再会した気持ち」

 野村照一さんの手記を見つけた長女の中山征子さんは、1944年9月に旧満州(現中国東北部)の東安省で生まれた。母ハナエさん(97)によると、戦地の野村さんから「しばらく戻れない。先に日本に帰っておくように」と連絡があったため同年12月に帰国。征子さんは「後の情勢を考えると、私も母も(中国残留孤児を描いた小説)『大地の子』になるところだった」と振り返る。

 もっとも、旧満州では戦況などの情報を得られる旧陸軍の将校や官僚、家族らは民間人を置き去りにして真っ先に逃げたとされる。ハナエさんが同じ旧陸軍の官舎に住んでいた家族たちに後に再会した際に聞いたところ、早期の引き揚げを促す具体的な情報はなかったが、「支給される物資が滞ったり、官舎にいた兵隊さんがいなくなったりと不穏な空気を感じたので帰ってきた」と言われたという。

 野村さんは46年6月に上海から帰国した後、府警に定年まで勤めた。遺品は手記の他、軍に届けた婚姻願や戦時中の国債など、たくさんの書類がきちょうめんに保存されていた。夫の裕さん(79)と共に整理した征子さんは「亡くなった後にまた父の軌跡がわかる手記が見つかりうれしい。改めて父と再会した気持ちです」と話した。【国本ようこ】

■ノモンハン事件

 1939年5~9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。

毎日新聞 2018年10月31日
https://mainichi.jp/articles/20181031/ddl/k26/040/391000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541089084/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 22:06:52.39 ID:CAP_USER9
戦争時の将校らへの忍術指導について解説する山本さん(ハイトピア伊賀で)
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 三重大の忍者・忍術学講座が27日、三重県伊賀市のハイトピア伊賀で開かれ、NPO法人インテリジェンス研究所(東京)の理事長を務める早稲田大名誉教授(情報史)の山本武利さん(78)が、「陸軍中野学校のカリキュラムの中での『忍術』講義」と題して講演。「旧日本軍の戦局悪化で敵を効率よく倒す方法が求められ、防衛のための忍術は廃れた」などと解説した。

 山本さんは秘密組織だった諜報(ちょうほう)要員養成のための陸軍中野学校(東京)の授業内容の変遷と、教官を務めた甲賀流忍術の武術家・藤田西湖(1899~1966年)のかかわりについて紹介した。

 中野学校では、1938年(昭和13年)7月からの1期生18人を含め、45年(昭和20年)に廃止されるまで約2300人が学んだとされる。藤田は満州(現中国東北部)で将校に暗号解読など諜報技術を指導。中野学校では初期に、全国から集められた優秀な将校らに対し、学科や術科の正課ではなく、“特別授業”として忍術を教えた。

 山本さんは様々な史料を引用して実態を説明。藤田は「忍術の『忍』は、忍耐の『忍』だ」として、本来幼少時から長年の訓練を必要とする忍術の精神的、肉体的な技を、6か月で厳しく鍛えた――などと述べた。

 さらに、「スパイの第一歩は真実による偽装。運転手、電気技術、僧侶など、完全になりきれる職業を二つ以上持つように――」と指導した藤田の言葉を伝えた。

 山本さんは「忍術は国内の諜報活動には有効だが、戦況が厳しくなると講義から忍びの体術がなくなり、科学技術が増え、『忍術』とは呼べなくなった」と指摘。42年(昭和17年)にはもう「忍術」の講義はなく、結局、藤田が中野学校で教えたのは初期だけで、2年間で100人足らずだったという。

 講演後、山本さんは「忍術はソフトな諜報活動で、戦地からより激しい破壊・殺傷方法を求められ、応えられなくなった。しかし現代では、忍術の少なくとも精神的な教えは再評価されていいのでは」と語った。(吉田誠一)

読売新聞 2018年10月29日 08時18分
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181027-OYT1T50139.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540904812/続きを読む
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