(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 平安時代

1: 樽悶 ★ 2018/08/12(日) 19:12:13.94 ID:CAP_USER9
土塀に囲まれた志波城には、兵士が駐在したとみられる竪穴住居があった(盛岡市で)
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「延暦8年の戦い」の構図
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蝦夷と朝廷による主な争いとアテルイ
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政策転換 各郡の郡司に

 の名を後世に知らしめたのは、延暦8年(789年)に胆沢(現奥州市)で繰り広げられた朝廷軍との戦いだ。

 約5万2800人を多賀城に集めた朝廷側は、胆沢を攻めた6000人のうち戦死者25人、負傷者245人、溺死者1036人を出したが、約1500人で勝った蝦夷(えみし)側の被害は少なかった。「アテルイ率いる蝦夷の卓越した戦術のたまもの」。元奥州市埋蔵文化財調査センター所長の伊藤博幸さん(70)は語る。

 朝廷軍は3隊に分かれて北上川の両岸を北上。西岸を進む前軍が先回りして川を渡り、東岸の2隊と共に敵を挟み撃ちにする作戦だったが、山に潜んでいた蝦夷軍の急襲に遭い、多くの兵士が川に逃げて命を落とした。地の利を生かした蝦夷軍の大勝利だった。

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 敗戦に衝撃を受けた桓武天皇は、蝦夷平定に新体制を敷く。その一人が、アテルイのライバルとなる坂上田村麻呂だ。延暦13年(794年)、前回の2倍となる10万人の兵を送り込む。この年は平安京遷都の年で、負けは許されない。「首四百五十七級を斬り……落(村落)七十五処を焼く」。徹底的な焼土作戦だったと朝廷側の報告に残る。

 7年後の延暦20年(801年)、再び約4万人が攻め込むと、翌年、アテルイは降伏。10年余で20万人の大軍を相手にした蝦夷の指導者の戦いが終わった。田村麻呂がアテルイの能力を認め、朝廷に助命を願ったのは知られた話だ。そのカリスマ性は東北支配に役立つと考えた。「奥地に放還すれば、所謂(いわゆる)虎を養ひて患(うれい)を遺(のこ)すならむ」。虎のように危険な人物を生かしておけない。公卿らの判断で、現在の大阪府で処刑された。

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 アテルイの死は何を残したのか。その一つが、田村麻呂が803年に蝦夷政策の最前線基地として造った志波城跡(盛岡市)で見つかった。

 さらなる征夷の拠点とみられてきた城には、兵士が駐在した1000棟以上の竪穴住居があり、かまどの形は蝦夷、関東系の2種類が確認された。敵対していた蝦夷と関東の兵が、戦後、共に活動していたとみられる証左だ。

 背景に政策の転換がある。桓武天皇は805年、蝦夷征伐の終結を宣言。以降、蝦夷の有力者が東北各郡の郡司に任命された。「蝦夷の協力を得て東北各地を統治する穏健な政策が採用された」と伊藤さん。アテルイの犠牲が、蝦夷の地位向上につながっている。

 志波城は川の氾濫により約10年で廃絶。812年に造られた徳丹城(矢巾町)では兵の配置が停止され、軍事的緊張は薄らいだ。814年、嵯峨天皇が発した勅は「夷俘(いふ)と号すること莫(な)かるべし」。蝦夷を差別するなという意味だ。それはアテルイが目指した境地だったのだろう。

読売新聞 2018年08月09日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180809-OYTNT50068.html

【関連記事】青年期のアテルイ 中央への反発なく
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180808-OYTNT50039.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534068733/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/08/07(火) 18:32:37.67 ID:CAP_USER9
墳丘上から杉の木が伸びる角塚古墳。古代から「胆沢地域のランドマーク」だった可能性がある(奥州市で)
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角塚古墳周辺の主要な遺跡
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由来「古墳」「田茂山」からか

 平安時代初期、胆沢(現奥州市)を拠点に朝廷軍と対立した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ。今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。近年、遺跡の発掘成果などを基にした新たな研究で、意外な人物像も浮かび上がってきた。その一端を紹介する。

 世界遺産候補になった大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)で知られる前方後円墳。円形と台形の墳丘を合わせた堂々たる造りで、大和王権の権力のシンボルとも言える有力者の墓だが、奥州市胆沢には国内最北の前方後円墳がある。

 角塚古墳は全長約45メートル。高さ約4・5メートルの円形の墳丘から立派な杉の木が伸び、地元では「一本杉」の愛称で親しまれている国の史跡だ。築造は5世紀後半とされ、同じ胆沢で8世紀後半に活躍したアテルイとは約300年の開きがある。近年、二つの時代をつなぐ発掘成果が相次いでいる。

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 角塚古墳周辺の繁栄の様子が分かるのは、約2キロ北にある5世紀代の中半入(なかはんにゅう)遺跡(奥州市水沢)だ。大阪府産の須恵器や宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀(こはく)などが出土しており、近畿地方の古墳文化の影響を受けつつ、北東北の文物も受け入れている。

 石包丁などもあり、胆沢周辺ではコメ作りが盛んだったことがわかる。より北の地域では弥生時代に稲作が流入したが、寒冷のため根付かなかったとされる。胆沢は農業文化圏と非農業文化圏の交接点で、角塚古墳に埋葬された人物は、両地域の物資の流通を通じて力を蓄えた有力者の可能性がある。

 その後の遺跡として注目されるのが、5世紀後半~6世紀前半の墓がまとまって見つかった沢田遺跡(奥州市胆沢)だ。角塚古墳の築造に関わった勢力の末裔(まつえい)による遺跡と解釈されているが、前方後円墳ではないため角塚古墳の被葬者より格下とみられる。

 当時は大和王権の力がより強固になり、東北でも徐々に地域の有力者の力がそがれていったとされる。墓の形の変遷は、中央と地方の力関係の変化を示しているのかもしれない。

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 沢田遺跡に隣接する石田I・2遺跡でも大規模な集落跡が見つかっており、特に7世紀後半~8世紀前半には竪穴住居が急増した様子が見てとれる。水田が広がり、南北の交易地として繁栄した胆沢でアテルイは生まれ育った。

 姓の「大墓公」は朝廷から与えられたものだ。この時代の文献では前方後円墳を「大墓」と称する例がみられる。地元の歴史研究団体「アテルイを顕彰する会」事務局長の朝倉授(さずく)さん(68)は「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」と解説する。大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」が由来とする説も根強い。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所で、この説を有力視する研究者も多い。

 いずれにしても朝廷から姓を授けられたという事実は、アテルイ一族が朝廷と良好な関係を深めていた証しだ。アテルイはどのような心境の変化から“反逆者”になったのだろうか。

アテルイ

 本名は大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)。8世紀後半~9世紀初頭、現在の奥州市を拠点に、朝廷に属さない蝦夷を率いた。延暦8年(789年)に朝廷軍を破ったが、同21年(802年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、河内国(現大阪府)で処刑された。

読売新聞 2018年08月07日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180807-OYTNT50058.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533634357/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/08/02(木) 13:44:08.82 ID:CAP_USER
比叡山の基礎を築いた平安時代の天台僧、慈覚大師円仁(えんにん、794~864)が、9世紀に最後の遣唐使船で中国大陸に渡った際、上陸地点近くで滞在した「国清寺(こくせいじ)」とみられる遺構が、中国沿海部の江蘇省南通市でみつかった。
円仁が帰国後に著した旅行記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」の記録を裏づける唐の時代の遺構の発見は初めて。
専門家は古代の日中交流史の実像を探る貴重な遺跡と注目する。

 「巡礼行記」は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の「大唐西域記(だいとうさいいきき)」と並ぶ世界三大東方旅行記の一つとされる。円仁は巡礼行記に、命からがらの状態で上陸後、「国清寺」に宿泊したと書き残したが、唐側の記録では確認できず、長年、日中の研究者が所在地を探してきた。

続きはソースで


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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL7W4R2KL7WPTFC00V.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1533185048/続きを読む

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1: 名無しさん@おーぷん 2018/07/24(火)10:22:16 ID:CTY
道鏡が孝謙天皇に取り入って自分の立場が危うくなったのはわかるけど
道鏡なんて黙っててもそのうち宇佐八幡神託事件で失脚するやん?
藤原仲麻呂も藤原広嗣も藤原氏なんやから道鏡程度に立場脅かされるってどうかと思うわ

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1: みつを ★ 2018/05/11(金) 10:38:56.68 ID:CAP_USER9
http://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2054331841.html

05月08日 12時19分
奈良市の興福寺の旧境内で見つかった国内で最も古い1000年近く前の将棋の駒が橿原市の博物館で、公開されています。
公開されているのは興福寺の旧境内で25年前に見つかった将棋の駒で一緒に見つかった木簡に、1058年にあたる平安時代の「天喜六年」と書かれていたことから、奈良県立橿原考古学研究所は国内最古の将棋の駒だとしています。

いずれも大きさが3センチほどの木製の五角形で、「玉将」や「金将」と書かれているのが見て取れるほか、「歩兵」の裏には金と書かれているのがわかります。

また、興福寺の旧境内の別の場所で5年前に見つかった、「酔象(すいぞう)」と書かれた今の将棋にはない平安時代の駒も展示されています。

山梨県から訪れた女性は「こんなに古い将棋の駒があるなんて驚きです」と話していました。
橿原考古学研究所附属博物館の鶴見泰寿指導学芸員は「1000年ほど前の駒を見てもらうことで長い将棋の歴史を感じてほしい」と話していました。

国内最古の将棋の駒は、今月13日まで奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で無料で公開されています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1526002736/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/03/24(土) 01:44:19.30 ID:CAP_USER9
平安京で最大級の貴族邸宅とみられる平安時代前期(9世紀前半)の大型建物跡がみつかっていた京都市中京区の島津製作所三条工場内で、さらに1棟の大型建物跡が出土した。京都市埋蔵文化財研究所が23日発表した。「齋」と記された墨書土器もみつかり、専門家は、京都三大祭りの一つ、葵祭(あおいまつり)のヒロイン役のモデルとされ、古代には伊勢神宮や賀茂神社に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)(斎宮(さいくう)、斎院(さいいん))」の住まいだった可能性を指摘する。

 研究所によれば、現場は桓武天皇(在位781~806年)が造営した平安京の右京三条三坊五町にあたり、昨夏までの調査で東西21メートル、南北9メートルの大型建物跡を確認。その後の調査で、約12メートル北側から新たに東西14メートル、南北8・5メートルの大型建物跡が出土した。いずれも古い建物から建て替えられたとみられ、南北方向に大型建物2棟が並ぶ平安京で最大規模の邸宅だった可能性が強まっている。

 これまでの一連の調査で、敷地面積が1町(ちょう、約120メートル四方)規模だったとみられ、研究所は、現在の閣僚クラスにあたる「三位(さんみ)」以上の高級貴族の邸宅だったと推定する。調査地内の南東でも過去の調査で大型建物跡が2棟みつかり、1町内に二つの大型建物の区画を持つ邸宅は平安京内では初めてとされる。

 一方、調査地東側の溝から「政所(まんどころ)」と書かれた須恵器の鉢や、「齋」と墨書された灰釉(かいゆう)陶器の皿が出土。敷地内で住まいと事務棟が使い分けられていたとみられる。近くの別の調査地からは「斎宮」と墨書された土器の出土例もある。

 斎王とは飛鳥時代から天皇に代… 残り:320文字/全文:1017文字

今回みつかった北側の大型建物跡
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「齋」の字が書かれた墨書土器
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地図
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2018年3月23日23時34分
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q62HRL3QPLZB018.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1521823459/続きを読む

1: 泥ン ★ 2018/01/13(土) 23:52:48.50 ID:CAP_USER9
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
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 本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。

 「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。

 井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。

 経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。

 それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。

 さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。

 アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。

 これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。

 田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。

 近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。

続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515855168/続きを読む

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