(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 日本近代史

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1: 風吹けば名無し 2018/09/12(水) 11:11:29.24 ID:QXt5jVXAx
相沢三郎だよな
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1536718289/

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1: 樽悶 ★ 2018/09/12(水) 20:28:25.68 ID:CAP_USER9
柴犬の先祖にあたる石州犬の「石」
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 柴犬の先祖とされる石州犬の「石(いし)」が、島根県益田市で猟犬として飼われていた犬だったことを、石州犬研究室(島根県江津市)が突き止めた。研究室主宰の河部真弓さんと夫の安男さんは、石の存在を発信しようと歌をつくり、イベントなどで披露している。

 公益社団法人日本犬保存会(東京)によると、記録が残る中で一番古い柴犬の先祖が石という。石は1936年、東京都で歯科医をしていた故中村鶴吉さんが血統登録した石州犬の雄。ただ中村さんが石をどこで手に入れたかは不明だった。河部さんと日本犬保存会島根支部の柳尾敦男支部長が文献調査や聞き取りを進め、益田市の故下山信市さんが猟犬として飼っていたことが分かった。

 河部さんによると、明治維新以降、西洋犬が日本に入ってきた影響で純粋な日本犬が絶滅の危機に追い込まれた。日本犬保存会会員だった中村さんが、日本犬を保護しようと探す過程で石にたどり着いたという。

 河部さん夫妻は調査結果を広めたいと、歌「石州犬ISHI」をつくった。♪この世界に生きる 60万頭のSHIBA…そのルーツ探れば 石見の国のISHI―。8月31日に益田市の二川公民館で住民15人を前に力強く歌い上げた。

2018/9/12 15:29
https://this.kiji.is/412496816140878945
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1536751705/続きを読む
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datugokuhanmame

1: ■忍法帖【Lv=19,うごくせきぞう,4wF】 2018/09/05(水)23:12:40 ID:ZUN
なお実際は脱獄の最中に五寸釘踏んずけただけの模様

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1: 樽悶 ★ 2018/09/08(土) 16:16:35.60 ID:CAP_USER9
「特攻隊の生みの親」と言われる大西瀧治郎
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大西瀧治郎が旧制中学校2年生の時に書いた作文が収録されている雑誌=兵庫県丹波市柏原町柏原で
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 “特攻隊の生みの親”と言われる、兵庫県丹波市青垣町出身の大西瀧治郎が旧制中学校時代に書いた作文が収録されている雑誌が、母校の柏原高校(同県丹波市柏原町)に保管されている。

 大西は明治24年(1891)生まれ。作文を書いたのは旧制柏原中学校2年生の時で、14歳だったと思われる。作文のタイトルは「櫻を見る記」。のちに特攻隊をつくった大西が、少年期に大和魂の表象でもある桜を取り上げて作文を書いているのは印象的で、その後の歩みを暗示しているかのようだ。

 作文は次のとおり。

吉野の「桜」題材に

 日は、うらうらと、木々の若葉にてりそひ、風そよそよと、面をふきはらひ、人の心も自からうき立つ頃、母上につれられて、吉野の山に花見むとて行きたり。我れ等の外に見物人も、いと多く、茶店の縁も、腰うちかくる餘地もなし。時こそよけれ、櫻花は今を盛りと咲き揃ひ、遠くより望めば、霞萬山を立ちこめしかと思はれ、近く眺むれば又一しほ美しく、海外諸國の花の王も、之には及ばざるべく、古人の「これはこれはとばかり花の吉野山」と歌ひしも、げにとこそ覺えたれ。百鳥は梢に舞ひ歌ひて、我れ等を迎ふるか、はた蝶のまふをはやすなるか、花よ蝶よと思ふまに、此の日もいつか暮に近づき、日は西にかたむき、一陣の山嵐さつと吹き来るや、花はあはれや、木木の梢に散り落ちて、波かはた雪か、身邊なにとなく冬心地し、あたり寂たり。我れは五百年の其の昔、南北朝の戰のことなど聯想し、につくき足利尊氏かなと、思ふ居りしも、入相告ぐる鐘のひびきに忽ち起る花吹雪。

「破戒」大江礒吉発足の学友会の雑誌に収録

 この作文は、明治39年(1906)6月発行の「学友会雑誌」第7号に収録されている。学友会は、今でいう生徒会組織のようなもので、生徒らの原稿を収録した雑誌の発行もしていた。

 なお、学友会は明治35年7月の発足。柏原中学校の2代目校長、大江礒吉が心血を注いで発足させた。大江は、被差別部落出身の教師を主人公にした島崎藤村の小説『破戒』のモデルになったと言われる人物で、自由で平等を尊ぶ教育を推し進めた。

丹波新聞 2018年9月8日
http://tanba.jp/2018/09/%E3%8C%E7%B9%E6%BB%E9%9A%8A%E7%9F%E3%BF%E3%AE%E8%A6%AA%E3%8D%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%A7%E6%B2%BB%E9%8E%E3%8014%E6%AD%B3%E5%BD%E6%82%E3%AE%E4%BD%9C%E6%87%E4%BF%9D/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1536390995/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/09/02(日) 14:31:34.63 ID:CAP_USER9
1923年9月、捏造写真の基になった皇居前広場に避難した群衆。背景には皇居が写っている(報知新聞撮影、東京都慰霊協会提供)
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その背景を描き変え、被服廠跡惨事直前の写真のように捏造された絵はがき(東京都慰霊協会提供)
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1923年9月18日、焼け落ちた銀座を巡視される摂政宮(後の昭和天皇)。左手前の街灯は銀座らしさを示すため貼り込んだもので、影が出ていない
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 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の報道写真の中に、捏造や改ざんされたものが数多くあることが、東京都復興記念館(東京・両国)と共同通信社の過去5年間の調査で明らかになった。東京・本所の陸軍被服廠跡とされる写真や摂政宮(後の昭和天皇)が巡視される写真などが含まれ、国内外の論文や著作に引用されてきた。

 遺体が積み重なる被服廠跡の写真を載せた新聞社が、警察当局から発禁処分を受けたため、遺体が写っていない捏造写真が出回ったとみられる。

 被服廠跡には、周辺住民数万人が避難した。間もなく火災旋風が群衆を襲い約3万8000人が死亡。猛火に包まれる前に撮影したとされたのが「被服廠跡惨事直前写真」だ。

 ところが、調査の結果、皇居前広場の避難者の写真を加工したものだと判明した。基になったのは報知新聞が皇居前広場を撮った3枚組みの写真。このうち右端の写真に誰かが手を加え、背景の皇居を炎と煙に描き変えていた。写真は絵はがきとなり、大量に流通した。

 摂政宮の写真には街灯が貼り込まれていた。騎馬にある影が、街灯にはないことから分かった。火災で発生した積乱雲の写真に、地震発生時刻の11時58分で止まった時計がある中央気象台観測塔を貼り込んだ合成写真も見つかっている。

★専門家の目

災害史研究家・北原糸子氏

「これら一連の捏造写真は長い間捏造とは思われずに活用されてきた。なぜいま、事実が判明したのか。写真データなどあらゆる情報がデジタル化され、疑問に思うことについてオリジナルデータに当たって調べられる時代になったことが大きいだろう」

2018.9.2 05:01
https://www.sanspo.com/geino/news/20180902/acc18090205010001-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1535866294/続きを読む
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1: 風吹けば名無し 2018/08/22(水) 15:24:12.71 ID:6UA9EaUUd
ええんか…
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http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1534919052/

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1: 樽悶 ★ 2018/08/19(日) 20:15:54.99 ID:CAP_USER9
 太平洋戦争で、連合国側から名将として評価される数少ない旧日本陸軍将官の一人に、今村均大将がいる。その没後50年の今年、桐生市の著述家、岡田幸夫さん(71)が、今村の功績のひとつ「ラバウル防衛戦」の様子を一冊の本にまとめた。戦争の記憶が薄れつつある中、岡田さんは「混乱の中、日本軍にも時勢に流されない正義感と先見の明を持った人物がいたことを知ってほしい」と話す。

 著書のタイトルは「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」(郁朋社刊)。対米開戦から1年、敗勢に転じ始めた時期に南太平洋戦線の拠点ラバウルに司令官として赴任し、大規模な餓死者や病死者を出すことなく終戦まで戦い抜いた今村の姿を詳細に記している。

 政府見解によると、太平洋戦争と、その前段となる日中戦争での旧陸海軍戦死者は約230万人。内訳は戦闘による死亡よりも補給欠乏による餓死や病死が多数といわれ、6割(約140万人)を占めるとする学説もある。

 今村は本国からの補給が全くない状況下で、終戦までの2年半余、自給自足による食糧確保と戦線維持を成功させて指揮下の陸軍将兵約7万人の「無駄死に」を防いだ。終戦後のラバウルからの生還者は、今村の赴任時とほぼ変わらず、海軍と合わせて約10万人に上る。

 今村は米軍撃退の命令を受けて赴任したが、補給も見込めない状況では将兵を餓死させないことが責務と判断。サツマイモなど食糧の組織的栽培・生産を実行した。岡田さんは「補給もせず精神論で戦闘を強要し、多くの犠牲者を出しながら責任を取ろうともしなかった将官が多かった中、今村の姿勢は際立っている」と指摘する。ラバウルの自給自足は食糧だけにとどまらず、火薬など兵器にまで及んだ。「代用品の域は出ないが、医薬品も自給したようです」。このため、米軍の激しい爆撃を受けながら、規律や士気は終戦まで維持されたという。

 岡田さんは桐生高卒業後、東北大に進学し、仙台市で今村の存在を知った。今村は仙台出身で、太平洋戦争序盤に宮城県出身の兵士を率いてオランダ領(当時)インドネシアを攻略したため、今村に特別な念を抱く人が多かった。「下宿先の寺の住職も、徴兵されて今村司令官の指揮下で戦った人で、私の前でも『今村閣下』と呼んで尊敬の念を隠そうとしなかった」。その後、少しずつ今村の事績を調べ、いつか本にまとめたいと考えてきたという。

 今村の優れた点を、岡田さんは「その人間性と良識」という。インドネシア攻略に成功して進駐した今村は、本国の干渉を無視し、降伏したオランダ人にもインドネシア人にも融和的な軍政を敷き、捕虜虐待などもなかった。このため、戦後、オランダから戦犯に指名された際も現地インドネシア人が法廷で擁護し、無罪となっている。

 また、オーストラリアから戦犯に指定されて巣鴨プリズンに収監されたが、「帰国することなく現地で収監されている部下がいる」として、マッカーサー連合国軍最高司令官に南太平洋ニューギニアの収容所への移送を陳情。マッカーサーは「初めて武士道の神髄に触れた」と感じ入り、許可したという。

 今村のような将官ばかりであれば、あんなばかげた戦争は起きなかったのではないか--岡田さんの思いだ。「戦後生まれの私だが、戦争の悲惨さを忘れないとともに、時代を超えて心にとめておかなければならない人物として今村を知ってほしい」

 「ラバウル 今村均軍司令官と十万人のサバイバル」の問い合わせは、郁朋社(東京都千代田区三崎町2の20の4)。【高橋努】

 ■ことば

今村均

 1886年、仙台市で旧仙台藩士の家に生まれる。裁判官だった父の転勤に伴い、山梨、新潟で少年期を過ごす。父の急死で旧制高校進学をあきらめ陸軍士官学校入学。陸軍大学校を首席で卒業。太平洋戦争開戦後、オランダ領インドネシア攻略軍の司令官と占領後の軍政最高責任者を務める。1942年11月、ラバウルに赴任して終戦まで軍司令官として陸軍将兵約7万人を指揮した。戦後、オーストラリアから戦争指導者として戦犯に指名されて禁錮10年(オランダからの訴追は無罪)。釈放後は都内の自宅庭に建てた3畳一間の「謹慎小屋」で回顧録の執筆を続けた。68年、82歳で死去。

毎日新聞 2018年8月19日
https://mainichi.jp/articles/20180819/ddl/k10/040/099000c?inb=ra
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1: 記憶たどり。 ★ 2018/08/14(火) 11:58:26.36 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180814-00010000-nishinp-soci

平成最後となる「終戦の日」を前に、西日本新聞に掲載された過去の記事を紹介するシリーズ。
これは、国民が一方向に走ってしまう危うさを示す事例だろう。

戦時中、福岡県久留米市にあった旧陸軍の工兵隊に所属していた無名の若者たちが
「肉弾三勇士(爆弾三勇士)」として軍神とあがめられ、熱狂的なブームとなって国威発揚に利用された。
本紙の前身である福岡日日新聞も、プロパガンダに一役買った。市内に残る三勇士の跡をたどった。

三勇士とは、いずれも1等兵の江下武二(佐賀県出身)、北川丞(長崎県出身)、作江伊之助(同)の3人。
1932年、日中両軍が衝突した上海事変で、導火線に火がついたままの破壊筒(爆弾)を持って敵陣の鉄条網に突入して自爆、突撃路を開いたとされる。

最初に訪れたのは、久留米市山川町の神社「山川招魂社」だ。西南戦争や太平洋戦争の戦没者の慰霊碑と並んで「爆弾三勇士之碑」がひっそりと立っていた。裏に碑文が刻まれているが、容易に判読できない。
かろうじて、碑の建立時期が「昭和58年」と読める。

■「肉弾三勇士」戦時中、熱狂的なブームに 軍神になった若者たち

どれほどの人気だったのか。市史にその一端が記してある。福岡日日新聞には「壮烈三勇士の戦死 爆弾を身につけて、敵の鉄条網に躍り込んで爆死」との大見出しが躍り、他の新聞社も競って一大キャンペーンを展開し、歌を募集したり、小学生の感想文を掲載したりした。NHKは特別番組を放送。「美談」は映画や舞台、浪曲となり、「爆弾三勇士の名は全国に響き渡り、異常な興奮を巻き起こした」という。

次は市文化財保護課の学芸員、小沢太郎さん(48)に同行してもらい、同市御井町の久留米大御井キャンパス横の九州沖縄農業研究センター久留米研究拠点を訪ねた。センターやキャンパスはかつて工兵隊の敷地。
三勇士の記念碑跡は、人目を避けるように敷地内の茂みにたたずんでいた。「耕心園」とある中央部には三勇士の銅製レリーフがはめ込んであったが、戦時中の金属回収で供出されたという。

今は存在しないが、ほかにも記念の像や建物があった。市中心部の公会堂(旧市民会館)には等身大の銅像。
御井キャンパスには、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の寄贈で記念館が建てられ、坂本繁二郎が三勇士を描いた油絵が飾ってあったという。「坂本は一大スポンサーである正二郎の依頼を断れなかったんでしょう」と小沢さんは推測する。
一部の作品は今も行方が分からないという。

■絵はがきなど三勇士のグッズも

最後に訪れたのは、同市六ツ門町の六ツ門図書館で開催中の「平和資料展 軍都久留米の風景とくらし」(9月24日まで)。
正二郎が陸軍大臣に宛てた記念館の「献納書」や、三勇士の活躍を伝える福岡日日新聞の号外などが並ぶ。
三勇士が突破した鉄条網のかけらは、三勇士の上司の遺族から市に寄贈されたという。文鎮や湯飲み、子ども用の読本、絵はがきなど三勇士のグッズもあり、戦争が庶民の日常に溶け込んでいた当時の時代の空気を感じることができる。

小沢さんは「(日露戦争で神格化された)広瀬中佐のように三勇士も祭り上げられてしまい、国民的な機運の中で日中戦争から太平洋戦争へ突き進んだ。その歴史を振り返り、教訓を学んでほしい」と話した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534215506/続きを読む
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